蹄音、高く   作:上條つかさ

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昭和十九年一月五日

 昭和十九年一月五日、午前九時四十一分。

 正月休みの最終日、正門前広場は朝から人でごった返していた。

 いくつものテントが張り並び、どれも白い幌を風に鳴らしている。

 商品棚こそ見当たらないが、帳簿と印鑑と封筒だけが整然と並んでいる。生徒たちは列を作っては、一枚の紙を差し出し、一枚の紙を受け取ってまた次のテントへと移っていく。

 それは、年に一度の当たり前の光景だった。

 

「毎年毎年、面倒なことね」

 シプロスは制服に紺色のコートを羽織り、赤い毛糸の手袋を着けていた。手にしているのは小さな手提げ鞄。

 その中には、使いきれなかった配給券がぎっしりと詰まっている。

 配給券には年度ごとに有効期限があり、四月を迎えればただの紙切れとなる。

 しかも、消化されなかったという事実は翌年の予算に影響を与える。よって生徒には「とにかく使い切る」ことが求められていた。

 

 しかし、衣食住を国費で賄われている生徒たちが配給額を使いきるのは容易ではない。

 そこで登場するのが、商人と質屋の連携であった。

 商人は生徒の配給券と引き換えに、「電化製品や貴金属を購入した」という証明書を発行する。

 それを生徒が質屋へ持ち込むと、即座に現金に換えてもらえるという仕組みだ。

 品物は最初から質屋へ流れ、商人は書類だけを動かす。

 商人は小銭を得、質屋は新品の流入を得る。

 そして生徒は、使い道のなかった配給券を「使った」ことにして年度が終わる。

 表向きは煩雑な儀式のようだが、実際にはこのやり取りこそが地域の小売と金融を繋ぎ、地域経済を支える一大循環になっていた。

 さらに、広場の一角では郵便局が出張窓口を設けている。

 もちろん、郵便局はちゃんと学内にある。それでも、大きなお金を現金で持ち歩くのはいくら学内でも危険だと考える生徒は多い。そこに便宜を図り、その場で入金と通帳記帳を受け付けているのだ。中には、その金を家族への仕送りにする者もいる。書き損じた用紙を片手に右往左往する一年生の姿は、いかにも年の初めらしい賑わいを添えていた。

 それは、名目ばかりの「配給消化」の一日でありながら、同時に、この小さな街が一年を回し始めるための最初の歯車でもあった。

 

「でも、何を買えばいいのでしょうか」

 すぐ後ろをついてくるカナが、不安げに尋ねた。シプロスと同じ学園指定のコートを羽織っているが、手には桃色の毛糸で編んだ手袋をつけている。もちろんシプロスの手編みで、手の甲にはルスティカーナの頭文字「R」が入っていた。

「何を買ったかは、知らなくてもいいの」

 シプロスは不意に足を止め、列の流れを見渡した。その横顔に、カナも足を止める。

 人の肩や手提げの色、札の音が、まるで無言の画面のように整って見えた。

「配給券をそのままお金にしてはいけない、っていう決まりがあるから、みんな形だけの買い物をしているのよ」

「せっかくもらったのに、なんだか虚しいですね」

「そうね。でも、紙切れにしてしまうよりはずっといいでしょう」

 シプロスは手提げの重みを確かめるように持ち直し、「ところでカナ、いくら残ってるの?」と尋ねた。

 カナはポケットから紙束を出し、「ええと……十三円と、二十銭です」

「なら、あっちの、緑の幟のテントに並びなさい」

 シプロスが指差した先には、見慣れた府中駅前商店会の名が入った緑の幟がはためいていた。

 そこに並んでいるのは練習生ばかりで、帳簿をめくる紙の音が細く続いていた。ときおり吐く白い息が、列の上にゆらりと重なっている。

「終わったら、ここへ戻っていらっしゃい。私はあっちに並ぶから」

 シプロスの視線の先、赤い幟の下には、星のついた袖章をつけた生徒たちが静かに列を作っていた。

 つまりあれが高額取引専用——候補生という「高給取り」のための窓口ということか。

 カナは少し唇を噛み、「同じ学園なのに、並ぶ場所まで違うんですね」と小さく呟いた。

 シプロスは答えず、手提げに力を込めた。冷えた帆布に、指先の熱が吸い取られていく。

 そして「そういうものよ」とだけ言って、赤い幟の方へ歩き出した。

 

