宇都宮市は、栃木県中央部に位置する北関東の都市である。
市の中心にある国鉄宇都宮駅から、鉄路を汽車で三十分。鬼怒川を跨いだ東方の丘陵地に築かれた施設が、宇都宮航空研究所だ。
開場は昭和三年。二本の滑走場を備え、管制塔を中心に、格納庫、燃料庫、各種工場といった建物が整然と並んでいる。それは設計から試作機の建造に至るまでを一貫して担うための、日本最大級の研究施設であった。
敷地の北の外れ、支線の終点にある貨物駅に、黒煙とともに機関車が滑り込んできた。様々な貨車を連ねたその最後尾に、木造の小さな客車が一両だけ繋げられている。やがて係員と小さな入換機関車が現れて、客車だけを連れて、隅の短いプラットホームへと入っていった。
白い蒸気と黒い煙が、北風に押し流されていく。
扉を開けて、三ヶ月の入院生活を終えた坂井東一がホームへと降り立った。
北風と共に石炭の薫りが鼻をくすぐり、思わず空を見上げた。十一月の午後、雲ひとつない空には、冬の気配をはっきりと感じる。
冷えると傷が痛むな──。吊った右腕を庇うようにコートの前を合わせた坂井は、帽子を被り、左手に小さな鞄を抱えて歩み出した。
今日の乗客は坂井ひとり。というのも、この駅は宇航研の専用線にあって、国鉄の駅員も置かれていない。利用するのは宇航研に関わりのある者、もしくはその家族だけとくれば、朝夕の学生に便宜を図った便以外は、事前に申請しなければ客車は用意されないのだ。
待合室の引き戸を開けると、中では小ぶりなストーブに置かれたヤカンが湯気を上げていた。
「おや、おかえりなさい」
奥から出てきた中老の守衛が、にこやかに出迎えてくれた。彼はここの駅員代わりとして、街へ出る時にはいつも見送ってくれる。久しぶりに知っている顔を見て、坂井の口元が自然と緩んだ。
「いやあ、やっと帰ってこられましたよ」
「お疲れでしょう」守衛は心から労うように言った。「なんでしたら、自動車を用意しましょうか」
「ああ、それなら」坂井は寒さに疼く傷に顔を歪めながら「八番格納庫までお願いできますか」
「ええ、ええ」
守衛は察した様子で「すぐに出しますから、どうぞ座っていてください」と言って、小走りで出て行った。
坂井は、ストーブを囲むように置かれた長椅子に掛けた。煙草を咥えてみても、左手だけではライターが上手く擦れない。
やっと火をつけて深く煙を呑むと、少しだけ痛みが和らいだ。
窓の向こうには、見慣れた工場の煙突が陽炎に揺れている。耳を澄ますと、金槌の音に混じって、遠ざかっていくエンジンの爆音が聞こえた。
間も無く砂利を蹴るタイヤの音がやってきて、坂井は紫煙を残して待合室を出た。
※
坂井は吊られた右腕を庇いながら、小さな座席に身体を捩じ込んだ。
「では、出します」
守衛の声に合わせて、自動車がぎしぎしと揺れながら砂利道に出る。鋳物工場の煙突を左に見つつ、滑走場に沿った道に出た。
碌な懸架装置もない車体は跳ね回り、隙間風が頬を刺す。腹の傷が揺れのたびに疼き、坂井は思わず眉間に皺を寄せた。
この自動車は扉も屋根も幌張りで、エンジンもフレームも出所不明の品。どこの会社のカタログにも載っていない、得体の知れない代物である。
こうしたオバケ車を作るのは、この研究所の連中だ。よく言えば専門家、悪く言えば機械狂いの寄せ集め。しかも場内には鋳造・切削・研磨といった最新の設備が揃っているのだから、暇をみつけては部品を継ぎ接ぎしては車を仕立ててしまう。
そんな自動車が、宇都宮では十数台も闊歩している。いずれも規格外で奇怪な姿をしていたが、四百ヘクタールを超える広大な敷地を行き来するには、どれも欠かせない足として大いに重宝されていた。
