蹄音、高く   作:上條つかさ

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ウマ娘。
彼女たちは、走るために生まれてきた。
三女神に導かれ、その魂はいくつもの世界を渡ってゆく。
それが、彼女たちの運命。
それは、彼女たちの使命。

時は昭和。
レースがまだ、ウマ娘のものではなかった時代。
人々がまだ、レースを心から楽しむことを知らなかった時代。


これは、自由なレースを求めて走り抜いた、ウマ娘たちの物語。


本編
昭和十八年 四月六日


 

 もうすぐ日が昇る。

 東の空は薄く紫色に染まり、星たちが西へと追いやられはじめた。

 一足先に南へと逃げ出した月は影を薄くして、空へと溶け込む用意をしているようだ。

 臙脂色の体操服に身を包んだベルネンシプロスは、水筒をベンチに置いて大きく伸びをした。

 整えられた芝を踏みしめて、その感触を確かめるようにゆっくりと走り出す。

 風は少し冷たくて、目の前に遮るものは何もない。早朝のコースは、見事なフォームが生み出すリズミカルな蹄音(あしおと)に満たされていった。

 走っているうちに身体に熱が入ってくるのを感じて、運動服の前を少し開けた。脚が温まるにつれて、少しずつピッチが上がっていく。

 向正面に入った時、太陽が顔を出した。

 視界がすうっと明るくなって視界が晴れる。顔を上げたシプロスは軽快な足取りでコーナーへと入っていった。

 

 明治の開国とともに現代様式のレースが体系化されてから七〇余年。日本は国際レースの荒波にその身を置いていた。

 輸出入、関税、天然資源の開発といった経済的軋轢はレースによって解決され、またレースによって覆された。戦争は遠く過去のものとなり、国の命運はレースを走るウマ娘に託された。

 激動の時代の中で、この極東の小さな島国が力を示し優位に立つ。

 日本に残された道は、世界を相手にレースを続けることだけだった。

 政府の主導のもと、各地に散らばる秘伝の鍛錬法を整理し、先進国のウマ娘を招聘して教えを請い、門戸を広げて師範(トレーナー)の資質を持つ人材を見出した。

 こうして日本はわずか半世紀のうちに近代国家へと変貌を遂げ、引き換えにウマ娘は国家の為に走る義務を負った。

 走りて止まん−そのスローガンは民族主義に燃える若いウマ娘達をレースへと駆り立て、その栄光の蹄跡は涙で暗く彩られた。

 開国以来、日本は列強諸国に追いつこうと走り続けてきた。

 そして今から五年前、ウマ娘の鍛錬を強化するという名目でウマ娘総動員法が発布され、保護の名のもとにウマ娘達は外界との関わりを絶たれた。観客もレース場から遠ざけられ、壮麗なスタンドに立つ者はいなくなった。

 レース庁は法に記された『勝利の為に不要なものは休止する』という一文を錦の御旗として、勝負服の着用は自粛という名の中止となり、ウイニングライブは無期限の休止となった。

 現在、現役にあるウマ娘で観客を入れたレースを走った者はいない。

 湧き上がる歓声なんて、誰も聞いたことがない。

 ただ勝つことだけが求められる、冷え切った世界がそこにあった。

 これが私の世界。

 私の生きている世界。

 今の国内では、どんなレースでもファンファーレは流れない。

 どんな結果を残しても、表彰式も行われない。

 世界を相手に勝利を得なければ、ウマ娘としての価値はないとまで言う人もいる。

 寂しさを埋めてくれるのは、友の賞賛とわずかな金銭だけ。

 自分だけのためのレースができる世界なんて、きっともう来ることはない。

 

 芝の香りをいっぱいに吸い込んで、諦めの陰りと鬱屈した空気を振り払うように足に力を込めた。

 オレンジ色の景色が後ろに流れていくたびに、血が紅玉のように滾っていく。

 こうして独りで走る時だけは、自由を感じられた。

 何も背負わず、何にも縛られず、ただ心のままに走ることができた。

 二周目も半ばを過ぎて、あっという間に三コーナーに入った。

 脚は羽のように軽く舞い、下ろしたままの腰まである長い髪が風に靡いた。溢れる朝日が差し込む直線を、四月の朝風とともに、素晴らしいスピードで駆け抜けてゆく。

 最高速のまま坂を越え、ついにゴール板を越えた。

 しかし、それはどこまでも孤独な走りだった。

 たった一人のレースは、ひとつの歓声も、一片の紙吹雪もなく幕を閉じた。

 足を止めた時、心に残ったものは虚しさだった。

 興奮は一瞬にして冷め、頬に射す陽光だけが凍えた心を慰めてくれた。

 息苦しいほどの渇きが喉を締め付ける。

 水筒を手に取って、冷えた水を流し込んだ。

 確かに飲み込んだはずの水は、どこにも残らなかった。

 すっかり太陽が顔を出して、世界を明るく浮かび上がらせる。シプロスは、その紅い炎に背を向けて歩き出した。

 誰しも逃れられないものがあると語るように、赤い糸で袖に刺繍された学籍番号が光る。

 これから私は、新入生の一人を選ぶ。

 それを任される立場にいる以上、この選択からは逃れることはできない。

 

 昭和十八年四月六日。

 

 この朝日はまだ、新しいレースの夜明けを告げてはくれない。

 

 *

 

 シプロスは灌水浴(シャワー)を済ませると、熱った身体を冷まそうと半袖の運動服のままで食堂へ入った。

 入学式を午後に控えて、蹄桜寮の上級生達は式の準備に駆り出されていた。普段なら一番混雑する時間にあっても、今日ばかりは閑散としている。

 入り口横に置かれている湯呑みを取る。ヤカンから麦茶を注いで一息に飲み干すと、汗がすっと引いて人心地がついた。

 ご飯と味噌汁を盛り、鯖と焼きにんじんの皿を盆に乗せたシプロスは窓際の席へと足を向けた。

 誰にも憚らずに席を探すのもやっと板についてきた、と思う。

 ほんのひと月前まで、彼女は同室の先輩に指導を受ける立場にあった。一挙手一投足を監督され、どこへ行くにもその背中を追いかけて歩いていた。

 その先輩が昨年度をもって卒業した。式を終えてからの半月、シプロスは束の間の独りの暮らしをのびのびと過ごしていた。

 もちろん、進級したところで自由を得られたとは思っていない。世代の新陳代謝が起こるということは、そこには新たな権利と義務が生まれるからだ。

 シプロスは背の高い欅が見えるお気に入りのテーブルについた。窓を少し開けると、和風が緩やかに頬を撫でた。

 小さく手を揃えて、湯気を立てる汁椀を手に取る。箸を浸し、一口啜ってから鯖の骨を抜きにかかった。

 ふと顔を上げたシプロスは、空いたままの向かいの席を見て一抹の寂しさを覚えた。

 食事の時、いつも向かいには先輩がいた。

 そして、明日からはここに自分が選んだ後輩が座ることになる。

 誰かと一緒に食事ができる。それはささやかでも確かな幸せなのだ。

 

 鯖をつついていると、同期生のアイオライトリーベが盆を手にやってきた。寝乱れた髪に櫛が通されていないところを見ると、起き出したままやって来たらしい。

 リーベはまっすぐにテーブルまでやってくると、シプロスの向かいの椅子に掛けた。リーベの先輩もシプロスの先輩と同じく三月で卒業していったので、一人の時間を持て余していた二人は時間を合わせて食事をすることにしていた。

「シプロス、おはよう」

「おはようアイリ」

 眠そうなリーベ−同期の中で唯一シプロスだけが彼女を『アイリ』と呼ぶ−は席に着くなり「あなた、メンコに芝がついてるわよ」と右の耳を指した。シプロスは両耳に青い木綿でできたメンコをつけている。右耳につけられた梨の花弁を模した飾りは手作りの自信作で、彼女の名前である『Birnenspross』−直訳:梨の新芽−から取ったものだ。

「気晴らしの運動よ」

 灌水浴の時に髪が濡れないように上げていたから落ちなかったのだろうと、シプロスは耳を振って芝を払った。

「アイリも一緒にどう? 少しはすっきりできるかも」

「遠慮しとく」リーベは即答して「朝は苦手なの」と続けた。

 リーベの期待通りの答えに、シプロスは小さく笑って「知ってる」とつぶやいた。

 朝は少食を謳うリーベの盆にはにんじん粥の丼と湯呑みだけが乗っていた。あっという間にするすると飲み込んで、満足そうにお茶を啜った。

「それにしても。いよいよね、入学式」

 すっかり目を覚ましたリーベは、耳を揺らしてそわそわとしていた。

 入学式の主賓といえばもちろん入学してくる新入生だ。しかし今日はこの二人にとっても記念すべき日である。

 シプロスとリーベは今日から本科の四年生になった。しかしそれは学生としての身分であって、ウマ娘としての身分とはだいぶ異なる。

 二人の今日からのウマ娘としての身分は『ウマ娘修練学園二種候補生』という。

 候補生とは『ウマ娘鍛錬競走丙級』以上のレースを勝利した一五歳以上のウマ娘のことを指し、ウマ娘鍛錬競走とは重賞を、丙級とは現代でいうところのG3を指す。

 そして二種候補生とは最上級である甲級、つまりG1に勝ち星をあげ、さらに学業優秀かつ素行優良な生徒にしか与えられない。

 学園の生徒は二千を数えるが、この資格を持っているウマ娘は数十人しかいなかった。

「慌てすぎ。汽車は十一時過ぎでしょ」シプロスは時計に目を向けると、「まだ八時にもなってないじゃない」とため息をついた。

 そのつれない姿に、リーベは不満そうに唇を尖らせた。

「せっかく外出許可があるんだし、今日くらい遊んだっていいのではなくて?」

 リーベはポケットから小さな黄色い紙片を取り出してテーブルに置いた。

 学園では、本科の学生がみだりに外出することは許されなかった。

 もちろん、先輩に連れられて買い出しに行く事はある。とは言ってもそれは月に一度あれば良い方で、当然オマケである自分たちが自由に見て回ることなど許されない。

 しかし、これがあれば大手を振って正門から出ていけるのだ。

 来年、高等科に上がれば締め付けはさらに緩くなるという。先輩方の言うことが本当なら外出許可は口頭で済み、門限までに帰っていれば良いという程度になるらしい。勿論その分の行動には責任がつくわけだが、わかりやすい飴と鞭ということだ。

