蹄音、高く   作:上條つかさ

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灯のともる場所

 昭和十八年六月四日、朝。

 

 前日に東京急行が開催されたことにより、この日は臨時の休日となっていた。

 まだ寝ぼけている寮を抜けて、食堂の前に出る。いつもなら見向きもされない掲示板の前だけが、妙な熱を帯びてざわついていた。

 

 そこには、夜を徹して印刷された学校新聞が貼り出されている。

 

 ──プリミスプラム特命練習生、東京急行を完走。六六期以来の大快挙。

 

「すごいわね、この子」「デビュー前でしょ、これからよ」「リリー先輩が完走したのは三年の時でしょ? 世代交代ってやつ?」

 そんな声を横目に、シプロスは玄関をくぐった。

 

 いつもなら活気で満ちている朝の食堂も、この日ばかりは静けさが勝っている。椅子と食器の音がやけに耳についた。

 シプロスは手慣れた動作で焼き鯖定食を受け取り、奥の窓際へ目をやる。

 

 ──いた。見慣れた耳が、椅子の背にぴんと立っている。

 

「アイリ、おはよう」

「あらシプロス。運動服だなんて、今朝はゆっくりね」

「ちょっと寝坊」

 

 シプロスは言いながら、向かいの椅子に腰かけた。時計はすでに八時をまわっている。普段なら空席を探すのもひと苦労なこの時間帯も、今日はまるでひとつ、時間がずれて流れているようだった。

 

「それより大した騒ぎね、あれ」

 鯖の皮を箸先で剥ぎながら、新聞の話題に視線を流す。

「九年ぶりですもの。仕方ないでしょ」

 

 リーベは、制服の袖を丁寧にたくし上げながら、玉子粥をすくって口に運んでいた。湯気が立ちのぼる丼は、彼女の前だけに柔らかな香りを漂わせている。

 

「あら。随分あっさりね」

「私が騒いでどうするのよ」

「プラムにはむしろ、増長しないように言いつけてやるくらいじゃないと」

「厳しいお姉様ですこと」

 シプロスは苦笑して味噌汁を啜った。まだぼんやりとした頭に出汁の味がしみる。

 

「ところで、カナは?」

「まだ寝てる。今日くらい良いでしょ。あなたこそ、プラムはどうしたの?」

「フラウベール監督生とポテトにいる。祝賀会ですって」

「行かなくていいの?」

 

 祝賀会というからには、寮の上級生は総出のはずだ。プラムの担当であるリーベに声がかからないはずがない。

 

「私は何もしてないもの。走ったのはプラムでしょ」

「その素質を見抜いたのはアイリじゃない。一声あげたって、何も言われないでしょ」

「そういうことはしないの」

 

 リーベはひと匙、さらりと口に含んだあと、丼の縁に匙を添えて小さくため息をついた。

 

「どうして?」

「あなたと、カナに失礼だから」

「別に、なんとも思わないけど」

「私がされて嫌だからしないだけ。それでいいでしょ?」

 

 心底不思議なものを見るような顔をしていたシプロスは、ふいに吹き出して笑った。

 

 

 それから「まったく、利己主義者(エゴイスト)は大変ね」と大げさに肩をすくめてみせた。まったく、身内には甘いのだから。

「ほっといて。こういう性格なの」

「知ってる」

 

 湯気がゆらめく。窓の外の朝日は、もう空の高みに差しかかっていた

 二人はそれきり何も言わず、しばらくのあいだ、湯気の向こうでそれぞれの朝を味わっていた。

 

 *

 

 シプロスがドアを開けると、朝の光が静かに射し込んでいた。

 南向きの窓から差す光が、机と棚を柔らかく照らしている。部屋の隅、寝台の上ではカナがブラシを手に、黙々と髪を梳いていた。

 

「──あっ、お姉様。おかえりなさい」

 

「やっと起きたのね」

 

「すみません、寝坊なんて……」

 

「今日はいいの」

 

 そう言って、シプロスは軽く寝台に腰をおろした。布団のふくらみがやわらかく沈む。

 部屋には朝の音──鳥の声と、遠い足音──だけが、細く流れていた。

 

「ところで、昨日はどうだった? 一人で走るの、初めてだったでしょう」

 

