蹄音、高く   作:上條つかさ

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群影

 勝負服。

 

 それはウマ娘の憧れの象徴。

 

 明治の頃、勝負服はあらゆるレースで着用されていたという。

 時代が降るにつれて格が上がり、いつしか最高格のレースでのみ着用されるようになっていた。

 

 国際レースの時代を迎え、レースの勝敗が経済に直結するようになると、「お国のために走るウマ娘たち」は保護され──あるいは隔離されはじめた。

 

 そして昭和十五年、ウマ娘総動員法が発布される。

 

 そこでは具体的に「勝負服を着用してはならない」と定められたわけではない。

 ただ一言、過度な装飾には慎重を要する、と書かれたのみである。

 

 しかし、世間はウマ娘に味方しなかった。

 

 勝負服は費用がかかりすぎる。派手な意匠は国際レースに相応しくない。群衆を扇動するおそれがある──。

 

 初めの曖昧な表現から湧き上がった補論は、いずれも“正論”と呼ぶに足るものだった。

 

 この流れに逆らうべく、学園の運営を担う日本ウマ娘倶楽部はすぐに抗議運動を行った。しかし、結局は経済界からの圧力に屈してしまった。

 

 結果、勝負服の着用は名目上の自粛となり、それはいつの間にか当然へと変化した。

 

 そして同年春、ウマ娘鍛錬競争甲級。最後に勝負服を纏い、ゴールへと駆け抜けたウマ娘は、リコッシュという名であった。

 

 それから、三年の月日が流れた。

 いつしかレースは、運動服でなければ出走が認められないほどに硬化した。白い上衣と、枠番の色に揃えられた下衣、そして白いゼッケン。そこに個性は無く、ただ「強い」ことだけが求められた。

 

 しかし、ウマ娘の存在証明としての勝負服を、未だ諦めていないウマ娘がいた──。

 

 *

 

 ヴィスリユニオンは、中・長距離の候補生の中でも突出した能力の持ち主である。

 リリウムパイスとヴィスリユニオンは、現役ウマ娘の二大巨頭であり、学園の長距離ウマ娘を二分──圧倒的多数とごく少数を同列に扱うならば──していた。

 彼女がリリウムパイスに迎合しない理由。それは、レースへの向き合い方、ただ一つだった。

 

 日はすっかり上り、畦道は乾いていた。第三中継点となるこの一二英里地点には、簡単なテントと共に、岩下師範と数名のウマ娘が詰めているだけだった。

 ここが東京急行の折り返し。先で道はくるりと折れ、まるで鏡写しにされた数字の9のように、第二中継点へと戻っていく。

 

 一つの影が、土を蹴り上げて迫っていた。地を揺るがさんとする踏み込みと、しなやかな足の動きの連続。それは、二〇キロメートルを走ってきたとは思えない整ったフォームだった。その理想的な走りは、出迎えた生徒達の目を惹きつけた。

 

 薄い青とピンクのリボンを靡かせたヴィスリユニオンは腕を振り上げ、「ヴィスリユニオン候補生、僭越ながら、先頭にて通過いたします!」

 そう高らかに声を上げ、風を切って走り抜けていった。

 

 テント脇に掲げられた学園旗が風にはためき、巻き起こされた土煙で生徒達が目を伏せる。

 顔を上げる頃には、その背中は半ハロンも遠くに去っていた。

 

「あれは、山下のところのウマ娘か。相変わらずだな」と岩下。

 

「いつものことです」テクティーが答えた。

 

 ヴィスリユニオンと同郷である彼女は、年下ながらその気質を誰よりよく知っていた。

 

「ええと、七時十二分、通過……、と」

 岩下は手帳にメモをとってから、消えた彼女の背中があった方角へと目をやった。

 

「しかしまあ、あれでもレースには滅多に出ないというのだから、ウマ娘とはわからんな」

「ユニ先輩がレースに求めるものは誇りです。それは必ずしも勝利の数ではない、ということでしょう」

 

「ふうむ」岩下は、納得しかねた様子で四角い顎をつまんだ。

「まあ、よく指導していると聞くし、不満が無いなら良いだろう」

「不満なんて、出るはずがありませんよ」

「そうなのか?」と岩下。

「今にわかります」

 