 シプロスはやれやれと言った様子でテーブルに置かれた黄色い紙片に目を落とした。その期限は正午まで。散歩のようにゆっくりと商店街を回っても、十分に間に合うだけの時間があるはずだ。

「別に無駄遣いしようってわけじゃないの。候補生になったお祝いよ」リーベは必死に説得の言葉をかけた。

「ねえ、いいでしょ?」

「そうねえ」

 シプロスはわざと視線を外した。

 つまるところ、リーベは賑やかなところに行きたいだけなのだろう。どうせ駅へは行かないといけないのだし、ただ付き合わされるくらいなら自分の買い物にも振り回してやらないと不公平だ。

 シプロスは耳をくるくるとさせて考えを巡らせた。

 髪と尻尾を整えて制服を着るのに四〇分。

 すると時刻は九時少し前。

 駅まで歩いて十分。

 商店街をぶらぶら一時間。

 私のお裁縫道具選び一時間。

 新入生の下見に一五分。

 ダッシュで帰って十分。

 完璧。

 かかる時間に目処をつけたシプロスは「なら、私の買い物にちゃんと付き合うなら早出してもいいけど?」とかまをかけた。

「もちろん。付き合ってあげます」

 そしてリーベは簡単に乗った。

 おっとりした佇まいに反して堅苦しい言い回しが好きで、それでいてとっさの考えは単純なところが彼女の佳処だ。

「なら、善は急げね」

 シプロスは残っていた味噌汁を一気に飲み干して席を立った。

 

 二人は候補生用の蹄桜寮に属しているが、部屋は別々の棟にある。一度別れ、準備をしてから再度落ち合うことにした。

 足早に部屋へと戻ったシプロスは、棚から大きな籐籠を引っ張り出した。裁縫道具と共に詰め込まれていたのは、様々な色の端切れや短い糸の束、摘むのもやっとのチャコといったガラクタばかり。

 シプロスは自分の無精さにため息をついたが、手に馴染んだ道具たちを見ていると創作意欲がふつふつと湧いてくる気がした。

 この際だ。どうせ出かけるのだから、この籐籠が一杯になるくらいになんでも買ってやろう。

 そう決めたシプロスは勢いよく引き出しを開けて、奥の方から配給券の束を取り出した。

 財布を整えたシプロスは、衣紋掛けに吊るされた皺一つない制服に手を伸ばした。

 その左袖には真新しい袖章が縫いつけられている。

 日本を象徴する桜に校章と同じ蹄鉄、そして黄色の星が刺繍されたそれは、学内のみならず学外でも身分証として通用するものだ。

 先月の末、正式に袖章の交付を受けたときは眠れないほどに興奮したものだったが、こんなものは三日も見ていれば慣れてしまう。それでも正式に着用できる日が来たと思うと胸が高鳴った。

 制服に袖を通し、袖章がきちんとついていることを確認する。姿見に得意顔を残して、シプロスは部屋を後にした。

 

 *

 

 昭和一八年現在、彼女達ウマ娘はレース庁という組織の庇護下にあった。国営であるこの学園に籍を置いている限り、食事と住処の保証はもちろんのこと、一般教養の座学を受けるための学費も必要ない。

 その上、候補生身分の生徒には最低でも月二〇円の俸給が下賜されている。小遣いとして支給される配給券と合わせれば、その収入は年三六〇円になる。

 また二千名を超える生徒の生活を支援するため、学内では商店街の有志によって二軒の雑貨店が運営されている。小さな店舗なので物の選択肢が少ないことはさておき、篭りっきりでも生活に困ることはありえない。

 ひと月一五円あれば食うに困らず暮らしていけるというこの世の中で、彼女達を取り巻く環境はその努力に報いてあまりあるほどに充実していることがわかるだろう。

 本人達の意向はどうあれ、彼女達こそが国のリソースを注ぎ込まれた次代のレース界を担う期待の星であった。

 

 *

 

 空はすっきりと晴れて、青い空には綿菓子のような雲が浮かんでいる。その隙間を縫うように、緑色の複葉飛行機が、のんびりと飛んでいた。

 二人は駅へ通じる砂利道を歩いていた。

「外の空気ってやっぱり気持ちがいいのね」

 シプロスは深呼吸をして春の匂いをいっぱいに吸い込んだ。

「ね? 早めに出てきてよかったでしょ?」

 先を歩くリーベが朗らかに笑った。

 誘いに乗って正解だった。

 畑の中の一本道は、二人の前途のように明るく照らされている。

 恵風に尻尾を揺らしながら歩くこと一〇分。二人は府中町の中心部、駅前を彩る商店街の雑踏へと足を踏み入れた。

 現在の府中町の人口は学園のウマ娘を含めておよそ一万人。立ち並ぶ商店は食品から衣料品、薬や日用品に至るまで様々で、この規模の街にあるべきもので無いものはない。

 商店街は蕎麦屋の出汁の香り、コロッケを揚げる油の香り、店先で焼かれる煎餅の香りなど様々な誘惑を用意して二人を待ち構えていた。二人はなんとかこれらの誘惑を振り切り、よく冷えたラムネを買って駅前広場へと出た。

「我らが府中は今日も賑やかね」

 腰に手を当ててラムネを飲み干したシプロスは胸を張った。すっかり街の雰囲気に呑まれて意気軒昂といった様子だ。

 対照的に、リーベはなぜかつまらなさそうにしている。

「勇んで出てきたけど……よく考えたら、だいたいの物は学内で揃っちゃうのよね」

 リーベは空になったラムネ瓶を弄びながら答えた。

 想像と現実が乖離していることなどままあることだ。ウインドウショッピングに付き合うという約束を果たした今、シプロスは自分のことで頭がいっぱいだった。

「なら、ここからは私の番ね」シプロスは真剣な瞳を向けた。

「あら、何か買うの?」

「反物を見に行くの。さあ、たっぷり買うわよ」

 シプロスはリーベの手から空になった瓶を取り上げて屑籠へ捨てた。

「またお裁縫? あなた、大胆な性質の割に細かいことが好きね」

「なんとでも言ってちょうだい。さあ行きましょう」

 鼻息を荒らげるシプロスに手を引かれて、二人は広場の隅に佇む毛糸店へと入った。

 

 ドアを開けるとチリチリと鈴が鳴って、毛糸の匂いが鼻をついた。

「あら、シプロスちゃんにリーベちゃん! いらっしゃい」

 出迎えたのはこの店の女主人だった。

「おかみさん、こんにちは」と二人は会釈を返した。

「今日は休みかい?」

「入学式なんです。それで午前中はお暇を」リーベが答えた。

「そうかい。下に三年もいるんじゃぁアンタらも立派に先輩だね」

 女主人はまるで娘の帰郷を喜ぶ母親のように笑った。候補生という制度が隠されているわけではないが、大多数の一般人からすればシプロスとリーベは『レースで身を立てようとしている一六歳になるウマ娘』に過ぎない。

 組織の中では年長者ほど偉い、という一般的な視点で見ても間違いという訳でもないので、当のウマ娘側も細かいことは言わないのだった。

「しかし、アンタらも大変だねえ」

 女主人は鼻を鳴らした。

「こんなに頑張ってるのに、普段は学校に篭りっぱなしだろ? アタシなら気がおかしくなっちまうよ」

 あからさまな批判に「まあ、それもお国の方針ですから……」とリーベがやんわりフォローした。

「にしたってだよ。何もアタシら客まで追い出さなくたっていいじゃないか!」女主人は語気を荒らげた。

 そして「あれを見てごらんよ」と壁の一角を指差した。そこには笑顔をたたえた沢山のウマ娘の写真が何枚も掛けられていた。

「あの子達の頃はよかった。日曜日になると皆で応援に……」と言いかけたところで、二人を見た女主人ははっとして口をつぐんだ。

 シプロスとリーベはレースから観客がいなくなってからデビューした"総動員法世代"だ。二人の郷里にはレース場もなく、歓声に沸くスタンドも舞い散る紙吹雪も見たことがない。

 最後に観客を入れたレースを見ることができた現役の生徒は、シプロスの五つ上にあたる六七期生だ。

 しかし、その六七期生はすでに全員が引退するか選手に繰り上がっているから、もはやこのターフに当時の栄華を語る者はいない。もしかすると、レースの伝統は静かに絶えようとしているのかもしれない。

