蹄音、高く   作:上條つかさ

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昭和十八年、七月二七日。
校外の畑で農作業をしていたシプロスとリーベは、墜落した飛行機から操縦士の男を救助する。
シプロスは彼を背負い、学校医マダム・ラピアスのもとへと駆けるのであった。


拾い火

「ちょっとそこ邪魔! 退いて!」

 シプロスとリーベは靴も履き替えず、すれ違う生徒を蹴飛ばす勢いで廊下を駆けた。

 

 救護室は通用口から入って廊下の真ん中あたり。ウマ娘の脚なら手の届くような距離だ。

 

「なんだ? 騒がしい」

 

 足音を聞きつけて、救護室の主、マダム・ラピアスが咥え煙草の顔を覗かせた。

「マダム、よかった!」

 シプロスは救護室の前へ滑り込んだ。ラピアスが心底うんざりした様子で口を開く。

 

「いいかシプロス、廊下は静かに走れといつも……」

 ラピアスの眉間が寄る。その視線の先に、シプロスの背に担がれた血まみれの男がいた。

 

「……そいつは誰だ?」

 ラピアスの片眉が上がる。

「飛行機が、落ちてきて」

 シプロスは上がりきった息を飲み込んで続けた。

「まだ息が」

 ラピアスは続きを待たずに引き戸を開けた。

「入れ」

 

 二人は、すぐに男を担ぎ入れた。

「診察台に寝かせろ」

 

 男が簡易な寝台に寝かされると、ラピアスは怪我の状態を観察した。

 顔色は蒼白。ぐったりとして意識はない。頭の切り傷から脳震盪と思われる。

 腹部の出血はおそらく裂傷。止血の必要あり。

 下半身に目立つ出血は見当たらない。腰から下の怪我は命に関わるものが見つからない限り、この場では無視する。

 視線を上半身へと戻す。

 右腕には棘刺創(きょくしそう)多数と鬱血。真っ青に腫れていることから、おそらく閉鎖骨折。手当は腕からいこう。

 

 僅か数秒で応急処置の目処をつけたラピアスが顔を上げた。

 

「リーベは水だ。積んである洗面器を持っていけ」

「はい!」リーベはホーローの洗面器を手に、弾かれたように洗い場へと駆け出した。

 続いて、ラピアスは部屋の隅に常備してある"手洗励行"と書かれた洗面器を指差した。

「シプロスはそこの水で手を洗え。それから、消毒鍋の中身を全部持ってくるんだ」

「はい」

 二人へ指示を出したラピアスも、煙草を灰皿に押し付けて、薬棚へと駆け寄った。エタノールの瓶をひっくり返して手を濡らし、乾くのも待たずに鋏や鉗子の乗った盆を手に診察台へ戻る。

 

 リーベはすぐ戻ってきた。

「マダム、お水です」

 洗面器には、水は半分程度しか入っていなかった。これでは到底足りない。

「そこ置いて。他の洗面器も全部、満杯に」

「わかりました」

 空の洗面器を持って、リーベがバタバタと部屋を出ていく。

 

 ラピアスは大きな鋏を手にとって息を吸った。

 彼女は医者として二〇年近いキャリアを持つが、その知識は内科や整形外科など、学園の特性に合わせたものに偏っている。

 当然、学校医の仕事内容に『飛行機事故の生存者を処置する』というものは含まれていない。

 しかも、この男はかなりの重傷だ。何かひとつを間違えただけで、すぐに死んでしまうだろう。けれど、そこに諦めるという選択肢は存在しない。

 知識の限界と、医師としての義務。その狭間で、彼女の指は迷いなく動いた。

 

 シプロスが駆け戻ってくる。

「ガーゼ、ここに置きます」

「薬棚開けて、ヨードチンキ三本とクレゾール出して」

「はい」

「外科用と書かれた台車もだ! 急げ!」

「はい!」

 シプロスがパタパタと室内を駆け回る。戻ってきたリーベが、また別の洗面器を手に出て行った。

 

