蹄音、高く   作:上條つかさ

18 / 38
俺は空が好きだ。
透き通った、高い空が好きだ。
風に乗ると、どこまでも遠くまで行ける気がする。
人間にとって、空だけは、まだ自由な世界なんだ。


昭和十八年七月二七日

 青空に不似合いな爆音を響かせて、橙色の飛行機がよたよたと飛んでいた。

 白い雲を曳いたそれは、時折黒い煙を吐きながら、少しずつ高度を下げていた。

 

 操縦席に座る坂井東一は、床に開けられた小窓を覗き込んで川を渡る線路を見つけた。辿った先に見つけた駅の屋根には、平仮名が書いてある。

 

「たまがわ……てことは、あれが目黒線か」

 すぐに左腿につけられた地図と照らし合わせ、距離を暗算する。

「立川まで十五浬(二七キロメートル)。ギリギリだな」

 

 坂井は焼けたオイルの煙越しに計器盤を確認した。高度はおよそ四五〇〇英尺(一四〇〇メートル)。この調子なら、なんとか辿り着けるはずだ。

 

 坂井は、機内電話のスイッチが入っていることを確かめて呼びかけた。

「おい、もう少しだぞ。船崎」

 すると、後席の船崎広が不安そうに「おう」と答える。

 

 彼は坂井と同じ一級操縦士でありながら、優秀な無線士でもある。坂井が位置を確認している間も、無線機に齧り付いて耳を澄ましていた。

 

「立川とは話がついたけど、大丈夫なのかよ?」

 

 不安の滲む声がヘッドホンを震わせる。するとそれを煽るように、発動機がゴホゴホと咳き込んだ。

 

 機体が上下に揺れて、飛び散ったオイルが風防を汚していく。

 

「大丈夫、まだいけるさ」

 坂井は眉間に汗を光らせていた。

 

 操縦席計器盤の中央に据えられた燃料計は二つ。そのうちひとつはゼロを差していて、もうひとつも三分の一を割っている。

 坂井は立川までの一五浬だけでなく、失速せずに着陸するための速力を出せるだけの燃料を残すように操縦しなければならない。

 

 上司のカリュオンは、この機体を設計しただけでなく、優秀な操縦士でもある。みすみす墜落などさせようものなら、同じ操縦士としても顔向けができない。坂井は頭を振って邪念を払った。

 

 とにかく、あと十五分保たせればいい。立川の芝が見えれば、俺たちの勝ちだ。

 坂井は計器盤を小突いた。頼むぜ騂風(せいふう)。俺たちには、お前だけが命綱なんだ。

 

「よおし、あと一五浬だ。状況を確認するぞ」

 着陸へむけて、坂井は情報を整理することにした。

「後席、よし」

 

「現在位置、和泉多摩川駅西方。高度四四〇〇英尺(一三四〇メートル)。機首方位三〇〇、速度六三節(時速一一七キロメートル)。燃料ヒトマル。吸気圧力正常。潤滑油圧力ゼロコンマヒト」

 

 坂井の読み上げに船崎が続く。

「無線機、各電圧よし。蓄電池電圧よし。帰投方位指示器(ADF)、立川飛行場からの誘導は感度良好」

「了解だ」

 

 こうして改めて状況を洗い出すと、意外と悪くはない──坂井はそう自分に言い聞かせた。

 立川飛行場はすでに受け入れ体制を整えているし、眼下に見える景色はほとんどが田畑だ。いざとなれば不時着もできる。唯一、懸念点となりえるのは、国鉄国分寺駅付近の住宅街だけだろう。

 

「船崎、潤滑油の加圧を頼む」

 坂井は潤滑油の圧力を上げるように指示を出した。いわゆるエンジンオイルと呼ばれるこれがなければ、シリンダーが焼き付いて一巻の終わりだ。

 

