蹄音、高く   作:上條つかさ

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本編②
空の縁で


 カチリ——指先に軽い抵抗を感じながら、船崎広(ふなさきひろし)がスイッチを押し込む。無線機の送信灯がわずかに灯り、ヘッドセット越しに微かなホワイトノイズが耳に滲んだ。

 

「宇都宮管制へミヤ9024。「試作騂風(せいふう)」第二回試験飛行、搭乗員準備完了。操縦士、坂井東一。無線士、船崎広。第八格納庫にて暖機中。行程表合わせ願います」

 

 スイッチを離すと、すぐにザリッというノイズが船崎の耳を打った。

 

『ミヤ9024へ宇都宮管制。搭乗員確認完了。「試作騂風(せいふう)」第二回試験飛行、行程表合わせ、どうぞ』

 

 管制官の声は淡々としていた。それはどこまでも型通りで、儀礼的で、そして何度も危機を未然に防いできた。

 

「宇都宮管制へミヤ9024。出航方位ヒトハチマル。目標は横須賀航空観測所。その後は横須賀造船所上空にて方位マルマルヨンへ転針。大宮航空灯台にて那須電波標識を受信、宇都宮へ帰投の予定」

 

『ミヤ9024へ宇都宮管制。行程表合わせよろし。西滑走場より出航せよ』

 

「宇都宮管制へミヤ9024。西滑走場より出航する」

 

 言い終えると、船崎は慣れた手つきで機内電話のダイヤルを回した。

 

「坂井、終わったぞ」

 

 前席に座る坂井東一(さかいとういち)が、呼びかけに応えて顔を上げた。

 飛行帽の下から覗く短く刈り揃えた茶髪が、陽光にわずかに赤みを帯びる。

 

 宇都宮航空研究所に所属する彼は、国選一級操縦士の資格を持つテストパイロットだ。それは同時に、彼が国内でも十本の指に入る技量を持つことを意味している。二三歳という若い翼に奉られた"凧揚げ坂井”の異名に憧れて、他管区の若い操縦士までもが研修に訪れるほどに、名の通った人物だ。

 

 そんな経験と自信に裏打ちされた細い目に、冴えた光が宿った。

 引き締まった肩越しに、軽く頬を叩いて気合を入れる。額の汗を拭って、大きな飛行眼鏡を装着した。その顔には、挑戦を楽しむような笑みが浮かんでいた。

 

「したら、行ってみっか」

 試作機を示す橙色の塗装が、燦々と降り注ぐ陽光を浴びて眩しく反射している。複葉の大きな翼はコンクリートの床に影を作っていた。機体表面には細かなリベットが並び、陽の角度によって幾筋もの光の線が走るように見えた。

 

 青々とした芝を湛える滑走場の向こう、低く漂う夏の雲はゆるやかに形を変えて流れていく。風は弱く、空気は澄んでいた。

 

「飛行前点検。燃料ロクマル、吸気圧力よし。スロットル、チェック」

 

 瓦斯槓杆(スロットル)をじわりと開く。機首がわずかに震え、プロペラが回転を速めるにつれて、低いうなりが機体を包んだ。

 開放型の操縦席に熱い風が流れ込んで、飛行帽の耳当てが風に膨らんだ。

 

 星形エンジン特有の規則的な爆音の中に、一度だけ不穏な音が混じった。回転計の針がぴくりと跳ね、坂井の片眉が上がる。

 

「ちっ……ちゃんと整備したのかよ」

 

 微妙な感触を覚えた坂井は、迷わずに無線機の送信スイッチを押した。

 

「指揮所へ。坂井です」

 

『こちら指揮所。どうした?』

 

 返ってきたのは、落ち着いた女性の声だった。

 北村・L・カリュオン。試験課の課長で、『騂風(せいふう)』を設計した張本人。そして坂井と同じ一級操縦士でもある。彼女ほど技術と現場、どちらにも通じている相手はそういなかった。

 

「異常ってほどじゃないんですが、ちょっと吹け上がりが悪いんです。何処か弄りました?」

 