 顔を上げたテクティーの、丸いメガネがきらりと光る。

「……どういうことだ?」

 首を傾げる岩下に答えるように、テクティーが道の先を指さす。

 

「ほら、来ました」

 陽炎の向こうから、紅いメンコをつけた一団──リリーの乙女達が現れた。

 

 *

 

 中継点のテントに翻る旗を見つけたリリーは、軽く口元を開いた。

 

「さあ、いよいよ折り返しよ」

 

 その呼びかけに、一団が「応」と応じる。

 三十足近い蹄が呼吸を揃え、硬い土を打って進む。列の統率は乱れず、紅いメンコが朝の光にきらめきながら、規則的なうねりとなって視界を横切っていった。

 

 リリーの乙女たちは、一二英里の道のりを誰一人脱落することなく走りきっていた。

 リリウムパイスは最初から四番手に位置しつづけている。全体の動きを見通し、先頭を一英里ごとに交代させながら、列の速度を維持していた。

 一見華やかに見えるその隊列も、全員が先導役を務められるわけではない。

 位置取りと責任の重さに疲労を隠せなくなる者もいる。

 

「リリウムパイス候補生以下二八名、通過いたしますわ」

 

 通過の声に、岩下は片手を挙げて応じた。

 隣のテクティーは書類から目を上げず、返礼の視線も向けない。

 

「……ああいうのを不敵って言うんだな。さっきのとは、えらい違いだ」

 岩下が静かに言った。

 

「志に、数は関係ありませんよ」

 

 ペン先を止めずにテクティーが答える。

 

「ずいぶん肩を持つんだな」

「尊敬してるんです。ユニ先輩のこと」

 

 岩下は苦笑した。

 

「派閥か。ヒトもウマ娘も、そこは変わらんな」

 

 一方、通過を終えたリリーはちらと後方を振り返った。

 

「ザフィーア、ススキヤマ、トネトル」

「はい!」

 

 三人のウマ娘が前へ出てくる。汗が額から頬を伝い、呼吸が速い。脚の運びにも翳りがあった。

 

「あなたたち、そろそろ限界ね。ここで棄権しなさい」

 

「リリー様、しかし……」とトネトルが言いかける。

 

「私たちの目標は、すべての長距離レースに名を刻むこと。そのためには、こんなところで脚を無駄にしてはならないの」

 

 リリーは語調を崩さず、ゆるやかに言い聞かせるように告げた。

 

「一二英里なら十分よ。先に戻って、私の帰りをお待ちなさい」

 

「……わかりました。ご走運を」

 

 ザフィーアが隊列に手信号を送り、間にひと筋の隙間ができる。

 三人はそこから静かに列を離れ、速度を落とすと、なお進み続ける仲間たちに軽く手を振った。

 

「さて。リナリーはどこにいるの?」

「七列目です」即座に、真後ろに控えたスリジエが答える。

 

「リナリー、プラムを前へ寄越して!」

「はい。さ、前へお行きなさい」

 

 呼ばれたプラムが小さく頷き、列を縫って前に出る。汗は滲んでいたが、脚取りはまだしっかりしていた。

 

「リリー先輩、参りました」

 

「いいこと、プラム。ここからはぴったりと私の後ろにつきなさい」

「わかりました」

 

 リリーは全体を見渡し、声を上げる。

 

「みんな、ここからが正念場よ。フリソコーラ、エスモア、ウミビヨリ。先導をお願い」

「はい!」

 

 エスモアが前へ出て、フリソコーラとウミビヨリが続く。

 その背中を見送りながら、リリーは口元にわずかに笑みを乗せた。

 

 その視線の先、道は大きく緩やかに曲がっている。

 舞い上がる土煙の奥、陽炎の向こうに、ひとつの背が見えていた。

 

 青とピンクのリボンをつけたウマ娘、ヴィスリユニオン。

 

 その姿を確かに捉えたとき、リリーは小さくつぶやいた。

 

「見つけた」

 

 *

 

 その頃、十英里地点。

 

「はぁ、はぁっ……」

 シプロスとリーベは、慣れない畦道にすっかり体力を奪われていた。

 

「もう無理……アイリ、次で降りましょう」

「賛成。おかみさん、いるかしら」

 