「ごめんよ。悪いことを言ったね」女店主は顔を伏せて目頭を押さえた。

「今を走っているアンタ達には失礼な話だ」

 その姿にシプロスは胸を痛めた。

 レースを見たがっている人がいて、そのためにレース場やスタンドが作られたことは知っている。けれど今日、そこにいるのは師範達とわずかな審査員だけ。

 ただ強いウマ娘を選び出すためだけの、彩りとは無縁の世界だ。

 私たちは、なんと空虚な時代に生まれてしまったのだろう。

 どうして、私たちの走りを見せてあげることができないのだろう。

 口惜しさに唇を噛むシプロスをよそに、顔を拭った女主人は伝票と鉛筆を取り出した。

 そしてきっと顔を上げると力強い目で二人を見て「さあ! 今日は何が欲しいんだい?」と腹から声を出した。

 それは、鬱屈した空気を吹き飛ばしてしまいそうな大音声だった。

「おかみさん……」

 その心遣いに、シプロスは言葉を詰まらせた。

「アタシには、この店しかないからさ」

 女主人は打って変わって寂しげな笑顔を浮かべた。

「出来るだけの物は揃えてあげるから、好きなだけ買っていきなよ」

 シプロスは大きく頷いて、長い長い注文を言うために大きく息を吸い込んだ。

 

 *

 

 この時代のウマ娘は外界との交流が絶たれていた−とはいっても、それはあくまでマクロの視点の話である。そしてウマ娘もヒトと同じ生活をする以上、ミクロの視点では地域との関わりを完全に断ち切ることは不可能だった。

 より正確な表現をすれば、生徒の精神的健康と地域経済の両面から完全な隔離政策は採りようがなかったのである。

 学園を維持するためには、食料品を中心に大量の生活物資が必要となる。二千人のウマ娘が平均して一人あたり三人前を食べるとすると、食糧だけで一日あたりヒト二万人分が必要になるのだ。物流網が未発達なこの時代にこれだけの物資を生産するため、まずは農業が学園の周辺で発達を始めた。

 続いて織物を中心とした軽工業が発達し、ここに鉄道が延伸してきたことで日本各地から製品の流入が始まった。

 こうして、消費者の選択肢の増加と資本主義的な競争市場化が加速していったのである。

 さらに二千名を超えるウマ娘達が趣味の買い物で商店街へ落としてゆく金も無視できる規模ではない。

 これらを合わせた莫大な収益は地域の活性化に大きく寄与し、府中に限らず学園を擁する各地には学園城下町と呼ばれる都市が形成されていったのである。

 シプロスのお買い物はまだまだかかりそうなので、この機会に経済感覚も共有しておこう。

 昭和一八年現在の一円は現代でいうとおよそ八〇〇円から一千円に相当する。また補助単位として銭および厘が使用されていて、一円は一〇〇銭、一銭は一〇厘である。

 ただし普段の生活で厘を使う機会はほとんど無く、半銭銅貨が事実上の五厘硬貨として流通している。

 参考までに物価の例を挙げると、あんぱん三銭、豆腐五銭、石鹸九銭、蕎麦一五銭、カレーライス二〇銭、靴下一足四〇銭、映画館の切符一円、無地の木綿一反一円、レコード一枚一円三〇銭、白米一〇kg二円といった具合となり、概ね我々の世界における昭和一〇年頃と同じ経済感覚であることがわかる。

 なお、この時代の一般家庭の年収は五〇〇円から六〇〇円であった。

 さらに、彼女らの世界ではレースによって国家の言い分を通すという経済構造が成立しているため、外交手段としての戦争が存在しない。よって科学技術の発達が非常に緩やかでちぐはぐになっている。

 特に鉄を含めた各種金属は産出量が少なく、また『兵器』を作る必要がなくなってしまったため、冶金技術は世界的に数年から十数年の遅れとなっている。

 日本では国の監督のもとで逓信、鉄道、航空の分野に金属の使用が集約された結果、民間に流通する金属製品は非常に高価である。

 具体的には鉄バケツが八円、鉄製の炒め鍋に至っては四〇円と、我々の感覚からすると十倍以上もの価格がつけられているという特徴がある。

 反対に、無線と映像に関する技術は飛躍的に進歩している。ラジオの普及率が一〇〇世帯あたり七割を超えている他、昭和一七年からはレース観戦を目的とした白黒テレビの販売が開始されている。しかし七五〇円という超高級品であること、そして東京や大阪といった大都市でしか視聴できないという理由から、普及率はわずか数%であった。

 

 *

 

「……ちょっと買いすぎたかしら」

 広場に戻ってきたシプロスはベンチに腰かけた。その胸には大きく膨らんだ紙袋が抱えられている。袋の口からは丸められた生地がいくつも飛び出していた。

「趣味もいいけど、いくらなんでも八円は使いすぎよ」

 リーベは突き出た布をいじりながら「この布だって、全部繋げたら二反はあるんじゃない?」とからかった。

「あら、一尺二〇銭もするリボンを、六尺も買ったのはどなたかしら?」

 仕返しと言わんばかりに、シプロスはリーベの胸に抱えられた小さな紙袋を見た。

 彼女は編み込みが得意で、よく長髪の後輩を使っては髪結いの練習をしている。リボンを編み込んだ長い髪はとても美しいのだが、鍛錬には泥汚れが付きものだ。あまり高いものを使ってしまうのはもったいないな、とも思っていた。

「これはほら。たまのご褒美よ」図星を突かれたリーベは必死に繕った。

「私ももう少し伸ばそうかなと思っていたところだし、自分の髪に使うならいいでしょう? ね?」

 その姿がおかしくて、シプロスは思わず吹き出しそうになった。

「そんなに焦らなくても、自分のお金なんだから好きに使えばいいじゃない」

 笑いを堪えるシプロスに、リーベは頬を赤くして「もう、あんまり意地悪くしないでちょうだい」とむくれてみせた。

「でもこれ、とっても可愛いでしょう?」と、リーベが紙袋を覗いた時、遠くから甲高い汽笛が響いてきた。

 

 二人の耳が自然と駅の方へ向く。

 リーベの耳がぴたりと東を向いた。

「これ、汽車の音じゃない?」

 同じ方へ耳を向けたシプロスも、少しずつ迫ってくるガシュガシュという音を捉えた。

「本当だ。もうそんな時間?」

 シプロスは街頭テレビの上に掲げられた時計に目を向けた。

 時刻は十一時を少し回ったところだった。正午までに学園に戻ろうと思うと、半までには下見を済ませなくてはいけない。

「ほらシプロス、早く行きましょう。いい場所が取られちゃう」

 二人は荷物を抱えて、生徒手帳を手に改札へと歩き出した。

 学園のウマ娘は、国鉄の全線と一部の私鉄が無条件で乗り放題だ。二人は改札の駅員に身分証代わりの生徒手帳を差し出したが、駅員はろくに目も向けずに通してくれた。

 道路事情が整っていないこの時代、物流を担うのは鉄道であった。そして人も荷物も多い大都市の中心部ならともかく、郊外では貨車も客車も一括りにして列車を仕立てることは至極一般的であった。しかし、ちょうど停車場に滑り込んできたこの列車は客車だけで、しかも六両全てが二等車という編成であった。

 これは学園のために仕立てられた特別列車で、乗っているのは今年の新入生だ。

 二人がわざわざ新入生の到着を見届けに来た理由は、二種候補生という立場が古式ゆかしい年功序列を覆すヒエラルキーの最上位に位置していることに起因している。

 

 他の候補生にはない二種候補生の特権。それは自分が指導する後輩、同室となる練習生を指名できる権利だ。

 選ばれた新入生は次代の候補生として特命練習生と呼ばれる立場になり、先輩の身の回りの世話をしながら一対一の環境で厳しい鍛錬を積むことになる。よって、ここで選ばれることを栄誉とするかハズレくじとするかは、生徒内でも意見が分かれていた。

 しかし、選ぶ方は本気だ。

 初年生とは概して洗濯の仕方や寝台の支度から教えてやらなければならないものだからだ。物覚えが悪い後輩に時間を割かれるのは非効率だし、なんといっても外聞が悪い。

 当の新入生達はそんなことが起きているとはつゆ知らず、学園に着くやいなや右も左もわからぬままに体育館に連れて行かれる。

 そして、候補生たちの見守る中で一人ずつ壇上に上がり、会場へ振り返って一礼して降りるという一連の動作を全員が行う。

 名目は先輩方への挨拶となっているのだが、実態は指名の前にここで品定めをせよ、という学園側の計らいである。とはいってもたかが数秒では何もわからないので、良い後輩を捕まえようと思ったら少しでも早く唾をつけておく必要があった。

 跨線橋では、候補生の袖章をつけたウマ娘たちが三々五々集まっていた。二人もホームを見下ろせる手頃な場所についた。

 

「シプロス、降りてきたわよ」

「ちゃんと見えてる」

 眼下では一〇〇人ほどのウマ娘が続々とホームへ降り立っている最中だった。毎年三〇〇人からの新入生がやってくるので、あれが先に下車する組ということだろう。降車を二度に分けるのも下見への配慮かもしれない。

 新入生達は真新しい制服に身を包み、それぞれが大きな荷物を抱えていた。そして皆一様に腕章をつけている。これは新入生が地方選抜レースで出走した距離を色で示したもので、候補生達が自分の適正に合わせた新入生を選びやすいように、と生徒会が手配したものだという。