「任せな」船崎は簡潔に答えた。

「頑張れ。こいつは持って帰るぞ」

「"凧揚げ坂井"のあだ名、俺はアテにしてるぜ」

 

 半ば自分に向けた呼びかけに、船崎はいつもの軽口で答えた。その声に気持ちを落ち着かせた坂井は顔を上げて、油で滑る操縦桿を再び握りしめた。

 

 *

 

 ──事故が起きたのは、宇都宮を飛び立ってから一時間ほど経った頃。

 二人の目的地は横須賀造船所。しかし根岸湾上空に差しかかったあたりで、発動機が突然、異常な振動を始めた。坂井の巧みな操縦で墜落は免れたものの、故障したエンジンは白煙を吹き、燃料計の針はみる間に沈んでいった。

 

 通報を受けて、東京湾の反対側にある木更津飛行場が緊急着陸を提案した。しかし坂井は、東京湾を跨ぐことも、迂回して人口密集地を飛ぶことも危険と判断した。至近には羽田飛行場もあったが、民間飛行場には、試験機の緊急着陸を受け入れる態勢はない。

 

 こうして、9024号は次に近い立川飛行場を目指し、多摩川に沿う進路を取ったのだった。

 

 不穏な振動が続く操縦席で、坂井は白煙に霞む計器盤から筒温計の白い針を睨みつけた。それは危険な温度であることを示す黄色を指していて、隣の潤滑油圧力計は力なくゼロを指したままだ。ゴーグルの縁から染み込んだ汗が、少しずつ坂井の視界を曇らせていた。

 

「おい、筒温が高いぞ。アブラもっと送れ」

「やってるって!」

 

 船崎が操縦席のバックミラーへむけて拳を振り上げて抗議する。

 まるで俺に怒っているのかと言いたげに、再びぐずり出したエンジンが機体を揺さぶった。

 カウリングから噴き出す煙が一層強くなって、焦げた油の臭いがスカーフを突き抜けて船崎の鼻をついた。

 

「げほっごほっ! 畜生、この臭いは、中も何かぶっ壊れやがったな」

 船崎の声に焦りが滲む。

「坂井、なんとかしないと本当にヤバいぞ!」

 

 後席の船崎からは、前方どころか坂井の背中すら見えない。彼のすぐ前には方向探知アンテナがあり、視界を完全に遮っている。

 制御盤は無線機の操作系で一杯で、発動機の状態を示す計器は何も付けられていない。額を拭うと、手袋の甲が脂汗でじっとりと濡れた。

 

「まだ速力はある。落ち着いて対処しろ」

 坂井は船崎を宥めながら、冷静な手つきで手動の燃料ポンプを押し込んでいた。するとバンッバンッと発動機の回転が戻る音がした。

 それに合わせるように筒温計の針が持ち上がって、ついに危険を示す赤色に届いた。

 

 坂井は短く頷いた。

「仕方ない、出力を落とすか」

 

 坂井は高空槓杆(ミクスチャ)を引いて噴射される燃料を減らした。これで、もう少しだけ発動機を騙せるはずだ。

 

「国鉄を越えれば立川はすぐそこだ。がんばれ」

「泥まみれよりはマシか。くそっ」

 

 坂井に励まされて、船崎は必死でポンプを漕いだ。それでも油圧計はぴくりとも動かない。

 

「圧力来ないぞ!」

「だめだ! どこかで圧が抜けちまってるよ!」

 船崎はお手上げとばかりに両手を挙げてみせた。機内電話に乗って坂井の舌打ちが響く。

 

「なあ坂井、姐さんだってわかってくれるさ」船崎はすっかり元気をなくした声で言った。

「このままじゃ国分寺までだって保たないぞ。住宅地に入る前に……」

 

「待て」何かに気づいた坂井が声を上げる。

「一一時下方に建物群」

「なんだよ、このクソ忙しい時に」

 そうぼやきながら、船崎は座席帯を外し、椅子に乗って双眼鏡を覗き込んだ。

 

