蹄音、高く   作:上條つかさ

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三女神に導かれて

 シプロスはいつものように階下の足音で目を覚ました。

 顎を上げて時計を見上げると、時刻は午前五時。

 

 部屋はまだ薄暗くて、障子の組子だけが白み始めた外の明かりでうっすらと浮かび上がっている。耳を澄ませると、外からはかすかに雨音がした。

 

 四月に入ったとはいっても、雨が降れば気温はぐっと下がる。体を起こすと、寝乱れた浴衣の隙間から冷たい空気が入り込んできた。身をすくめてひやりとするスリッパへ足を入れて、肩掛けを羽織って髪を軽く直した。

 

 それから、足音を立てないようにして棚から小さなヤカンを手にとった。廊下へ出ようとして電灯のスイッチに手を伸ばした時、もう一つの寝台にいるカナを思い出したシプロスはすんでのところで手を止めた。

 

 シプロスはスイッチに手をかけたまま考え込んだ。

 お姉様なら容赦なく叩き起こしただろうけど、ここはどうしたものか。

 そして、今日くらいは起床時間まで寝かせておこう、と静かに部屋を出た。

 

 *

 

 寮生の朝はとても早い。規則では六時起床でも、五時になれば寮生の半数は動き出している。特に朝一番に起きて寮内各所の鍵を開けてまわるのは、各棟の三種候補生の仕事だった。

 

 階段を降りてゆくと、右手奥の自習室から声が聞こえてきた。そのドアには長距離レース研究会と書かれた半紙が貼られている。カツカツと黒板にチョークを走らせる音がするところを見ると、なにやら自主的な勉強会が開かれているようだ。左手の廊下では、走りに行くのだろう運動服のウマ娘達が点呼を取っている最中だった。

 

 その先、談話室の前に置かれた台には、大量の新聞が積まれていた。

 朝から小難しい文章を読むような物好きはあまりいない。それでもシプロスは、無造作に積まれた束の中から適当に一部を引き抜いた。

 

 日付は昭和十八年四月六日とあり、一面の見出しには「新進気鋭の若駒集う。本日、ウマ娘修練学園にて入学式挙行」とある。つまりこれは昨日の朝刊だ。

 

 学校の出入りが厳しく管理されているが故の遅れであるが、もとよりメディアと接する機会の少ない生徒たちである。一日程度の遅れを気にする者は誰もいなかった。

 

 新聞を小脇に抱えて廊下を進んでゆくと、土間では数人のウマ娘が大きなヤカンをコンロにかけていた。洗面や朝茶のための湯を沸かすのは、この蹄桜寮一号棟では練習生がする仕事とされている。

 

 シプロスはその中から、五線譜をあしらったハイカラな浴衣に声をかけた。

 そのウマ娘の名はエトワルアルモニー。シプロスの一つ下にあたる七三期生だが、外国語に秀でていて、授業を共に受ける仲でもある。シプロスは普段から、この大らかで器量良しな後輩のことを頼りにしていた。

 

「エトワル、おはよう」

「シプロス先輩」声をかけられたエトワルはさっと向き直り、美しい所作で一礼した。

 

「おはようございます」

 その言葉には西の訛りが混じっていた。ロングボブに整えられた栃栗毛と相まって、それが彼女の魅力を際立たせている。

 

「今日もお湯をもらいにきたの」

 シプロスがヤカンを差し出すと、エトワルは「よかった。ちょうど沸くところでした」とそれを笑顔で受け取った。

 

「毎日悪いわね」

 

「もう慣れましたよ。はい、どうぞ」

 

「ありがとう」

 湯を受け取ったシプロスが階段を上がって行くと、起き出した者が捌けた二階は静けさを取り戻していた。

 

 新聞を片手に自室のドアを開けたシプロスは、いつもの癖でつい電灯のスイッチを上げてしまった。しまったと思ったが、カナが起き出す気配を見せなかった。

 

 ほっとしたシプロスは新聞を机に放って、湯呑を取り出して茶漉しを渡した。

 湯を注ぐと、緑茶の甘い香りがふわりと立ちのぼった。いつもの朝を知らせるその香りだけで、すっと目が覚める気がする。ヤカンは机を痛めないように焼桐の小さな鍋敷の上へと置いた。

 

 茶を一口啜ると、腹の中から温かさが広がって自然と頬が緩んだ。

 後輩達の心配りに甘えているとわかっていても、朝のお茶は手放せない。この習慣は先々代の寮長が持ち込んだものだというから、朝に湯を沸かす文化はそれが源流かもしれない。

