翌日、午前八時。
シプロスは第三音楽室の札が掛かった引き戸を開けた。締め切られていた部屋の中の、日焼けしたカーペットの臭いがどっと押し寄せてくる。
戸を開けたままにして部屋に入り、分厚いフェルトのカーテンを開いた。
そして籠った空気を入れ替えようと、全ての窓を開けてまわった。廊下に出て、中庭に面した側の窓を開けていくと、ふいに吹き込んだ風が彼女の栗毛をふわりと揺らした。
二階の廊下からは、中庭を挟んで救護室を見下ろせる。そのカーテンが閉まっている様子を見たシプロスは音楽室へと戻った。
すっかり明るくなった部屋の隅で、艶のあるグランドピアノが、その重厚な佇まいをより際立たせている。
中学校では一台でも贅沢と言われるグランドピアノも、学園には四台が置かれていた。
唱歌の授業で使われるほか、高等科では楽器演奏が選択科目として取り入れられている。生徒には自由に弾くことが許されているので、センスのある演奏は、校内でのささやかな癒しとなっていた。
椅子にかけたシプロスは鍵盤蓋を開け、フェルト製の赤いキーカバーを退けた。椅子の高さを合わせて、屋根は開けないまま、鍵盤に手を置いた。
静かに指が落ちる。音の粒が、くぐもった朝の空気に、静かに溶けていく。
当然、難しい曲から始めるようなことはしない。
最初はエチュードを数曲、次にソナティーネを数曲。シンプルで美しい旋律の繰り返しが、指と鍵盤を少しずつ温めていく。
いつものルーティンを終えたシプロスは、静かに席を立った。
それから踏み台を出し、台に乗って屋根を一杯に開いた。
再び椅子に座って、記憶の奥に眠る旋律を、ひとつずつ鍵盤の上に呼び出していく。探すのは、朝に聞いてもうるさくない、明るくて美しい旋律を持つ曲。
しばらく考え込んだ後、鍵盤に手を置いて呼吸を整えた。そして、最初の音が空気を震わせた。
選んだのは、ラフマニーノフ作、交響曲第二番三楽章の一節。流れる音の海に身を任せて、レースで見せる闘志や鋭さとは違う、豊かで、繊細で、柔らかな旋律──そんな表情を指先が綴っていく。
開け放たれた窓からこぼれ落ちた音は、中庭へと流れ出ていった。土曜日の朝、まだ誰もいない教室棟が、音で満たされた。
指先から生まれる旋律に、意識のすべてを傾ける。目を閉じていても、その指は鍵盤の上を滑らかに滑っていく。
きりのいいところまで弾きあげて眼を開けると、視界の隅で、見慣れた耳飾りが揺れていた。
「ラフマニーノフだなんて、珍しいじゃない」
入口にもたれたリーベは、体操服姿に練習用の薙刀を携えていた。道場からまっすぐやってきて、弾き終わるのを待っていたらしい。
「アイリ、いつからいたの」
シプロスは、その栗毛の髪をふわりと持ち上げて風を通した。
「こういう音を弾くのは、きっとあなただと思って。走ってきちゃった」
リーベは軽い足取りでやってくると、シプロスの顔を覗き込んだ。
「それに、怪我人に聞かせるには良い選曲だと思うわ」
そう言ってシプロスの肩に腕を回して、にやにやしながらその頬を突いた。
「別に、そういうのじゃないし。ただの練習」
シプロスはむくれてそっぽを向いた。
「そう? なら、そういうことにしておいてあげる」
リーベは不敵な笑みを浮かべて、わざとシプロスの視界に入らない席についた。
薙刀を丁寧に床に置き、ゆったりと椅子にかける。
「それじゃ、もう一曲お願いしようかしら。曲は……おまかせで」
そう言ってシプロスの背中を見つめるリーベ。彼女は、演奏が始まる直前の、少し緊張した空気が好きだった。
「……なら、ブラームスの間奏曲Op.118-2を」
シプロスは再び目を閉じ、静かに鍵盤に手を伸ばす。
澄んだ音が、また、部屋の中を満たしていった。
*
ラピアスがカーテンを開けると、坂井東一はベッドの上で、薄く眼を開けて窓の方を向いていた。
「おや、起きてたかい」
声をかけられて、坂井はゆっくりとラピアスの方を向いた。
「きれいな音がして、目が覚めました」
その声は掠れていた。半日以上何も口にしていないのだから、無理もない。
