蹄音、高く   作:上條つかさ

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写真

 一ヶ月後。十二月十三日、午前十時二十六分。

 宇航研管理棟、第二会議室。

「……以上の結果から、機体をさらに軽くしなければ、目標の速度を達成することは難しく……」

 ダルマストーブが赤く燃える会議室では、開発中の試九九式陸上連絡機『駭風(がいふう)』の進捗状況が報告されていた。低い冬の日差しに、流れる煙草の煙が白く浮かんでいる。

 

 机には設計課の他、実際に機体を建造する工作部や整備課の面々が並んでいる。

 飛行艇に続き、陸上機も全金属・単葉化を──その野心は容易に形を取らず、計画は足踏みをしていた。

 いわく、搭載された新型の瑞鳳(ずいほう)エンジンは性能のバラつきが大きい。胴体を細くしすぎて重量バランスが悪い上に、羽布張りではなく(びょう)留めの翼で重量も嵩む。しかも、そこへ重い無線機を搭載すると、性能は木造機と変わらない。この報告の内容は、試験を担当した船崎の報告書を系統立てて整理したものだ。見ての通り技術的課題が多すぎて、開発はまさに牛の歩みであった。

 

 坂井はこの機体に何一つ関わっていないのだが、カリュオンに復帰へ向けた勉強だ、と言われて連れて来られた。もちろんドア横の末席で、発言権はない。

 ギプスが取れて、やっと右腕を使えるようになった坂井は、煙草を咥え、神妙な面持ちで報告書を見つめていた。

 風防のついた先進的な操縦席、スパッツ付きの固定脚、低翼の締まったシルエット。完成すれば、それは素晴らしい飛行機になるだろう。

 しかし、この試作機は目標の八割の速度も出せていない。いくら弄ったところで、改善が見られなければ、貴重なジュラルミンの浪費だ。

 これなら、現在の木金混合の設計を発展させた複葉機『騂風』のほうが、よほど費用対効果が高いはずだ。

 

 もちろん、坂井はそれを口に出すようなことはしなかった。先の墜落の原因はエンジンの故障ということで一応の決着を見たが、そこで落とした本人が『騂風』を推すのはどこから見ても滑稽だ。

 

「よって、胴体構造材の設計を変更し、強度を確保しつつより軽量な配置を……」

「坂井」

 解説を続ける声を縫って、隣に掛けているカリュオンがそっと話しかけてきた。

「この機体、どう思う?」

「どうって……まあ、このままお蔵入りでしょうね」と、坂井も小声で答えた。

「しかし、連中は改修でなんとかしたいようだ。お前ならどうする?」

 カリュオンは何か企みを秘めた笑みを見せた。設計士でもある彼女は、どうやらこの機体に物申したいらしい。しかし、その答えを、船崎ではなく坂井に聞く理由まではわからない。

 

 前方ではまだ『駭風』の議論が続いていたが、坂井の耳には遠い雑音のようにしか響かなかった。パイロットの視点から見ても、この機体に思うことはある。しかし、彼らはその分野の専門家。実機に乗った船崎ならともかく、試作機を落とした自分が口を挟めば、それだけで議論は濁る。

 坂井は「ちょっと考えます」と、無難に答え、カリュオンから目線を外した。

 

 そっと資料に目を落とす。

 三面図で目を引くのは、大きな頭の空冷エンジンと、それを覆う無骨なカウリングだ。このエンジンは鳴物入りの新型だと言う話だが、これのせいで乗るまでもなく重心がずれているのがわかる。せっかくのすらりとした胴体が台無しだ。ただでさえ頭が大きいのだから、カウリングなど邪魔な抵抗でしかない。

 船崎のやつも、こんな碌に前も見えない機体を、それでも操ってみせたものだ。

 

 じわじわと、この機体をより良く飛ばしてやるためのイメージが固まっていく。美しい胴回りのラインを崩さないようにするには、やはりこのでかい頭が邪魔だ。

 星型のままにするなら、シリンダーを剥き出しにするという手もある。もしくは小さなエンジンに換えて、滑らかなカバーを設計し直せばいい。そうすれば、ずっと視界が良くなるはずだ。結局はエンジンだ。飛行機の命ともいえるエンジンが翼に合ったものでなければ、その性能は引き出せない。