「はい、次の方」

 シプロスの番が来て、テントに入ってゆく。

 長机には、スーツの男が椅子にかけていた。後ろでは、事務員らしき数名の女性が忙しなく動き回っている。処理済みと書かれた箱の中には、大量の伝票が入っていた。金券と書かれた南京錠のついた箱が、回収した配給券の入れ物だろう。紙だけであの量なのだから、もしも物で動かそうとしたら大変なことだ。

「はい、候補生さんね。ここへ出して」

「お願いします」

 シプロスは手提げの中から出した配給券をトレイに置いた。そのうち一つは半分ほど使われていて、残りの五つは帯封がついたままだ。

 商人は使いかけの束を開き、手早く額面を数えていく。

「はい。百十円と三十五銭ね」

「結構です」

 シプロスが答えると、男は長い算盤を出して、何やら紙を見ながら計算を始めた。

「ええと、懐中時計とラジオ、それから……」

 一分もしないうちに、シプロスが「購入」した物品の目録が出来上がった。

 男は伝票を一枚捲ると、複写を切り取って小銭と共に差し出した。

「一五銭お釣りね。まいど」

「お世話様です」

 流れ作業のように「お会計」が済んで、シプロスはテントを出た。一応、伝票の中身を確認する。品目は懐中時計、ラジオ、カメラ、鞄。学生が買ったと言い張るのに無理のない、適切な采配だ。

 

 見渡すと、テントの前に並ぶ列の真ん中あたりで、カナの耳がぴょこんと揺れた。

 すっかり日は上ったのに、吐く息が白い。もう少し時間がかかると察したシプロスは隅の木に寄りかかり、手提げの底から手のひらほどの箱を取り出した。中には、携帯用の裁縫道具と帆布が一枚。

 太めに撚られた赤い糸を引き出して、帆布に通していく。あらかじめ縁取っておいた糸に沿って針を通すたび、文字が浮かび上がってくる。

 ふと、背後から影がさした。

「こんな時までお裁縫?」

 降ってきた声に、シプロスは飛び上がった。

 振り返ると、にやけ顔のリーベが覗き込んでいた。

「アイリ。驚かさないでよ」

「外にいるのに、気を抜くからよ」

 リーベはふわりと跳ねて、シプロスの横に並んだ。

「アイリも、もう済んだの?」

「ええ。けど、あっちがね」

 そう言って指差した先には、長い列に揉まれるプラムの姿があった。配給券の額が小さい練習生は、買えるものも限られる。最後の生徒が終わるのは昼前になるだろう。

「あの様子じゃ、だいぶかかるわね」

「ところでそれ、何作ってるの?」

 シプロスは作りかけの刺繍を見せた。袋型にチャコが引かれた帆布と「安航」の文字を見て、リーベは「ふぅん、なるほどね」と、大袈裟に納得してみせた。

「……なによ」

「別に? マメだなあと思って。手紙を寄越したってことは、だいぶ元気になったのね」

「お年賀の手紙に、十日ごろには飛べるかもって書いてあったの。今日中に出せば間に合うかなって」

「飛行機に慣れるのも大変だろうし、急がなくてもいいんじゃなくって?」

「こういうのは、送った事実が大事なの。要は気持ち」

「気持ちといえば」リーベはぽんと手を叩いた。

「前にマダム・タルナが話してくださったのだけど、昔から、遠くへ行く人に尻尾の毛を渡すと、無事に帰るって言われてるんですって」

 シプロスは怪訝そうに、「それ、迷信っていうんじゃないの?」

「それこそ"気持ち"でしょ」リーベはよく梳られた自分の尻尾を抱えた。

「ま、尻尾の毛を入れるなんてはしたない真似、本当にしてたのかは知らないけど」

「はいはい。ちゃんと気持ちは込めるから、心配無用よ」

 リーベも、手作りのお守りが気持ちそのものだということくらい、よくわかっていた。そしてその目が、コートのポケットにねじこまれた手袋に止まる。

「ところでその手袋、可愛いわね。私のはないの?」

 シプロスは心底面倒臭そうな顔で「毛糸なら余ってるけど、自分で編む?」

「もう。苦手なの、知ってるくせに」

 むくれるリーベを見て、シプロスが吹き出す。

 つられて破顔するリーベ。

 その笑い声が、冬の陽ざしの中に溶けていった。

 

 *

 

 同日、午前十時五二分。

 宇都宮航空研究所・通信指揮所。

 名前の通り、指揮所とは飛行場の中枢だ。一階はガレージになっていて、二階が配電室、三階が無線機を収めた機械室、そして管制を行う四階の指揮室。屋上デッキの背後には高いマストが立ち、信号桁やアンテナ支柱が絡み合っている。