「どう? 気になる子はいる?」

 リーベは早速品定めを始めているようだ。

「みんな地方選抜を潜り抜けてきてるのだから、性格はともかく、走りだけは間違いなく素質があるのよ」

 シプロスは冷ややかな目で停車場を見下ろしていた。

 黙々と荷下ろしをするウマ娘もいれば、社交的に会話をしている者も、率先して指揮をとっている者もいる。

 尋常小学校を出たばかりの子供を、しかも流し見した程度では個性や信条まではわかるはずもない。それでも、主体性や自主性の成長度合いを見定めるには充分だった。

 シプロスはなるほど、と思った。

「この下見というものは、どちらかといえばハズレを見極めるためのものみたいね」

「あら、辛辣ですこと」リーベも停車場を見下ろしたままで答えた。

「あなたのお姉様は、もう少しお優しかったのではなくて?」

 シプロスもリーベも、つい先月までは特命練習生であった。そして候補生と練習生の間では『指名された場合はその先輩候補生を"お姉様"と呼ぶ』という不文律がある。

 それは後に離れ離れになったとしても、それこそ二人の間にどんな確執があったとしても、自分を選んでくれた相手をお姉様と呼んでしまうことはこの学園における、ある種の呪縛であった。

 

 しばらくの間、二人はホームに屯するウマ娘達を静かに見下ろしていた。

「お姉様は確かにお優しい方だったわ。けどね」とシプロスが言葉を切ったので、リーベは顔を上げた。

「けど?」

博愛主義(あのひと)現実主義(わたし)は、初めから向いている方向が違ったのよ」

 その時、リーベはシプロスがレースの前と同じ目をしていることに気づいた。

「そうかもね」

 こんな時は何を言っても無駄だと知っているリーベは、さっさとホームに目を戻した。

 二人の間に何があったかは知っていても口にしない、深いことは詮索しないというのが礼儀というものだ。

 

「さて。そうしたら私はあの子にしようかしら」

 

 リーベが目をつけたのは集団の中でも特に小柄なウマ娘だった。腕章の色は黄色なので中長距離が得意なようだ。しかし体躯は遠目にもわかるほど細く、なんとも頼りない風貌をしている。私物の入った葛籠を背負っただけで、その姿はすっかり見えなくなってしまった。

「あなた、ああいうのが好みだったの?」リーベの見初めたウマ娘を見つけたシプロスは眉間に皺を寄せた。

 多感な時期にある練習生は担当する候補生の影響を多分に受ける。

 あの雰囲気から察するに、リーベが同室になればその色に染まるのは一ハロンを走るより容易いだろう。

「御し易いに越したことはないけど、聞き分けがいいだけじゃやっていけないわよ」

 シプロスが批判を口にすると、リーベは不敵な笑みを浮かべた。

「私ね、こう見えても利己主義者(エゴイスト)なの。もしかして、今まで気づかなかったの?」

 シプロスは面食らって、素直に「気づかなかった」と答えた。

 そして思った。リーベが自分の主義主張を明らかにしたのは、知り合ってからの三年で初めてのことだったかもしれない。

 同時に、リーベのいうところの利己主義とは"弱い立場にある後輩を保護してあげる自分"に向けられた倫理的なものなのだろうと思った。

 後輩という生き物は、いつの時代も年長者の庇護欲を刺激するものだ。

「あなたは、きっと機会主義者(オポチュニスト)だろうと思っていたの」

 シプロスは本音を吐露した。そして、リーベのことをこれっぽっちも理解していなかった自分をひどく恥ずかしく思った。

現実主義者(リアリスト)のあなたらしい評価で安心したわ」

 リーベはそれ以上シプロスを責めなかった。それどころか、シプロスの肩に腕を回してその肩を抱き寄せた。

「気にしなくていいのよ。私の幸せには、ちゃんとあなたも必要だからね」

「そう」

 シプロスは安堵して、回された腕をそっと掴んだ。

「それなら、良い」シプロスは心から言った。

 二人が信頼を確かめ合っている間に、最初の新入生たちはすっかり捌けていた。

 引率の教員が鐘を鳴らす音が響いて、後に降りる組の新入生たちが下車を始めた。

 リーベが時計を見やると、時刻はまもなく十一時半になるところだ。

 学園に戻る時限が迫っている。

 まだ新入生に目星をつけていないシプロスを慮って、一歩退いたリーベはシプロスの後ろについた。

 

 シプロスは視線を落とし、ホームの中ほどでを荷下しを始めた溌剌としたウマ娘の一団に目をつけた。

「あの子、どうかしら」

 指差したのはざっくりと髪を束ねた流星のあるウマ娘だった。

 腕章はマイルを示す緑で、周りと同じく痩身ではあるものの骨付きは良いように見える。他の生徒とも積極的に会話をしているようで、どうやら社交的な性格のようだ。

「いい趣味ね」時計を気にしているリーベはおざなりに褒めて「シプロス、時間よ」と促した。

「少なくともハズレではなさそうね。よし、あの子にしましょう」

 シプロスは顔を上げた。

「決めた」

 そう決断すると同時に、時計の鐘が短く鳴った。

 

 *

 

 二人が学園に帰り着いたのは、門限の五分前だった。

 部屋に戻ってきたシプロスは手早く制服の埃を払って髪を梳いた。

 そして校章やら優駿賞やらの飾りをつけて正装の体裁を整えた。

 すっかり小綺麗になったシプロスは、足早に食堂へと向かった。

 食堂棟に着くと、外には二十人ほどの生徒が列を作っていた。式の準備がひと段落ついたらしく、ちょうど昼休みとぶつかってしまったらしい。

 これではゆっくり昼食とはいかないな、と思ったところへ、リーベが渡り廊下をバタバタと走ってきた。

「ごめんなさい。待たせちゃって」

「大丈夫。でも、混んでるみたいだから上にいかない?」

 シプロスは慌しい食堂ではなく休憩室での昼食を提案した。

「そうね。そうしましょうか」

 リーベも行列を一瞥して同意した。

 二人は行列の横を抜けて玄関をくぐり、脇にある階段を上った。

 二階は回廊になっていて、引き戸が整然と並んでいた。戸の上には黄色い電球があって、点いていない部屋が空室だ。

「よかった、空いてる」

 安堵したリーベに、シプロスは「生徒会の皆様方はのんびりお昼とはいかないみたいね」と同情したような声で続いた。

 空き部屋があることを確認した二人はまず配膳室へ回り、茶櫃と箱入りの軽食を取って適当な部屋へと上がった。

 二人は普段から各々のお姉様に連れられてこの個室を利用していた。

 ここは学園の中で唯一、壁に囲まれて一人になることができる空間だ。候補生の特権を象徴する、勝手知ったるプライベート・ルームである。

 休憩室と呼ばれるこの部屋は、どの部屋も小さな土間と八畳の和室、脱衣所と風呂、そして押入れというシンプルな作りになっている。

 部屋にあがったシプロスは、さっさと押入れを開けて二枚の座布団を出した。

 そして後に続くリーベが襖を閉めるのを待たずに「それで、あなたのどのあたりが利己主義者なのかしら?」と切り出した。

「まだ気にしていたの? いいじゃない、そんなこと」

 休憩室は安全上の理由で中から鍵がかけられない。リーベは在室を示す電灯のスイッチを上げて、ちゃぶ台へ軽食を並べた。

 その姿を横目に、シプロスは座布団の上へ小さく収まった。

 学園では、先輩同士の交流がなければ、授業以外で同期生と顔を合わせる機会は少ない。進路が違えば尚更で、卒業まで一度も言葉を交わさないことすらざらにある。

「だって、その……」

 二人きりになった瞬間、シプロスは急に気恥ずかしくなって言葉につまった。

 それでも、今日は互いの理解を深める絶好の機会なのだと歯を食いしばった。

「三年も一緒にいるのに、私はあなたのことを知らなすぎる気がしたの」

 その告白に、リーベは目を丸くして驚いた。シプロスがそんなことを言うのは、知り合ってから初めてのことだった。

 そして、その不器用さを慈しむように小さな笑顔を浮かべた。

「わかった。なら、教えてあげる」

 珍しくしおらしい態度のシプロスに気をよくして、リーベはその隣に腰を下ろした。

「いいこと。あんなか弱そうな子がこの学園で、それもくじ引きで相方を決められたら、どうなるかしら?」

 リーベは真剣な顔でシプロスを見た。

「私には、良い結果を生むとは思えないの」

 学園には二つの寮がある。候補生や特命練習生の暮らす蹄桜(ていおう)寮と、それ以外の生徒が暮らす駿風寮だ。

 入学以来、特命練習生として暮らしてきた二人は駿風寮に足を踏み入れたことはない。

 それでも、他の生徒から話はいくらでも入ってくる。

 いくら栄えあるウマ娘修練学園とはいっても、その実態は未熟な若者で構成される超閉鎖的な社会だ。

 そして、どんな社会でも起きえる「ある問題」は、下層の練習生の間にも当然のように蔓延っていた。

 しかし、リーベは自分が指名することであのウマ娘を守ることができるのだという。

 

 まず、特命練習生は候補生と寝食を共にしているから、他の練習生との距離が絶対的に遠い。そして周りを見ていれば、候補生に選ばれることが尊敬の対象になっていることもすぐにわかるはずだ。