 三人が慌ただしく準備を進めているうちに、外が騒がしくなってきた。畑での騒ぎを聞きつけた野次馬が廊下に集まりはじめて、ラピアスが耳を絞る。

「なんだい。騒がしいね」

 ラピアスは苛立ちをあらわにした。あまり埃が舞うと傷に障る。ドア窓から中を覗こうとする耳を目ざとく見つけたラピアスは「こらそこ! 見せ物じゃないよ!」と怒鳴りつけた。

 

 薬を乗せた台車を押してきたシプロスが踵を返す。

「カーテンを引いてきます」

「ついでに包帯。あるだけ出して」

「わかりました」

 

 シプロスは慌ただしくカーテンを引き、すぐに包帯の山を抱えて戻ってきた。

「包帯です。あの……この人、助かりますか?」

「まだわからんが、腹が裂けている。これは縫わねばならんな」

 

 ラピアスは大きな鋏で血まみれの飛行服を切り開いていた。腹の傷があらわになると、血の臭いが鼻をついた。傷はシプロスの掌の長さくらいで、赤黒い血が流れ出している。

 

 ラピアスは、血で真っ赤になった手で腹の傷を指した。

「なんでもいいから、布で傷を押さえて」

 シプロスはとっさに、腰に提げていた手拭いをぎゅっと丸めて傷口へ押し当てた。

 

 血が滲んで、手拭いはすぐに真っ赤に染まった。ぬるりとした触感と、生温い暖かさを感じる。

「いいぞ。ぐっと、強く押さえておけ」

 シプロスは言われたとおりに体重をかけて傷口を押さえた。

 

 そのうちに、ラピアスは男の上半身をすっかり裸にした。すぐに水を含ませた綿球で傷を丁寧に洗っていく。手を濯ぐたびに、洗面器の水が赤く染まる。

 洗い終えたところには、ヨーチンをかけてはガーゼを乗せた。

 

 腕の処置をしながら、ラピアスは、シプロスの手拭いに血が滲む時間を測っていた。もしも、腕の処置が終わるまでに手拭いから血が滴り始めてしまったら、今ある設備では助けられない。ここは大病院の処置室ではない。ただの学校の、小さな救護室にすぎないのだ。

 血が滲んでいく手拭いに目を向けるたびに、少しずつ焦りが優っていく。

 

「お水、持ってきました」

「遅い! もっとよこせ!」

 プレッシャーに耐えかねて、ラピアスはつい声を荒げた。

 そのかつてない気迫に気押されたリーベは、真っ赤に染まった洗面器を持って再び出て行った。

 汗を拭い、息を吐いて腕の処置に戻る。

 べったりと張り付いた血を拭うと、腕に刺さった破片は、鍛えられた筋肉に阻まれて止まっていることがわかった。骨折が破片のせいでないとすると、墜落の衝撃でどこかに打ち付けた時のものだろう。

 

 一番大きな破片を引き抜く。すると腕の力がすっと抜けて、溜まっていた赤黒い血がどろりと流れ出した。ラピアスは綿球を傷へ当てては粘りつく血を洗い流し、鉗子を器用に使って見える限りの破片を取り除いた。

 傷口を洗ってはガーゼを替えていくので、足元にはガーゼの山ができていた。

 

 ラピアスは再びシプロスの手元を見た。手拭いはすっかり赤く染まっている。しかし、その血は床に滴るほどではない。

 

 ──まだ、大丈夫だ。

 

 ラピアスはわずかに余裕を取り戻し、荒くなった呼吸を整えた。

 新しいガーゼをかぶせた時、ふと、男がなぜ機体を捨てなかったのかを考えた。飛行機で来たというのなら、空からは学園が見えていたはずだ。とすると、脱出しなかったのは校舎に落ちることを危惧したからだろうか。

 当然、それ自体は勇敢な行為に違いない。だが、もしもこの二人があの場にいなかったら、この男はそのまま死んでいただろう。

 