「これでも女学校だからね。煩いだろうが、我慢してくれ」
ラピアスは小さな盆の上に、白い錠剤と湯呑みを乗せていた。
「飲めるか? 痛み止めだ」
そっと頭を支えて口に錠剤を放り込み、湯呑みを傾けてやった。半日ぶりの水が、坂井の喉を大きく鳴らす。
「大丈夫そうだな。もう一口飲みなさい」
「んぐ、っ……はぁ」
口の端から一筋の雫が溢れる。ラピアスはガーゼを手に、丁寧に拭ってやった。
「落ち着いたかい」
「……はい。ありがとう、ございます」
坂井の目に、ゆっくりと光が戻っていく。窓の外、中庭の景色が、はっきりと見えてきた。
ピアノはまだ、遠くで鳴っていた。その隙間を縫って、遠くからはウマ娘たちの掛け声も聞こえてくる。
「朝から賑やかだろう? これが毎日さ」
ラピアスは穏やかな声で言った。それは変わらない日常を愛しんでいるように見えた。柔らかいベッドの上で、坂井はなんだか満たされたような気持ちで、美しい旋律に耳を澄ませた。
「きれいだなぁ」
坂井は素人なりに、精いっぱいの感想を口にした。
「飛行場で聞くエンジンの音とは、大違いだ」
「そりゃあ、お前さんには新鮮かもね」
ラピアスは、懐から一本の煙草を取り出して口を折った。
そして「ほれ、口を開けな」と差し込んで、火をつけた。
「ふう、あ痛てて。こんな朝なら、いつだって大歓迎ですよ」坂井は紫煙を吹いて、満足げに微笑んだ。静かな旋律が、煙とともに緩やかに流れていく。
「ピアノならまだいいほうさ」
ラピアスはもう一本煙草を取り出すと、ベッドの脇に置かれた小さな椅子にかけてから燐寸を擦った。
「この時間からトランペットなんぞやられてみろ。ありゃあたまらんぞ」と苦笑した。しかしそれは、はしゃぎ回る子供を見た母親がするような顔だった。
「いいじゃないですか」坂井も笑顔で続ける。
「色々な趣味があるほうが、毎日楽しいでしょう。飛行場にいると、どうしても皆、同じものが好きですからね」
「同じ方向を向いている集団というものは強い。それはそれで大事なことさ」
その時、ひときわ豊かな旋律が飛び込んで来て、室内は一瞬のうちに音で満たされた。
「なんて優しい音だ」ラピアスは耳ごと中庭へ向いた。これほどの腕前のウマ娘は学内でもそういない。シプロスの仕業だとあたりをつけたラピアスは、坂井へと向き直った。
「坂井君。梨の花を見たことがあるかい? 桜のような花弁をした、真っ白で美しい花だ」
「梨……梨なら、飛行場にも生えていますが……」
「"Birnenspross"、アンタを担いできたウマ娘の名だよ。Birneとは、梨のことだそうだ」
「べるねんしぷろす……さん、ですか」
「昨日は、ずっと君の面倒を見ていたんだよ」
「そこまでしてもらったのに、きちんとしたお礼も言えないままだなんて、本当に申し訳ないことです」
しょんぼりとする坂井を見て、ラピアスは肩をすくめた。
もし、
つまるところ、私がとやかく言わなくても嫁ぎ先に困ることはないだろう。二種候補生に選ばれるほど成績が良いのだから、進学して身を立てる道だってある。
そのシプロスが十六で、この男が二十三。国選一級操縦士ほどの高給取りとくれば、文句はない。
──なるほど、わかった。
もちろん、私情なんて微塵もない。こんな面白……いや、貴重な機会をみすみす逃してしまうのは勿体無いだけだ。
せっかく繋がった縁だ。年長者として、若い二人の仲を取り持ってやろう。
内心でほくそ笑んだラピアスは「それなら、腕が治ったら手紙を書くと良い」と、さらりと言った。坂井がはっとして顔を上げる。
「ここは国立の学校だ。手紙でも小包でも、府中ウマ娘修練学園とさえ書いておけば届く」
「本当ですか!」
坂井の顔がぱっと明るくなったのを見て、ラピアスは満足げに頷いた。
「ありがとうございます、先生」
その言葉に、ラピアスの耳がぴくりと跳ねる。
「先生?」ラピアスはきょとんとして目をしばたかせ、「あっはっはっは!」
医学校を卒業してこの方、滅多に呼ばれない敬称を耳にして、ラピアスは思わず高笑いをした。