 

 そうだ。お姉様が私に教えてくれたように、明日にでもカナに朝茶の淹れ方を教えてあげよう。

 手帳を出してこのアイデアを書き留めたシプロスは、手の中の湯呑から立ち上る湯気をじっと眺めた。

 

 時が経つのは早いもので、お姉様が部屋を出てからもうひと月が経った。

 この朝茶はお姉様の習慣だったはずなのに、いつのまにかすっかり板についてしまっている。そのことに気づいたシプロスの胸に、小さな寂しさが広がった。後ろの机がまだお姉様のものだった頃を思い出しながら、シプロスは机の小瓶から一粒の金平糖を取って口に含んだ。

 

 お姉様はもういない。でも、私がここにいて、教わったことも私の中にちゃんとある。だからこそ、私が新しいお姉様として、胸を張ってカナと二人の新しい毎日を過ごしていこう。

 障子の向こうはもうすっかり明るくなっていて、聞こえてくる足音や挨拶を交わす声が少しずつ増えていく。シプロスは小さな鏡を立てて髪を梳きはじめた。次第に目を覚ましてゆく寮の中で、シプロスの朝もゆっくりと明けていった。

 

 *

 

 一番列車の汽笛が遠くに聞こえて、シプロスは再び時計を見上げた。

 そろそろか、と新聞をたたんだシプロスは徐に立ち上がり、すやすやと眠っているカナの肩を揺すった。

 

「そろそろ起きなさい」

 カナがうっすらと目を開けると、シプロスがじっと覗き込んでいた。

 

「ふぁ……あ! おおおはようございます!」

 カナは布団を蹴り飛ばして起き上がった。時刻は六時を回ったところで、寮はとっくに目を覚ましていた。シプロスなどは時間になれば小さな物音でも目を覚ますものだが、カナは思ったよりもズブいようだ。

 

「案外寝坊助ね、あなた」

 シプロスは髪を整えて、すっかり制服に身を包んでいた。

 

「すみません! すぐ着替えます!」

 カナが慌てて寝巻きの帯を解きはじめたので、シプロスはふいと目を逸らした。

 

 バタバタと着替える音を背中に聞きながら、「昨日は遅かったし、一声で起きただけ偉いわ」そう言って湯呑に残っていたお茶を飲み干した。

 

「でも明日からは五時半には起きないとね。朝は食堂も混むから……」

「着替えました!」

 

「速いわね?」シプロスが振り返ると、確かに制服姿のカナがいた。しかし制服は着ただけでスカーフは乱れ放題、手櫛で半端に梳かれた髪もボサボサだ。

 

 シプロスは苦笑いして「それじゃ出られないでしょ。髪を梳いてあげるから後ろを向いて」と、引き出しから柘植でできた櫛を取り出した。

 

 そこでシプロスは、カナのほうが自分よりほんの少し背が高いことに気づいた。それでも、シプロスは少し背伸びをしてせっせと髪を梳いてやった。

 最後に可愛い黄色いシュシュで束ねると、その髪は見違えるほど綺麗にまとまった。

 

「綺麗な髪ね」

 シプロスはサラサラと軽い薄茶色の髪を梳った。

 

「これ、母譲りなんです」

 カナは少しはにかんで答えた。私服を持ち込めない学園ではお洒落といえばせいぜい髪を結うくらいしかない。生まれ持った素質とはいえ、美しい髪はそれだけで憧れの対象だ。

 

「お母様は大切にしないとね。今夜にでも、さっそく手紙を書きなさい」

「はい、髪を褒められたって書きます」

 カナははにかんで答えた。そのあどけない笑顔にシプロスも目を細めた。アイリの言うように、年下に世話を焼いてやるのはなんとも気持ちが良い。今ならお姉様の気持ちもよくわかる気がする。

 

「さ、前を向いて」

 スカーフを整えてやると、カナは学園の生徒として相応しい装いになった。

「よし、できた」

 手鏡を渡されて、整えられた髪を見たカナは満足そうに笑った。

「ありがとうございます。お姉様」

「さあ、まずは朝ごはんにしましょう」

 

 *

 

 階段を降りていくと、小さな箒で玄関を掃いているウマ娘がいた。

「やあシプロス、おはよう」

 ユノークローネは片手をあげてシプロス達を迎えた。

 

「ユノー先輩、おはようございます」

 シプロスは軽く会釈をした。

 