 学園旗の翻る丁字路に、二人はようやくたどり着いた。

 このあたりは東京急行のほぼ三分の一に相当する地点で、朝の光の中、次々と道を逸れてゆく生徒たちの姿があった。誰もが汗に濡れ、靴裏を重たげに引きずっている。

 

「帰る子はこっちだよー! 自動車が出るよー!」

 

 澄んだ声に、シプロスの耳がぴくりと動いた。

「この声……おかみさんだ」

「いた。おかみさーん!」

 

 リーベが声を張ると、旗の陰から姿を現した女性が、手に持った案内旗を高く掲げて駆け寄ってきた。

 

「シプロスちゃん! リーベちゃん! よく走ってきたね!」

 

 駅前の毛糸屋のおかみさんは、肩で息をする二人のもとへと駆け寄り、腕まくりしたシャツの袖で額の汗をぬぐった。気の強そうな目元は、安堵でふわりと緩んでいた。

 

「おかみさん、良かった」

「よかったのはあたしのほうだよ。朝になってから場所を言われて、ほんと、二人が通るか気が気じゃなかったんだから」

 

「これでも、二人とも甲級(G1)ウマ娘ですから」

 リーベが少し誇らしげに言うと、おかみさんは「そうかい」と声を弾ませ、満足げに何度もうなずいた。

 

「顔が見られてよかったよ。二ヶ月ぶりかい?」

「はい。応援のお手紙、ありがとうございました」

 

「あんたたちの顔が見られれば、アタシはそれでいいよ」

 おかみさんは、くしゃりと目尻を細めて笑うと、二人の肩を交互に叩いて労った。

「さ、あっちで自動車が待ってるよ。今日はゆっくり休みな」

 

「ありがとうございます。後でまた、お店に行きますね」

 そう言って、シプロスはひらりと荷台に飛び乗った。リーベもその後に続く。錆びた蝶番の音と共に、作業着の男があおりを閉めた。

 

「いつでもおいで。待ってるよ!」

 

 おかみさんは手を大きく振り、笑顔のまま見送った。そしてトラックがゆっくりと走り去ると、踵を返して旗を持ち直す。背中に結んだエプロンの端が、朝風に揺れた。

 

「次の子たち、こっちだよー! 踏ん張れー!」

 

 その声は、次々と現れる生徒たちへ向けて、変わらぬ調子で飛んでいった。学園の行事を支える街の手が、そこにあった。

 

 *

 

 しばらくして、十六英里地点

 

「はっ、はっ、はっ……」

 

 ヴィスリユニオンは、まもなく二度目の第二中継点に差し掛かろうとしていた。

 彼女の強みは、圧倒的なサイクルで繰り出されるピッチ走法と、学園一とさえ言われるスタミナだった。しかしそれは、無限の走りを約束するものではない。

 

 足の運びに、ほんのわずかな乱れが生まれていた。呼吸のリズムも、序盤のような機械的な安定を欠きつつある。けれど、まだ折れない。彼女はこれまでも、数少ない出走で掲示板を外したことはなかった。共にレースを駆ければ、誰もが彼女の名を記憶に残した。

 

 ヴィスリユニオンは、振り向かずとも、背中に突き刺さるような視線を感じていた。

 リリウムパイスは、着実に距離を詰めつつあった。しかしその一団を率いていたはずの彼女の周囲には、今はもう十人しか残っていない。過酷な消耗戦だ。だが、だからこそ恐ろしい。

 

 長距離の最後は根性の勝負となる。誰よりも粘り強く、誰よりも誇り高く、走り切った者だけが栄誉を手にする。

 

 東京急行はレースではない。しかし、ヴィスリユニオンにとって、これは十分に戦いだった。己の限界に挑み、己の力で勝利を奪い取る。その栄光こそ、ウマ娘の本懐。数で押し通すようなやり方で栄光を語るなど、論外もいいところだ。ましてや、あの不敵な百合の女王に譲るなど──

 

「そろそろ、ハナを譲っていただけるかしら? ヴィスリユニオン」

 

 ついに隣まで上がってきたリリーは、張りのある声で学友に声をかけた。

 

「リリー。君はこう言う時だけ、私の名を縮めないのだな」

 