 坂井は、まだカリュオンがこちらを見ていることを察して、唇を舐めた。

「──案ならありますよ。液冷エンジンに交換して、ラジエータを顎に吊るんです。だいぶ弄ることになりますが、少しはマシになるんじゃないですか」

 そこまで答えてから、坂井は唇を噛んだ。結局、まんまと意見を引き摺り出されてしまった。

「良い案だ」と、カリュオンの弾んだ一声。視界の隅で、カリュオンの耳が大きく揺れたのがわかった。

 

 それから会議が終わるまで、坂井はつとめてカリュオンの方を見ないようにした。

 それなのに、隣からは鉛筆が走り、紙を捲る音がとめどなく聞こえてくる。余計なことを言ったか、とため息をついた。そして煙草を出して、ライターを擦って火をつけた。

 

 白い煙が、ゆったりと部屋の中を流れていく。

 療養中の俺を試作機の会議に連れてきて、資料を読ませて意見を引き出す。一体、この人は何を考えているのか──。

「では、四・五号機の各案は数日中にまとめて、私のところへ持ってきてください。今日はここまで。解散」

 坂井が思案を巡らしているうちに、いつのまにか会議は終わってしまった。紙束を抱えた職員が続々と退出していく。人の気配が消えた第二会議室には、煙草の匂いと、つい洩らした自分の言葉だけがまだ燻っていた。

 

 *

 

「まったく、頭の硬い連中だな」

 外へ出ると、冷えた風がまとわりついた煙草の煙を押し流した。カリュオンと坂井は並んで足を止め、揃って新しい煙草に火をつける。

「姐さん」

 坂井がぽつりと呟いた。新技術が続々と登場する中で楽しげに草案を練る姿に、坂井には思い当たる機体があったのだ。

「ん?」

「もしかして……姐さんは、もう一度『駿風(はやて)』を作りたいんですか?」

 

 坂井の言う駿風とは、宇航研が昭和九年に試作した高速度試験機のことだ。パラソル翼を持つ単葉機で、ただひたすら速度を追い求めた結果、水平一七〇節、動力降下で二一七節という驚異的な記録を樹立した。その記録はいまだ破られていない。

 偉業を達成したカリュオンは国中のパイロットから賞賛を受け、いつからか〈辻風カリン〉と渾名されるようになった。ウマ娘の女神を模ったパーソナルマークをつけるようになったのも、この頃からだと聞いた。

 

「駿風、か」

 カリュオンは目を細め「懐かしい名前だ。どこで読んだ?」

「資料室にありました。あれは、設計もパイロットも、姐さんだったんですね」

「ずいぶん無茶をした機体だった。単座なだけでなく無線機も下ろして、排気管までギリギリに切り詰めたんだ」

 カリュオンは空を仰ぎ「そうか、もう十年か」とつぶやいた。その視線はまるで、空を駆けてゆくその機影を探すようだ。

「その節目にもう一度、ですか」

 その瞳に流れた時間の重さを感じて、坂井は思わず感傷的になった。夢を掴むことと、掴み続けることには天と地ほどの差がある。自身も良く思い知ることだ。

「できたらいいが」

 カリュオンは坂井の肩に手を置き「ま、次に作るとしたら、乗るのはお前だな」

「俺ですか?」

 坂井は戸惑った。エンジンの性能はここ数年頭打ちになっていて、高速度試験機も駿風以来作られていない。よしんば作られたとしても、そんな重大な任務は、自分には荷が重いと思った。

「作るなら姐さんが乗ってください。"辻風"カリンが帰ってきたって、みんな喜びますよ」

 その懐かしい二つ名に、カリュオンの目に寂しさの色が浮かんだ。飛行による負荷はヒトもウマ娘も平等で、現役として飛べる時間はそう長くない。三十路も半ばを過ぎた肩に、二〇〇節の風切り音は重い。