「途中まではブーケちゃん……ええと、同じクラスの子と走ってて、その後、別の先輩の列について、六英里(九.六キロメートル)地点で棄権しました」

 

「そう。私たちが十英里(十六キロメートル)だから、よく頑張ったじゃない」

 

「ほんとは、もっと頑張れたんです。でも……みんなそこで棄権しちゃって、後一英里、一人で行けるか、不安になっちゃって」

 

 カナはそう言って、目線を伏せた。梳きかけの髪の先が、わずかに揺れた。

 

「どうやら、きちんと学びがあったみたいね」

 

「一人が怖いこと、がですか?」

 

 シプロスは軽く頷いた。棚に手を伸ばし、小瓶から金平糖をひと粒取って口に含む。さり、と小さな音がした。

 

「ええ。ターフに出たら、誰もが一人だもの」

 

 一人、という言葉にカナの耳がぴくりと動く。

 

「じゃあ、プラムちゃんは……自分に勝てたってことですか?」

 

「そうかもしれない。でも、自分との向き合い方も、勝ち方も、人それぞれだから」

 

「……自分と向き合うって、どういうことですか?」

 

「そこには、速い遅いなんてないの。だって、自分とのレースなんだもの」

 

「自分とレースをするんですか?」

 

「そう。最後に越えなければいけない壁は、他人じゃなくて、自分自身。それに打ち勝ったとき、ウマ娘は本当に強くなれる。──まあ、これは受け売りだけどね」

 

 金平糖の甘みが、ゆっくりと溶けていく。

 シプロスはほんのわずかに目を細めて、天井の一点を見つめた。

 

「お姉様は、勝てましたか」

 

「……まだ、かな。レースに臨むことと、勝つこと。今はこの二つが、ねじれてしまってる気がして」

 

「どういうことですか?」

 

「──ただ勝つために走って、それで評価されて。評価されるからまた勝ちたくなる。……気づけば、それだけになってたの」

 

 それは静かな吐露だった。怒りも哀しみもない。ただ冷たく透明な水面のように、心の底をのぞかせた言葉だった。

 

「でも、それってすごいことじゃないですか? 勝ち続けられるって」

 

「すごいかもしれない。でも、それじゃあ“どこまで行けば終わるのか”わからないのよ」

 

 カナは黙って、その言葉を受け止めていた。

 

 シプロスは、ふっと笑った。

 

「私の話はいいの。あなたには、あなたの景色が見えるはずよ」

 

「私の、景色……?」

 

「そう。あなただけに見える、あなただけの景色。とびきり素敵な、ね」

 

 しばらくの沈黙のあと、カナはそっとブラシを置いた。

 まだ言葉にはならないけれど、何かが胸に灯った気がした。

 

 ──いつか、自分も、そこから見えるものを知りたい。

 まだ知らない景色を、目指したい。

 

 シプロスは黙って小瓶のふたを閉じ、窓の方に目をやった。

 陽は高く、影は淡く、音は静かだった。

 

 *

 

 それから一月が経った。

 プラムの噂はあっという間に鳴りを潜めた。学園は夏休み、そして合宿へと突入し、話題には事欠かない季節となっていた。

 

 夏といえば、新潟・阪神・京都レース場で行われるレースが有名だ。

 

 新潟へは立川から定期の航空便が出ており、選手たちは週単位で現地入りして調整を行い、レースに臨む。夏の間は常に百人程度が新潟レース場に滞在することになる。

 

 しかし、関西は事情が異なる。最速の汽車でも丸一日かかるため、レースのたびにウマ娘が出向くのは現実的ではない。そこで兵庫県ウマ娘組合が用意した施設が、園田ウマ娘鍛錬場である。八百人を収容可能な宿舎とダートコース一本を持つ、本格的な練習場だ。

 

 学園からは、毎年六百人前後が夏季鍛錬の一環として園田へ出向く。他にも札幌ウマ娘修練学園、私立盛岡ウマ娘女学院、岐阜笠松ウマ娘女学校からも生徒が集まり、七月から九月中頃まで、小さな町である園田にはウマ娘たちが集い、さながら中央のレース場のような賑わいを見せるのだった。

 

 学園は四割近い生徒が不在となり、相対的に静かになる。さらに同じ期間の中から十日から二週間程度の夏休みを取る生徒もいるので、最も少ない時で学園に残留する生徒は六百人ほどになってしまう。