 そして「カナ。こちらはこの一号棟の監督生、ユノークローネ先輩」と紹介した。

 

「これは私の担当になったルスティカーナです」

 シプロスに促されて、カナは一歩前へ出るとぎこちなく頭を下げた。

 

「ルスティカーナです。よろしくお願いします」

 

「君が新入生か。よろしくね」

 ユノーはカナへ手を差し出して握手を求めた。親愛の印にいつも握手を求める彼女は、ボーイッシュな見た目と相まって一部の生徒から絶大な人気を集めているのだった。

 

 突然差し出された手をカナがじっと見つめている間に、数人のウマ娘が通り抜けた。次々とかけられる挨拶に、ユノーは空いた手を挙げて応えただけで、カナへと向けた真剣な目線を外さなかった。

 

 寮へ入ってから最初の、自分以外の先輩との挨拶。カナの今後を思えばこそ、シプロスは口を挟まずに静かに見守っていた。そして、カナは意を決したようにその手を取った。ユノーの手はひんやりとしていたが、確かに血の通った温かさがあった。

「結構!」

 ユノーは破顔して、しっかりと握り返した。

 

「いい子じゃないか、シプロス」

「恐れ入ります」

「僕の部屋は階段を上がったすぐ横だから、困ったことがあったらなんでも言ってね」

「ありがとうございます」ユノーから向けられた好意に、カナはやっと小さな笑顔を見せた。

 

「では」とシプロスが割って入る。

「朝食がまだなので、これで失礼します」

 ユノーは朗らかな笑顔を浮かべたまま「うん、いってらっしゃい」と手を振って二人を見送った。

 

 *

 

 蹄桜寮に暮らすウマ娘は八棟合わせて五〇〇人を数えるが、食堂はざっと三〇〇人分の椅子しかない。早足で渡り廊下を抜けた二人が食堂に入る頃には空席はすっかり埋まっていて、カウンターには席を待つ列ができていた。

 

 もっとも、シプロスはすぐに席が空く確信があったので、今更慌てるようなことはしない。

 蹄桜寮では寮生は必ず二人組みになっていて、例外は監督生と生徒会の役員だけだ。その仕組みに合わせて、この食堂ではテーブルは全て対面の二人がけになっている。特に朝はくだけたお喋りなどする暇もない。

 

 そこかしこのテーブルで食事をしながらの申し送りが見られるのも日常のことだ。生徒達の話し声がざわめきとなって、時折聞こえる食器の触れ合う音が朝の忙しなさを一層引き立てている。

 

 列を待つ間も、奥にある調理場から漂ってくる鯖の焼ける香ばしい匂いや味噌汁の出汁の香りがシプロスの鼻腔をくすぐっていった。

 見慣れた混雑に悠長な構えを見せるシプロスとは対照的に、初めて食堂に足を踏み入れたカナからすれば全てが目新しく、視界に入る寮生は全員が先輩だ。

 

 見知らぬ人々に囲まれたカナは、緊張からか耳を立てることもできずに制服の裾をぎゅっと掴んでいる。俯いたその姿に過去の自分を見た気がしたシプロスは、きっと顔を上げると、列へ向かってわざと大仰に腕を振り、カツンカツンと足音を立てて歩いてみせた。

 

 響き渡る足音にばっと顔を上げ、シプロスの大袈裟な振る舞いに目を丸くしたカナは、照れくさそうに裾から手を離した。伏せていた耳がゆっくりと前を向いて、よく磨かれた木目の床に小さな足音が響いた。

 カナが追いつくまで、シプロスは振り返らなかった。

 

 寮の食堂では朝夕は和洋いずれかの定食かお粥、昼食は丼ものか弁当として包まれた握り飯と決まっている。カウンターに掛けられた札によると、今朝の和定食は焼き鯖、洋定食はハムエッグらしい。

 

 シプロスの見込んだとおり、ほとんど待つこともなく二人は同じ和定食を手に席についた。

 

「いただきます」

 シプロスは小さく手を揃えてから箸と汁椀を手にとった。熱い味噌汁へ息を吹きかけると、出汁の香りが鼻をくすぐった。さっさと食べて次へ行かないと時間がなくなってしまう。

 ふと前を見ると、カナはまだ膝に手を置いたままだった。

 

「どうしたの。はやく食べなさい」

 そう促しても、カナはじっと下を向いたままで口を閉ざしている。

 