「着きましたよ」
がくんと揺れて、自動車が速度を落とした。
変速レバーをがちゃがちゃ動かして、車体はようやく止まる。
「ありがとうございました」
坂井は幌を押し上げて降り立った。
「では、お大事に」
守衛は軽く会釈し、よたよたとした走りで車を去らせた。
目の前には、大きく「8」と掲げられた木造の格納庫。その大扉は開け放たれ、午後の光が差し込んでいる。高い天井からはクレーンの鎖がきらきらと揺れ、床には解体された「騂風」の部品が並んでいた。
その入り口に、ひとりの影が立っている。
ツナギの袖を抜いて腰に巻いたウマ娘、北村カリュオン──宇航研ただ一人ウマ娘であり、坂井の上司でもある。ここへ直行したのは、帰着の報告を果たすためでもあった。
「坂井!」
カリュオンがすぐに気づき、歩み寄ってくる。
「姐さん」
坂井は努めて明るい顔を作り、深く頭を下げた。
「坂井東一、只今戻りました」
「明日の予定じゃなかったのか」
「操縦席が恋しくなって、抜け出してきました」
懸命に笑う坂井を、カリュオンは黙って見つめた。
「……辛い思いをさせて、本当にすまない」
耳を伏せ、吊られた右腕にそっと手を伸ばす。白い指が包帯の上を撫でると、坂井は思わず息を呑んだ。
「……それでも俺は、パイロットですから」
坂井はその手を取り、力強く答える。
その笑みに、カリュオンもようやく頬を緩めた。
格納庫の奥には、無言で横たわる残骸。扉の外からは冬の風が吹き込み、遠くでは槌の音が響いている。二人は並んで立ち、その一瞬だけ、互いの存在だけが確かなものに思えた。
やがて、その静けさを破るように、ポコポコと調子はずれな排気音が近づいてきた。
思わず振り向いた二人の前に、これまた怪しげな三輪バイクが転がり込んでくる。
「よお坂井、戻ったか」
運転席に跨っていたのは船崎だった。
「ああ、ついさっきな」
「ちょうどよかった」船崎は荷台を指し「後ろのこれ、お前宛だよ」
そこには、部品が詰まった木箱と一緒に、筵で包まれた大きな荷物が載っていた。
「なんだそりゃ、米俵か?」
「ほれ、手紙」と船崎は茶封筒を差し出した。受け取った坂井はすぐに裏を確かめる。
「府中ウマ娘修練学園高等女学校……あの子からだ」
「なんだ。恋文かよ、おい」
茶化す船崎を「黙ってな」と制したカリュオンは、楽しげに煙草を咥え、燐寸を擦った。
坂井は目を輝かせ、左手で器用に封筒を開けた。取り出した薄黄色の便箋には、丸みがかった文字が赤いインクで綴られている。
「"恭敬、坂井様。退院されたとの報せにほっとしております。運動服の件はありがとうございました。余りのお金で厚い木綿の肌着を拵えましたので、どうぞお納めください。空の高いところはとても寒いと聞きます。お身体に気をつけて。次に飛ばれる時も、無事にお帰りになれるようお祈りしています。ベルネンシプロス"」
読み上げた坂井は、晴々とした顔で空を仰いだ。
その隣で、船崎がぽかんとした顔で荷物に目を向けた。この大きな包みの中身がまさか下着だとは、気づかなかったのだろう。
「肌着、って……これ、全部股引かよ」
「余り金ってお前、いくら送ったんだ?」
カリュオンに訊かれて、坂井は少し戸惑ったように「二〇円……ですが」と小さく答えた。
「二〇円⁉︎」カリュオンが目を見開き、咥えていた煙草を落とした。
「おま……運動服だぞ⁉︎二円もあれば釣りがくる!」
その横で「こりゃ傑作だ!」と船崎が腹を抱えて笑い転げる。
坂井は顔を真っ赤にしてそっぽを向きながら、か細い声で「……だって、女物の服の値段なんて、姐さんにだって聞けませんよ」と言い訳する。