 

 もっとも、夏休みをきちんと取れる生徒は高等科のレースから離れた生徒だけだ。普段、レースで授業を欠席しがちな本科の生徒たちにとって、夏とはすなわち補習の季節であり、帰省など夢のまた夢だった。

 

 *

 

 昭和十八年七月二〇日。

 

『生徒会より全生徒へ。台風接近のため、十五時をもって学校区を閉鎖します。全生徒は十五時半までに寮へ戻りなさい。繰り返します……』

 

 壁に据えられたスピーカーがけたたましく鳴っている。窓の外では濁流のような黒い雲が渦を巻いて流れていた。この空を見上げるだけで、嵐が間近に迫っていることは明らかだった。時折聞こえるドロドロという音は、おそらく雷だろう。

 

 シプロスとリーベは、ちょうど教室棟での授業を終えたところだった。

 

 生徒たちが続々と帰路につく中、シプロスはのんびりとノートに鉛筆を走らせていた。

 

「シプロス、早く帰りましょう」

 リーベはさっさと荷物をまとめて帰り支度をしている。

 

「あら。雷が怖いの?」

 板書を書き留めていたシプロスは、顔も上げずに答えた。

 

「ちがう。雨に濡れたくないの。早く行きましょう」

 

「はいはい」

 シプロスはやれやれといった様子でノートをたたむと、筆箱と共に鞄にねじ込んだ。

 

「晴れウマ娘には、お辛い季節ですわね」

 シプロスは鞄を手に席を立った。

 

 廊下から外を見ると、外はいよいよ暗くなり、街路灯にも火が入っている。

 まばらな人影も、皆足早に寮へと向かって走っていた。

 

 玄関へ降りた二人が下駄箱で靴を出しているところへ、白衣のウマ娘が駆けてきた。

「あら? マダム・ラピアス」

 

「シプロス、リーベ。ちょうどよかった」

 

「どうされました?」

 

「すまないが、どちらか手伝ってくれないか。すぐに済む」

 二人は顔を見合わせた。

 

「では、私が」

 リーベを気遣って、シプロスが一歩前へ出た。

 

「なら、荷物は部屋まで持っていってあげる」

 リーベは心から安堵した様子だった。寮にさえ帰ってしまえばいくらでもウマ娘がいるから安心なのだろう。

 もっとも、雷に震え上がる姿をプラムに見せられるかどうかは、また別だろうが。

 

「ありがとう」

 シプロスは余計なことは言わず、教科書の入った鞄をリーベへと預けた。

 

 ラピアスはリーベに「ユノーには、シプロスは私の手伝いをしていると伝えてくれ」と言った。こういう時、誰某に言われたから門限を過ぎた、という根回しは大切だ。

 

「わかりました」

 鞄を抱えたリーベはスカートを翻して、さっさと外へ駆け出してしまった。その後ろ姿を見たシプロスは肩をすくめ、ラピアスへと向き直った。

 

「それで、何をするんですか?」

「灯台を点ける。手伝いがいたほうが楽でね」

 

 ラピアスは白衣を翻して歩き出した。シプロスもその後ろへ続く。

 

「灯台、ですか?」

「この辺りを飛ぶ飛行機に、立川飛行場の方角を示すためのものだ」

 

 それを聞いたシプロスは不思議に思った。

 府中から立川までは、直線距離でたった三英里半(五.六キロメートル)。飛行機にとっては、まばたきのような時間だろう。

 それなのに、どうして灯台が必要なのか。

 けれど——そう言ってしまうには、彼女はあまりに世の中を知らなかった。

 

 シプロスの疑問を察してか、ラピアスは足を止めた。

 

「昔、事故があってね」

 

 ラピアスは口を重たく開き、窓の外に垂れ込める雲を見やった。

 

 燐寸の先で煙草に火をつけながら、言葉を継ぐ。

 

「ちょうど、こんな台風の日だったそうだ」

 

 *

 

 ──今から五年前。

 昭和十三年七月二十八日、十三時四七分。

 名古屋飛行場、第二格納庫。

 

 整備員達が忙しなく駆け回る中、奥まった壁隅のソファでは三人の男が出発前の打ち合わせを終えたところだった。

 名古屋飛行場のワッペンを袖につけた男、大村晃はタバコをふかしながら、飛行服に身を包んだ背中に声をかけた。

 