 そうなれば、自分の目の届かない場所にいても彼女の安全は守られる。

 この小さな社会で立場を得ようとすれば、脚だけでなく頭も使わなくてはならない。それがリーベの考えだった。

 そして「でも結局、私は自分のことしか考えていないのよ」と自嘲気味に話を締め括った。

「それがあなたのいう利己主義の正体ね」

 シプロスは一応納得してみせた。

 それでも「でもそれ、人によってはただの温い優しさにしか見えないかも」と釘を刺さずにはいられなかった。

 ウマ娘を体躯や見てくれで判断してはいけない。もしもあの子が自分の力だけで這い上がろうとする気骨の持ち主だったら、リーベのやり方にきっと反発するだろう。

「それでもいいの」リーベは気にも留めない様子た。

「だって、私の心が満たされることに違いはないでしょう?」

 二人きりの時、リーベはいつもこうだった。

 彼女にとってもっとも大切なことは、いかに自分が気持ちよく過ごせる者で周りを固めるかである。

 そして自分に必要がないと判断した者には見向きもしない。

 その代わり、手元に置いておくに適当と思った者には何くれとなく世話を焼いてやるのだ。

 そのせいかおかげか、リーベは寮に暮らす他の練習生からもよく慕われている。

 取捨選択のやり方はともかく、私よりもよっぽど指導者に向いているな、とシプロスは耳を垂らした。

「こんな話、初めてしたかもね」

 リーベはどこか晴れ晴れとした様子だった。

「あなたが話を聞いてくれて、よかった」

 満足そうに微笑むリーベを見て、シプロスはあの小柄なウマ娘の運命を、ほんの少しだけ羨ましく思った。

 駅で見た雰囲気からして、あの子はきっと他の候補生の目には止まらない。このまま指名が通れば、本人の意思はともかく、平和な生活が約束されることだけは確かだ。

 シプロスは自分の三年間を思い出して目を伏せた。

 そして俯いたまま「お姉様が私を選んだ理由も、そんなことだったらよかったのにね」と悲しげにつぶやいた。

 その拳が硬く握られていることに気づいたリーベは、シプロスの肩をぐっと抱き寄せた。

「そんな顔をしないで。私の幸せにはあなたが必要だって、さっきも言ったでしょ?」

 リーベの手が、握りしめたシプロスの拳を包んだ。

 そして、「大丈夫。同じ轍を踏まないように、私がちゃんと見ていてあげるからね」と優しく囁いた。

 シプロスは肩を抱く腕に身体を預けて、温かいその手をしっかりと握り返した。

 

 *

 

 同日十四時。

 体育館は紅白の幕で飾られ、壇上には国旗と校旗が掲げられていた。

 ステージの前には新入生用の椅子が並び、その後ろに並べられた椅子には在校生たちが行儀よく座っている。

 入学式に参列した在校生は全部で二〇〇人ほどで、本来の人数よりもずっと少ない。この場にいるのは候補生だけで、だいたいは暇を持て余した高学年の候補生や生徒会生たちである。

 そんな中、シプロスたち新世代の二種候補生は、真ん中に設けられた通路に近い中央付近に座っていた。

「これより、ウマ娘修練学園高等女学校、第七五期入学式を執り行います」

 拍手に迎えられて新入生が入ってきた。国を背負う学園といえども、入学式は一般の学校と大きく違うところはない。ここからは校長の挨拶、師範筆頭の挨拶、生徒会長の挨拶と続き、ただ座っているだけの時間が待っている。

 一点だけ変わっているところといえば、新入生達の椅子の前に長机が置かれていることだろうか。それは式の後で学園指定の鞄と教科書の配布を行い、仕出し弁当の夕食から部屋割りの発表までを一気に済ませるための措置だった。

 

 お仕着せの祝辞を聞き流す時間が終わって、生徒会生がマイクを構えた。

「続いて、生徒会長より挨拶を申し上げます」

 ステージの隅で、新品かと見紛うほどに糊の効いた制服に身を包んだ赤髪のウマ娘が立ち上がった。第四五代生徒会長、アザーレアは国旗に一礼し、演台に向き直って姿勢を正した。

「七五期生の皆さん、入学おめでとうございます。在校生一同、心より歓迎申し上げます」

 少しヒステリックさを含んだ声がマイクに乗って響いた。

 アザーレア三種候補生は六八期生で今年二一歳、生徒会長としては三期目になる。

 強い発言力を持つ生徒会々計室を束ねてきた傑物で、趣味は貯金と公言し、その財布の紐は蹄鉄よりも硬いと噂に高い人物だ。

 正直なところ、生徒会の中でも会計室はシプロスが最も苦手とする部署であった。

 彼奴等は蹄鉄一本の予算を渋り、鍛錬に使う重量橇の縄まで自分達で編み、あまつさえ節約と称して風呂の温度まで下げてしまったのだ。シプロスにしてみれば会計室はドケチでしみったれな連中の集まりでしかない。

 他の生徒からの評価も似たり寄ったりのようで、三月には海闊天空を以て鳴るロートアスター副会長への代替わりが近いとの噂が立って、学園中が沸いていた。

 そして四月を迎え、新年度役員一覧の広報を見た大多数の生徒はがっくりと肩を落としたという事件があったばかりであった。

 そんな為人であるのに、レース庁や役場の職員には受けがいいのだから不思議である。シプロスは冷ややかな視線を壇上へ向け、つまるところあの人は外面だけは良いのだな、と勝手に結論づけた。

「結びにあたり、新入生諸君がこの学園で大きく成長することを心から望み、新たなレースに輝かしい蹄跡を残すことを期待しまして、祝辞とさせていただきます」

 アザーレアは教科書に出てくるような所作で礼をして、ポニーテールを揺らして再び隅へと引っ込んでいった。

 演台が片付けられて、生徒会のウマ娘が再びマイクを構えた。

「では、新入生挨拶に移ります。番号と名前を呼ばれた生徒は壇上に上がり、会場へ向かって一礼したら席へ戻ってください」

 

 さてここからが本番。いよいよ品定めの時間だ。

 この後、候補生は指名したい新入生が挨拶を済ませたら順次退出する。そして、入り口に控えている師範に指名したいウマ娘の学籍番号を告げるのだ。

 指名が出揃った後、何も知らない新入生達が諸規則の説明を受けているうちに担当や部屋の割り当てが決まり、夕食後には発表となる。

 生徒会生が準備を進めている姿を見て、シプロスは収まりが悪そうに身を捩った。何を隠そう、シプロスが入学式に参列するのはこれが初めてである。しかも、指名をするためにはこの全員が着席している会場で一人立ち上がり、できるだけ堂々と退出しなければならない。

 レースでもないのに、私は緊張しているのか。シプロスは耳を立てると口を真一文字に結び、目を見開いてその瞬間を待った。

「七五−〇〇一、シュタールハーツ!」

 いよいよ、最初の生徒が名前を呼ばれて壇上へと上がった。見てわかるほどに緊張した様子だったが、なんとか礼をして席へ戻っていった。

 一人目がうまくいってしまえば後に続く者は気楽なもので、挨拶は順調に進んでいく。それにつれて、シプロスにも辺りを気にする余裕が出てきた。

 壇上の新入生は次々と入れ替わっていく。そしてウマ娘の聴力があれば、どのタイミングでどのあたりの誰が退出したのかはおおよそ見当がついた。

「七五−〇三二、ミュルテブーケ!」

 柔和な顔つきのウマ娘が壇上に上がった。

 シプロスの前に座っていたウマ娘がすっと立ち上がり、コツコツと踵を鳴らして去っていった。自分はあのように颯爽と退出できるだろうか。シプロスの緊張をよそに、読み上げは続いていく。

「七五−〇八九、プリミスプラム!」

 リーベが目をつけていたウマ娘の番が来た。シプロスは改めて壇上のウマ娘を値踏みしようと目を凝らした。

 制服の裾が余っていて、着ているというよりも着られているのは他の新入生と同じだ。背が小さいこともまだ良いとして、やはり体が細すぎだ。この学園では姉妹が入学するなどの特別な事情がない限り、式場に一般の練習生が立ち入ることはない。それでも、放っておけば目をつけられるのは時間の問題だっただろう。

 その時、後ろに座っていたリーベが立ち上がる気配がした。

「先に行くわ。ポテトで待ってる」

 リーベの囁きを聞いたシプロスは了解の印に右耳を振って答えた。

 他に席を立ったウマ娘はいなかった。

「七五−一二七、ルスティカーナ!」

 シプロスが目をつけていたウマ娘の番が来た。名前はルスティカーナ、素朴という意味だっただろうか。ここまでの新入生と同様、相当に緊張した様子で階段を危なっかしく登っていく。

 壇上でルスティカーナが振り返ると、その長い髪と凛々しい顔つきは候補生達のどよめきを生んだ。

 やはりあの子は『当たり』か。

 周りの反応に満足したシプロスは、彼女が壇上から降りるのを見計らって席を立った。周りの出方を伺っていた候補生が何人か腰を浮かせたが、シプロスの姿を認めるとすぐに引っ込んでしまった。

 シプロスは快感に耳を震わせた。

 この指名は早い者勝ちや籤引きでは決まらない。指名した者の中で最も格の高いウマ娘に権利があるのだ。

 正装の際、制服の左襟には階級章にあたる優駿章というワッペンがつけられる。シプロスのそれは地の色が若緑で、付けられた桜章は金が二つに銀が一つだ。

 若緑とは着用者の適正距離が一四〇〇米から二二〇〇米であることを示し、金の桜はウマ娘鍛錬競走甲級、銀の桜は同乙級を勝利した証だ。これは現代のレースに言い換えればG1を二勝、G2を一勝となる。つまりシプロスの格はかなり高いのだ。