 眼下には、塀に囲まれた敷地が広がっていた。西洋風の洒落た建物を中心に、木造の建物が立ち並んでいる。東側には丁寧に刈り込まれた芝のコースがあって、そこにはぽつぽつと人影も見えた。

 

「ありゃあ、学校か」

 双眼鏡を手に、船崎が問う。

「そうらしいな」

 

 あれが府中ウマ娘修練学園──日本の未来を担うウマ娘が集う場所だ。つまり、もし堕ちれば二千人の命が危険に晒される。そんなことは絶対に許されない。

 

「だめだ。学校があるなら、機体は放棄しない」

 坂井は船崎の提案を却下した。

「何かあったらどうする」

「だからって、このままじゃエンジンが爆発するぞ!」

 

 船崎の言うことももっともだ。坂井は唸り、少しでも安全に飛び続ける方法を考えた。

 

「わかった。なら、もう少し高度を稼いでおこう」

 そう言って操縦桿を引き、機首上げを試みた。

 

 瓦斯槓杆(スロットル)を慎重に開く。しかし回転計の針が振れた瞬間、発動機はボゴボゴと音を立てて暴れ出した。

 

「くそっ!」

 機首ががくんと下がり、機体が前のめりにバランスを崩す。

「うわぁぁぁ!」突然の挙動に振り回された船崎が悲鳴を上げる。

 

「この、いうこと聞け!」

 坂井が足操稈(ラダー)を踏み込む。機体は左右に大きく振り回されて、水平儀が暴れ狂った。

 

 姿勢が崩れれば速度も失う。機体は一気に失速寸前になった。

 

 やっとの思いで立て直し、燃料計を一瞥した坂井は舌打ちした。その針がついにゼロにかかって、もう増速はできない。立川を目前にして、諦めるしかなくなった。

 

「だめか……」

 坂井は大きく息を吐いた。

 

 二人は、学園の北側にある貨物駅の上を通り過ぎていた。

 再び頭を出して辺りを見渡す。学園の東側は畑ばかりで、人家は見当たらない。降ろすなら、あのあたりだろう。

 

「燃料が切れた。仕方ないが降ろすぞ」

「やっとか。着陸手順はじめ。航行灯、全て点灯」

 船崎が計器盤を操作すると、機体の各所につけられた電灯が煌々と灯る。

 

 その間に坂井は機体を風に立てるように機首をめぐらせて、学園沿いの畑に降りられるように進路を取った。高度は二千英尺(六〇〇メートル)、そろそろ限界だ。

 

「救難煙弾と立川への無電だ。現在位置は……府中駅の北」

「わかった。救難煙弾を撃つ」

 指示を受けて、船崎はホルスターからベークライト製の信号銃を抜いた。

 

 安全ピンを抜いて撃鉄を起こし、空へ向けて引き金を引く。

 煙弾は空へと弾け、赤い煙が三つ、遠くに滲んだ。

 

 煙弾の炸裂を確認した船崎は、緊急周波数にしたままの無電に取り付いて発信スイッチを押した。

 

「立川管制へミヤ9024。燃料切れのため不時着する。現在位置は府中駅の北。ミヤ9024、燃料切れだ。不時着する」

 

 少し間が空いて、無線機からノイズ混じりの声が聞こえてきた。

 

『ミヤ9024へ立川管制。至急、救援を手配する』

 

 返信を聞いて、船崎は大きく息を吐いた。宇都宮にもすぐに連絡が行くだろう。後はどれだけ怪我をせずに降りられるか、それだけだ。

 

 顔を出すと、地表はかなり近くなっていた。これからあの畑に降りると思うと肝が冷える思いがする。耕されたばかりの柔らかい畑でも、不時着となれば衝撃で死ぬことはざらにある。

 

 船崎は冷や汗を拭った。そして座席帯を確認しようとした時、坂井の声が耳を打った。

 