 交差した二本の滑走場を持つ宇都宮の指揮所は、上から見ると滑らかな半月形に張り出していて、ここからは滑走場の全体を見渡せた。窓沿いに作り付けられた長い机には、無線機の操作盤や電信の送信機、マイクといった機器がひしめいている。

 中央の椅子に座るカリュオンは、置き時計を一瞥すると、マイクを取って送信スイッチを押した。

「坂井、カリュオンだ。準備はいいか」

 視線の先には、坂井と船崎の乗る「驔風・改 」2174号機が凍った芝の上に翼を広げていた。エンジンの音も高らかに、出航の許可を待っている。

『ミヤ2174、出航準備よろし』坂井の溌剌とした返事がスピーカーを揺らす。

 隣に座る管制部員、百瀬三郎太がマイクを取った。

「宇都宮管制よりミヤ2174。今回は慣熟飛行につき、飛行場から五〇英里(約八〇キロメートル)で引き返してください。出航を許可します」

「迷子にならないように気をつけるんだぞ」とカリュオンが続く。

『おやつまでには帰ってきます』

 珍しく軽口をこぼす坂井に、百瀬が思わず吹き出した。少し間を置いて、『ミヤ2174、出航宜候』

 ガラス越しに響くエンジンの爆音が、一段と高まる。

 ミヤ2174号は並んだ排気管から赤い炎を噴き出し、凍った空気を切り裂くように加速していった。滑走場の中央を過ぎたあたりで、機体はふわりと浮き上がり、窓ガラスを震わせながら上昇していく。高度を上げ、小さくなっていく機影を追っていたカリュオンは、やっと息をついて椅子に腰を下ろした。

「戻ってきましたね。凧揚げ坂井が」

 無線を待機に切り替えた百瀬は湯呑みを出し、魔法瓶から湯を注いでカリュオンに差し出した。

 カリュオンは「ありがとう」と答え、湯呑みから一口啜った。

「傷は治っても、本気で飛べるようになるには暫くかかる。本当に戻ってきたと言えるのは、その時だ」

「僕はここでいろんな人と交信しますが、あんなパイロットはなかなかいませんよ。真面目で、一生懸命。なにより、夢があることを隠さない」

「それ、あいつには聞かせるなよ。すぐ調子に乗るからな」

 カリュオンは再び湯呑みを傾け、窓の外を見やった。

「僕なんかが言わなくても、カリュオンさんが散々言って聞かせてるでしょう。彼はよくわかってますよ」

 カリュオンは百瀬から顔を背けたまま「さて、どうかな」とだけこぼした。

 外では、冷たい風が霜で白くなった芝を撫でていた。

 

 *

 

 飛び立った二人は、全開のエンジンが響かせる唸りの中にいた。

「どうだい、久しぶりの空は‼︎」

 船崎の浮かれた声が、ヘッドホンを通して聞こえる。機体は大きな円を描きながら、じわじわと高度を上げていた。

「最高だ‼︎寒いこと以外はな‼︎」

 二人は分厚い毛皮の飛行帽に、防寒着を二重に着込んでいた。

 それでも、開放型の操縦席に吹き込む風は容赦なく熱を奪っていく。スカーフの下にマイク付きのマスクを着けていなかったら、顔面が凍りついてしまいそうだ。

「そりゃ結構。さて、迷子にならないようにしないと。帰投方位指示器、那須電波標識」

 船崎はダイヤルを最寄りの周波数に合わせ、受信スイッチを上げた。計機盤に取り付けられた針がゆっくりと持ち上がる。

 帰投方位指示器とは任意の電波の発信方向を示すもので、前席にもつけられている。坂井は、計器を見やすくしようと機体を水平に戻した。

「仰角ゼロ。那須電波標識、受信宜候。方位マルマルフタ。現在高度、五千八百英尺(一七六〇メートル)

燃料(ガス)親父さん(菅沼所長)の奢りだ。もう少し上がろうぜ」

 船崎の提案に、坂井は燃料計に目を向けた。二つあるタンクはどちらもほぼ半分ずつ。連続飛行なら四百キロは飛べるだろう。今回の訓練飛行には、多すぎるほどだ。

 奢りだというなら、少しは遊ばせてもらおう。坂井は飛行眼鏡のベルトを締め直した。

「よおし、一気に上がるぞ」

 スロットルを開いて操縦桿を引く。応えるようにエンジンが咆哮し、機体が空気を押し裂いた。

 