 血が滲んだガーゼを床へ捨てた時、切り裂いた飛行服の袖に三女神の一人、瑠璃の女神が刺繍されたワッペンが縫い付けられていることに気がついた。

 はっとしたラピアスが男のズボンを弄ると、煙草と、ずいぶん高級そうなライター、そして身分証が一冊。

 

 表紙には『宇都宮航空研究所職員証』の文字。開くと、男の写真とともに、彼の持つ資格や技能に関する項目が羅列されていた。

「名前は坂井東一。国選操縦士か、優秀だな」

 責任者の欄には、見覚えのある名前が記されていた。

 ──やはり"彼女"の所の操縦士か。

 ラピアスは、そのライターと身分証を丁寧に膿盆へ置いた。

 

 これはなんとしても死なせられない、と鉗子を構えた時、リーベが戻ってきた。

「リーベ。すぐ図書館へ行って、アルセを呼んできてくれ」

「マダム・アルセをですか?」とリーベ。

 町の医院や大きな病院へ電話をするのではなく、なぜ学園司書を呼ぶのだろうか。

「こいつは、アルセの姉君のところから来た奴だ。顔を見せれば、何かわかるだろう」

「わかりました。すぐに呼んできます」

 廊下に飛び出したリーベの、バタバタという足音が遠くなる。

 

 ラピアスは再び処置に戻り、腕の傷にヨーチンの瓶をひっくり返してからガーゼをかぶせた。溢れた分を拭き取ることもせず、腕を挟むように副え木を当てて、後からでも手当ができるように細い紐で固く縛った。

 

「腕はこれでいい。次は腹だ」

 

 ラピアスは踵を返して机に駆け寄ると、鍵のついた引き出しを蹴り開けて、モルヒネのアンプルと小箱を手にとった。

 箱の中身は、ガラス製の注射器だ。鈍く銀色に光る針を取り付けて、一度動きを確認する。

 それから慣れた手つきでアンプルを折り開けて、淡い黄色の液体を吸い込ませる。投げ捨てたアンプルが床に転がって、こぼれた薬が床に染みを作った。

 

「頭を打って意識が飛んでいるだろうが、念の為麻酔を打つ。手をどけて」

 

 シプロスは血でずっしりと重くなった手拭いを退けた。圧迫されて白くなった傷のまわりの血は、乾き始めて赤黒く変色している。

 

「よかった。これならいけるぞ」

 ラピアスは傷の周り数カ所に針を刺した。

 鉗子で傷口を開くと、裂傷はだいぶ浅い位置で止まっていた。内臓に傷がついている様子もない。

 すぐに縫合糸を手繰り、針をつけてピンセットで掴んだ。釣り針のような針が食い込んで、裂けた皮を縫い合わせていく。

 

 シプロスは、血まみれの手拭いを持ったまま立ち尽くしていた。いくら傷が浅くても、これだけの血を流していても本当に助かるのだろうか。

 

 ラピアスはその気配を察して声をかけた。

「落ち着け。大丈夫だ」

 ここまでの処置で、男が死ぬ可能性は低まったと見込んだラピアスは、すっかり冷静さを取り戻していた。

「隅に焼却廃棄物と書いた木箱があるから、血のついたものは全部それに捨てるんだ。床に捨てたガーゼも布も、全部片付けてくれ」

「わかりました」

 

 木箱は、すぐに見つかった。

 真っ赤になった手拭いを落とすと、底でべしゃりと水の音がした。やはり大量の血を吸っていたらしい。手首まで赤黒い血に塗れて、血の気が引く思いだったシプロスは頭を振って気を取り直した。そして、言われたとおりに散らかったガーゼや綿球を拾い集めた。

 

 その間も、ラピアスの処置は続いていた。

 縫合は二十針に及んだが、その手元は一度も乱れなかった。最後のひと針を引き抜いて糸を結び終えると、ようやく顔を上げる。

「ヨーチンをくれ。たっぷりだ」

 シプロスは膿盆に綿球をいくつか落とし、瓶の蓋を外して中身をひっくり返した。とろりとした薬液が琥珀色に光り、仄かに鼻を刺す匂いが立ち上る。ラピアスはその中から一つを掴み、手早く腹の傷に塗り込んでいった。