戸惑う坂井に「いや、すまんすまん。ここじゃ年長のウマ娘は、皆マダムで通るんだ」と、その頭を掻き回した。
「あんまり堅苦しい呼び方は、しなくていいよ」
「えっと、ありがとうございます。……マダム」
「結構」ラピアスは照れる坂井の口から短くなった煙草を抜き取り、皮袋にねじ込んだ。
「薬が効けば眠くなる。迎えが来たら起こしてやるから、ゆっくり寝てな」
カーテンが閉じられて、寝台が柔らかな光につつまれる。
いつのまにかピアノの音色は消えていて、授業の始まりを知らせる鐘の音だけが、坂井を静かな眠りへと押しやっていた。
*
北村・L・カリュオンは今年で三十五歳。宇都宮航空研究所、試験課は課長の席にあり、坂井と同じ国選一級操縦士にして、その上司である。学園を卒業してからは航空工学を学び、航空機設計家としても名を上げた人物であった。
昨日の午後、坂井不時着の報を受けた彼女は、払暁とともに部下を連れて宇都宮を出発。自らトラックを駆り、数年ぶりに、母校府中までやってきたのだった。
二限目の授業が始まって、教室棟が静かになった頃。
日の光で明るく染まる廊下に、五、六人の足音が響いていた。
「わざわざ君が来ることもなかっただろうに。忙しいんだろう?」
「上司ですから、このくらいはしてやりませんと」
「変わらんね。そこが君の美点だよ、カリン」
そして、足音は救護室の前で止まった。
「皆、少し待っていてくれ」
ラピアスの声が廊下に響く。
カラカラと引き戸の開く音がして、入ってきた二つの足音が寝台の前で止まった。
「ここだ」
寝台を仕切るカーテンが、さっと開いた。
「坂井君、お迎えだよ」
坂井がぼんやりと目を開けると、白いツナギの前をはだけさせ、袖を抜いて腰に巻いた──見覚えのある姿が立っていた。
どこか油の匂いがして、通い慣れた格納庫に連れてこられたような気がした。
「坂井。おい、わかるか? 私だ」
耳がある。ウマ娘──誰だったか。ああ。
「姐、さん?」
「迎えにきたぞ。ずいぶんな怪我らしいな。痛むのか?」
「あ……ぇ」
坂井は虚ろな目を向けた。焦茶色の瞳が、カリュオンの耳のあたりを彷徨う。
「あの、先輩」
カリュオンの不安げな声に、ラピアスがあゆみ出る。
「心配ない。ちょっと貸せ」
すぐに脈を取り、指先を心臓のあたりに当てた。
「搬送に備えて、少し強い薬を飲ませてあるんだ。もうすぐ眠る」
「あいつは……船崎は、生きて、ますか」
坂井は朦朧としながら、精一杯に口を動かしていた。
「あれが飛行機から落ちた程度で死ぬものか」カリュオンは精一杯力づけるように「川上に付き添われて、今頃は汽車の中だよ」
「よかった……」
大きく息を吐くと、その全身から力が抜けて、胸がぐっと沈んだ。
「……あぁ、姐さん」
傷だらけの左腕が弱々しく持ち上がる。カリュオンは、すぐに膝をついてその手を取った。
「なんだ、水か?」
坂井の唇が静かに歪む。
「お……俺、落とし……」
声が震え、言葉の続きが掠れた。
ガーゼを貼られた頬を、透明な粒が伝う。
二三という若さで得た国選一級操縦士の肩書き。仲間を助けるための決断。誇りのために捨てた命。そして拾われた喜びと、確かに感じる傷の痛み──それらが、カリュオンの姿を見た瞬間に堰を切った。
「いいんだ。飛行機なんて、また作ればいい」
カリュオンはその手を胸に抱きしめ、「とにかく、生きていてくれて、よかった」
「あり、が……」
声は尻すぼみに消え、瞼が音もなく閉じた。眠りに落ちた生傷だらけの頬に、わずかに笑みが浮かんでいる。
頬に残った涙の跡を、カリュオンは手拭いで丁寧に拭いてやった。
やがて呼吸が落ち着いて、坂井の胸がゆっくりと上下する。カリュオンはその刈り上げた頭を軽く撫でると、すっくと立ってラピアスへと頭を下げた。
「ラピアス先輩。本当にありがとうございました」
ラピアスはその誠実な態度を好ましく思った。
「助けたのは生徒たちだ。そして我らが後輩たちは、ウマ娘の何たるかをきちんと理解している。結構なことじゃないか」