 参列者の中だけで見てもその序列は上位数名に入る。よって、シプロスが立ち上がった時点で他の候補生に勝ち目はなかった。

 耳を廻らせて、間違いなく自分だけが立ち上がったことを確認した。

 ウマ娘の価値は勝利したレースの格で決まる。そんな血も涙もない実力主義が、この時ばかりはありがたかった。

 シプロスは湧き上がる優越感に浸りながら、揚々と式場を後にした。

 

 体育館の入り口では、正装の師範と書記らしき眼鏡のウマ娘が机を出していた。シプロスの姿を認めた師範がおもむろに立ち上がる。

 つかつかと机へ向かったシプロスは机の前に立ち、踵を揃えて姿勢を正した。

「申告します。学籍番号七二−〇五四、ベルネンシプロス二種候補生。指名は七五−一二七」

「七二−〇五四、ベルネンシプロス候補生。指名は七五−一二七」

 師範との簡潔なやり取りを聞いたウマ娘が台帳に筆を走らせる。そして複写を切り取って師範へと差し出した。

 師範は受け取った写しを一瞥してシプロスに渡す。

 シプロスはそれに間違いがないことを確認すると一礼し、踵を返してカフェーへと駆け出した。

 緊張の糸が切れたシプロスは口角が上がるのを抑えられなかった。

 優駿章の桜一つで、他の候補生がシプロスのために道を空けた。

 二種種候補生という肩書きだけではわからない、金色の桜に裏打ちされた身分の高さというものを、この一瞬でまざまざと思い知らされた。

 それは勿論、この時代のウマ娘の間でしか通用しないし、レースに興味のないヒトからすれば全く理解できないものかもしれない。

 それでも、この出来事は一五歳の少女の自尊心を満足させるには大きすぎるものだった。

 シプロスはやっと、今までの努力が報われた気がした。

 

 *

 

 候補生の特権の一つ、それは街の喫茶店を丸ごと移築したカフェー『ポテト』の利用だ。

 一般的なカフェーにあるような飲み物はだいたい用意されているし、ワッフルやスコーン、サンドウヰッチといった洋菓子や軽食も提供されている。運営は生徒会を経由して外部に委託されていて、マスター以下の従業員は府中の町民だ。

 ポテトは管理区の東、学内を南北に貫く通り沿いにあった。

 店を囲む芝生にはいくつかのテーブルが出されていて、その一つでは数人の師範達が談笑していた。

 シプロスは目も向けずに横を通り過ぎたが、師範たちは誰も咎めようとしなかった。

 それもそのはずで、このカフェーには不文律がある。

 街のカフェーで他の客を気にかけないのと同様、立場によらず相互に不干渉であることが求められるのだ。

 よって、ここは学内にありながら、師範と生徒とが対等となる特異な場所になっている。そして師範達がこのルールを呑んでいるのは、校内では禁止されている酒類の提供が黙認されているからだ、というのがもっぱらの噂だった。

 

 店の前にはリーベの姿があった。律儀にも外で待っていたらしい。

「待たせたわね」

 シプロスは走って乱れた髪を手櫛で掻き上げた。

「大丈夫。さ、入りましょう」

 二人は珈琲の香る店内へ入った。入り口すぐのカウンターでは、麻のエプロンをつけた従業員が出迎えてくれた。

「カプチーノをくださいな。あなたは?」

 シプロスは「私は冷たいハニーミルクティーを」とお気に入りを注文した。

 ここでは飲み物の量はどれでも二合と決められている。価格もコーヒーが十五銭、他が二〇銭と統一されているので、支払いは配給券の束から一〇銭券を二枚もぎって渡すだけで済んだ。

 飲み物を受け取って、二人は窓際のテーブルに落ち着いた。

 たっぷりのミルクティーが注がれたグラスの上で、シプロスはおもむろにミルクピッチャーをひっくり返した。最後の一滴まで丁寧に注いでからストローで軽く混ぜる。

 一口啜ると、ガムシロップの直球な甘さがやってきた。それを蜂蜜と牛乳の甘さが包み込み、紅茶の香りとともに鼻へ抜けていった。

 シプロスは、この世の甘党を唸らせる滋味が学園で手軽に楽しめることに感動すら覚えていた。

 その様子を眺めていたリーベは「よくもまあ、そんな甘いものが飲めるわね」と肩をすくめた。

 シプロスはむっとして「コーヒーもエスプレッソも苦くて飲めないし。それに、甘い方が疲労回復にも良いんだって」と反論した。

「あらあら、今日は疲れるほど走ったかしら?」

 からかうリーベを無視して、シプロスはすっかり甘くなったミルクティーを楽しんだ。

「それにしても、発表が楽しみね」

 他に手を挙げた候補生がいないからか、リーベは耳を揺らしてすっかり浮かれ気分だ。

 シプロスは、さっきまでの自分の姿を見せられているようで落ち着かなかった。

「あんまりそわそわしないの」

「ふふん。あの子はもう私のものよ」

「まったく。練習生をペットか何かだと思ってるの?」

「今日から保護者ですもの。"私のもの"であることに間違いは無いのではなくて?」

 学内において、練習生が問題を起こせば担当候補生の監督責任になる。そう考えれば、確かに保護者という表現も間違いではないのか、とシプロスは無理やり納得しようとした。

 とはいえ、もの扱いは甘く見積もっても言い過ぎだ。

「これは、とんだお姉様が誕生したみたいね」とシプロスは自分を棚にあげて、わざと大きくため息をついてみせた。

「あら、あなただって悠長なことは言っていられなくてよ」

 急にリーベが険しい顔になった。

「お互い責任ある立場になるのですから、精々気を引き締めないといけませんからね」

 シプロスは突然の正論にあっけに取られた。自分だって浮かれているくせになんて言い返す訳にもいかず、ただぷっくりと頬を膨らませることしかできなかった。

 その時、候補生の一団がカフェーになだれ込んできて、二人の会話は喧騒に埋もれてしまった。式場で見た顔が混じっているところを見ると、どうやら式はつつがなく終わったらしい。今頃は師範たちが部屋割りを組み始めているだろう。

 あと数時間で、二人の候補生生活を彩る練習生が決まる。

 シプロスは、ひとり式場を後にした時のあの高揚感を思い出していた。夜が楽しみでたまらない。三年前、お姉様もこんな気持ちで私のことを見ていたのだろうか。

 ともすれば振り回してしまいそうになる尻尾が気になって、シプロスはそれと悟られないようにそっと腹へ抱え込んだ。

 

 *

 

『七五−〇一五、小宮中尉群一班! 七五−〇一六、相沢大尉群一隊二班! 七五−〇一七、東中尉群四班! 七五−〇一八……』

 十七時をまわって、夕食の済んだ体育館では新入生達の班割りの発表が始まっていた。マイクを手にした生徒会生が次々と割り当てを読み上げている。

 大半の新入生は一般の練習生としておおむね脚質ごとに班へと組み込まれていく。全てが終われば生徒会生が新入生を連れてそれぞれの寮へ向かい、各部屋で顔合わせをして初日は終了だ。

 一方その頃、シプロスやリーベといった七〇人ほどの候補生は別棟の大会議室に集まって夕食をとっていた。

 部屋にはシプロス達のほかにも、練達の二種候補生や定数を欠く班を持つ三種候補生といった面々が詰めている。

 部屋の隅に置かれたテレビには、体育館の様子が中継されていた。

『七五−〇二四、指名、フェリクスフェザー候補生!』

 そして、今年最初の指名を受けた新入生が出た。同時に、部屋のどこかから「よし」と小さな声がした。たぶん指名をした候補生が声を上げたのだろう。

 テレビの中では、生徒会生が指名されたウマ娘のところへと駆け寄って、別室へと移動させていくところが映されていた。

 長い長い初日も、いよいよ佳境を迎えていた。

「これじゃ足りないわ」

 ぼやいたリーベは空になった弁当ガラを長机の隅へと押しやった。

「確かに、一人分にしては少ないかも」

 隣に座るシプロスも、ほとんど空になった弁当に目を落として不満そうに眉間に皺を寄せた。

 どこにでもある経木の弁当箱は、当然ヒト一人前の大きさだ。個人差はあれど、ヒト二人前から三人前を一食とするウマ娘では物足りなさを感じるのも仕方がないことだった。

 もちろん学園もそんなことは織り込み済みで、この部屋にも一五〇人分の弁当が用意されていた。

「もう一つもらってくる」

「私の分もね」

 すかさず自分の分を頼んだシプロスにむっとしたリーベは「なら、お茶を注いでおいて」と湯呑を押し付けて席を立った。

 仲良く二つ目の弁当をあっさりと腹におさめて、二人は静かにテレビを見つめていた。

 どちらも指名が被っている練習生はいないはずだが、それでも緊張は隠せない。

 なぜなら、学力にかなりの開きがあるとか、適正距離が離れすぎているなどの都合で、指名が却下されることがあり得るからだ。

 もし却下されれば、最低でも一年間は他の三種候補生と肩を並べて師範代を務めなければならない。二種候補生でありながら師範代と呼ばれることになれば、お姉様の顔に泥を塗ることになる。同期生にも面目が立たないばかりか、その肩身は猫の額も真っ青の狭さだ。