「私にはもう、守ってやらなければならない娘がいるんだ。花道は、お前に譲るよ」

「やっぱり、家族があると飛ぶのは怖いですか」

「さて、どうかな」

 坂井の真剣な問いに、カリュオンはわざとらしく煙を吹いた。

「私もようやく、船崎やチヨさんの気持ちがわかったよ。家に帰って誰かが居るというのは気持ちが落ち着くぞ。どうだ、お前も」

「どうだ……って、まさか世帯を持てって話ですか?」

「当然だ。二十三なら、考え始めても良いだろう」

「けど、相手がいませんよ」

「はあ」カリュオンは煙とともにため息をついた。

「三ヶ月も入院しておいて、看護婦の一人も捕まえてこなかったのか?」

「半分は寝たきりだったんです。そんな余裕ありませんって」

「この盆暗め。ならあれだ、園山さんの娘さんとか」

 カリュオンは整備課の課長、園山十三の名を出した。確かに末の娘は女学校を出たばかり。しかし剣道では負け知らずという、筋金入りのじゃじゃウマだとも聞いている。

「ああいう気の強いのは……」──姐さんみたいで、と危うく言いかけて、坂井は煙草の口を噛み潰した。もし口に出していたら、今頃この体は空高く舞っていたことだろう。

「だめか……おお、そうだ」

 カリュオンは、何かを思い出して顔を上げた。

「お前、学園の生徒に股引を貰ってたろ。そっちに進展はないのか?」

 手紙の件を出された坂井は、ぎくりとして肩をすくめた。

「それが、お礼の返事を書こうとは思ったんですが、女学生が喜ぶものなんてさっぱりわからなくて……」

 カリュオンは額に手を当て「お前じゃ無理か」とため息をついた。

「よし。そういうことはチヨさんにでも相談しろ。快気祝いをしてもらうんだろう」

「ええ、今夜。姐さんはどうします?」

「晴子がいると、チヨさんも気を使うからな。後でお裾分けをもらうとするよ」

「そうですか」

 本当は、カリュオンは自分がいることで俺たちが気を遣ってしまうと思っているのだろう。その心遣いに感謝して、坂井は素直に引き下がった。

「じゃあ、今日はこの辺で」

 いつのまにか、二人は官舎区と飛行場の境目まで来ていた。

「月曜は八時に格納庫へ来い。しっかり休めよ」

「了解。では、失礼します」

 

 *

 

 ちん、とお鈴を鳴らし、坂井は仏壇に手を合わせた。

 中には位牌とともに、一丁の錆びた信号銃が置かれている。

 それは事故の記憶。五年前の墜落事故で亡くなった、今野均飛行士の手に握られていたものだ。込められた星弾は発射されていて、空薬莢はまだ薬室に残されている。

 墜落という絶望的な状況の中、最後の希望を託したのであろうそれは、そのまま形見として妻チヨに引き渡された。

 ……俺も一歩間違えば、こうなっていたのか。

 坂井は、自身の幸運と居合わせたウマ娘に感謝し、もう一度手を合わせた。

 後ろですっと襖が開いて、船崎が入ってきた。

「悪いな。いつも供養してもらって」

 その手には、小さな茶碗と漬物が乗った皿。陰膳だ。

「いいんだよ」坂井は船崎に座布団を譲り、位牌を見上げた。

「俺にとっても、兄貴みたいな人だったからさ」

「……ありがとな」

 そう言って、船崎は陰膳を丁寧に並べ、お鈴を鳴らした。

 二人がもう一度手を合わせ、厳粛な空気が流れる。

 ふっと手を解いたとき、「ご飯できたよー!」と、快活な女性の声が響いた。

 

 声の主こそ船崎広の姉、今野チヨその人である。

 当時、所長の菅沼が書類をいじって、彼女を「非常勤の事務職員」ということにしたと噂で聞いた。弟との同居も、その根回しのひとつだそうだ。真相はともかく、彼女は今もここに居る。夫を弔いながら空を見上げて暮らす姿は、坂井にはひどく健気に思えた。

 