「本当に行くんかぁ?」

 

 格納庫の大きく開いた扉からは湿った南風が吹き込んでいた。大村の背中を叩く風には塩の匂いが混じり、来る嵐を予感させた。

 

「台風だがや。無理に飛ばんでも、一日待っちゃどうかね」

 

 飛行帽を被った痩身の男、鷹森勘吉(たかもりかんきち)は飛行眼鏡を手に答えた。

 

「ウチで娘が待っとるんですよ」

 

 彼の声はいやに落ち着いていた。時折強く吹く風がその言葉をさらっていく。

 

「コイツよ、娘のためにすぐ帰りてぇんだってさ。朝からずっとぼやいてんだよ」

 同じ飛行服に身を包んだ今野均はそう言って、辟易した様子で紫煙を吹いた。その煙もまた、風に煽られてすぐにかき消されていく。

 信号旗が激しくはためき、雨の匂いを帯びた空気が重たく格納庫内に流れ込んできた。

 

「そりゃ、娘が可愛いっつーのは分かるけどよ。……まあ、帰りてえのは俺も一緒だけどな」

 

 今野は煙草を灰皿に押し付けながら、ぼそりと続けた。視線の先では整備員達が黙々と出航準備を進めている。その肩越しに見える空は黒雲に覆われ、今にも雷が落ちそうな気配を漂わせている。

 

「下の倅によ、『今度休みが取れたら、すき焼き食いに連れてけ』ってせがまれてな。『分かったよ』っつって約束した手前、逃げらんねぇっての」

 

「すき焼きか。そりゃいいな」

 

 勘吉が少し笑みを浮かべながら言うと、今野は肩をすくめて、どこか苦々しい表情を浮かべた。

 

「約束しちまった俺が悪ぃんだけんどよ。あんまし家に帰れねぇから、嫁のチヨにも申し訳なくって、なんとか帳尻合わせようって必死になっちまうんだわな。……ほんと、情けねぇ親だよな」

 今野は軽く頭を掻きながら、大村に視線を向けた。その視線の先では、雨粒がコンクリートに小さな斑点模様を描きはじめていた。

 

 風はますます強くなり、信号旗がもぎ取られそうなほどに揺れた。

 その風にあおられて、風速計の針も痙攣するように振れ続けている。

 

 台風の接近に伴い、すでに九州管区や四国管区では飛行禁止命令が出ていた。関東でも民営の羽田飛行場は、早々に滑走場を閉鎖している。

 

 この名古屋でもつい数分前、伊丹発木更津行きの繰り上げ最終便が、行き先を変更して降りてきたばかりだ。機体が引き揚げた滑走場では、作業員たちが黙々とロープを巻き上げ、風速計の数値を読み上げている。

 

「そんでもよお……」

 大村は唸り、懐中時計を取り出して時刻を確認した。

 

 まだ七月の十四時だというのに、外はすでに夕方のように薄暗い。彼は名古屋飛行場の管制部長であり、この空を地上から見守る責任を負う立場だった。

 吹き付ける風に煽られる彼の心中はこの荒天そのものだ。

 

「羽田も閉じたし、立川まで降りられんがや。悪いことは言わんから、今夜は泊まっていったらどうや?」

 

 大村は二人を引き留めようと必死だった。それでも、東海管区から飛行禁止の指示が出ていない以上、出航の可否は操縦士の権限に委ねられる。

 

 大村は、自分に二人を止めることができないことを悔やむように空を睨んで「この調子じゃ、夜にはもっとひどなるやろうなあ」と呟いた。

 

「そんなら、尚更だべ」

 

 大村の呟きを受け流し、支度を整えた勘吉はスカーフを巻いた。それは熟練の飛行士らしい、堂々とした姿だった。

 

「俺たちは北西へ向かうんだがら、台風からはどんどん遠くなんだ」

 

 勘吉の飛行眼鏡を装着する手はどこか機械的で、既に何十回も繰り返してきた動作をなぞるようだった。

 

「そんなに心配すんなや。んだけど、もしもの時は立川に降りますがら、連絡をお願いします」

 

「そりゃあ、まあ、わかったけど……ねえ今野さん」

 大村は不安げな視線を今野に向けた。

 