「あなた、どこか具合でも悪いの?」

 シプロスに問われて、カナはやっと顔を上げた。

「その……家ではお父さま、いえ、父が箸をつけるまでお碗に触れてはいけないと教わりました」

 

 おそるおそる話すカナを見て、シプロスは驚いた。すっかり学園の規律に慣れてしまっていたが、一歩外へ出れば、そこには別の決まりやしきたりがあるのだ、と改めて気付かされた。

 もちろん家族や目上を敬うことを忘れてはならない。けれども、カナには一人のウマ娘として自立してもらわないと困る。一度きちんと話をしておこうと手を下ろしたシプロスは、カナの目をしっかりと見て話を始めた。

 

「あなたの家のしきたりも大切だけれど、ここでは少し決まりが違うの」

 シプロスはカナを傷つけないように慎重に言葉を選んだ。

 

「少しずつでいいから、ここの生活に慣れていかないとね」

 習慣というものが一朝一夕でどうこうなるものではないこと、シプロスは経験から知っていた。何事も順番というものがある。

 かといって、甘やかしすぎるのも良くないはずだ。お姉様なら、きっと、そんなものは早くお捨てなさいの一言で片付けてしまっただろうが。

 

 葛藤しながらも、逃げ道を断つほど冷たくもなれないシプロスは、「でも、どうしてもお家のしきたりが気になるなら、私が箸を取るまで待ったことで良しとしなさい」と言い切って汁椀を手にした。

 口をつけると、味噌汁は少し温くなっていた。

 

 きっぱりと線を引かれたカナは、不安そうにシプロスの顔をうかがっていた。それでも、シプロスが鯖に箸をつけたのを見て、意を決したように箸をとった。

 

 カナは厳しい家で育ったのだろう。もしかすると「まだ箸をつけてないではないか」といった父上の叱責が耳に蘇っているのかもしれない。箸を持つその手が、緊張に震えていることをシプロスは見逃さなかった。

 

 ようやく「いただきます」と小さく口にしたカナが汁椀に手を伸ばす。その様子を見届けたシプロスはやっと肩の力を抜いた。

 小さな障害が大きな壁に見えることはままあることで、乗り越えてしまえばなんということもない、と知るまでには時間がかかるものだ。それでも、この一歩はカナにとって大きな意味を持つだろう。

 ぎこちないながらも最初の朝食を終えた二人はすぐに食堂を出た。

 

 知らない者同士がいきなり二人きりで過ごすというのは思った以上に気を遣うものだ。それも、自分が範を示す側となればなおさらだ。

 

 カナと言葉を交わすほどに、責任という言葉が重みを増してゆく気がする。今となってはもう聞けないけれど、お姉様は当時の私をどんなふうに見ていたのだろう。そして、私の背中はカナの目にどんなふうに映っているのだろう。

 それでも、後ろをついてくるカナの足音を背負ったシプロスは、耳を前へ向けて歩みを進めるのだった。

 

 *

 

 桜が舞う広場へと足を踏み入れた二人を、穏やかな雰囲気が包み込んだ。

 その広さは二反ばかりだろうか。御影石が敷かれた広場は手入れの行き届いた花壇に囲まれている。

 まだ咲き誇る季節には早い花壇の隣には、磨かれた木製のベンチが設けられ、訪れる者を静かに迎え入れているようだった。

 

 広場の中心には、一際目を引く石台が据えられていた。台座の上には滑らかな曲線を湛えた三女神の像が立つ。

 像は寮、練習コース、校舎を見守るように配置され、瞳にはそれぞれの女神を象徴する(ぎょく)が嵌め込まれている。

 十尺を超えるその威容を見上げると、自然と敬意が湧いてくる気がした。

 

「こちらが、三女神様の像よ」

 シプロスは像を手で示した。

「三女神様、ってなんですか?」

「私たちウマ娘の、魂の祖先と言われている神話上のウマ娘」

 カナの問いに、シプロスは簡潔に答えた。いつ、どこでウマ娘が生まれたのかは、誰にもわからない。

「魂の、祖先?」

 カナは首を傾げた。ピンと来ない様子を見て、シプロスは「お三方の目を見てごらんなさい」と像の顔を示した。

「この中のどなたかが、あなたの魂の祖先。どんな悩みにも、きっと、答えをくださるはずよ」

 カナは言われた通りに顔を上げた。春の日差しを受けて白く輝く像の周りを、ゆっくりと歩き出す。

 現代において三女神は、ウマ娘の単一性の象徴として奉られている。啓示と継承という制度も、彼女たちから始まったと言われている。

 啓示とは、そのウマ娘がどの「一門」に属するべきかを示すものであり、これは完全に女神の意思による。どの女神から啓示を受けるかは、生徒自身が選ぶことも、他者が干渉することもできない。