ラピアスはしみじみと頷き、「これは坂井君の私物と、手当の記録だ」と白衣のポケットから二つの封筒を出した。
「記録は医者に渡してくれ。見せればわかる」
「ありがとうございます」
カリュオンは恭しく受け取った封筒を、しっかりとツナギのポケットへとしまった。
「ようし、入ってこい」
カリュオンの合図を聞いて、二人の男が救護室へ入ってきた。
二人は担架を手早く開き、坂井を移す。薄い毛布をかけてやり、麻紐をかけた。手足を丁寧に固定された坂井は、すっかり梱包されてしまった。
廊下からは、生徒会の腕章をつけた三人の生徒が、その一部始終を見つめていた。
声をかけるでもなく、手伝う素振りすらみせない。ただ口を固く結び、警戒の色を帯びた視線が救護室の中を走る。
避けるような視線が飛び交う中で、カリュオンは、自分がもはやこの小さな箱庭には戻れない存在であることを察した。
自身が卒業してから、まもなく十七年が経とうとしている。
これだけの時間があれば、我が母校──それは、誇りという言葉と同義であった世界──を変えてしまうには十分なものらしい、と。
坂井が運び出されると、生徒会生らも担架と共に廊下へと消えていった。
その後ろ姿に一瞥をくれた時、カリュオンは大切なことを思い出した。
「そうだ先輩。坂井を助けた生徒の名前は? 礼を言わなければ」
「残念だが」ラピアスはゆっくりと首を振り「本科生だから今は授業中だ。それとも、呼び出すか?」
「そういうことであれば」と、カリュオンは耳をぴんと立たせた。その顔に、上司としての色がすっと浮かびあがる。
「坂井が快復してから、改めて挨拶に参ります。妹のアルセにも、よろしく伝えてください」
先輩であるラピアスの前だからか、それとも、母校の空気がそうさせるのか──彼女は、きびきびとした礼を返した。
「トラックを待たせてあるので、今日はこれで失礼します」
美しいほどの回れ右で、カリュオンが背を向ける。
「カリン」
その背中へ、ラピアスが呼びかける。もう振り返らないと分かっていて、それでも言葉を贈った。
ラピアスは燐寸を擦り、紫煙をくゆらせながら言った。
「次は仕事抜きで来な。新しい飛行機の話、聞かせておくれ」
振り返ることなく、カリュオンは耳が揺れるほどに力強く頷いた。廊下へ踏み出し、軽快な足取りで廊下を駆けていく。
立派になったな──。ラピアスは満足げに紫煙を吹いて、その背中を見送った。
引き戸を閉めると、すっかり静かになった救護室に、穏やかな空気が戻ってきた。
「さて、と」
ラピアスは深く椅子に腰を下ろし、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
机の上には、医薬品の注文書が乱雑に広げられている。
ガーゼ、包帯、いくつかの消毒薬、そしてモルヒネ。
一人の命を救うために、これほどの物資を費やさねばならないのかと、ラピアスは坂井が運び込まれた直後の光景を思い出す。
刺さった木片、あふれる血、瞬きも許されぬ処置。絹糸と、皮膚を貫く縫合針。
一日ではとても薄れようのない、鮮明な緊張感が背筋を走る。
学校医が手術をすることなど滅多にない。今回の事態は、まさに例外中の例外と言っていい。
だが、指先に残る縫合糸の感触が、医者としての未熟さを突きつけてきたように思えた。
ペンを取った瞬間、手の震えに気づいて動きを止める。
インクが滴り、伝票に黒い染みをつくった。
小さな舌打ちが、誰もいない救護室に響き渡る。
ペンを放り、煙草を取り出す。折りもせず咥えたそれは、火をつける前から苦かった。
*
数日後、シプロスは生徒会室に呼び出された。
理由はもちろん、人命救助に対する感状の授与である。
ロートアスターの素早い根回しによって、アザーレア会長以下満場一致で「学園功労賞」の設置が決められたのだ。
この賞は、レース以外の社会貢献において多大なる成果を挙げ、学園の名誉を高めた生徒に授与される褒賞、というものである。表彰するのはあくまで生徒会で、賞状は授与されるが、そこに特権が伴うことは今の所ない。
