空の縁で
カチリ——指先に軽い抵抗を感じながら、
「宇都宮管制へミヤ9024。「試作
スイッチを離すと、すぐにザリッというノイズが船崎の耳を打った。
『ミヤ9024へ宇都宮管制。搭乗員確認完了。「試作
管制官の声は淡々としていた。それはどこまでも型通りで、儀礼的で、そして何度も危機を未然に防いできた。
「宇都宮管制へミヤ9024。出航方位ヒトハチマル。目標は横須賀航空観測所。その後は横須賀造船所上空にて方位マルマルヨンへ転針。大宮航空灯台にて那須電波標識を受信、宇都宮へ帰投の予定」
『ミヤ9024へ宇都宮管制。行程表合わせよろし。西滑走場より出航せよ』
「宇都宮管制へミヤ9024。西滑走場より出航する」
言い終えると、船崎は慣れた手つきで機内電話のダイヤルを回した。
「坂井、終わったぞ」
前席に座る
飛行帽の下から覗く短く刈り揃えた茶髪が、陽光にわずかに赤みを帯びる。
宇都宮航空研究所に所属する彼は、国選一級操縦士の資格を持つテストパイロットだ。それは同時に、彼が国内でも十本の指に入る技量を持つことを意味している。二三歳という若い翼に奉られた"凧揚げ坂井”の異名に憧れて、他管区の若い操縦士までもが研修に訪れるほどに、名の通った人物だ。
そんな経験と自信に裏打ちされた細い目に、冴えた光が宿った。
引き締まった肩越しに、軽く頬を叩いて気合を入れる。額の汗を拭って、大きな飛行眼鏡を装着した。その顔には、挑戦を楽しむような笑みが浮かんでいた。
「したら、行ってみっか」
試作機を示す橙色の塗装が、燦々と降り注ぐ陽光を浴びて眩しく反射している。複葉の大きな翼はコンクリートの床に影を作っていた。機体表面には細かなリベットが並び、陽の角度によって幾筋もの光の線が走るように見えた。
青々とした芝を湛える滑走場の向こう、低く漂う夏の雲はゆるやかに形を変えて流れていく。風は弱く、空気は澄んでいた。
「飛行前点検。燃料ロクマル、吸気圧力よし。スロットル、チェック」
開放型の操縦席に熱い風が流れ込んで、飛行帽の耳当てが風に膨らんだ。
星形エンジン特有の規則的な爆音の中に、一度だけ不穏な音が混じった。回転計の針がぴくりと跳ね、坂井の片眉が上がる。
「ちっ……ちゃんと整備したのかよ」
微妙な感触を覚えた坂井は、迷わずに無線機の送信スイッチを押した。
「指揮所へ。坂井です」
『こちら指揮所。どうした?』
返ってきたのは、落ち着いた女性の声だった。
北村・L・カリュオン。試験課の課長で、『
「異常ってほどじゃないんですが、ちょっと吹け上がりが悪いんです。何処か弄りました?」
『いや、通常の点検だけだ。もう一度、ふかしてみろ』
「了解」
坂井は
『そのエンジンは
しばらく回していたら直った──ということは、暖機が足りなかったか。
杞憂だ、と坂井は自分を納得させようとした。目を閉じ、深く息を吸う。
もう一度計器盤を見る。やはり、回転計はすっかり大人しくなっていた。それでも、坂井の不安は拭いきれない。まるで、小骨がひっかっているような違和感が背筋を滑る。
…………やめるか。行くか。
どこへ行くのか、どう飛ぶのか、異常にどう対処するのか。そのすべてを自分で判断しなければならない、という点において、飛行機乗りと船乗りは似ている。一度港を離れてしまえば、その責任はすべて船長にあるのだ。
もう一度押し込んで、発動機の反応を探る。排気が短く噴き出し、プロペラの風が機首を抜けて後方へ流れた。振動が座席を伝い、骨にまで響いた。
──いけそうだ。
坂井は出航を決断した。
「続行します。でも、上がってヤバそうなら、すぐに戻りますよ」
『了解した。宇都宮管制へ指揮所。ミヤ9024の出航は続行』
『指揮所へ宇都宮管制。出航作業を続行します』
坂井は「……ま、中古のエンジンなら、こんなもんだろ」と自嘲気味に呟いた。どんな些細なことでも確認を怠ってはならない──それが操縦士の責務だ。
「すまん、続けてくれ」
呼び出されるまでの間、船崎はじっと待っていた。複座機の後席とは、ただの座席ではない。命を共にする場所だ。
そして船崎は「いいってことよ」と、軽く答えた。
宇都宮に配属されて三年。二人の間には、まさに阿吽と言うべき呼吸があった。
「離陸手順続行、輪止め外せ」
船崎の合図とともに、白いツナギの地上員が輪止めを外す。坂井も飛行前の最終確認に余念がない。
「筒温正常。油圧フタコンマナナ、暖機よろし。出航準備、完了だ」
その言葉に、船崎が即座に応じる。
「宇都宮管制へミヤ9024。出航準備よろし」
『ミヤ9024へ宇都宮管制。出航を許可します』
管制官の返答と同時に、ジリジリというベルの音が格納庫に響く。梁に付けられた緑色のランプが、ぱっと灯った。
「さあ、よろしく頼むぜ。凧揚げ坂井さんよ」
「任せな。こんなの、お気楽なピクニックだ」
冗談めかした声とは裏腹に、坂井の指は慎重に瓦斯槓杆を押し込む。
プロペラが空を切り裂き、排気音が耳に突き刺さるほどの轟音となる。滑走場へ出た機体は、すぐに発動機を全開にして加速を始めた。地上の熱気が排気に揺らぎ、陽炎のように風景が歪んで見える。
力を込めて操縦桿を引く。
芝の上を走る振動が消えて、発動機の規則的な爆音だけが聴覚を支配した。機体は凧のようにふわりと浮かび上がり、バックミラーの中で飛行場がぐんぐんと小さくなってゆく。
右手には、宇都宮の市街地が見えた。汽車の煙が、ゆったりと空へ昇っていく様子が見える。
視界の先では、青空がどこまでも広がっていた。
空気は澄み、風は穏やか。気流も安定しているように見える。
坂井の違和感を翼に乗せて、橙色の機体は夏の空へと溶けていった。
次回、昭和十八年七月二七日