 

 シプロスも四年前、柘榴石の女神から啓示を与えられた。赤い光を纏うウマ娘に率いられ、共に見た荒々しい山野の風景は、まるで記憶の断片のように現実的でありながら夢幻的だった。

 神話によれば、女神はその者が持つ魂の記憶を呼び覚まし、現世を生きる示唆を与えてくれるという。シプロスは未だ、あの日見た光景の意味を掴めてはいなかった。

 

 それは自らに課せられた生きる意味を問うものであるから、解釈を誰かに頼るものではない——「お姉様」もそう言っていた。

 

 不意に、カナが瑠璃の瞳を持つ像の前で足を止めた。瑠璃の女神が示す素質は「愛情」。その素朴な風柄に違わぬ結果にシプロスは安堵した。

 

 青い瞳を見上げるその灰色の瞳に、青い光がぼんやりと浮かびはじめていた。

 風が流れ、桜の枝がざわめく。何かが始まろうとしているような静寂が広場を包み込む。

 カナは像を見上げたままで、静かに、儚げに立ち尽くしていた。月を覆う雲が晴れるように青い光が溢れ出し、カナを包んでいく。

 シプロスは漠然とした不安に駆られた。

 もしかしたら、このまま消えてしまうのではないか——

 

「カナ」

 

 手を伸ばしたシプロスが、カナの肩に触れた。

 

 瞬間、世界が一面の闇に包まれた。頬を撫でる風は止み、雨の残り香も、目の前にいたはずのカナの姿まで消えてしまっている。

 

 何が起きたのかわからないまま立ちすくんでいると、背後から白い光がシプロスを包んだ。振り返ると、青い光の玉がシプロスを追い越していった。それを追いかけるように、赤色と黄色の玉が巴を描いて飛んでいく。

 

 三つの光はやがて大きな一つの光となって、三人のシルエットを浮かび上がらせた。

 

 ——行かなきゃ。

 

 シプロスは、なぜか走らなければいけないと思った。顔を上げた時、一人のウマ娘と目が合った、気がした。

 

『久しぶりだね』

 

 頭の中に声が響く。

 

『君はもう、わかっているね』

 

 シプロスははっとした。赤い光を纏う、その声の主は——。

 

「XXXXXX様」

 

 呼びかけたその時、再び闇がシプロスを包んだ。がくんと床が抜けるような感覚がして重力がなくなった。

 上がっているのか、落ちているのかすらわからない。暗闇の中で、激しい風の音が耳を突く。

 いつまで落ちれば……違う。

 私は今、飛んでいるのだ。

 それと理解した瞬間、突然視界が晴れて、シプロスは夜空へと放り出された。

 落ちるという恐怖感はなかった。まるで月にでもなったかのように、身体がふわりと浮かんでいる。

 

 眼前には満天の星空が広がっていた。

 遠くには雪を被った高い山が聳えていて、無数の流れ星がその絶壁を白く照らし出している。足元に目を向けると、濁流が砂漠を洗い流して荒地を生み出していた。瞬きをする間に草が芽を出し、木が枝を伸ばし、深い森が育ってゆく。

 数万年の時の流れが、一瞬のうちに過ぎ去っていった。

 

 感動的なほど美しい景色のはずなのに、主観的な感情の変化が訪れないことでシプロスは悟った。

 これは、自分の目で見ている、いや、見てきた景色ではない。

 これは、カナの魂の軌跡だ。

 どこまでも続く森の向こうで、地平線から太陽が顔を出した。星が霞み、空が白く染まってゆく。それに合わせるように、急激に高度が下がりはじめた。

 

 次第に身体が重さを得て、地面に足がついている感覚が戻ってくる。

 

 ——ああ、終わってしまう。

 

 突然、意識が現実へと引き戻された。自分の意志とは無関係に、視界が開けていく。

 どくん、と体の奥で何かが跳ねた。カナの肩に触れたまま、シプロスはゆっくりと息を吐いた。

 さっきまで見ていた光景は、もう何一つ残っていない。ただ、足元に散る桜の花びらだけが、現実のものだった。

 