 そうこうしているうちに、読み上げが八〇番代に入った。

 ひとり、またひとりと学籍番号が読み上げられるたび、二人の耳が揺れ動いた。

『七五−〇八九、指名、アイオライトリーベ候補生!』

 そして無事、あの小柄なウマ娘の担当がリーベに確定した。他の候補生はまったくマークしていなかっただろうから、この指名は寮内を沸かせるだろう。誰が誰を指名したかという話題は、刺激の少ないこの学園では格好の話のタネなのだ。

「アイリ、おめでとう」

 シプロスが差し出した手を、リーベは「ありがとう。次はあなたね」と笑顔で握り返した。

 満面の笑みを浮かべたリーベを見て、シプロスは複雑な表情でテレビへと目を向けた。

「もし選ばれたとして、喜んでくれるかしら」

「大丈夫。この金の桜は飾りじゃないのよ」

 そう言って、リーベはシプロスの襟に輝く優駿章をつついてみせた。

「もっと自信持ちなさいな」

 淡々とした読み上げが続いていく中、シプロス達二種候補生に遠慮して隅に陣取っていた三種の候補生達は悲喜交々といった様子を見せていた。彼女達は自分が担当する練習生を指名することができない。狙った新入生が自分の隊に入らないとなれば残念がるのも仕方なかった。それでも、二種候補生の指名の時には声をあげないあたりに、彼女達なりの矜持が感じられた。

 そのうちに読み上げが一〇〇番を過ぎて、いよいよシプロスの耳にも力が入る。

 リーベがそっとシプロスの手を握り、シプロスは無意識にその手を強く握り返した。

『七五−一二七、指名、ベルネンシプロス候補生!』

「やった!」リーベが声を上げた。

 シプロスは大きく息を吐いた。一気に肩の力が抜けた気がする。

 とにかく、これで二人とも目当てのウマ娘を得ることができた。

「シプロス、おめでとう」

 リーベが抱きつかん勢いでシプロスの肩を叩いた。

「ありがとうアイリ。これでお互いお姉様ね」

 二人はもう一度握手を交わして喜びを分かち合った。

「そうだ、乾杯をしましょう。お茶だけど」

「十分よ」

 リーベは急須からたっぷりとお茶を注いだ。

「では、ターフに」

「ターフに」

 二人は湯呑みを小さく打ち付けて、濃く出したお茶を飲み干した。

 

 *

 

 顔合わせは普段は会議室として使われている部屋で行われた。机は隅に寄せられて、奥の壁に五人の練習生たちが並ばされている。対する候補生たちは演壇に立つ師範の後ろに控えて挨拶の号令を待っていた。

「君たちを担当する、岩下だ」

 白い詰襟の制服に銀色に輝く蹄鉄のバッジをつけた四角い顔の男、岩下実中尉は簡潔に名乗った。

「ここにいる君たちは、幾多のウマ娘鍛錬競走を勝ち抜いてきた上級生に選ばれた。諸君らは次代のレースをその最前線で担うことが期待されている。特命練習生としての立場をよく理解し、校則を守り、風紀を乱さぬよう鍛錬に励んでほしい。鍛錬とは心、技、脚の三つを鍛えることで競走に耐えられる精神を養う……」

 シプロスは岩下の演説を聞き流していた。その隙間を縫ってルスティカーナに目をやると、目をぼんやりとさせて疲れている様子が見てとれた。これが終われば解散になるはずだから、明日でもいいことは明日にして早く休むことにしよう。

 ……と決めてはみたものの、頭でっかちで知られる岩下の演説はなかなか終わらない。シプロスは練習生達の疲労を浮かべた顔に早くお風呂に入りたいという自分の苛立ちを重ねて「相変わらずの堅物ね」と小さくこぼした。

 隣に立つリーベは耳ざとく「あら、その堅物のおかげで私達は細かいことを言われないのよ」と耳だけをシプロスへ向けて答えた。

 リーベの指摘に、シプロスは「確かに。なんとかと鋏は使いようだわ」と皮肉を込めた返事をした。

「あら、鋏は便利よ。紙も布も綺麗に切れるもの」

「言うわね。聞こえていたらコース一〇〇周は固いわよ」

「演説をぶっている時は何も聞こえていないのよ、あの方は」

 二人はほとんど唇の動きだけで話していた。ウマ娘の耳ならすぐ隣にいる相手の、ほとんど吐息に近い囁きを聞き取ることは造作もない。拡声器も使わずに窓を震わせるほどの大音声で喋る岩下には聞こえるわけもなかった。

「よって明日は一日を自由時間とする。それぞれの担当候補生から学内の案内を受けるように。校外への外出については……」

 演説が四コーナーに入った気配を見せたので、二人は口を閉じた。演説の締めを聞きながら、シプロスはリーベに言われた『責任』という言葉を思い出した。

 シプロスは自分の面倒は自分で見られるだけの鍛錬を積んできたと自負しているし、結果がそれを証明している。しかしあの子は走り方一つから手取り足取りと面倒を見てやらなければならない。

 責任ある立場になる、か。

 この学園で与えられた立場以上の力が欲しければ、走って、そして勝ってみせるしかない。それが私があの子に負う責任ということか。シプロスはそう自分を納得させ、顎を引いて姿勢を正した。

 

「では候補生は前へ。練習生へ挨拶!」

 岩下の号令がかかり、シプロスはまっすぐ歩み出てルスティカーナの前に立った。

「あなたを指名したベルネンシプロスよ」

「えっと、ルスティカーナです。よろしくお願いします」

 ルスティカーナはおずおずと名乗った。

 この場での挨拶は多分に儀礼的なものなので、返事を聞いたシプロスはさっさと岩下のほうへ向き直った。両隣も似たような流れで名乗りが終わり、最後の候補生が前を向いた。

「本日はこれにて終了。明後日は授業の後、十五時より合同での体力作りとする。では解散!」

 岩下が足早に退出すると、一気に弛緩した空気が流れた。

 各々が帰り支度を始める中、シプロスは一人大きく息を吐いた。

「シプロス、帰りましょう」

 振り向くと、リーベとその後ろに隠れる様に小さなウマ娘がいた。私物が入っているのだろう大きな葛籠を背負っているが、まるで葛籠に抱えられているようだ。

 リーベに視線を戻したシプロスは「そうね」とだけ答え「さ、荷物を持ちなさい」とルスティカーナを促した。

 そしてすっかり暗くなった外を見て「はやくお風呂に入りたい」と独りごちた。

「残念だけど」リーベがその横顔に声をかける。シプロスは顔も向けず「なあに?」と上の空で答えた。

「出るのは私たちが最後らしいから、大浴場に行きたいならしばらくかかるわよ」

 勢いよくリーベの方へ振り返ったシプロスは、たっぷり三秒も目を見開いて硬直した。

 

 *

 

 候補生寮である『蹄桜寮』は八棟の宿舎棟、洗濯棟、休憩室のある食堂棟、そして浴場棟からなる。宿舎は四棟ずつ渡り廊下で繋がれていて、食堂棟を中心に南に開いたコの字型の配置になっていた。

 一棟あたりの生徒数は七〇名程度。各棟ごとにラジオの置かれた談話室と机のある自習室があり、各個室も二人部屋にしては多少余裕を持った空間がとられている。

 十九時を回り、後は消灯を待つのみとなった寮の廊下には人影も少なく、談話室に屯する上級生達の話し声がわずかに漏れてくるだけであった。

 そしてシプロスの個室は東側四棟の最も南、一号棟の二階にあった。

「ここよ」

 シプロスは鍵を開け、ルスティカーナが入りやすいようにドアを開けて一歩退いた。

「どうしたの、はやく入りなさいな」

 入り口でもじもじしたままでいるルスティカーナを、シプロスは不思議そうに促した。

「あ、あの……お邪魔します」

 その堅苦しい様子にシプロスは小さくため息をついて「ルスティカーナ、今日からここはあなたの部屋でもあるのよ」と諭した。

 ルスティカーナは少し戸惑って「えっと、ただいま、です」と呟いて一歩を踏み出した。

「ええ、おかえりなさい」

 破顔したシプロスはルスティカーナに続いて部屋へ入り、静かにドアを閉めた。

 室内は手前から箪笥、棚、机、寝台というシンプルな造りになっていた。寝台の上の長押には釘が打たれていて、空のハンガーがいくつか掛けられている。

 窓際には障子で仕切られた広縁があって、低めの椅子と卓が置かれていた。

「あなたは左よ」

 シプロスは、綺麗に畳まれた布団が乗せられた寝台を指した。

 真新しい畳の敷かれた寝台は藺草の匂いがして、机はよく拭き上げられていた。湿気飛ばしのためか箪笥の引き出しも開けられていたので、それらを見たルスティカーナはどうやら自分が歓迎されているのだと察した。