『いや、通常の点検だけだ。もう一度、ふかしてみろ』

 

「了解」

 

 坂井は高空槓杆(ミクスチャ)を微調整し、再度瓦斯槓杆(スロットル)を少しだけ押し込んだ。機体が応えるように振動し、回転計の針はぴたりと安定した。

 

『そのエンジンは精密点検(オーバーホール)から三ヶ月だ。異常があるなら中止するか?』

 

 しばらく回していたら直った──ということは、暖機が足りなかったか。

 杞憂だ、と坂井は自分を納得させようとした。目を閉じ、深く息を吸う。

 

 もう一度計器盤を見る。やはり、回転計はすっかり大人しくなっていた。それでも、坂井の不安は拭いきれない。まるで、小骨がひっかっているような違和感が背筋を滑る。

 

 …………やめるか。行くか。

 

 どこへ行くのか、どう飛ぶのか、異常にどう対処するのか。そのすべてを自分で判断しなければならない、という点において、飛行機乗りと船乗りは似ている。一度港を離れてしまえば、その責任はすべて船長にあるのだ。

 

 瓦斯槓杆(スロットル)を離れた坂井の左手が宙を彷徨った。それから、迷いの跡を一切残さぬ手付きで、再び握り直す。

 

 もう一度押し込んで、発動機の反応を探る。排気が短く噴き出し、プロペラの風が機首を抜けて後方へ流れた。振動が座席を伝い、骨にまで響いた。

 

 ──いけそうだ。

 坂井は出航を決断した。

 

「続行します。でも、上がってヤバそうなら、すぐに戻りますよ」

 

『了解した。宇都宮管制へ指揮所。ミヤ9024の出航は続行』

 

『指揮所へ宇都宮管制。出航作業を続行します』

 

 坂井は「……ま、中古のエンジンなら、こんなもんだろ」と自嘲気味に呟いた。どんな些細なことでも確認を怠ってはならない──それが操縦士の責務だ。

 

「すまん、続けてくれ」

 呼び出されるまでの間、船崎はじっと待っていた。複座機の後席とは、ただの座席ではない。命を共にする場所だ。

 

 そして船崎は「いいってことよ」と、軽く答えた。

 宇都宮に配属されて三年。二人の間には、まさに阿吽と言うべき呼吸があった。

 

「離陸手順続行、輪止め外せ」

 

 船崎の合図とともに、白いツナギの地上員が輪止めを外す。坂井も飛行前の最終確認に余念がない。

「筒温正常。油圧フタコンマナナ、暖機よろし。出航準備、完了だ」

 

 その言葉に、船崎が即座に応じる。

「宇都宮管制へミヤ9024。出航準備よろし」

 

『ミヤ9024へ宇都宮管制。出航を許可します』

 

 管制官の返答と同時に、ジリジリというベルの音が格納庫に響く。梁に付けられた緑色のランプが、ぱっと灯った。

 

「さあ、よろしく頼むぜ。凧揚げ坂井さんよ」

「任せな。こんなの、お気楽なピクニックだ」

 

 冗談めかした声とは裏腹に、坂井の指は慎重に瓦斯槓杆を押し込む。

 

 プロペラが空を切り裂き、排気音が耳に突き刺さるほどの轟音となる。滑走場へ出た機体は、すぐに発動機を全開にして加速を始めた。地上の熱気が排気に揺らぎ、陽炎のように風景が歪んで見える。

 

 力を込めて操縦桿を引く。

 芝の上を走る振動が消えて、発動機の規則的な爆音だけが聴覚を支配した。機体は凧のようにふわりと浮かび上がり、バックミラーの中で飛行場がぐんぐんと小さくなってゆく。

 

 右手には、宇都宮の市街地が見えた。汽車の煙が、ゆったりと空へ昇っていく様子が見える。

 

 視界の先では、青空がどこまでも広がっていた。

 空気は澄み、風は穏やか。気流も安定しているように見える。

 

 坂井の違和感を翼に乗せて、橙色の機体は夏の空へと溶けていった。




次回、昭和十八年七月二七日
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