 シプロスは目眩を覚えた。

 それでも、三女神がそうさせたと思うと、なぜか妙な納得感があった。

 あの赤い光はきっと、あの日と同じ柘榴石の女神様。私のことをちゃんと覚えていてくれたという幸福感が、シプロスの胸に溢れていた。

 

 カナを包んでいた青い光がすうっと消えていく。

 現実へと引き戻されたカナは、その目に涙を浮かべていた。

「あれ、私……」

「大丈夫。見惚れていたのよ」

 シプロスはハンカチを出して、カナの顔を拭ってやった。

「ごめんなさい。なんか、すごい景色が見えて、どうしようもできなくて」

 シプロスはカナの背中を撫でてやった。

「……わたし……」

 カナは何かを言いかけたが、それは言葉にならなかった。

 シプロスは震えるその手を握った。指先が冷たくなっている。

「言わなくて良いわ。けど、今見たものを、しっかりと、胸にしまっておきなさい」

 シプロスは、自分が当時のお姉様と同じことをしていることに気づいた。これが啓示と対をなすといわれる「継承」の正体か。

 お姉様はこうも言っていた。例え女神様であっても、当人が何を選択するかまではわからない。だから少しでも真っ当に生きてほしいと願い、魂の軌跡を見せるのだ、と。

 

 その時、シプロスの耳が、広場の静寂を破る足音を捉えた。

「やあ、シプロスだったか」

 よく通る声が広場に響く。かけられた声に振り返ると、そこには眼鏡のウマ娘が立っていた。肩より少し長い黒髪をざっくりと束ね、膝下まである裾の長い白衣が風に揺れている。その様子が、雪の中に聳え立つ一本の黒曜石を思わせた。

「マダム・ラピアス」

 向き直ったシプロスが丁寧に頭を下げた。

「おはようございます、マダム」

「おはよう」

 ラピアスは二人の前へやってくると「啓示は済んだかね」と鷹揚とした様子で尋ねた。

 

「見ていらしたのですか」

「なに。三女神様のお導きだよ」

 ラピアスは女神像を仰ぎ見た。

「新入生が啓示を受ける時には揺らぎを感じる。女神に導かれた魂が目を覚ました証だ」

 ラピアスは白衣のポケットから煙草を出して燐寸を擦った。吐き出された紫煙とともに芳ばしい香りが辺りに流れる。

 大きく煙を吐いた時、ラピアスはシプロスの後ろに控えているカナに気づいた。

 

「その子が、君の担当か」

「はい」

 シプロスは、手振りだけでカナを引き出した。

「ほら、ご挨拶なさい」

「新入生の、ルスティカーナと申します」

 緊張しながらも整ったお辞儀に、ラピアスは満足げに頷いた。

「篠田アスクラピアス、四十四期だ。今は学園の救護室を預かっている」

 ラピアスは簡潔に自己紹介をした。

 レースに出ると言う都合上、学園の授業は大半が選択制だ。よって年齢と授業の進みは乖離していることが多く"何年生"という表現があまり意味をなさない。内外を問わず、府中のウマ娘同士は、名前に続けて自分が何期生なのかを明らかにすることがマナーとされていた。

 

「マダムはお医者様なのよ」

 シプロスに耳打ちをされたカナが、尊敬の色を浮かべてラピアスを仰ぎ見る。その灰色の瞳を覗き返したラピアスが破顔した。

「そうか。君がラピスラズリの瞳に啓示を受けたのだな」

 カナはきょとんとした顔でラピアスを見上げていた。

 

「啓示、って、なんですか?」

 カナは戸惑いをそのまま声に出した。

「三女神が、君の魂を目覚めさせたのだ。魂の奥底に眠る記憶を呼び覚まし、君の正しい生き方を教えてくれる」

 ラピアスは女神像を仰ぎ見た。

 

「そう。私も、あの青き瞳に導きを受けたのだ」ラピアスはポケットから皮袋を取り出した。咥えていた煙草をそこへねじ込み、女神像へと足を向けた。

「祝詞を教えよう。来たまえ」

 不安げにこちらを見るカナに、シプロスは黙って頷いた。

 

 ラピアスは瑠璃の瞳を持つ像の前に立ち、膝をついて手を合わせた。カナは後ろに控えてその様子を見守っている。

「御女神の御前に(かしこみ)(まお)す。魂は祈りと共に宇宙(てんくう)を超え、輪廻の果てに現世に生を与え給う。豊葦原(とよあしはら)に満ち満ちる瑠璃の弥栄を言祝(ことほ)ぎ奉り、一門不断の努力を以て益荒娘(ますらめ)を顕現させん。心は天意を悟り、誠意に満ちて大志を貫徹す。いざ我ら志を繋ぎ進み行かん。御御霊(おんみたま)の功徳を以て我らを導き給へ」