「だいじだべ。なんつっても驃雲は新鋭機だし、空荷なら台風くらい振り切れんべ」

 

 今野は煙草を吸いながら、ちらりと滑走場に目を向けた。その目にはベテランの無線士らしい冷静な光が宿っていたが、大村にはその奥に隠れた一抹の不安が見て取れた。

 

「それに、"子守りの勘吉"はこんくれぇじゃ落ちねえよ」

 今野は自分に言い聞かせるように呟いた。

 

 ついに整備員が操縦席にかけられた幌を外し、機体はその全貌を表した。

 

驃雲(ひょううん)」は全幅約十五米、全長約十米の軽輸送機で、単発機ながら乗員の他に四人の乗客、または二〇〇(キログラム)の貨物を載せることができる。腹の膨らんだ鱈のような胴体を持ち、高翼単葉の特徴的なシルエットを持つ機体だ。側面に描かれた日の丸の横には、大きくU607と書かれている。

 

 水銀灯に照らされて浮かび上がるその姿は新鋭機の名にふさわしいものだった。だが大村の目には、それがあまりに小さく、どうしても頼りない存在に見えた。

 

「したっけ、そろそろ行ってみっか!」

 勘吉が腰を上げて合羽をまとい、今野もそれに続いた。

 

「宇都宮に着いたら、絶対電話をしてちょうね!」

 

 歩き出した二人の背中へ向けて大村が叫ぶ。

 

「ああ、必ずすっから!」

 勘吉は振り返りもせず答えた。

 

「きっとだぞ! 冗談じゃ済まんがや!」

 

「わがってるよ!」

 

 勘吉は、くだけた敬礼を返して機内に消えた。

 

 *

 

 操縦席へ上がった勘吉は座席帯をきつく締めた。

 

 操縦桿を動かして、素早く動翼の動きを確認する。

 続けて計器盤の電源を入れると、メーターの中に仕込まれた電球がぽっと灯り、操縦席がぼんやりと明るくなった。

 燃料は満タン、準備は万全だ。

 

「始動準備よーし!」

 

 勘吉が声を張り上げる。

 指示を受けた二人の作業員が機体に取りついて、始動用のクランクハンドルを回しはじめた。

 

「始動はじめー!」

 

 スターターが低い唸りをあげて、回転がぐんぐんと上がっていく。タイミングを見極めて、作業員の一人が叫んだ。

「コンターク!」

 

 その声に合わせて勘吉は点火コックを捻った。発動機は白煙を噴き上げて始動し、低く響くドコドコという音が格納庫全体に反響した。

 

「よぉし、さっさと帰んべ!」

 

 勘吉のやる気に溢れた声と軽快な爆音が格納庫に響く。今野は温まった無線機に向けて航路の確認を始めた。

 

「名古屋管制へミヤ607。出航準備よろし。操縦士、鷹森勘吉。無線士、今野均。現在第二格納庫にて暖機中。行程表合わせ願います」

『ミヤ607へ名古屋管制。搭乗員確認よろし。行程表合わせ、どうぞ』

「名古屋管制へミヤ607。当機の目的地は宇都宮飛行場。出航方位ヒトヒトマル。安城航空灯台にてマルロクナナへ転進。通過予定地点は浜松、静岡、沼津、相模原、及び大宮。台風のため、御殿場観測所と立川飛行場への支援要請を願います」

『ミヤ607へ名古屋管制。行程表合わせよろし。御殿場、立川への支援要請を了解。ご安航を』

 管制官は事務的にやり取りを終えた。

 

 数分もしないうちに、格納庫のブザーが鳴り響いた。

 出航掲示板の黄色い回転灯が灯り、反転式表示器がパタパタと音を立てる。

 同時に、ミヤ607号の出航を知らせる電信が、瞬時に宇都宮へと飛んだ。

 

「出航するぞ!」

 勘吉が叫ぶ。

 

 もはや誰もやめようとは言えない中、機体は格納庫からゆっくりと滑り出した。着陸灯や翼端灯といった各種の航空灯が煌々と点り、シルエットが雨の中に浮かび上がる。

 

 暖機もそこそこに滑走場へ向かう驃雲を見送りながら、大村は天候情報の履歴を見返していた。一三時大阪と書かれた紙には「最大風速四〇米毎秒」と記されている。

 