カリュオンは額に手を当て、深々とため息をついた。
「お前は──日本一の盆暗だよ」
*
その後すぐ、管理棟・三階。
坂井はカリュオンとともに、所長室のドアを開けた。
この部屋の主は、宇都宮航空研究所所長・菅沼功。彼は英国への留学経験を持つ航空機設計家だ。日本航空史の黎明期を支え、今日もその最前線を走り続けている。坂井にとっては、自分の腕を正面から認めてくれる数少ない上役のひとりであり、最も信頼を置く上司でもあった。
机に積まれた電報には政界重鎮の名が見え隠れする一方で、窓辺には使い込まれた工具が丁寧に箱に収められている。町工場の親方と官僚の顔を兼ね備えたその存在感は、職員たちから「親父」と呼ばれるにふさわしいものだった。
坂井は部屋の真ん中まであゆみ出ると、踵を揃え、できるだけキビキビと頭を下げた。
「坂井東一、只今帰参しました」
机に向かう菅沼は、その細い目に安堵の色を浮かべていた。
「うむ。よく戻った」
「はい。この度は、ご迷惑をおかけしました」
「なんの迷惑なものか」菅沼は堀の深い頬に笑みを浮かべ、「頭を下げて飛行機が作れるなら、この薄いつむじを見せるくらい安いものさ」と、かっかと笑って煙草をふかした。
「いいか坂井。パイロットとは、飛行機の中でも最高級の部品だ。しかも、替えはない」
菅沼は窓の外に並ぶ工場に目を向けた。ここからは、白いツナギの作業員が駆け回っている姿が良く見える。彼らの名を一人残らず諳んじられるのが、菅沼という男だった。カリュオンがパイロットとして宇航研に来たとき、すでに彼はここに立っていた。そして今や、業界でその顔を知らぬ者はいない。
「あいつらもお前も、私が国中から集めてきた粒選りだ」
菅沼は再び坂井に向き直ると、ゆっくりと足を組んだ。
「何も気にせず、満足するまでやりなさい。責任なんてものは、私の机に置いておけばいい」
「ありがとうございます、親父さん」
坂井の口元には、どこか肩の力を抜いたような笑みが浮かんでいた。無事に帰ってきたのだから、あとは現場へと戻るだけ──そんな心持ちが、表情ににじんでいた。
「ああ、そうだ」煙草を灰皿に捻じ込みながら、菅沼が顔を上げる。
「共済に出す書類だけは、すぐに出すように。しっかり養生しなさい」
その声音には、万全の体でまた戻ってこい──という、"親父"の願いがにじんでいた。
「鈍らない程度にしておきます」
坂井は口の端をわずかに上げた。早く操縦桿を握りたいという気持ちを、半ば冗談めかして押し隠す。
その時、窓ガラス越しにエンジンの始動音が響いた。どうやら、これから出航する機体があるようだ。
エンジンの音に、坂井の瞳に強い光が宿る。
それを横目に、菅沼は新しい煙草に火をつけた。
「では、カリン」
「はい」後ろに控えていたカリュオンが、前に出て一礼した。
「あとは任せる。良いようにしてやりなさい」
「はっ。では、失礼します」
*
官舎へ戻った坂井は、居間にどっかりと腰を下ろし、煙草に火をつけた。初めは苦労していた左手での細かな動作にも、いまではすっかり慣れてしまっている。ぎこちなさを残しながらも、火は確かに灯った。
官舎といっても、どこにでもありそうな木造の平屋建てだ。間取りは六畳間が二つに台所、厠と鉄砲風呂、そして物干しのための小庭。燐寸箱のような都会の下宿に比べれば、ずっと広く、静かで、心の落ち着く住まいだ。夜気が障子を透かして入り、かすかに遠く犬の声が聞こえる。
部屋の隅では、小さな電熱器が赤い光を投げている。大電力を消費する工場が動いていない夜間なら、全戸に電気暖房をつけるほどの余力があるのだ。