 応えるように吹いた風が桜の花びらを舞い散らせる。

 ラピアスはその風に抱きしめられるように、じっと目を閉じていた。後ろに立つカナの視界の隅で、青い光がきらりと瞬いた。それは、ただの光のいたずらかもしれない。しかしカナには、まるで女神が微笑みかけたかのように見えた。

 

「……女神、様?」

 その小さなつぶやきは、舞い落ちる花びらとともに風に乗って消えてしまった。

 

 目を開いたラピアスが静かに立ち上がる。白衣の裾が翻り、ふわりと風が舞う。その黒檀のような黒い瞳が、瑠璃色の輝きを纏っているように見えた。

「女神様のお導きだ。君の名を、我が一門に加えよう。我ら瑠璃のウマ娘が拠り所とするものは『愛』。親や友を想い、師に尽くし、分け隔てない慈愛の心を持つことを信条とする」

「慈愛の、心……」

 カナはラピアスを見上げたままで小さくつぶやいた。自分にそんな素質があるだなんて、今まで考えたこともなかった。

 

「私も、そんなウマ娘になれるでしょうか」

「なれるさ」ラピアスは頷き、力強い目でカナを見た。

「君がシプロスに選ばれたのも女神様の思し召しだろう。よく学びよく走り、立派なウマ娘になりたまえ」

「はい!」

 昨夜、シプロスが自分に向けてくれた愛情に、できるだけ答えていこうと決めた。女神様はそれを教えてくれたのかもしれない。カナは、まだ治らない胸のざわめきに応えるように、大きな声で答えた。

「一生懸命、努力します」

 この感情がきっと、不安というものでないことだけはわかっている。自分は、たくさんの人に見守られているという気づきが、カナの心に大きな安心感を与えていた。

 カナはふっと息を吐いた。自分でも気づかないうちに、肩の力が抜けていた。

 

 遠くから、パタパタと足音が聞こえる。

 誰かが、こちらへ駆けてくる。

 風に散る桜の中を、小柄なウマ娘が軽やかな足取りで駆けてきた。割烹着の裾がふわりと揺れ、三角巾の下から覗く栗毛の髪が風にそよぐ。

 

 まるで燕のように、そのウマ娘は真っ直ぐにこちらへと走ってきた。

「あら。ラピアス先生もいらしていましたか」

 その澄んだ声にラピアスの耳が動く。声の主は、小柄なウマ娘だった。

 

「やあタルナ。おはよう」

 ラピアスは手を挙げて気さくに応じた。

 早乙女タルナことマダム・タルナは会釈を返した。彼女はシプロスの属する柘榴石の一門を束ねる長であり、学生寮を統括する寮母でもある。しかも入学以来、十七年も学園に籍を置いている重鎮だ。

 

「君も"揺らぎ"を感じたのかい」

「ええ。今年はどんな子かと思いまして」

 タルナがカナへと目線を移す。それ気づいたラピアスはカナの肩に手を置いた。

「啓示を受けたのはこの子だが……しかし、瑠璃なのだよ」

「まあ。では一体誰でしょうか」

 タルナは顎を摘み、カナをじっと見つめた。カナを選んだのが瑠璃の女神なら、タルナの魂が揺れることは考えられないからだ。

 少し迷った後、シプロスは一歩前へ出て言った。

「私が隣におりましたので、そのせいだと思います」

 カナに触れた時の不思議な体験が揺らぎなら、もしかしたら、自分を通して長であるマダム・タルナにまで心が通じたのかもしれない。それになにより、この場で啓示に関わっているとしたら、自分しかいない。

 

「まあ、シプロスもいたのね」

 タルナはシプロスに駆け寄ってその白い頬を撫でた。しかしシプロスの目を見た途端、その柔らかな顔が僅かに曇る。

 

「あなた、また早起きをしたわね」

「いえ、そんなことは」

 シプロスは咄嗟に繕った。本当は夜明け前に起きていたが、タルナの前でそれを認めてしまうと、彼女を落胆させてしまうと思ったからだ。それを見透かしたように、タルナは続ける。

「たまにはちゃんと寝ないとだめよ。あなたたちは学園の生徒である前に、私の誇りなの」

「すみません」

 シプロスは素直に謝った。

 