「さあさ、どんどん食べてちょうだい」

 チヨは、大皿に盛られたおかずを次々とちゃぶ台に並べた。

「どれもたっぷり作ってあるからね」

 とんかつにお煮しめ、山盛りの白米、稲荷寿司、大きなお椀の豚汁、漬物、山菜、徳利にお猪口。

 ちゃぶ台の上は、まるで正月のような豪華さとなった。

「では遠慮なく、いただきます」

 坂井は箸を手に、まず煮物から好物の蒟蒻と蓮根を小皿にとった。口に放り込んで追いかけるように白米を掻き込み、たくあんで蓋をした。

「広の命の恩人だもの。これでも足りないくらいさ」

「パイロットとして、当然のことをしたまでですよ」

 頬をぱんぱんに膨らませた坂井が答える。その様子に、チヨは笑顔を浮かべて徳利を手にした。

「またまたご謙遜。ほら、おちょこ出しな」

「もういいだろ姉ちゃん、あんまり構うなよ」と、その様子を見ていた船崎がチヨの裾を引く。

「早く食わないとこいつ、全部食っちまうぞ」

「食わしてんのよ。ほら、アンタも食べなさい」

 チヨは徳利を傾けながら、空いた手で器用に船崎の口に稲荷を放り込んだ。

 

 徳利が5本も空いた頃、坂井はすっかり顔を赤くしていた。

「一気に飲み過ぎたな。あっちい」

 いつものツナギを脱ぎ捨てて下着になる。それでも暑いので、長袖も脱いで、ランニングシャツ一枚になった。

 ツナギは放り投げた坂井も、さすがに長袖は軽く丸めて、脇へそっと置いた。

「それ。例のウマ娘ちゃんに貰ったっていう肌着かい?」

「ええ。とても暖かくて、重宝してるんですよ」

「ちょっと見せてごらん」

 坂井が肌着を差し出すと、チヨはそれを丁寧に検分した。

「ずいぶん綺麗な縫い目だね……うん?」

 チヨの顔が険しくなる。目に入れるのではないかというくらい近づけでじっと縫い目を睨んだ後、「東一さん! こらあ、手縫いだよ⁉︎」

「えっ、そんなまさか。ミシンでしょう?」

「ミシンには、右()りの糸は使わないんだ。それにどうだい、この見事な本返し縫い。これは間違いなく手仕事だよ」

「あぁ? 手縫いだぁ?」

 同じように転がっていた船崎が赤くなった顔を上げる。

「嘘だろ、あんなにあったのに」

「広。お前、何か知ってるのかい?」

「だってよぉ。届いた時、こーんな包みだったんだぜ」と、空中に大きな円を描いてみせた。

「そんなに!」チヨは目を丸くして、「東一さん、ちゃんとお返しはしたんだろうね」

「それがその、女学生の好みなんて、さっぱりわかんなくて……」

「ああもう、これだから男ってやつは。見てらんないよ」

 チヨはすっくと立ち上がり、「アタシが仕切るから、アンタたちはもう寝なさい!」と言ってどこかへ行ってしまった。

 すっかり酔いが回っていた坂井は、追いかけもせず、そのまま畳に身を預けた。

 ちゃぶ台の上では、空になった徳利が静かに転がっていた。

 

 *

 