さすがに風呂は薪焚きだが、部屋の真ん中で石炭を焚くのに比べたら、ずっと安全で暖かい。設備も家も、宇航研の職員でいる限りは一切合切タダであるというのかだら、国家権力とは恐ろしいものだと坂井は常々思っていた。
体を動かすたびに襲う強い痛みに顔を顰めながら、風呂敷包みをちゃぶ台に置いた。中身は、帰りがけに食堂でもらってきた弁当だ。
片手では茶碗も持てないので、このところの坂井の食事は、ずっと握り飯だ。拳大の握り飯をあっさりと腹に納め、ヤカンに入れてもらったお茶を湯呑みに注ぐ。茶色い瓶から痛み止めの錠剤を口に含み、湯気の白さを目で追いながら一口啜る。
一息ついたところで、坂井は部屋の隅に置いてある包みのことを思い出した。
「……開けてみるか」
包みを膝に乗せ、硬く縛られた麻紐をやっと解く。莚を広げると、中の下着が一組ごとに丁寧に畳まれ、糸で括られていた。
「すごいな、こりゃ」
厚手の木綿に、手首には緩めの、足首にはややきつめのゴム。袖を通すと、布地の厚みがほのかに温かい。この上に飛行服を着れば、冬空の冷たさにも怯まずに済みそうだ。裾には一つひとつ名前が刺繍され、上下ごとに糸の色が変えてある。裏返してみれば、縫い目はきれいに揃い、一つの緩みもない。店で買ったと言われても気づかないほど、見事な出来栄えだった。
そこで坂井は気づいた。
余り金を返したという体裁ではあるが、これほどのものを拵えるには、相当な手間と時間がかかったはずだ。年長者として、その努力に何も礼を返さないわけにはいかない。
「……まいったなあ」
積み上がった肌着を前に、坂井は頭を抱えて唸った。
自分の無精が招いたこととはいえ、何を返してやれば良いものか。坂井は男四兄弟の次男坊で、中学を出て以来、飛行機しか知らない。そんな盆暗に、年頃の女の子が喜ぶものなど分かるはずもない。
「髪飾りってのは、五円くらいするのかな……わかんねぇ」
途方に暮れて天井を仰ぐ。裸電球の光に紫煙をふっと吹きかけると、煙はゆらゆらと広がり、明かりをかすかに曇らせた。ひとりきりの居間に、ため息が流れた。
*
翌日、午前八時。
第八格納庫・詰所。
「さて。早速で悪いが、騂風の件だ」カリュオンは指し棒を手に、黒板に貼られた図面を叩いた。
机に詰めるのは坂井をはじめとする試験課の面々。隅に用意された長机には、整備班や設計課の顔も見える。彼らはカリュオンとともに開発に携る、航空産業の頭脳たちである。
詰所とは飛行前の操縦士が詰める場所で、出発前の打ち合わせに使う程度設備しかない。つまりこの部屋には電気暖房は無く、火鉢も持ち込まれていなかった。
そこへ来て、昨日の今日の坂井である。冷たい椅子に体温を奪われて、腹の傷が疼くのをぐっと堪えていた。
「調査の結果、燃料タンクからの配管が破損していたことがわかった。空気を噛んで、異常燃焼を起こしたらしい」
坂井が弱々しく左手を挙げる。
「油圧が上がらなくなってから、筒温が異常な値を指していました。整備に問題はなかったのですか?」
カリュオンはちらりと坂井の方を見たが、その目にまだ光があることを確かめてから顔を逸らした。
「報告書では、複数のオイル漏れが確認されている。これが故障か、個体の製造不良によるものなのかは、現在調査中だ」と、簡潔にまとめた。
「寿鳳は良くも悪くも、月並みなエンジンだからなあ」と船崎がぼやく。「けど、あの動きは十中八九、部品の不良っすよ」
「不良品もそうだが、設計のミスや工作精度の問題もある」カリュオンは机に手をついた。
「課題は尽きないが、生憎と時間は有限だ。手を変え品を変え、試すしかない」