「私は、あなたたちが無理をしているとわかれば諭すし、間違った道を選ぼうとしていれば全力で引き留めるわ。あなたも、それはわかるわよね」

 その有無を言わせない調子は、教師が生徒に向ける言葉というよりは、母が子を優しく叱るような温かみを持っていた。

「でも、最後に決めるはあなた自身。私はあなたが何を選んでも、その選択を最後まで見届けるわ」

 タルナはもう一度シプロスの頬を撫でた。シプロスにはその手の温かさが、まるで本物の女神のように感じられた。

 

 彼女は既婚者ではあるが子供はない。それゆえか、寮生を子供のように扱うことが多かった。甘やかしが過ぎると批判する者もいるが、彼女は確かに、親元を離れて暮らす生徒たちの心の拠り所なのであった。

 

「ところでシプロス、もうお祈りは済ませたの?」

「いいえ、私はまだ」

「それなら、一緒にお祈りをしましょう」

 タルナが三角巾を取ると、三つ編みにされた栗毛の髪がふわりと落ちた。

「はい。ぜひ」

 シプロスは笑顔で答え、二人は女神像へと足を向けた。

 

 ラピアスは像へ向かう二人の背中へ「私たちは隅で休んでいるよ」と声をかけ、手招きでカナを呼び寄せた。

 ラピアスとカナは像から少し離れたベンチにかけた。

「ルスティカーナ君、だったね」

「はい」

「医者を生業とする私が、魂だ祝詞だと宣うのは不思議に思うだろうが、せっかくだから話しておこう」

 カナは姿勢を正し、両耳をラピアスへと向けた。

 ラピアスはポケットから新しい煙草を出して燐寸を擦った。

 小さな炎が揺らぎ、白い煙を立ち昇らせる。

「君は、ウマ娘とは何か、そう考えたことはあるかい」

 ラピアスは煙とともに問いを投げかけた。カナが首を横に振ると、ラピアスは遠くを見つめたままにゆっくりと語り出した。

「私たちはヒトと同じ姿形をしているが、ヒトならざる力を持っている。もし、ウマ娘をウマ娘たらしめるものが『魂』と呼ばれるものならば、それはきっとヒトの輪廻の外にある。だから我々は継いでゆかねばならない。ウマ娘の魂とその想いを」

「継いでゆく、想い……」

 カナは一生懸命に理解しようとしたが、ラピアスの言い回しはカナにはまだ難しかった。

 けれど、不思議とその言葉はすんなりとカナの心に染み込んでいった。

 

「いいんだ」

 困り顔のカナを見て、ラピアスは優しくその頭を撫でた。

「今はまだ、私の言っていることがわからなくてもいい。ただ、君に選択の時が訪れた時に道を違えないように話しておくのだ。未来に何が起こるかなんて、誰にもわからない。私はただ、君にまっすぐに生きてほしい。それだけだ」

 ラピアスはカナの頭をくしゃくしゃと混ぜた。何人ものウマ娘の、その光と闇を見続けてきた二つの瞳は、まだ見ぬ未来に輝く純粋さを慈しんでいるようだった。

「心配はいらない。君の道はすでに示された。一門の長として、その魂に恥じない人生を期待しているよ」

 

 ラピアスが話を締めくくるのに合わせたように、祝詞を終えた二人が戻ってきた。

「済んだかい」

「ええ。今日も凛々しいお姿でしたわ」

 タルナは満足そうな笑顔を浮かべていた。同じく一門を率いる立場として、後を任せられる者と共に女神の前に膝をつくというのは心を満たす行為だ。

 ラピアスは腰を上げた。

「では、私はこれで失礼するよ。救護室をいつまでも空にしておくわけにはいかないのでね」

 そう言い残して、ラピアスは白衣を靡かせて踵を返した。その後ろ姿に、カナは自然と目を奪われていた。その後ろ姿が、どこか遠くを見据えているように見えた。

 

「じゃあ、私も行くわね」タルナは三角巾を被り直した。

「そうだ、今日のお夕飯はとんかつよ。たくさん食べて、明日もがんばりなさい」

「ありがとうございます。マダム」

 礼をする二人に見送られて、タルナは現れた時と同じように、春風と共に去って行った。

 

 こうして、広場には二人と、暖かい陽光だけが残された。

「私たちも行きましょうか」

「はい。お姉様」

 一歩を踏み出す直前に、カナはもう一度女神像を仰ぎ見た。

 その青い瞳は、静かにこちらを見守っているようだった。

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