 それを見た大村はすぐに管制塔へ駆け上がった。窓越しに滑走路を見やると、信号旗が水平に近いほどに強く煽られていた。

「本当に行くんか……」

 胸の内で再び呟いた後、大村は懐中時計を握りしめた。大村の胸に不安がせり上がった。今にも声を荒げ、叫びたくなる衝動が走る。

 

 驃雲は滑走路の端でぶるぶると機体を震わせると、排気管から赤い炎を吹き出した。一気に加速した機体は、雨の帳を割くように舞い上がった。

 

「……勘ちゃん、無事に帰ってくれよ……」

 雨霧の向こうへ消えていく尾灯を見つめながら、大村は一人、祈るように呟いた。

 

 *

 

「それが、彼が見た二人の最後の姿だったそうだ」

 ラピアスは、短くなった煙草を皮袋へねじ込んだ。

 

 シプロスは俯いて話を聞いていたが、ぽつりと「それで、飛行機は」と漏らした。

「二日後に、厚木近くの山腹に墜落しているところを発見された。──どちらも、助からなかった」

 

 二人は板張りの階段をゆっくりと上がっていく。もうすぐ屋上だ。

「その後、主要な航空観測所には発動発電機が、我らが学園には立川の位置を示す灯台が設置されたということなのさ」

「なぜ学園に?」

「停電に備えた発電機があるからだろう。そう何日も持つものではないがね」

「そんなものがあったなんて、知りませんでした」

「非常用というやつさ。さあ、ここだ」

 

 ラピアスは屋上へ繋がる扉を開けた。台風特有のじっとりと重い風が吹き込んでくる。

 シプロスは教室棟の屋上に立ち、ドームの存在感に圧倒されていた。分厚いガラスが風を受け、降り出した雨粒がポツポツと当たる音が響いている。

 

 ドームに向かうラピアスの背中を追いかけるように鉄扉をくぐり、シプロスも中へと足を踏み入れた。

「これが、灯台……」

 ドームの中央には、立川に向けて固定された巨大なレンズが鎮座していた。膝を抱えれば中に入れそうな、大きなレンズだ。それは鋳鉄製の支柱に支えられ、簡素ながら堅牢な造りをしていた。

 

「シプロス、そこのブレーカーを上げてくれるか?」

 

 ラピアスが指さしたのは、壁際に取り付けられた制御盤だった。シプロスの顔ほどはありそうな、大きなレバー式のブレーカーがついている。

「わかりました」

 

 シプロスは制御盤に取りついてブレーカーを上げた。回路が繋がると火花が散って、リレーがガチガチと音を立てる。

 

「上がりました!」

 その声と同時に、レンズの中にぼんやりと明かりが灯る。真空管が温まるにつれて、その明かりはどんどんと強くなっていった。

 

 ラピアスは大きなハンドルを回して仰角を微調整した。青白い光の筋が、空の一点を指している。

「ありがとう。これで大丈夫だ」

 ドームの中は、すっかり昼のように明るくなっていた。

 

「これを目印にするのですね」

「ああ、そうだ」ラピアスは力強く答えた。

 

「まあ、こんな中を飛ぶ命知らずは、もういないだろうがな」

 

 シプロスは煌々と灯る灯台を見上げた。

 学園は学校としてだけではなく、空を行く人々の安全も担っているのか。

 

 ──知らなかった。自分たちの学園が、そんな役目を担っていたなんて。

 こんなふうに、私たちも、気づかないうちに誰かを助けているのかもしれない。

 いつのまにか胸を張っていた自分に気づいて、少し照れくさくなりながら屋上をあとにした。

 

 *

 

 台風はますます勢いを増して、ついに暴風警報が発表された。

 

 蹄桜寮の中でもシプロスの部屋がある一号棟とリーベの部屋がある五号棟は南の広場に面している。

 飛来物の危険を避けるため、生徒会は該当する生徒に対し、食堂棟休憩室への事前避難を勧告した。

 

 シプロス達はこれ幸いとカナ、プラムの二人を連れて同じ部屋に入り、ちゃぶ台を囲んで宿題を片付けていた。そしてカナとプラムが寝静まる頃には、二人ともすっかり集中力を失い、お菓子を広げてお喋りに興じていた。