「あの個体はメーカーに送り返すんでしょう? 在庫、もう無いんじゃないですか」と船崎。
「そこで、だ」待ってましたとばかりに、カリュオンが資料を掲げる。
「これの、四頁目を見てくれ」
一斉に紙を捲る音が部屋に響くと、刷られたばかりのインクの匂いが部屋を満たした。開かれた資料には、エンジンの仕様と概略図が描かれている。
「瀬川発動機、NK1型……どこの会社ですか?」と船崎。
「元は保守部品の工場で、ライセンスを取って寿鳳を改造したそうだ。目玉はその下だ」
「……水? 水噴射装置?」と、後ろに控える整備班にざわめきが広がる。
一歩遅れて、やっと頁を捲った坂井も資料に目を通した。そこに書かれていた図は、見慣れた放射状に並んだシリンダー。どこから見ても、水で冷やすようやエンジンには見えない。坂井は再び手を挙げて、カリュオンの注意を引いた。
「こいつは星形空冷に見えますが、中身は液冷なんですか?」
発した声は、思ったよりも掠れていた。息を吸うたび、腹の傷が突き刺さるように痛む。指先は微かに震え、資料を持つ手に力が入りきらない。事故の衝撃が、まだ身体に残っているのかもしれない。カリュオンはその様子を指摘することなく、再び資料に目を向けた。
「ちょっと違う。過給機から取り込んだ熱い圧搾空気に水を吹きかけて強制的に冷却し、一時的に出力を上げる機構だそうだ」
「無理矢理回すってことか……」坂井は無意識に左の脇腹を押さえ「それで、実績はあるんですか?」と怪訝そうに問うた。
「
「こりゃ面白い技術っすよ、姐さん」坂井とは対照的に、船崎が目を輝かせる。発動機に明るい船崎には、どう言う仕組みかがすぐにわかったのだろう。
「ドイツでは、実用レベルの試作機が完成していると聞く。我々も負けていられんぞ」
坂井は眉に皺を寄せて、資料を睨みつけた。新しい技術を詰め込んだ飛行機に乗るのは男の本懐に違いない。だが、この傷が癒えるには時間が必要だ。それにきっと、次が起これば命が無いだろう。
「試験はやります。けど、まずは
「もちろんだ」カリュオンはにっと笑い、資料をまとめて封筒に詰め込んだ。
「では、今日はここまでにしよう。解散」
合図に合わせて、隅に控えていた技師たちが一斉に退出した。
カリュオンも資料を小脇に抱えて椅子を蹴る。
「私は早速、瀬川発動機へ話をしに行ってくる。船崎は作業の進捗を見て報告を。坂井は飯を食ったら、帰って寝ろ」
「へーい」「わかりました」
カリュオンの足音が遠くなったのを見計らって、船崎が立ち上がった。
「じゃ、俺も行くわ。しっかり休めよ」
「ああ。そうするよ」
船崎が足早に出て行って、ゆっくりと扉が閉まる。
詰所には冷たい空気と、油の匂いだけが残された。
ふと、目の前に開かれた資料に目を落とす。
新しい技術と挑戦の世界が、手を伸ばせばすぐ届くところにある。それなのに、掴もうとした瞬間、身体は軋み、傷は刺すように痛む。
「痛ぇなあ、ちくしょう」
堪えきれなくなって、ついに声が漏れる。顔を歪め、脇腹を押さえてうずくまった。
「血が……足んねぇ」
坂井は体温が下がっていくのを感じた。視界がぼやけて、暑いのか寒いのかもわからなくなりそうだ。
遠くなる意識を引き戻して、坂井は顔を上げた。
「飯だ」
脂汗を浮かべて、脇腹を押さえたままにゆっくりと立ち上がる。人の作った飛行機が三日で直るのだから、人間が負けて堪るものか。
坂井は立てかけてあった手頃な棒を杖代わりに、ふらふらと部屋を出る。その足は、食堂へと向いていた。
食堂にたどり着いた坂井は、席に着くや四杯の親子丼を豪快にかっ食らい、そして翌日の昼まで顔を見せなかった。
次回、写真