「よし船崎。お前は、ここで降りろ」

 

 まさかの言葉をかけられた船崎は耳を疑って「なんつった⁉︎」と聞き返した。

 坂井は落ち着いた調子で「俺は『降りろ』と言ったんだ」と繰り返した。

 

「冗談じゃねえ‼︎コイツで降りるんじゃないのかよ‼︎」

 船崎は制御盤を叩いて声を荒げた。ここまで来て自分だけ逃げろというのか。

「降ろすだけなら俺がいればいい。急げ」坂井は強く急かした。

 

 落下傘の最低使用高度は一〇〇〇英尺(三〇〇メートル)。脱出するなら、これが最後のチャンスだ。

 

「けどよぉ!」

「軽い方がいいんだ。今なら間に合うからさっさと飛べ!」

 

 坂井が叫んだ時、爆発したのではないかと思わせるほどの揺れが機体を襲い、二人は座席に叩きつけられた。

 

 襲い来る黒煙に頭を引っ込めた船崎の脳裏を、姉の顔が過ぎった。飛行機事故で夫を亡くした姉を残して、自分まで死ぬわけにはいかない。しかしこの坂井東一は、船崎が命を預けるに値する男であることもまた確かだ。

 

 脱出して一人生き残るか、仲良く不時着に生死を賭けるか。肉親を守るという決意と、同僚と共に飛ぶことの矜持とがせめぎ合う。船崎は腿に拳を打ちつけて唸った。

 

「ああっ畜生! 後席、脱出する!」

 観念した船崎は、ゴーグルをきつく締めなおした。

 

 そして彼は、最後まで坂井を守ることを忘れなかった。

「非常着陸手順、ヒューズを破棄!」

 

 右下につけられた赤い梃子を引く。主電源につけられたヒューズがパキンと音を立てて割れて、制御盤の明かりが一斉に落ちた。これで、坂井がしくじっても火が出ることはない。

 

 ──そして、坂井が何かを伝えようとしても、もはや船崎の耳には届かない。

 

 船崎はヘッドホンのプラグを引き抜き、座席帯を外した。椅子へ上がると、白煙に燻された前席で坂井が操縦桿と格闘している姿が見えた。あの様子では坂井が脱出することはほぼ不可能。降りるまでに発動機が爆発すれば即お陀仏。不時着には、それこそ神仏の加護を祈るしかない。

 

「おい坂井! 何でもいいけど、テメェ死ぬんじゃねえぞ!」

 そう叫んだ船崎は機胴に足をかけ、勢いをつけて飛び出した。

 

 橙色の翼が鼻先を掠める。垂直尾翼に描かれた白丸に雷の文字──坂井のパーソナルマークが、やけにゆっくりと通り過ぎるように感じた。

 

 一瞬の後、風の中に落ちた浮遊感と共に、地表の景色が一気に迫ってきた。

 去ってゆく橙色の翼を見送りながら、船崎は落下傘の展開紐を力いっぱいに引いた。

 

 *

 

 船崎の落下傘をバックミラーに捉えてから、坂井は「死んでたまるかよ」と独りごちた。

 地表はもうだいぶ近い。着地に備えて座席帯を直そうと身を捩った時、ついに発動機がぱんぱんと情けない音を立てて止まってしまった。

 

 だが、燃料切れか発動機の寿命かは、坂井にはもはやどうでも良かった。

 今はただ、真っ逆さまに墜落することを避けるだけだ。

 

 とはいっても、揚力の大きい複葉機は発動機が止まってもしばらくは滑空していられる。機体が姿勢を崩さないように慎重に顔を出すと、学園の塀に沿って幅四〇〇米はありそうな畑が広がっていた。その中に、背の高い草が茂っている一角がある。

 