 

 傷口の縫い目は、すでに血の滲みもなく、しっかりと閉じていた。

 シプロスが横から覗き込むと、ラピアスは無言のまま次々と綿球を替え、腹部一帯に塗りこんでいく。切り傷にはガーゼを丁寧に被せ、上から紙テープでぴしりと押さえた。

「よし、終わったぞ」

 ラピアスが静かに言った。

 その声に、シプロスはようやく張り詰めていた呼吸を吐き出す。ふと気づけば、部屋の空気には鉄の匂いと、汗の塩辛さが濃く溶けていた。

 

「あとは足だな。折れているようだが、副え木だけで大丈夫だろう」

 そのとき、カーテン越しに声がした。

「マダム、呼んできました」

「リーベか。アルセも少し待ってくれ。今、血まみれなんだ」

「血まみれ? ラピアス先輩、一体何事ですか」

 リーベの後ろで、アルセの戸惑った声が重なった。

「君の姉君のところの操縦士が、東の畑に落ちたのだよ」

「なんと⁉︎」

「まあ待て、すぐ終わる」

 ラピアスは汚れた洗面器の水に手を沈めた。濁った赤黒い水面に泡が浮き、こびりついた血がぬるりと指先から剥がれていく。

 続けて隣に置いてあった新しい水の方に手を移し、そこへクレゾールを一滴、二滴と垂らしてかき混ぜる。漂白剤にも似た刺激臭がふわりと立ち上った。消毒液に手を沈めたラピアスを見て、シプロスもすぐに後に倣った。

 

「よし、入ってくれ」

 その声を合図に、カーテンが横に払われる。

 開いた瞬間、こもっていた空気が一気に流れ出て、血と薬品の混じった強烈な臭気が廊下へ漏れた。

「うっ……」

 アルセは思わず白衣の袖で鼻を押さえる。

 中に一歩踏み入れると、まるで傷口そのものの匂いが部屋に充満しているようだった。薬臭、血臭、消毒液、そして人熱。どれか一つでも強烈なのに、それが重なり合って空間を染めている。

 

「ラピアス先輩、これは一体……」

「いいから、来たまえ」

 ラピアスは手招きをした。

「この顔に、見覚えはあるかい?」

 診察台に近づいたアルセは、躊躇いがちに上体をかがめ、そしてハッと目を見開いた。

「これは……坂井くんじゃないか! 間違いなく、姉のところの操縦士です」

「そうか。シプロスとリーベが運んでくれた。あちこち打撲に、左腹部切創、右腕の尺骨と右足の腓骨の骨折、肋骨も……まあ、たぶん何本かは折れているだろうな」

 

 ラピアスは淡々と語りながら、血の滲んだ白衣を脱ぎ、汚れた面を内側に巻き込むようにして静かに机の上へ置いた。

「──けど、まあなんだ。もう死にはしないよ」

 

「……そうだったのか」

 アルセの肩の力が抜けた。そして二人に向き直ると、静かに、しかし深く頭を下げた。

「シプロス君、リーベ君。姉に代わって礼を言う。ありがとう」

「そんな。マダム、顔をあげてください」

 シプロスは慌てて手を振った。

「人を一人救ったんだ。誇っていいぞ」

 ラピアスにまで言われて、シプロスは少し照れた様子で顔を伏せた。

「とにかく、姉に電話をしなくては。司書室へ戻ります」

 アルセは白衣を翻し、救護室を出て行った。

 

 アルセが出ていくと、ラピアスはやっと脱力して、椅子に腰を下ろした。

 ゆっくりと引き出しを開け、新しい煙草を取り出して口を折った。眼鏡の奥の瞳が、ようやく色を取り戻した。

 

 張りつめていた空気が、ふっと解ける。窓の向こうでは、風に揺れる木の葉が、さわさわと遠い音を立てていた。

 

「この人、助かったのね。よかった」

 額に汗を浮かべたままのリーベが、ほっとしたように頬を緩める。

 彼女の声には、安堵とまだ残る震えが入り混じっていた。

「ええ。本当に」

 頷いたシプロスの声は、いつになく小さく、静かだった。

 