 対するユニーも平然と答える。これはレースの駆け引きと同じだ。弱みを見せた瞬間に、取り返しのつかないほどの距離を空けられてしまうだろう。

 

「私、好敵手のお名前を略すような、無粋な真似はいたしませんの」

 

「無粋と言うなら、せめて後ろの子たちを下げてもらえないかな」

 ユニーはちらりと後ろを見た。一〇人のウマ娘が列を組んでついてくる様は、まるで追い立てられる獣の気分だ。

「せっかくの勝負なのに、これでは息が詰まる」

 

「あら、私に一対一を挑まれるおつもり? ゴールまで、あと八英里はありましてよ」

 

「ハナを寄越せと言っておいて、今更サシを怖がるのかい?」

 

 リリーの瞳がぎらりと輝く。

 

「……興が乗る物言いですこと」

 リリーの白い腕が低く外へ出される。

 

「エスモア、後は任せたわ」

 その声を合図に、リリーの後ろにいたウマ娘たちが一斉に下がった。

 

「どうかしら。これでもう、邪魔は入らないわ」

 

「結構。では」

 ユニーの瞳に光が宿る。深く息を吸って、強張った身体の力をゆっくりと抜いた。

 

「いざ、尋常に」

 リリーの声を合図に、二人が同時に重心を落とす。

 地を蹴る構えに入ったその瞬間、周囲の空気がひとつ、張り詰めた。

 

「勝負よ!」

「勝負!」

 

 二人のウマ娘が、同時に地を蹴った。

 

 走り出したその瞬間、十六英里分の疲労など微塵も感じさせない、爆発的な加速が空気を裂いた。

 置き去りにされたリリーの一団は、その背を追うことすら叶わない。

 

 距離を置かれるごとに、彼女たちは思い知らされる──今、目の前を走るのは、現役長距離の頂に立つ二柱なのだということを。

 

 プリミスプラムはその背中を見つめながら、いつか自分も好敵手を見つけ、自信を持って挑める日が来るのだろうか、と思った。

 

 *

 

 同じ頃、学園正門。

 

 錆びた鉄の軋む音とともに、トラックが次々と構内へ戻ってくる。

 荷台のウマ娘たちは、あおりが下ろされるや否や、跳ねるように飛び降り、次々と寮へと駆けていった。

 

 日差しに焼けた土の匂いがむっと立ちのぼり、広場の空気は排気と汗、土埃が混じってむせ返るようだ。

 構内には絶え間なく人と車が行き交い、エンジン音、荷台の金属音、誰かの笑い声が交錯している。まるで巨大な生き物の体内のように、騒がしく、ざわついていた。

 

 特に急いでいるのは、各棟で「三枚目」を気取る候補生たちだ。

 完走者を労う名目がなければ、寮でのお祭り騒ぎなど御法度である。それに、消灯どころかまだ昼飯前だ。

 もっと早く戻った連中は、今頃冷蔵庫に蓄えておいたラムネを引っ張り出していることだろう。

 

「全員、必ず整理運動をするように! 体調不良の者、氷が要る者は、生徒会テントへ!」

 

 師範の声が、メガホンを通して構内全体に響き渡った。

 風にばたつくテントの布地の下では、生徒会の腕章をつけたウマ娘たちが、氷の入った桶やタオルを忙しなく運んでいる。

 

 とはいえ、レース経験が豊富なシプロスたちにとっては、もはや耳慣れた光景だった。

 トラックの荷台で軽くストレッチを済ませた彼女たちは、すでにほとんど普段と変わらぬ動きに戻っている。

 

「はー、終わった終わった。今日はよく眠れそう」

 

 リーベは大きく背伸びをしながら、額の汗を手拭いで拭い、ほっとした笑みを浮かべた。

 

 隣に立つシプロスも汗に濡れた鉢巻を外した。

「ああもう、びしょびしょ」

 

 髪をかき上げて、腰に下げていた手拭いで濡れた髪をわしわしと乱暴に拭いながら言う。

 

「さあ、お風呂よお風呂。今は何よりお風呂! 芋洗いになる前に、早く行きましょう」

 

「いいの? カナが戻っているか聞いてないけれど」

 

「同い年の子たちと過ごす、いい機会じゃない。あなたこそ、プラムはいいの?」

 