 シプロスは「制服はちゃんと衣紋掛けにね。荷解きは明日にして、今日は手ぬぐいと寝巻だけ出しなさい」と手早く指示をした。

 そして制服を脱ぎ始めたので、ルスティカーナもさっそく葛籠をひっくり返した。寝巻を取り出す間にシプロスは浴衣に着替え、合切袋に手拭いや石鹸を放り込んでいた。

「さて、着替えたら行くわよ」

「行くって……どこへですか?」

「お風呂。あなたも今日は疲れただろうし、ゆっくり温まりたいでしょう」

「毎日お風呂に入れるんですか!」

 浴衣に袖を通していたルスティカーナの顔がぱっと明るくなった。

「ここでは毎日お風呂が基本。走れば泥だらけだし、お風呂くらい好きにさせてもらわないとやってられないの」

「でも、薪とか石炭とかは……」

 都市部ではガスが普及し始めているとはいえ、田舎ではまだまだ薪を使って釜を焚く風呂が主流だ。ルスティカーナが風呂焚きの手間を心配するのも無理はない。

「ここのお風呂はガスで沸かすの。ちょっと温いけどね」

「釜焚きもしなくていいんですか! やったあ」

 ルスティカーナがやっと笑顔を見せて、シプロスは内心ほっとしていた。そして、シプロスは自身も当時は同じように喜んでいたことを思い出して目を細めた。

「そうだ、鍵を渡しておかないとね」

 シプロスは机の引き出しから、よく磨かれた真鍮製の鍵を取り出した。それには端布で作った根付けがついていて、『一号棟二〇一』と丁寧に刺繍されていた。

「部屋を空ける時は必ず鍵をかけること。いいわね?」

「はい!」ルスティカーナは鍵を握りしめて満面の笑みを浮かべた。

 田舎ではまだ"自室"という考えそのものがない家も多い。例え半分でもプライベートな空間が与えられるとなれば嬉しいものだ。

 その様子を見たシプロスは、この素朴なウマ娘が安穏に暮らせるように努力しようと心に納めた。

「さあ行きましょう。きっともう、アイリが首を長くして待ってるわ」

 

 *

 

 再び落ち合った四人は、昼と同じく食堂二階の休憩室に集まった。

 夜の自由時間になってそれなりに混雑していたが、とにかく風呂に入ろうということで適当な部屋へと上がった。

 四人はちゃぶ台を囲んで座った。湯船に勢いよくお湯が落ちる音が響く部屋の中で、リーベがトレーニングについての説明をしている。

「というわけで、ここでは師範と一緒に私達二人もあなた達を指導していくの。よろしくね」

 そう話を締めたリーベに「よろしくお願いします」とプリミスプラムが三つ指をついて、ルスティカーナもそれに続いた。

「私たちがレースに出る時は二人で協力して鍛錬してもらうこともあるかもしれないの。二人は同級生でもあるのだから、仲良くしなさいね」

 そう言われた二人は顔を見合わせて、ぎこちなく会釈しあった。

「そういえば、あれは話したの?」

 シプロスは「まだ」とだけ答えた。耳がお風呂の方を向いているので湯の溜まり具合を気にしているのだろう。リーベはやれやれと言った様子で「なら私から説明するわね」と二人へと向いた。

 シプロスをお風呂に近づけると注意散漫になるのはいつものことだ。気にしないことにしたアイリは居住まいを正す。それを見た二人も背筋を伸ばした。

「あなたたちは指名した先輩、つまり私たちのことを"お姉様"と呼ぶという決まりがあるの。いつ、誰が決めたのかはわからないけれど、とにかく決まりは決まり。他の候補生や諸先輩方への示しもありますから、ちゃんと守ってちょうだいね」

 二人が頷くのを見て、リーベは話を続けた。

「プラムは私を、あなたはシプロスをそうお呼びなさい。他の候補生や練習生は何々先輩、同級生は何々さんで構わなくってよ」

「ここで物を言うのは優駿章の桜の数だけ。初年生のあなた達もすぐに理解できるから、精々精進なさい」とシプロスが少し強い調子で割って入った。

 リーベは「まだ初日なのにあんまり厳しいことを言わないでちょうだいな」と唇を尖らせ、「大丈夫。ご飯はちゃんと食べられるし、こうして毎日お風呂にも入れるわ。思ってるよりもずっと楽しいんだから」と二人を安心させた。

「さて、そろそろいいんじゃないかしら」

 話は終わったとばかりにシプロスが口を挟む。

「そうね」リーベもやっとといった様子で肩の力を抜いた。

「優駿章がものを言うなら、あなたが一番風呂かしら?」

 シプロスはちょっと考えてから「ここは年功序列。アイリが一番風呂でいいわ」と言った。いつも譲ってもらっているので、初日くらいは序列に正直でもいいだろう。

 それに休憩室の風呂は洗い場の他はタイル張りの湯船があるだけだ。足し湯をしていくうちに湯が入れ替わってしまうので、順番にもあまり意味がない。

 リーベは「あら珍しい。なら、お言葉に甘えようかしら」とうきうきした様子で腰を上げた。

「二人とも楽にしていてね。そうだ、配膳室に行ってお煎餅でも持ってきなさいな」

 リーベに言われた二人は顔を見合わせると、連れ立って部屋を出て行った。

「で、もう愛称で呼んでるのね」

 シプロスは着替えを抱えた背中に声をかけた。

 振り返ったリーベはシプロスの肩に手を置いた。

「あなただって、私のことを皆とは違う愛称で呼ぶじゃない? それと同じよ」

 リーベは野暮を揶揄うようにシプロスの頬をつついた。

「でも、なんて呼んだらいいかなんて、今日の今日じゃわからないじゃない」シプロスは頬杖のままため息をついた。

「お姉様は私のことをシプロスとしか呼ばなかったし、愛称って考えてつけるものではないでしょう?」

 リーベはうなだれるシプロスを見て肩をすくめた。

「本人が嫌じゃなければ、呼び方なんて自由でいいの」

 そのからりとした様子を見てシプロスは唸った。

 候補生と特命練習生は一連托生の関係とはいえ、友達というほど近くはないし、他人というほど冷たいものでもない。上下関係というものは本当に難しい。

「そうかもしれないけど、私が勝手に決めていいのかしら」

「いいんじゃなくて? ちなみに私は改めて自己紹介して、なんて呼ばれているか聞いたのよ」

 シプロスはしばらく悩んだ後、覚悟を決めて顔を上げた。

 たかが呼び方を決めるだけだ。リーベにできて私にできないことなどない。はずだ。

「なら、あなたがお風呂に入ってる間に話すわ。例えば……ルーちゃん、とか」

「ふふっ。なかなか可愛い愛称ね、シプロスお姉様」

「もう。はやく入ってきなさい」

 シプロスは顔を赤くしてぷいとそっぽを向いた。

 

 *

 

 そしてリーベは、しっかりと長風呂だった。

 休憩室は寮内扱いなので門限を気にする必要はない。それでも、一時間ちかく待たされるとさすがにこたえる。

 ルスティカーナとプリミスプラムは持ち込んだシラバスを読み込んでいたが、さすがに飽きてきた様子だ。

 そこへ、手帳に何かを書いていたシプロスが声をかけた。

「ルスティカーナ」

「はい、お姉様」

 ルスティカーナは飛び上がり、正座をしてシプロスへと向いた。

「いつもルスティカーナと呼ぶのも堅苦しいから、あなたを何か、その、愛称で呼びたいのだけど……」

 そこまで言うと、シプロスは耳を垂らして黙ってしまった。目も伏せてしまったので、ルスティカーナは自分が何か粗相をしたのかと一気に不安になった。

 それでも真面目なルスティカーナは質問に答えないわけにはいかないと思い「えっと、小学校の時はカナって呼ばれてました」と覚えている限りいちばんわかりやすい愛称を答えた。

 シプロスは聞こえた証に「そう」とだけ答えて、また黙ってしまった。

 静かな部屋の中に時計がコチコチと言う音だけが響く。ルスティカーナは次に何を問われても良いようにしっかりと耳を立て、シプロスの方を向いたまま硬直していた。

 微妙な空気に気づいたプリミスプラムが、顔を上げて心配そうに二人を見る。

「……なら、私もカナと呼んでいいかしら」

 不安を湛えた目線を送られたルスティカーナは目を丸くした。顔合わせの前の訓示の時、自分を指名した候補生とはどのような経歴のウマ娘なのかを聞かされていた。

 ウマ娘鍛錬競走甲級−現代なら、そのレースを一言でG1と呼ぶだろう−を二勝したウマ娘がお前を選んだのだ、と。

 そんな立派な先輩ウマ娘が、まさか後輩の愛称一つでこんなに不安そうな顔をするなんて思いもしなかったからだ。

 ここで逡巡したら、この人は落胆してしまうだろう。

 ルスティカーナはぐっと顔を上げた。

 そして「はい! えっと、よろしくお願いいたします!」と目一杯に喜色をあらわにして答えた。

 シプロスは安堵した様子で「ならよろしくね。カナ」と言ってまた手帳に目を落としてしまった。しかしその頬はほんのりと赤くなっていて、口角もわずかに上がっているように見えた。

 ルスティカーナは感動で胸が一杯になった。この人は今まで自分が見てきた人たちと違ってほんの少し奥手で、そして不器用なのだ。

 彼女は上下関係に厳しい環境で育ってきた。目上の人からまっすぐに"あなたと仲良くしたい"などと言われたことなど経験したことがなかったのだ。

 ルスティカーナは渡された鍵のことを思いながら、この人に選ばれたことを誇りにして、この人の名誉のために走ろうと胸に刻んだ。

 その数分後、真っ赤な顔をした浴衣姿のリーベが風呂場から出てきた。

 それを見て立ち上がったシプロスとのすれ違い様、リーベは熱った顔を押さえて「なかなか言わないから、のぼせちゃうところだった」と囁いた。

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