「──あら。あなた、背中に血がべっとりよ」

 シプロスが裾を確かめると、体操服の背が、泥と血で大きく染まっている。

「きっと、背負ったときについたのね。……まあいいわ。この人は助かったんだし」

 

 ラピアス二人の様子を見守りながら、燐寸の箱を取り出した。

 カッという音とともに擦られた火が一瞬、その顔を橙に照らす。

 火先がじゅっと音を立てて煙草に移り、細い煙がゆっくりと立ち上っていく。血と薬品の残り香に混じって、煙草の煙がようやく「いつもの救護室」の空気を連れてきた気さえした。

 

「ふう。二人とも、よく頑張った。しかし、血のついたものは焼かなければいけないな。私の白衣も、その体操服も処分だ。感染症になっては困る」

「着替えを買ってきてあげるわ。サイズは確か、小の三よね?」

「ありがとう。お金はあとで返すわ」

「私は残りの手当をするから、シプロスはシャワーを浴びてくるといい。時間外だが、私の指示だと言って良い」

 

 二人は、怒涛のひと時を過ごした救護室を後にした。廊下には男を運び込んだ時に落とした泥が散らばっている。

「……これも、片付けないとね」

「私がやるから、まずはお風呂に入ってきなさいな」

「そうね。ありがとう、アイリ」

 

 *

 

 着替えを済ませたシプロスが救護室へ戻ってくると、廊下ではラピアスの一番弟子を自称する高等科生フィリーラと、リーベが床の掃除をしていた。箒を手にしたリーベの横で、フィリーラは慣れた手で雑巾を絞り、廊下を無駄なく拭き上げていた。その背中に声をかけると、事情を知っていたらしく、むしろ称賛を受けてしまった。

 

 シプロスは、どこかむず痒い気持ちで引き戸を開けた。

 救護室の窓は開け放たれ、血の匂いはすっかり洗い流されている。奥の机では、ラピアスが電話を手に何やら話をしていた。

「畑に警察が来ているそうだ」

 そう言って、ラピアスは颯爽と新しい白衣を羽織った。

「私が話をしてくるから、この男を見ていてくれ。もし気がついたら、事情の説明を」

「わかりました」

 

 シプロスはカーテンをそっと開けて、寝台に寝かされている男を見た。どうやら一度裸にされて、泥や油を落とされたらしい。上半身は絆創膏だらけで、腹にはサラシのように幅の広い包帯が巻かれている。右腕と右脚は吊られていて、左腕には大きなガラス瓶から点滴の管が繋がれていた。

 

 痛々しい姿にシプロスは胸を詰まらせ、その逞しい左手を握った。

 男は熱がある様子で、額には大粒の汗が浮かんでいる。シプロスは枕元に積んであったガーゼを取り、汗が滲まないようにそっと拭ってやった。

 

 フィリーラとリーベが引き上げても、日が傾いて街灯が灯っても、ラピアスは戻ってこなかった。

 

 カンコンとチャイムの音がする。もうすぐ門限だ。

 シプロスは男の手をそっと寝台に戻し、机に向かった。

 小さな電気スタンドに火を入れて、受話器を上げ、ハンドルを回す。

 パツンという音と共に、すぐに交換手が出た。

『お繋ぎ先をどうぞ』

「内線で、蹄桜寮の一号棟をお願いします。……もしもし、寮生のベルネンシプロスです」

 

 

 ラピアスが戻ってきたのは、門限を一時間も過ぎた頃だった。

 シプロスは待っている間に、男がひどく汗をかいていたこと、汚れたガーゼを何枚か替えてやったことを報告し、ラピアスはそれを満足そうな顔で記録に残した。

 礼をして、後ろ髪を引かれる思いで誰もいない廊下に出る。

 校舎の外の空気はひんやりとして、頬に触れた風が思いのほか冷たかった。

 