「リリー先輩がいるし、大丈夫だと思うけど……」

 

「シプロス先輩、お疲れさまです」

 

 声に振り返ると、後輩のエトワルアルモニーがヤカンを片手に立っていた。

 

「エトワル。あなた、レース前でお休みじゃなかったの?」

 

「はい。軽く走っていたのですが、人手が足りないとのことで、お手伝いに」

 

 エトワルは脇に抱えた籠の中から紙コップを取り出し、ヤカンから器用に麦茶を注ぐ。

 

「どうぞ、麦茶です」

 

 渡された紙コップには、きんと冷やされた麦茶がなみなみと注がれていた。

 指先に触れた瞬間、冷気がじんと皮膚に刺さる。ひと息に飲み干すと、麦の香ばしさと苦みが喉を駆け抜けた。

 冷たい滝が胸の奥まで滑り落ち、火照った身体から一気に汗が引いていく。

 

「リーベ先輩も、どうぞ」

 

「ありがとう」

 

「さっぱりした。ごちそうさま」

 空になった紙コップを返しながら、シプロスが聞いた。

 

「そうだ、カナを見なかった?」

 

「カナちゃんなら、もう戻ってますよ。足を冷やしたら、お風呂に入ってくるように言ってあります」

 

「そう、ありがとう。アイリ、それなら……」

 

 リーベは、空になった紙コップを両手で握りしめたまま、門の外をじっと見つめた。

 

 日差しに照らされた門扉の向こう、土埃が舞い上がるたびに、遠くに人影が見えたような気がしては、また掻き消えていく。

 風が微かに木の葉を揺らし、校舎の大時計が、じり……と昼前の刻を告げた。

 

「シプロス。悪いけど、お風呂は先に済ませて」

 

「どうしたの?」

 

「プラムが完走するかもしれないから。少し……待ってみる」

 

「……あなたらしい出迎え方ね」

 

「悪かったわね、不器用で」

 

 プラムを、リリウムパイスに預けたのは正しかったのか。

 その答えがどうであれ──リーベは、自分の目で、今日の彼女を見届けるつもりだった。

 

 *

 

 一方、二十四英里地点。

 

 ヴィスリユニオンとリリウムパイスは、最後の一六〇〇米(ラスト・ワン・マイル)を示す赤い旗を通り過ぎた。

 

 この道をまっすぐ突き抜ければ、左手に正門が見える。そこがゴールだ。

 彼女たちの背後には、リリーが率いていた一群の姿はもう見えなかった。

 

 今はもう、どちらが先に膝を折るか。意地と執念のぶつかり合いだ。

 

 汗が目に入り、視界を滲ませる。それでも、まばたきすら惜しむように、二人は前を睨んで走っていた。

 

 ここまで三十八キロメートル。体中の筋肉は焼けるように熱く、心臓は喉元までせり上がっている。

 吐く息は熱く、乾ききった喉をさらに焼いた。

 運動服は全身に張り付き、汗に濡れた耳が風になびく。

 

 だが、足は止まらない。

 止まるわけにはいかない。

 

 他の誰にも超えられない、自分だけの壁を築くために。

 自分の脚で──この一歩で。

 

 視界の先に人だかりが見えた。

 

 残り四百メートル。

 

 ヴィスリユニオンがわずかに先んじていた。

 砂を蹴り上げる脚はもう、ただの重量物のように重い。だが、それでも動く。

 この脚で逃げ切ると決めて、スタートを切った。その意志が、まだ足を前に出させている。

 

 ──これは、ただの学園行事。

 勝ったから、何があるわけでもない。

 でも、それでいい。誰にも頼らず、誰にもついて行かず、自分の走りだけでここまで来た。

 なら、証明してみせろ。最後の一歩まで、このやり方が通用するということを。

 

 視界の先、ちらつく赤いゴールの旗。

 熱くなった脳の奥で、遠くの音がやけに澄んで聞こえる。

 

 リリーは、ユニーの背中を見ていた。

 左耳につけた赤いメンコが揺れる。

 

 ──ここからだ。

 

 最初からこの展開は想定していた。ペースは落とさない。脚はまだ残っている。後輩たちと刻んだピッチ、それが今も脈打っている。

 