 翌日、チヨに連れられた坂井と船崎は駐機場へやってきた。

 そこでは、写真屋が大きなカメラを三脚に乗せている最中だった。

 対する坂井は、飛行服に身を包んでいた。毛皮の裏地を持つ分厚い防寒着に白いスカーフを巻き、航空眼鏡と革製の飛行帽を被った姿は、まさに勇壮そのものだ。

「……で、なんで写真なんです?」

 戸惑う坂井の横で、割烹着姿のチヨは腰に手を当てた。

「世間じゃパイロットって言えば憧れの的じゃないか。しかも東一さんは男前だし、どこへ出したって恥ずかしくないでしょう?」

「けど、飛行服で見栄をはった写真なんて。そっちのほうが恥ずかしいですよ」

 照れる坂井に、チヨはにやりと笑ってみせた。

「年頃の女の子には、こういうのが一番なんだよ。ほら、ちゃんとスカーフを巻いて」

「そこまでしなくても、素人にはわかりっこないですって」

「いいからいいから」

 二人の様子を横目で見ていた船崎は唇を尖らせ、「なんだ、それなら俺も飛行服でくればよかった」とぼやいた。

「アンタの写真じゃないんだよ。撮りたいなら自分で出しな」

「へっ、ケチな姉ちゃんだ」

 拗ねる船崎に「後で二人で撮ろう。割り勘な」と坂井。

「さすが、持つべきものは相棒だぜ」

 

 三人の元へ、中年の写真屋がさくさくと芝を鳴らしてやってきた。

「今野さん、用意ができました」

「はいはい。じゃあ撮りましょうか」

「飛行機は、あのままでお撮りして良いですかな?」

 写真屋が指差す先には、開け放たれた格納庫があった。中には、坂井の機体が静かに佇んでいる。

 チヨはふっと考えた後、「せっかくだから外に出しましょうか」と言い、「広、あれ出してちょうだい」と飛行機を指した。

「出してって、何キロあると思ってんだよ。一人じゃ無理だよ」と船崎。

「しゃあねえ、俺もやるよ」

 諦めた坂井が駆けていって車止めを外す。すぐに船崎が追ってきて、二人は翼の付け根に手を置いて足に力を込めた。

「せーのっ!」

「よっ!」

 燃料が入っていなくても、機体は二トン近い重さがある。本来は十人がかりで押すのだから、二人ではじりじりと動かすのがやっとだ。五分ほどかけて、坂井の愛機「九九式陸上連絡機・驔風(たんぷう)(改)」U2174号は枯れた芝の上にその翼を広げた。

 基本的に、陸上機は機体毎にパイロットが決まっている。つまり、坂井が飛べなければこの飛行機は格納庫から出ることはないのだ。写真のためとはいえ、久しぶりに太陽の下に出してやれた翼を見上げた坂井は、あることに気がついた。もう四ヶ月も飛ばしていないはずなのに、翼にも支柱にも埃が積もっていない。標識灯や着陸灯のガラスも、一点の曇りなく輝いている。はっとした坂井が顔を上げると、視線の先で船崎が照れくさそうに頬を掻いた。この機体は二人が相棒となってから初めて受け取ったもので、思い入れもひとしおだ。船崎なりのやり方で自分の帰りを待っていてくれたことに、坂井は胸が熱くなった。

 引き出された飛行機を見て、チヨが満足そうに手を叩く。

「さあ、かっこよく撮ってもらいな!」

 坂井は照れくさそうにプロペラの前に立った。芝を踏み締め、顔を引きしめて胸を反らす。

「はい。では撮りまぁす」

 合図とともに、シャッターの切れる音が風の中に短く響いた。

 

 *

 

 数日後、府中・蹄桜寮。

 軽いノックとともにドアが開き、冬服にコートを手にしたカナが入ってきた。

「ただいま戻りました」

「カナ、おかえりなさい」

 部屋の中では小さな電気ストーブが赤く灯っていた。寮内ではこういった火を使わない暖房器具が普及していて、居室程度なら快適な温度にしてくれる。カナは手早くコートを壁にかけると、ポケットから白い封筒を取り出した。

「下で預かってきました。お手紙です」

「あら、ありがとう」

 その封筒は上質な白紙だった。差出人を確かめるまでもなく、シプロスは鋏を手にとって、丁寧に封筒を開いた。中の便箋を開くと、読むよりも先に二枚目の裏まで確かめた。付箋も為替も入っていないことを確かめて、シプロスはやっと手紙を読み出した。

 しばらくして、シプロスの口角がふっと上がった。部屋着に着替えたカナがそれに気づき、そっと訊ねる。

「良いお知らせですか?」

 シプロスは頬をわずかに染め、柔らかな笑顔で答えた。

「ええ、とっても」

 