 あれは多分、休耕地だ。しかも南側は耕されていて、長さはゆうに一〇〇〇米はありそうだ。よく見えないが、ここから安全に降りられて、かつ人が居なさそうなところはあそこしかない。操縦桿を押して一気に機首を下げると、わずかに機速が上がって機体が安定を取り戻す。

 

 このまま機体ごと草を押し潰して、どうにか尻餅をついて止める。それが坂井の賭けだった。

 

 木金混合の胴体は、着地の衝撃で真ん中から真っ二つになるだろう。それでも、柔らかい畑に足を取られて宙返りをするリスクを負うより、生き残る確率ははるかに高い。船崎がまごまごしていたら、2人仲良くヘッドスライディングをする羽目になっていたところだ。

 

 危険だが、この状況ならチャンスは一回あれば充分だ。

 

 地上が一気に迫って、坂井は操縦桿をぐっと引いた。機首が起きると、背の高い草がべしべしと機胴に当たる音がし始めた。

 

「くそっ……軽すぎる」

 

 坂井は舌打ちした。燃料を無くして軽くなった機体が地面効果を受け、勝手に浮かび上がろうとしている。草をかき分けながら突き進んでいくと、突然視界が晴れた。

 

「しまっ──!」

 

 咄嗟に顔を上げた先に、掘り返されたばかりの土と、背を向けて逃げる二人のウマ娘が見えた。

 前をゆく栗毛の少女が、振り返って目が合った、──気がした。

 

「──避けろっ!」

 坂井は足踏桿を左一杯に蹴り込んだ。機首がぐっと左を向いて、つられて機首が下がった。

 

「上がれぇぇ!」

 坂井は全力で操縦桿を引く。しかし、間に合わなかった。

 

 車輪が畝に引っかかってあっさりと折れ、機胴が地面に叩きつけられる激しい衝撃が彼を襲った。

 メキメキという音とともに胴体が爆ぜ、その破片が飛行服を切り裂いていく。

 機体は土を蹴散らしながら畑を滑り、腐葉土の山に頭から突っ込んで逆立ちになった。白煙の立ちこめる操縦席で、坂井は座席帯に吊るされていた。

 

 *

 

「……げほっ」

 激痛に目を開けると、視界が赤く染まっていた。焦点が合わないのは頭を打ったからだろうか。脱出しようと身体を動かそうとしても、右腕の感覚がない。口の中も、血の味でいっぱいだ。

 

 まだ生きているらしい。そう気がつくまで、だいぶかかった気がする。

 

 まあ、こんな落ち方をしては助からないだろう。

 次第に痛みが鈍くなって、意識が遠のいていく。

 

 目を閉じた坂井は、最後に見た光景を思い出していた。

 

 ああ、あの娘達には怖い思いをさせてしまった。

 

 けど、たぶん二人とも無事だろう。

 

 ……そうだ、悪いな船崎。

 

 約束、破っちまった⸻

 

 *

 

「あーあ、安請け合いするんじゃなかった」

 麦わら帽子のつばを指で押さえながら、シプロスはぼやくように言った。腕の動きに合わせて鎌の刃が鋭く光る。刈られた草が地面へと舞い落ち、汗に濡れた彼女の頬にまとわりついた。

 団子に丸めた髪にまで汗が染み込んで、頭がじっとりと重くなっている。

 

「だいたい、なんで私の背丈より大きくなるまで草を放っておいたの?」

「たまにはいいじゃない。タダ働きじゃないんだし」

 リーベは根の深くまで食い込んだ雑草をスコップの刃先でえぐるように掘り返した。湿った土の香りが鼻をくすぐる。

 

 ──ここは学園の東に広がる菜園区。南北一三〇〇米、東西四〇〇米にわたる土地は東京農業研究所の試験農場で、その収穫品は生徒たちの胃袋を支えている。二人は、新たに品種改良された人参の畑作りのため、北側にある休耕地の草刈りを任されていた。

 