アスターからすれば、上奏に際してユラナス議員の小言程度は覚悟していたのだ。が、その返答は「許す」一言と、至極あっさりしたものだった。ただし、その声色に滲んだ一瞬の沈黙は、アスターの背筋をわずかに冷やした。
ともあれ、議員が許したとあれば、アザーレアにも拒否する理由がない。企画書は当日のうちに生徒会の審議を通過し、今日に至った。
そして、シプロスはその第一号として、はからずも学園の歴史に名を刻むことになった。
*
よく埃を落とした制服、磨かれた校章バッヂと、金の桜が輝く優駿章。学園の定める正装に身を包んだシプロスが、生徒会長アザーレアの前に立つ。
「貴殿は学園の発展伸長に寄与され、その功績はまことに顕著であります。よってその功績を讃え表彰します。昭和十八年八月一日、府中ウマ娘修練学園高等女学校生徒会長、アザーレア」
差し出された賞状を手に取る。
生徒しかいない中で行われる、あまりにも形式張った式典に、シプロスは一歩間違えると面白くて吹き出してしまいそうだった。つとめて感情を出さないように、一歩引いて礼をする。すると、見守っていた生徒会生たちがまばらな拍手を送った。
事務方のウマ娘から筒を手渡された時、隅に控えているウマ娘と目が合った。
レースに勝ったわけでもないのに賞状か、とでも言いたげな冷ややかな視線が、一瞬だけシプロスの胸元を見てすっと逸れた。シプロスは優駿章に着けた二つの金の桜──ウマ娘鍛錬競争甲級優勝の証──を意識するように姿勢を正し、丁寧に賞状をしまってから、生徒会室を後にした。
カラカラと引き戸を閉める。誰もいない廊下に、その音は嫌に良く響いた。
「お疲れさま」
廊下では、運動服姿のリーベが壁にもたれて待っていた。その手には、ほとんど空になったサイダーの瓶が握られている。瓶の中で、最後の泡がひとつだけ、音もなく消えた。
「ありがとう」
二人は昼の日差しが斜めに差し込む廊下を抜け、階段へと向かう。磨かれた床に窓の格子がくっきりと影を落とし、人影のない日曜の校舎に、靴音だけが規則正しく響いていた。
「それで、功労賞の栄に浴したご感想は?」
「別に」シプロスは賞状を入れた筒に目を落とし、手元で軽く回した。
「当たり前のことをして表彰されるって、変な感じ。お堅くて面白かったけど」
「結果論だけどねシプロス。私はあの時、爆発でもしたらどうしようって、冷や冷やしてたのよ」
「だって、あそこで行かなかったら誰が行くの」階段を降りながら、シプロスは窓の外に揺れる欅の葉を一瞥した。
「警察を呼んでくる暇なんて、なかったでしょ」
「それで貰えるものが紙切れ一枚と、あのまばらな拍手? まるで見合ってないわね」
「あなた、損得で人助けをするつもり?」
「失礼ね。そうじゃないけど──」
リーベは空の瓶を逆さにして、光に透かした。底に残ったわずかな水滴が揺れ、また静かに沈む。
「人を褒めるなら、名誉よりも物とか、お金のほうが、ずっとわかりやすいじゃない」
「そういうところ、本当にあなたらしい」シプロスはやっと小さく笑みを浮かべた。
その様子を見たリーベも「そうでしょ」と言って口元を緩め、瓶をくるりと回した。
「しょうがないから、私がハニーミルクティーをおごってあげる。無事に帰っていったパイロットさんの分も、ね」
*
昭和十八年八月三日、朝五時。
正門前広場。
「気をつけー! 礼!」
制服に身を包んだ一団が、綺麗な隊列を組んで並んでいる。向き合うように、運動服の一団が学園旗を掲げて、こちらも行儀良く列を作っていた。
前列にはユノークローネをはじめとする各寮の寮長が、後列のあたりにはシプロス、リーベ、カナやプラムの姿も見える。壇上には生徒会の腕章をつけた生徒が立ち、傍には生徒会長以下、学園の首脳陣が並んでいた。
「これより、昭和十八年度夏季合宿、第三次園田遠征、並びに第四次函館遠征の壮行会を始める!」
壇上の生徒が高らかに宣言すると、体操服の一団から拍手が上がった。