 さらに数日後、蹄桜寮・食堂。

「ねえアイリ、次のお休みに写真館に行かない?」

 年の瀬が近づき、帰省する生徒たちが捌けて閑散とした食堂で、シプロスが切り出した。

「写真館? 何するのよ」

 焼きにんじんを頬張りながら、リーベが答える。

「写真館は写真を撮るところでしょ。記念写真よ」とシプロス。

「二人で撮るの?」

 リーベはちらりと横を見た。二人がそれぞれ同室に指名した一年生、カナとプラムは、先輩の話を邪魔しないよう静かに食事を続けている。

「それは、えっと」

 手紙の返事に入れる写真を撮りたい、だなんて言えるわけもなく──シプロスは少し考え、「そうね。せっかくだから、四人で撮りましょうか」と続けた。

「じゃあ、終業式の後でいいかしら?」

「決まり。外出許可を取って、門限までにお買い物ね」

「賛成!」

 

 一二月二二日、十三時三七分、府中駅前商店街・万田写真館。

 シプロス、カナ、リーベ、プラムは、それぞれ制服に校章、優駿章も身につけた正装でドアを潜った。

「ええと、四人様ですので、小柄な方は前の椅子へどうぞ」

 髭を蓄えた眼鏡の店主が、手にした電灯を揺らしながら細かく指示を出す。

 背の順でプラムとシプロスが椅子に座り、それぞれの後ろにリーベとカナが立った。

「結構です。そのままお待ちを」

 店主が大きな木製のカメラを覗き込み、細かく焦点や光の調整を進める。

「手前の方、もう少しお顔を内へ向けてください」

 

 そこへ、奥様らしき人が閃光電球を手にしてやってきた。

「結構。では、いきますよ」

 声に合わせてストロボが高く掲げられ、「はい撮りまーす」と阿吽の呼吸でシャッターが切られた。

 カナとプラムは緊張の糸が切れたように、耳から力を抜く。シプロスも肩の力をそっと下ろし、リーベは満足げな笑みを浮かべていた。

 店内に残るわずかな照明の光と、窓越しの冬の日差しが柔らかく満ちていた。

「はい、お疲れさまでした」

 店主はすぐにカメラを開き、フィルムを取り出す。

 

 シプロスは、カナとプラムが熱った頬を冷ましている様子を横目で見つつ、意を決して口を開いた。

「ねえアイリ、私が出すから、二人でも撮らない?」

 リーベは意外そうな顔をして、しかしすぐに笑みを返した。

「あら珍しい。折角おめかしして来たんだし、撮っちゃいましょうか」

 リーベは軽やかにカメラの前に歩み出て、「ねえおじさま。私たち二人で、もう一枚撮ってくださいな」

「はい、かしこまりました」

 店主はにこやかに応じ、「フィルムを替えますから、少しお待ちくださいね」と奥に下がっていった。

 

「そうしたら、二人はカフェーで待っててちょうだいな」

 シプロスは、ポケットから配給券の束を取り出した。

「にいよんろく……はい1円、好きなものを飲んでいなさい」

「ありがとうございます」

 カナは券を受け取ると、プラムと共に店を出て行った。そのまま、向かいの店に入ってゆく。

 

 二人になった隙を見計らったように、リーベが口を開いた。

「それで、本当は一人で撮りたいんでしょ?」

 シプロスは、思わず耳ごと振り返った。

「なに急に。二人で撮るって言ったじゃない」

 リーベは得意げに顎を上げた。

「あなたの手帳に何が挟まっているのかなんて、私はとっくに知っているの」

 シプロスは咄嗟に左のポケットを押さえ、その艶やかな栗毛まで染まるほど赤くなった。

「……見たの?」

「いいえ?」

 図星とでも言いたげに、リーベは顔を逸らした。その小さな動きひとつひとつが、シプロスの胸には鮮明に残った。

「でもね、そんなことも察せないようじゃ、あなたの友達は務まらないのよ」

 

 その後、確かに二人で写真を撮ったはずなのだが、シプロスの胸にはまだリーベの言葉の余韻が熱く残り、シャッターの音すら霞んでいた。

 




次回、【資料】航空開発事業団。
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