今回は、坂井東一飛行士が所属する宇都宮航空研究所の上位組織『航空開発事業団』について、読者の皆様に「知っておいたらこの先がちょっと美味しくなる」お話をしようと思います。
ただし私も、物語が読みたいとか、難しいものは苦手だと言う方がいらっしゃることは承知しております。
なので、この解説を読み飛ばしたとしても、この先のストーリーの理解には何ら影響はありません。
この世界の裏側を、ほんのちょっと覗いてみたいんだ、という好奇心旺盛な方のみ、お進みください。
【航空機の存在意義について】
戦争がない本作の世界において、航空機は何のために存在するのか。その目的はただ一つ、「情報の伝達」だ。
昭和十八年現在、電信網は全国を網羅したものの、それは現代のメールのように気軽に使えるものではない。人々の交流を支えるものは、未だ便箋と封筒であった。
北の果ての占守島から、南国色濃い与那国島まで。南北四千キロ超を結ぶ航空連絡網は、既存の船舶輸送の数百倍の速度を持つ。それはついに、東京から稚内まで、最短翌々日の配達を実現していた。
昭和十五年のウマ娘総動員法発布以降、人員の輸送を目的とした航空機需要は拡大を続け、運航の安全性を要求する声も日々高まっている。レースがなければ、世界の経済はその基準を失ってしまうからだ。空は未だ開拓の途上とはいえ、課せられた期待はあまりにも大きかった。
さて、航空機を安全に運用するためには何が必要か。それは優秀なパイロットと、規格化された部品と、設計の周知である。
私たちの世界には、戦争という技術発展の加速装置があった。しかし、この世界にはそれがない。パイロットたちは純粋な操縦技術を発揮する場として、技術者たちは胸に秘めた夢を実現する場として、この巨大な産業構造に足を踏み入れるのである。
【経済的側面の補足】
我々と作中の人々の経済感覚は金銭額面の差こそあれど、極端な乖離は無いと言って良い。よって『最大の利益を得るものが最大の金を出す』という、基本的な構造の説明は不要であろう。つまるところ、財閥の存在はこの世界の経済の根幹を成している、ということである。
一国の機関が財閥の財政如何に振り回されるとは、まことに滑稽である。しかし日本式の経済構造において、巨大な近代的多角経営企業(敢えてカルテルとは呼ばない)の存在が不可欠であることは、現代においてもMグループやSグループといった旧財閥が幅を利かせていることから読み解けるだろう。
【まとめ】
何事にも、本音と建前が重要であることは読者諸兄も重々ご承知のことと思う。が、それは劇中の日本においても同様である。
建前とは本音の価値を引き上げるために吹聴されるものであり、本音を漏らす相手は常に共犯者として命運を共にする。これを日本人の特徴とするかどうかは、専門家に任せるとしよう。
ともかくこの項では、現代の我々と劇中の彼らは似通った政治的価値観を共有していること。現代と比較しても国家の基本構造に大きな差が無いこと。大戦という悲惨な運命こそ免れたものの、日本という汽車は若者の汗と夢と希望とを燃料にして歴史というレールを駆けていること、という三点についてご理解いただければ幸いである。
さて、本音をお読みいただいてあなたを共犯者に加えたところで、いよいよ本題に入ろうと思う。
組織のあるところには、必ず利害対立がある。そして小さな組織を掌握している者が全体を俯瞰し、実質的に大きな組織の支配者として君臨している例は枚挙に暇がない。
以下に示すのは、「航空開発事業団」の全体図である。この図の中から組織の支点・力点・作用点をすぐに見抜けた方がいれば、官僚として大成できること請け合いだ。このように複雑にこんがらがった組織こそが、日本式経済の特徴である。過去の失敗から学んできた我々なら、この組織の抱える長所も短所も手に取るようにわかるだろう。
それでは、目眩く本音と建前の世界をお楽しみあれ。
【事業団・参加組織一覧】
◇特殊法人航空開発事業団
内閣府直下に配置される、航空機の国家的開発を推し進めるための特殊法人。莫大な予算は、「内閣航空特別会計」という一般会計の枠外で管理されている。
・航空技術振興会
事業団の運営主体。審査会を通過した技術を整理展開するための組織。事業団内の予算配分の決定権と資金の流れを監理する監査部を持ち、経理監察室へ報告する義務を負う。
・航空技術予算諮問委員会
年度毎の予算を、事業団内部でどのように配布するかを審議する組織。
・(独研)宇都宮航空研究所
・(独研)木更津航空研究所
・(独研)岐阜航空研究所
・(学)横須賀航空養成学校
◇協力企業
・日本石油精製公社
・日本郵船会社(株)
