私たちは、いつものように座りながら海を見ていた。
その日の月は子どもの残したビスケットのように弧を描いていて、私たちの姿はかすかに青黒いシルエットの中に照らされていた。
手に持っている缶ビールを口に運ぶ。しばらく飲んでいないから染み入るように体がアルコールを受けとめている。
私はさざなみの音がするこの場所でこの子と一緒にいる。
この場所で一緒にいるようになった女の子。
潮の匂いが鼻に入ってくる。刺さるような磯臭さが徐々に慣らされていき嗅覚はフラットになっていく。
手を広げて砂を撫でる。気持ちいいのでずっと撫でていると、尖った貝のかけらが刺さって痛くなって手を膝の上に戻す。
隣にいる女の子は前を見つめながら手に子犬を抱えていた。
犬の息遣いが聴こえる。ハァハァと舌を出しながら無邪気な目をしていて、目はわずかな月の光でも純然と輝いていた。
犬には後足が無かった。足の代わりに人力車のような2つの車輪がくっついていて、そこに確かな哀愁を漂わせていた。
座りながら一緒に月を見る。私達だけがこの世界の住民であるかのように。
私の腕に付いているタグが潮風に揺れる。風は強いがまだ暑いので気にはならない。それよりも、私の長い髪が時々口の中に入ってくる事に困っていた。
左から流れる風の音が鼓膜を震わせる。それを収めるために右を向くと隣にいる女の子は下をうつむいて苦しそうな声を出し始めた。
それが何によるものなのか私はわかった。
彼女の手は赤く濡れている。それは茶色の毛並みをした犬にも移っていて、暗い中でも血を吸い取った赤黒い服が見える。顔は痣だらけで服もボロボロに汚れていた。
彼女は何も言わない。何があったか推理する事は、これまで長い間私達がした会話から推理すれば簡単なことだった。
彼女との出会いは偶然だった。
私は精神科病棟に入院している。
大学で友達だったはずのグループが「あいつマジでデブだよね」と私の陰口をしているのを廊下で聴いてしまった。その時から食べ物を口にするのが怖くてたまらなくなった。
コンビニでカロリーの数字を何度も眺める。ゼロカロリーのゼリーのカップが机に大量に並ぶ毎日。
どれだけ体重計の数字が減っても私に重さがあるという絶対的な確信は消えなかった。
ある日晩ごはんをトイレで吐いている姿を母に見られた。そして入院する事になった。
半年かかったけれど院内の食事も食べられるようになって、定時外出が許されるまで回復した。
病院に帰るまでの最後の1時間。私は海を眺める事にした。
そこにあの子がやってきた。
12歳ぐらいの三つ編みと眼鏡の女の子。
彼女は私にシンパシーを感じてくれたんだと思う。
こんな時間に女の子が海に来ることも不思議だったが、その理由も話を聴いてみるとわかった。
父親から暴力を受けている事。家が嫌になった時に裏口からこっそり逃げている事。そして飼っている犬のタロが私にとっての命綱である事。
私には彼女の人生の歴史はわからない。けれど、私のまだやせ細った腕と彼女の首筋に付いている痣は、お互いの苦しみの歴史を強く物語っていた。
私達はお互いに海を見ていた。
下を見て固まっている彼女が口を開く。
「どうして?」
震えるような声で小さくかすれるように、口から言葉が出ていく。
どうしてなんだろうね。
どうしてみんなで傷つけ合ってしまうんだろう。みんな誰かに傷つけられたはずなのに。
「わたし、こわい」
犬のタロをギュッと抱きしめる彼女。前かがみになって涙がわずかに砂を固めていく。
彼女は一言ずつ、ゆっくりと私に状況を口にした。ひとりごとのように。
いつも暴力ばかり振るう父。母親も同じように乗っかって怒る。彼女は夫婦喧嘩が始まると2階の部屋で罵声から逃げるようにタロの事を抱きしめていた。
ある日、雨の帰り道でボロボロになって道路で倒れていた子犬を助けた。もう足は回復できないと医者に言われたので車輪を付けて貰った。弟が欲しかったのでタロと名付けた。
ふわふわであったかい。足が無くてもカラカラと音を立てて、2つの車輪で歩く姿が馬車のようでかわいかった。
家のお金が無くなった。もっと喧嘩の数は多くなった。
ある日ご飯を食べようとリビングに向かう時、狭い段ボールの中にガムテープで閉じ込められているタロの悲鳴が聴こえた。
母親と父親が話している。父はこう言った。
「こんなヤツは金の無駄。もういらないから山に捨てる」
彼女は世界の全てがこわれゆく感覚を味わった。
タロだけが世界の全てだった。タロだけが唯一の存在理由だった。
それからタロを抱えて逃げようとした。父は顔を殴る。
もう彼女は、全てがこわれゆく世界の中で刃を向けるしか無かった。
世界が滅びるか、目の前の敵を刺すか。その2つの選択肢しか無かった。
彼女の言葉がひとしきり終わると、さざなみの音だけになった。
どうすればよかったか?その言葉が私の中でこだまのように反響し続けた。
気がつくと、私は彼女を抱きしめていた。体から出た本能のように。
「もういいの」と優しく語りかける。この子が最もやすらぐように。
何がもういいのかもわからない。けれど、私はこの子を抱きしめなければならなかった。
世界でひとりぼっちのこの子を、誰かが愛さなければならなかったから。
誰もが誰かを傷つける事しかできないこの世界で、誰かを愛さなければいけないと思ったから。
彼女も私にすがりつく。爪が立っていて痛かったが、そんな事も気にならなかった。
どうすればいいかなんてわからない
けれど私達は誰かを愛さなければならない
私達は傷つくことしかできない
つらいことを考えるだけで哀しみだけを知っていくとしても
私は隣にいる彼女を抱きしめなければならない
潮風の音に、かすかにサイレンの音と赤い光が混ざってきた。
その時は来る。けれど、1秒でも長く私は彼女を抱きしめる。
この夜。この海はわたしたちのものだった。
きっとそれで良かったんだと思う。
私が月を見て「きれいだね」と言う。
腕の中の彼女は「うん」と静かに答えた。
わん。という大きなこえが海の向こう側に果てしなく飛んでいった。