 出し切るのはここ。抜くのは、ここ。

 

 風が変わる。汗に濡れた前髪が頬に張り付き、口の中が苦い。けれどこの苦さは、私にしか味わえないものだ。

 

 誰かの力を借りることは、弱さじゃない。借りたなら、返すだけだ。わたし自身の脚で。

 

 残り二百五十メートル。

 

 ユニーの脚が、わずかに沈む。蹴り出したつもりの足裏が、地を押し返してこない。それでも腕を振る。膝を上げる。崩れたフォームを無理矢理立て直す。

 

 ──一人で逃げるなら、倒れるまで逃げてこそ、我が本懐。

 

 後ろからリリーの気配が近づいてくる。冷たいものが、背筋を這う。恐怖じゃない。ただの本能。

 

 ここで差されたら、全部が嘘になる気がした。

 

 残り百五十メートル。

 

 風に靡く青とピンクのリボンが、がくんと落ちた。

 

 ──ユニーの脚が乱れた。リリーはそれを見逃さない。

 

 ピッチを保つ。肩を振らず、呼吸を乱さず、腕の振りだけを一段速めた。

 

 目指すはその一瞬の隙間。差し切るのは、一歩ではなく、十分に溜めた一歩。

 

 残り八十メートル。

 

 ──もう、音も匂いもない

 ユニーの意識は、砂を踏みしめる足音だけを頼りに走っていた。

 

 正門が視界の端に入った。誰かが名を呼んだ気がする。手を振る影があった気がする。

 

 だが、それらは全部、心に届かなかった。

 

 そのときだった。

 

 視界の右端を、白がかすめた。──リリーの、肩だ。

 

 ほんのわずか。指先ひとつぶん。

 

 残り五十、三十、十メートル──

 

 土煙の中、ふたりの影が並び、そのまま、横に並んだまま──ゴールの旗が、風を裂いて宙を舞った。

 

 誰の声かもわからぬ歓声が、やっと耳に届いた頃。

 

 ──ああ、負けたな。

 ユニーは膝を折る直前、横を走るリリウムパイスの背筋の真っ直ぐさを、ただ眩しく見ていた。

 

 勝敗は、構わない。

 だが、ユニーは最後まで逃げた。自分の脚で、自分の壁まで。

 

 そして、リリーは勝った。だが、それが”ゴール”ではないことを、誰より本人が知っている。

 

 ざっと足音がして、前に出たアザーレア生徒会長が手を挙げた。

 

「優勝、リリウムパイス候補生!」

 

 ゴールを見届けようと集まっていた生徒たちが、わっと歓声をあげる。

 

「道を空けろ! 通せ!」

 マダム・ラピアスの声が響く。

 赤十字の腕章を巻いた生徒を連れたラピアスが、膝をついたユニーに駆け寄る。その手が膝を押さえた瞬間、リリーはほんの一瞬だけ、ユニーの横顔を見た。

 

 それ以上、言葉は交わさなかった。

 

「よし、布を巻いて氷に漬けろ……リリー、大丈夫か」

 ラピアスが顔を上げると、そこに立っていたのは——全身を汗に濡れながらも、どこまでも誇らしげなリリウムパイスだった。

 

「ご心配なく、マダム」

 全身から汗を滴らせながら、リリーは口角をあげた。

「けどその氷、いただきますわ」

 

「空元気とは強くなったな、リリウムパイス」

 

 ラピアスが差し出した氷水入りの桶を、リリーは頭から被った。

 

 その瞬間、再び歓声があがった。

 

 リリーは一度、目を閉じた。

 そして、はっきりと声を響かせる。

 

「勝者は勝者らしく。これこそが、覇道というものですわ」

 

「結構。では、整理運動をしてから入浴するように」

 

「心得ておりますわ」

 リリーは観衆に向き直ると、座り込んで脚を冷やしているユニーを手で示した。

「みなさん! 私と共に最後まで走り抜いた、ヴィスリユニオン候補生にも盛大な拍手を!」

 

 観衆が一斉に拍手を送る。

 

 その頃、エスモアに率いられた一団の中で、プリミスプラムもゴールを切っていた。

 それが、九年ぶりの偉業であることに気づいた者は、まだいなかった。




次回、灯のともる場所
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