・日本海上航空(株)
・仲友財閥
・三石財閥
・昴菱財閥
・航空発動機開発合弁会社
※中小187社の連合
◇外部団体
・内閣府航空機監理審査会
・商工省燃料局
・郵政省輸送局航空部
・運輸省航空局
・海事保安庁連絡室
◇その他の協力団体
・全日本船舶振興連合会
・北海道経済振興事業団
・全日本医師会
◇第三者組織
・内閣府航空開発経理監察室
衆議院予算委員会を通過した航空特別会計について、その予算が適切に使用されているかを監査する組織。監査結果を内閣府へ報告する義務を負う。
・財団法人航空開発共済会
企業と研究所の協業によって発生した利益や、政治献金を運用する組織。運用益は福利厚生に使用される他、審査会が公表する結果を元に、技術的貢献の割合に応じて研究所または個人に対して報奨金の形で支払う。
【技術開発の三すくみ】
◇審査会
内閣府の直下組織であり、民間で開発された技術や研究所が完成させた機体を承認・管理するための官僚組織。完成した設計図の所有権は国家に属するため、生産に際して発生するライセンス料を監督する業務も含まれる。
◇研究所
国の組織でありながら省庁に属さない独立した研究組織。審査会を通過した数々の技術を「飛行機」として完成させることを使命とする。また技術保全の観点から、職員には民間の1.5〜3倍という高い給料が支払われている。海外から直接の技術購入は審査会の許可を必要とする反面、技術確立や目標達成に向けて他団体と『協業』をすることは禁止されていない。
◇民間各社
財閥系企業と「航空発動機開発合弁会社(通称:航発)」の傘下各社が自由競争を繰り広げている。航発の実態は財閥から中小企業を保護する企業連合であり、「発動機」と冠しているものの、現在は無線機や航法装置の開発にもその裾野を広げている。単独では開発の土壌が整わない企業も多く、内部での人員交流も活発に行われている。こうして完成した技術は審査会を通過後に公開され、各社は相互にライセンス料を支払い、新たな技術開発をするという循環が完成している。
【共済会という安全装置】
財団法人航空開発共済会は、ただの寄合ではない。研究所に流れ込む思惑の混ざった金を綺麗にするフィルターの役割を持っているのだ。
自社の開発した技術を少しでも早く試験してもらいたい各社は、研究所に直接袖の下を持ち込もうとする。しかし研究所は国の予算で動いている以上、帳簿に載せられない金を存在させるわけにはいかない。
そこで「共済会」の出番となる。
共済会の設立目的は「航空開発が円滑に進むよう、研究所や職員個人に対し、福利厚生を提供する」ことである。
その運営原資が、日本中から集まる「寄付」である。財閥や政治家、各地の組合だけでなく、国費を使うことを憚る省庁が財閥に圧力をかけて金を出させることすらある。共済会はこれらの金をプールして運用し、研究所で働く職員たちに「還元」しているのだ。研究所では、「寄付」をした人物・組織に関連する技術開発に関わった職員には「報奨金」が支払われ、これは給与とは別の収入としてポケットに入る。公共性の高い分野では、各研究所の官舎区画の土地、職員の官舎や水道光熱費、果ては煙草までもがこの寄付で賄われている。
どこから、どれだけの寄付を受けるのかという選択は研究所の活動に大きく影響する。そのため権限は共済会の理事ではなく、実働部隊である研究所に協力的な資本家たちによって決定される。さらに、最終的な受入の可否が研究所所長の手の内にあることは公然の秘密である。
【研究所と外郭組織の関係】
◇非公式な交流が生み出す発展
省庁に限らず、民間も、各地の航空組合も、財閥によって生産された航空機を購入・運用している。しかしその根源は審査会ひいては研究所にあるため、現場から研究所へ直接のフィードバックが行われることが多々ある。特に単発機の開発に携わる宇都宮航空研究所は各地方で運用される機体の実用データを渇望していて、職員が各地へ直接赴くこともよく見られる光景だ。
同様に、警察機構である海事保安庁と飛行艇を開発する木更津航空研究所の繋がりは深く、警察庁からの『要請』によって、航空技術振興会から直接「試作機仕様要求」が発行されることすらある。このような越権行為に対し、審査会は「経理監察室の監査権限が及ばない領域である」として、意図的に感知しないことで余計な責任問題を回避している。しかし、このような官僚機構に依存しない航空開発が、日本の空をより速いものにしていることもまた事実である。
◇空の安全を守る「岐阜航研」