 

「そういえば、マダムの手伝いってなんだったの?」

 リーベがかりんとうを摘みながら問いかけた。

「ああ、あれ? 飛行機のための、灯台を点けに行ったの」

 

 シプロスは、ラピアスから聞いた灯台設置の経緯を手短に話した。

「それで、飛行機に乗る人たちが安全に飛べるようにしたんだって」と、シプロスは受け売りの話を締め括った。

 

 学園にそんな設備があると聞いてリーベは少し驚いた表情を見せたが、それも束の間。かりんとうを齧りながら「飛行士、ねえ」と意味ありげに呟いた。

 シプロスは怪訝な顔をして続きを待った。

 

「確かに格好良いかもしれないけど、結婚相手には向かないのよね」

 

「結婚?」突然の言葉に、シプロスは頓狂な声を上げた。

「あなた、もうお嫁に行くつもりなの?」

 

 シプロスの反応に、リーベは頬を膨らませた。

「いいじゃない。私は卒業したら、家庭に入って穏やかに暮らしたいの」

 

 窓を叩く雨音が一際強まり、二人は一瞬黙った。リーベの言葉を噛みしめるようにしてから、シプロスが口を開いた。

「あなたのことをとやかく言うつもりは無いけど、飛行士が結婚相手に向かないって、どういうこと?」

 

「だってそうじゃなくて?」シプロスの問いに、リーベは語気を強めた。

「飛行士って、家に全然帰ってこないって聞いたわ。それに、空って危険なお仕事なんでしょ? 待つ側になったら、心労ばっかりが溜まりそう」

 

「まあ、それは一理ある話ね」シプロスはしぶしぶ同意した。

「それにしても、卒業したらすぐに結婚だなんて。すぐに理想的な相手が見つかるものかしら?」

 

「そうよねぇ……」

 リーベはため息とともに脱力して、ズルズルとちゃぶ台へ突っ伏した。

 

「あーあ、小説みたいな劇的な出会いが転がり込んで来ないものかしら」

「小説みたいな?」シプロスは眉を上げた。「たとえば?」

 

 その問いに飛びつくように顔を上げたリーベは、目を輝かせながら手を大きく広げて言った。

「たとえば火事の中から助けられるとか、駅のホームでぶつかって手を差し伸べられるとか、そういうの!」

「それこそ夢物語ね」

 シプロスは呆れたように苦笑いを浮かべた。

 

「じゃあ、学園解放日に偶然カフェーで知り合うとか、お出かけした時に偶然隣に座るとか?」

 

「はあ」

 シプロスはますます呆れた。

「現実にそんなことがあるわけないでしょう?」

「でもでも、恋愛結婚なんて、それくらいロマンチックじゃなきゃ嫌よ」

 リーベはむくれながらも口を尖らせて反論した。

「あのねアイリ。ロマンチシストも度が過ぎると、本当にいい人が現れた時に気付けなくなるかもよ」

 

「いいじゃない。夢は見られる時に見ておくものだもの」

 リーベはさらりと流すように言い放ち、再びかりんとうを手に取った。

 

「でも、現実的にはお見合いでもいい人はいるのかもしれないのよね」

「そうそう。きっとそうよ」シプロスは納得したように頷いた。

 

「実際、先輩方の中にも、お見合いで幸せになった方は多いでしょ?」

「そうだ、マダム方はどうだったのかしら」身近にいる既婚者のことを思い出したリーベは目を輝かせた。

 

「マダム・ラピアスのご主人は役場勤めでしょ? それにマダム・タルナの旦那様は国鉄の機関士。一体全体、どうやって知り合ったのかしらね」

 

「それこそ、劇的な出会いでもあったんじゃない?」シプロスは軽く笑った。

「今度、マダムに直接聞いてみたらどう?」

「それもそうね」リーベはくすくすと笑った。

 

 話し込むうちに、夜はますます更けていく。窓の外では、相変わらず雨が激しく降り続いていた。窓枠がわずかに震え、ちゃぶ台の脚を通じて雷の振動が伝わってくる。

 

 ちゃぶ台の上には、かりんとうの袋と湯気の立つ茶碗が置かれていた。油の甘い匂いが漂い、二人の笑い声が雨音の中にぽつぽつと落ちた。




次回、空の縁で
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