 広場を抜ける時、三女神像が目に入った。

 オレンジ色の街灯に照らされて、そのシルエットが朧げに浮かび上がっている。

 シプロスは、誘われるように像の前まで歩いて、頭を垂れた。

 事故の原因はまだわからない。しかし、飛行機の事故が、いかに人の命を脆く奪っていくものかを思い知らされた。

 結果論かもしれないが、私たちが偶然あの場にいなければ、きっと助けられなかった。マダム・ラピアスが在室されていたことも偶然の結果かもしれない。けれど、どれ一つ欠けてはいけない偶然だった。

 

 明日には迎えが来て、あの人は大きな病院へ移される。きっともう、会うことはないだろう。

 シプロスは静かに顔を上げ、柘榴石の瞳を持つ女神を見上げた。

 胸懐は藍玉よりも気高くあれ。されど血気は紅玉よりも紅くあるべし──。女神の教えを説いた詩が、自然と思い出された。

 女神様。私は啓示に従い、勇敢に、人のために、この脚を使いました。私は、その期待に添えるようなウマ娘に、なれたのでしょうか。

 紅い瞳が、沈黙のままにシプロスを見つめている。その柔らかな笑顔に頷きかけ、ゆっくりと広場を後にした。

 

 砂利を踏む靴の音だけが、帰り道の静寂を破っていた。

 

 *

 

 飛行機墜落のニュースは瞬く間に学園を駆け巡り、夜のラジオにも取り上げられた。生徒会は沈静化にやっきになっていたが、夕食の後には落ち着きを取り戻した。そして寮は、いつも通りの静かな夜を迎えていたのだった。

 

 そして消灯前、アスターの部屋。

 

「アスター! いるか!」

 

 どんどんとドアを叩く音がする。アスターは書類から顔を上げてメガネを仕舞う。それから、ゆっくりと立ち上がってドアを開けた。

 

「ハイペリカム。どうした」

 

「世間話に来た。おごりだ」

 

 ハイペリカムは紙の手提げを差し出した。菓子の袋やサイダー瓶の頭が覗いている。就寝前の規則破りも、ここにいる二人が漏らさなければ誰も知り得ない。アスターは笑顔で学友を招き入れた。

 

「君が世間話とは珍しい。明日は雪かな」

 

「からかうな。まったく、せっかく来てやったというのに」

 

 ハイペリカムはのしのしと部屋へ入ると、どかりとソファへ腰を下ろした。

 アスターは机の上を軽く片付けながら、静かに笑う。

 

「飛行機の件、厄介だったな」

 

 ハイペリカムはかりんとうを皿へ開けると、手慣れた手つきでサイダーの栓を抜いた。ぽんと言う音と同時に、細かな泡が口の部分に上がった。

 

「あれは不測の事故だよ。マダム・ラピアスが聞いたところによると、エンジンの故障だそうだ」

 アスターも瓶を手に椅子にかけた。泡が口の中で弾けて、すっきりとした甘味が鼻へ抜けていく。

 

「学園の近くに飛行場なんぞ作るから、こういうことが起こる」

 ハイペリカムはかりんとうをむんずと掴むと、バリバリと噛み砕き、サイダーで流し込んだ。

 

「函館に行った時、一度乗ったじゃないか。これでも安全になったんだよ。それとも、気に入らなかったかい?」

 

「地に足のついていない乗り物というのは背筋が寒くなる。二度と乗らん」

 珍しく耳を伏せるハイペリカムを見て、アスターは破顔した。

「君が高いところが苦手だとは、知らなかったよ」

 

「口の減らないやつめ。それで、件の話は本当なのか?」

「噂のとおり、助け出したのは我が学園の生徒だよ」

 アスター正直に答えた。ハイペリカムは耳が速いほうではないが、口ぶりから察するに、どうやら根も葉もない噂もあるようだ。

「マダム・ラピアスの見事な処置でもって、操縦士も助かった。明日には、迎えが来るそうだ」

 

「そうか。それは名誉なことだ」ハイペリカムは安堵の息をついた。「ところで、貴様のことだから、もう誰かわかっているのだろう。この際だ、景気付けに褒美でもやったらどうだ」