岐阜航空研究所には、宇都宮や木更津とは毛色が異なる専門家が集められている。航空無線や航法装置といったパイロットを補助する装備の開発が、彼らの任務である。元々は多発機を開発していたが、需要が縮小し、航空機そのものの開発は宇都宮・木更津両研究所の補助的な立場になった。一時は存続も危ぶまれたが、名古屋飛行場の中継飛行場指定に伴う予備的立ち位置と、安全装備という緊急性を要する装置の開発に舵を切ったことで命脈を保ったのだ。国内でも有数の長大な滑走路を持ち、所属する機体も積載量に余裕のある双発機が大半を占める。そんな彼らの地道な努力によって、ADF、NDB、LORANに類似した航法装置が次々と実用化され、長距離飛行の安全性は格段に向上したのである。
◇技術交流の砦「霞ヶ浦水上機試験場」
昭和元年に開場した霞ヶ浦水上機試験場は、木更津航空研究所に属する航空機開発施設である。鉄道網が整備されてからは木更津研究所の予備施設として拡張が続き、水上機/飛行艇の黎明期にここで生み出された機体は数知れない。
しかし国の要求する機体は年々大型化し、東京湾に水上飛行場が設置されると、試験場は華々しい歴史の表舞台から姿を消した。その後は部品の製造や需要が低い機体の開発などを扱う"掃き溜め"として扱われ、冬の時代を過ごすことになる。
しかし、そこに転機が訪れた。各地に発足した地方の航空組合が運用する水上機は、その数も性能も、圧倒的に不足していたのである。
試験場は、この需要に活路を見出した。霞ヶ浦の地形は、水上機の試験に理想的であったのだ。
ゼロベースの設計設備を持たない試験場は、宇航研で完成した試作機を水上機に改造して民間の需要に応え、その存在意義を再び内外に認めさせた。各地の航空組合は、試験場を優遇する見返りとして共済会へ多額の献金を行うようになり、その潤沢な資金が試験場の再編を加速させたのである。
"掃き溜め"として中央から遠ざけられていたことも相まって、現在では各地の組合が直接交渉に訪れることも多く、その結びつきは年々強固になりつつある。
こうして試験場が民間に傾倒した結果、本体である木更津は本業の飛行艇以外の開発を、単発機を高速化させたい宇都宮は民間という不安定な需要を、それぞれ試験場に丸投げするようになった。同じ事業団に属しているので、予算の使用についても監査に引っ掛かることはない。こうして、試験場は飛行機と民間が繋がる交流拠点となり、今日も青い空にフロートの飛沫を巻き上げているのだ。
◇中小企業の生存戦略
中小では、「寄付」についてもう少し直接的な方法を取っている。試作品を持ち込んだ際、鉄屑や壊れたエンジンなどの金属、オイルやタイヤ、木材などの消耗品を「廃棄する予定のものを忘れていった」という体で置いてゆくのだ。特に鉄屑は所内の鋳造設備で鋳潰せば何にでも使えることから、最も安全な寄付として各社が活用している。宇都宮のオバケ自動車のような機材はこうして生み出され、職員は企業に対して『便宜を図る』という仕組みだ。
【ぶつかり合う利権】
全日本船舶振興連合会、北海道経済振興事業団、全日本医師会といった一見無関係な組織が名を連ねているのは、航空機というリソースが常に経済の先端にいるという事実がある。
航空機の発展によって人口希薄な北海道の経済を加速させたい北振団はともかく、既得権益を侵される可能性がある全船連は、事業団の動向そのものを監視したいという背景がある。つまり、航空輸送と船舶輸送の棲み分けを提言するためには、航空機の開発に寄与するもやむ無し、ということである。
また無医村ゼロを掲げる医師会は、航空技術が結果的に人命尊重に繋がるという視点から、航空機の発展に非常に強い興味を抱いている。発言力は非常に強く、民間航空や各地の組合に対し医師や医療物資を輸送させるよう働きかけるなど、航空業界に対して積極的な介入を行っている。
【おわりに】
皆さんはこの組織の『てこ』を見抜けたでしょうか?
学園の組織は「大人の管理下にある学生による自治組織」という守られた組織でした。
今回ご覧いただいたのは、「大人による大人のための組織」。つまりは、この世界の日本の縮図です。
しかしこの組織も、原動力は学園におけるウマ娘と同じ、『人間の希望』です。
いつの時代も政治とカネは、大人の絡み合うところに蠢いています。しかしそれがまた、個人の生活を支える基盤の一部であり、社会という大きな構造の重要な屋台骨であることもまた事実です。
裏の裏まで読み解くのが好きな御仁には、どうぞその想像力を存分に発揮して、この資料をお楽しみいただければ幸いです。
さて次回、復活を果たした坂井東一飛行士はどのような活躍を見せるのか!
次回も、どうぞご期待くださいませ。
次回、【資料編】航空四十年史