毎年七月半ばから九月は夏季鍛錬と地方レースの季節で、日本各地から多数のウマ娘が集まる。第三次、第四次という番号付けが示す通り、受け入れ側の都合で、生徒たちは幾度かに分かれて現地入りする。
西の園田ウマ娘鍛錬場には中央、笠松、札幌から、北の函館レース場には中央のほか札幌、笠松、盛岡のウマ娘が集まり、多数の交流レースが繰り広げられるのだ。
府中のウマ娘にとっては、各地で活躍するウマ娘との貴重な交流の機会だ。しかし地方のウマ娘にとっては、府中のウマ娘に勝って「地方特別候補生」──一種候補生相当としてレースに参加し、一着になれば選手へ昇格できる──を掴む、半年に一度のチャンスであった。
「初めに、アザーレア生徒会長より挨拶を賜ります」
いつも通り、糊の効いた制服に身を包んだアザーレアが壇上へと上がった。手に持っていた奉書を恭しく開く。
「遠征に旅立つ皆さん。これから始まる二ヶ月に渡る鍛錬とレースが、皆さんにとって実り多いものであることを心よりお祈りいたします。府中のウマ娘として、礼節と誇りを胸に、栄光を掴み取ってください。皆さんの勇敢で高潔な姿が、やがてこの府中の空をも明るく照らしてくれることを、心より願っております。生徒会長アザーレア、挨拶」
教科書のような礼の後、コツンという靴音だけが壇上に残った。
副会長ロートアスターは、他の生徒会生と共に静かに式の流れを見守っていた。その視線の先には、制服に身を包んだハイペリカムの姿がある。次に会う頃には、木々は黄色みを帯びていることだろう。だから、今は虚飾でもいい。せめて形だけの儀式でもなければ、合宿というには厳しすぎる門出には、あまりにも寂しすぎる──そんな思いを胸に。
「続いて、代表挨拶。第三次園田遠征隊主将、シルヴァティカス一種候補生!」
「はっ!」
赤髪をボブカットにした、獰猛な虎を彷彿とさせるウマ娘が前へ出た。応えるように、運動服の一団から、学園旗を持った生徒が前へ出る。
「我々はより強く、より逞しくなって母校へ戻ることを誓います。練習生は候補生を、候補生は選手を目指し、一丸となって鍛錬に励み、正々堂々とレースに挑みます。それでは、園田遠征隊一一二名、函館遠征隊一三四名、出立いたします!」
すかさず壇上から「万歳三唱!」と声が上がる。白んだ空に万歳の声が響き、同時に、待ち構えていたようにトラックがエンジンの音を轟かせた。
彼女たちは、これから二手にわかれて、それぞれの目的地へと向かうことになる。園田も函館も空路で結ばれているため、監督にあたる生徒会生や、一部の上級生は立川から空路を使う。しかし引率の師範も含め、大半の生徒達は上野または東京から、特別仕立ての急行列車で陸路を行くのだ。どちらも、片道だけで二日を要する過酷な行程だ。
遠征合宿は、形式上は志願の体裁をとっている。
秋の上級レースへ向けて弾みをつけたい者、野心を胸に機会を掴み這い上がろうとする者にとっては、遠征合宿とは、むしろ自らの能力の限界を試す機会として好意的に受け止められていた。
しかし、その志願という言葉の裏には、断りがたい重い空気がべっとりと貼りついていた。
もちろん、レース明けの休養期間中にある生徒には、明確に免除の規定がある。だからこそ、それ以外の「行かない理由がない」者にとっては、ますます断りにくい空気が重くのしかかってくるのだった。
そして、特別枠である二種候補生と特命練習生だけは「対象外だが志願すれば可」と定められていた。しかし、この期間は芝コースを使用する
続々と生徒達が乗り込んで行く中、クラクションとともに最初のトラックが正門を出た。
生徒会生がメガホンを手に「遠征隊諸君の道中の無事を祈って! ばんざーい! ばんざーい!」と吼える。
トラックに道を開けた生徒たちがそれに倣い、ぱらぱらと白い手が上がった。
三〇台近い車列が続き、最後のトラックが門を出る。波が引くように広場が静かになると、生徒達は、解散の号令もなく三々五々帰路についた。
砂埃が静かに地面に落ちるころ、朝の鐘が響いた。残る者にとってはいつもと変わらない、しかし少しだけ静かな、夏の日々が始まろうとしていた。
次回、幕間