 褒美、という言葉にアスターの耳が動いた。現在、学園には表立って生徒を表彰する制度は無い。珍しいことを言う、とアスターはハイペリカムの考えに興味を持った。

 

「公式の発表も無いのにかい? そもそもあれは東農研の土地で、学園の管轄ではないよ」

 

「学園の名を輝かしめた立派な行為だ。そして、名誉というものは声に出してこそ価値がある。レースと一緒だ」

 

「ずいぶん肩入れするじゃないか。誰がやったか、君はまだ知らないんだろう」とアスターが問う。

「知らん。だが、人の命を助けるというのは誰にでもできることではない」ハイペリカムはアスターに向き直り、「仮にも貴様は副会長だ。正しい行いをした者を、正当に評価する義務があるのではないか」

 

「……決めるのは会長で、私ではないよ」

 アスターの顔に悔しさが滲む。さすがのハイペリカムも、それくらいは読み取れた。

 

「だから、誰かが言わねばならん。それも、志のある者が」ハイペリカムの鋭い目がアスターを射抜く。志という言葉がアスターの耳を打った。

「ほお」アスターの目にふたたび興味の光が宿る。

「君が私に理解を示してくれるなんて、珍しいこともあるものだ」

 

「来週には、私も園田だからな。会長も休暇で空けるというし、労いの前渡しだ」

 

「ご心配痛みいるよ、ハイペリカム。けれど、会長がいないとなれば、私にとっては好機だ」

 

「根回しか、ご苦労なことだ」

 まるで他人事のように言って、ハイペリカムはサイダーを煽った。

 

「ご明察」アスターは肩をすくめてみせた。「アザーレア会長には、今年のことだけ考えていただければ結構。来年のことは私たちの土俵だからね」

 

 その物言いに、ハイペリカムの瞳が素早くアスターを捉える。五年もの付き合いになれば、こんな小細工は引っかかってやろうという気すら起きない。

「おいアスター。貴様、何か吹き込まれたな?」

 

「……別に?」

 アスターはあからさまに目を逸らした。ユラナス議員に啖呵を切り、生徒会長選挙へ向けた本気の一歩を踏み出したことを、ハイペリカムはまだ知らないはずだ。

 

「隠しても、私にはわかるぞ。あのユラナス議員だろう」

 

 図星を突かれて、アスターの眉間に皺が寄る。しかし、やると決めたことと、機が熟すことの間には百英里もの隔たりがある。そしてまだ、今は時ではない。

 アスターはそっと腰を上げ、徐にハイペリカムの耳元へと囁いた。

 

「壁に耳あり、だ。十月に君が戻ってきた時、状況が好転していたら詳しく話す」

 

「……そうか、わかった」

 ハイペリカムは小さく頷いて、それ以上追求しなかった。

 

「頼んだよ、ハイペリカム」

 椅子に掛け直し、アスターは、にこやかにかりんとうを齧った。

 

「とにかく、だ」

 ハイペリカムはすっと立ち上がると、残り少なくなったサイダーの瓶をあおった。

 

「その生徒を表彰するように計らえ。できれば、私が園田に発つ前にな。士気が上がれば、私もやりやすくなる」

 

「ああ。早速、明日の会議で提言することにするよ」

 

「任せた。また来る、残りは食え」

 

 軽く手を振って、ハイペリカムは部屋を出ていった。

 足音が遠ざかると、再び引き出しを開け、メガネをかけ直した。

 

 残っていたサイダーを飲み干すと、口の中で小さな泡が弾けた。

 何を成しても、個人の名誉とは学園の名の下でしか認められないのか。アスターは、せめてこの生徒の名前がきちんと学園の歴史に残るようにしてやろうと決めた。

 

 机に向かい、書きかけの報告書に目を落とす。

 本科四年特進クラス席次八番、ベルネンシプロス二種候補生。

 学園の名誉を守ったそのウマ娘の名を、アスターは報告書とともに記憶に残した。




次回、旋律
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