「タダ働きじゃないって、一番風呂二回じゃ割に合わないわよ、こんなの」

 シプロスは運動服の袖で汗を拭った。手套には草の汁が染み込んで、べったりと重くなっている。

「ぼやかないの。それに、私は農家育ちだから、こういうのも結構好きよ」

 快活に土を掘り返すリーベを見て、シプロスはため息をついた。

「あなたはなんでもポジティブねえ……んんん、腰が痛くなっちゃう」

 シプロスはうめき声を上げながら背中を伸ばし、大きく伸びをする。陽を浴びた空は真っ青で、遠くの山並みがかすんで見えた。

 

「自習室にこもって針仕事しているより健康的でしょ? さあさ、どんどん刈らないと、夕飯までに終わらないわよ」

 リーベがパンと手を叩いて促すと、シプロスはしぶしぶと鎌を手に取った。

 

「やらないと終わらないものね……よっと」

 シプロスは再びしゃがみ込み、鎌を草の根元に押し当てた。ザクザクと心地よい音を立てながら、長く伸びた草を刈っていく。

 

 ふと、どこからか不規則なエンジンの音が聞こえてきた。

 シプロスは、手を止めて耳を澄ませた。彼女の知るエンジンの音とは違う、どこか咳き込むような、不安定な響きが空を震わせている。

 

 立ち上がったシプロスは耳を巡らして、音のする方を指さした。青い空の中に、黒い粒かゆらゆらとこっちへ向かってくる。

「アイリ。あれ、何かしら」

「……あれは、飛行機……よね?」

 リーベも手をかざし、眩しさに目を細めながら機影を捉えた。

 

「たぶん」

「なんだか、ふらふらしているように見えない?」

 

 飛行機は空の中を不安定に漂いながら、白い煙を曳いていた。

「ねえ。あの飛行機、煙を吹いていない?」

 リーベが不安そうな目を向ける。

「自動車だって煙を出すじゃない。きっとそれよ」と、シプロスはわからないなりに答えた。

 とはいえ、飛行機を滅多に見かけない二人にとって、あの機体に何が起きているのかを正確に判断する術はない。

 

 次第に影が大きくなると、飛行機は艶のある橙色をしていることがわかった。

「綺麗なオレンジ色。あんな色の飛行機、初めて見た」

 シプロスが知る飛行機は、白か濃い緑色に塗られたものばかりだった。当然、橙色の機体が試作機を示すことなど、二人が知るはずもない。

 

「ずんぐりしていて、みかんのアイスキャンディみたいね。おいしそう」

 陽に透ける橙色の翼が、頭上をゆっくりと通り過ぎていく。翼の日の丸や、脚の車輪までがはっきりと見えた。

 

「綺麗ね」

 リーベが、機体が引く一筋の雲に見とれていた。そのとき——。

 

 突然、飛行機が姿勢を崩した。

「……あらっ」

 ガボガボと、まるで飲み込んだ水を吐き出すような音がする。機体が激しく揺れている様子が、地上からでもわかった。

 

「まさか、落っこちてきたりしないわよね」

 リーベの声に不安が滲む。

「もしかすると、どこか壊れているのじゃないかしら」

 言ってみたものの、シプロスにも確証はなかった。

 

 そうこうしているうちに、黒い点になるまで遠ざかっていた飛行機が、急に右へ向きを変えはじめた。次の瞬間——。

 ボンッ、ボンッ、ボンッ!

 飛行機の背後に、赤い煙が弾けるように上がった。

 

「やっぱり!」リーベが怯えた声でシプロスの肩を掴む。

「あの飛行機、落っこちちゃうんだわ!」

 

「待ってアイリ、あれ見て!」

 シプロスが指さした先で、飛行機から黒いものが落ちた。すぐに空中に白い花が咲き、ゆっくりと畑の中へと消えていく。

 

「……今の、何?」

 二人は顔を見合わせた。

「落下傘、だっけ」

 シプロスが答える。

「落下傘? なら、乗っている人は逃げたのよね?」

「多分、そうだと思う」

 

 操縦士が逃げた──なら、飛行機はどうなったの? シプロスは辺りを見回す。耳を澄ませると、エンジンの爆音がすっかり消えていることに気づいた。

 

 サザ……。

 

 草を割って、何かの影が忍び寄る。シプロスはゆっくりと音のする方を向いた。

 

 ザザザザ——バサッ! 

 

 草むらを裂いて、橙色の飛行機が現れた。迫りくる鉄の塊が、二人を押し潰すように突進してくる。

 

「……っ走って!」

 シプロスはリーベの手を掴み、一目散に駆け出した。しかし荒れた畑では、いくらウマ娘でも思うように走れない。

 

 もうだめかとシプロスが振り返った時、機体の中の人影と目が合った、気がした。

 

「──人!?」

 シプロスが声を上げた途端、飛行機は頭を左へ振って2人を追い抜いた。舞い上がる土煙に煽られた二人が地面へと飛び込む。

 

 ドシン、と地面が揺れた。直後に、メキメキと木が裂ける音。シプロスは耳を立て、足に力をこめる。

 

「いけない!」

 

 言うが早いか、シプロスは鎌を手にしたまま、勢いをつけて立ち上がった。

 

 遮二無二に駆け出そうとするシプロスの背中にリーベが手を伸ばす。

「待ってシプロス! 危ないったら!」

 シプロスはその手を振り払って言った。

「人がいる!」

 

 シプロスは、油と土の混じった煙をかき分けて機体に取り付いた。その胴体は腐葉土の山に頭から突っ込んで玩具ように逆立ちになり、捻じ曲がった金属片や何かの破片が散らばっている。

 

 残った桁に足をかけて操縦席へ登ると、若い男が血を流してぐったりとしていた。

「ちょっとあなた、大丈夫?」

 

 男は、シプロスの呼びかけに反応しなかった。気を失っているのか、あるいは。

 

「ねえ! その人、生きてる⁉︎」

 追いついてきたリーベが呼びかける。

 

「わからない! とにかく降ろすから頭を支えて!」

 シプロスは鎌で座席帯を切り落とすと、ウマ娘の腕力で自分よりひと回りも大きなその体を操縦席から引き摺り出した。そのまま二人で担ぎ上げて、機体から離れた土の上に寝かせた。

 

 男は、一目でわかるほどの重傷だった。煤に塗れた顔は切り傷だらけで、右腕には親指よりも太い木片が突き刺さっている。

 ツナギの左腹は裂け、滲んだ血がべっとりと広がっていた。

 

「ひどい怪我」

 リーベが声を上げる。

 シプロスは手套を脱いで男の口に手を当てた。

「まだ息がある。すぐに、マダムのところへ連れて行きましょう」

 

 シプロスは一回り大きな男の体を背負おうとしたが、木片が刺さったままの右腕が首に回らない。リーベがすぐにシプロスの右後ろに周り、男の背中を支えた。

「二人三脚の要領で走りましょう。教室棟まで常足よーい、始め!」

「だめ! 駈歩!」

 

 シプロスは、リーベが示したペースを無視して走り出した。

 リーベが追ってくる足音を捉えて、シプロスは振り返らずに走り続けた。

 

 これだけの怪我をしているのに、ウマ娘に振り回されても、声ひとつあげようとしない。

 つまりそれは、どこか命に関わる怪我をしているからに違いない。

 

 私たちがあの場所にいなければ——でも、この人を助けられるのは、今は私たちしかいない。

 謝るのも、お礼も、すべてはそのあと。

 

 シプロスは土を蹴り上げ、怒涛の勢いで通用門を駆け抜けた。




次回、拾い火

【お知らせ】
作者が資格試験を受けなければいけなくなってしまったため、次回更新は八月二九日(金)になります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。