 ──二十分後。

 坂井たちは、薄い雲を見下ろせる高度にいた。横を向くと、地平線がわずかに丸みを帯びて見える。

「高度一万五千二百英尺(四六三〇メートル)、仰角ゼロ」

 坂井はゴーグルを外し、まっすぐに差し込む太陽の光を浴びた。

「やっぱ驔風じゃ、上がれてもこの辺までだな」と船崎。

 この「驔風」は、圧搾空気供給装置を装備していない。酸素濃度が大きく下がる高度五千メートルより上に上がる能力は、まだ一部の機体にしか取り付けられていなかった。

「今日の俺には十分だよ。ありがとうな、船崎」

 エンジンの快調な爆音が耳を打つ。船崎が手入れをしてくれていたおかげで、まるで昨日オーバーホールしたように快適なフライトだった。

 

 その時、坂井の視界の隅で、何かがきらりと光った。

「十一時に機影──双発機だ」

 胡麻粒ほどの影を捉えて、船崎はすぐに双眼鏡を構えた。確かに、十英里ほど離れたところに大型機がいる。この距離から一瞬で機体の形状まで見抜いた坂井に、船崎は口笛を吹いた。

「さすがの鷹の目だな。ありゃ交差するぜ、通信の用意をしよう」

「任せた」

 

 航空機に無線が搭載されてから、すでに十年以上が経過した。真空管の国産化によって無線機は飛躍的に進歩し、今ではどの機体にも当然のように積まれている。それでも飛行士たちは、光の点滅による交信を好んで使っていた。これはパイロット同士の交流だけでなく、離合してからどちらかが事故にあった場合、少なくともその時点までは無事であった、という確認も兼ねている。

 電波を使用して互いの位置を確かめる装置などはまだ存在しないので、このような通信は非常に大切な記録であった。

 船崎は回光信号機を取り出してシャッターの開閉を確認し、電源を入れた。かっと電球が灯る。

「回光通信、用意よろし。もう少し寄せろ」

「あいよ」

 坂井がラダーを踏み込むと、機体は滑らかに横滑りをはじめた。

 

 近づくにつれて、機体の形状がはっきりと見えた。何本ものアンテナを生やした胴体に、長い長い翼を持つ巨大な複葉機。双発に見えて、エンジンがナセルの中で背中合わせになっている四発機だった。機体色は薄い緑で、箱型の尾翼に描かれたパーソナルマークは、水面に跳ねる鯉をあしらっていた。

 坂井はスロットルを絞り、機速を落とした。通常、大きさの異なる飛行機同士が並進するときは、より小さい側が合わせるのが通例だ。しかし、高速の小型機が低速の大型機に合わせて飛ぶのは非常に難しい。機体の均衡を保つのに手一杯なので、坂井に通信の内容を読み取っている余裕はなかった。

「挨拶は任せた」

「了解」

 船崎は回光信号機を並進する機体へと向け、照準針を操縦席に合わせた。

 名乗りは当然、パイロットの名で行われる。空では、通信士もまた“その人の声”なのだ。

 

 光の明滅が綴る。

 DE U2174 UARC SAKAI──

『大空の友へ、邂逅を祝す。こちらは宇都宮航空研究所所属、ミヤ2174号──"凧揚げ坂井"』

 少しの間があって、操縦席の後ろあたりに光が瞬いた。

 ──勇敢なる風に敬意を表す。こちらは岐阜航空研究所所属、電波監査機フ108号"滝登りの松岡"。坂井飛行士の噂は聞いている。空への帰還を祝す。

『フ108。貴機に感謝を。任務の無事な達成を祈る』

 ──ミヤ2174。無事な帰還と研究の発展を祈る。通信終わり。

 

 船崎は回光信号機をしまうと、通信記録簿に鉛筆を走らせた。

「通信終了。那珂川上空一万四千英尺。岐阜航研108、松岡飛行士」

「了解。最後にひと技見せてやるか」

 坂井は、軽く翼を振ってからスロットルを開いた。エンジンが唸り、機体がぐんと速度を上げる。勢いがついたところで、機首を軽く下げる。

 そこから急上昇。視界が、一気に青に染まった。

 一瞬、ループに入るかと思わせて、頂点で反転。青空の中に、見事なインメルマン・ターンの航跡が描かれた。

 

「ひゅーっ、これだよこれ。あいつら、ちゃんと見たかな」

 船崎がミラーを覗き込むと、遠ざかってゆくフ108号がゆったりと翼を振っているのが見えた。

「これで国中の飛行士が喜ぶぜ。坂井様のお帰りだってな」

 船崎の大げさな言葉に、坂井からの返事がない。それどころか、じわりと機首が下がっている気がする。

「……坂井? おい」

 返事の代わりに、エンジンの唸りだけが続いた。

「……なんでもねえ。腹が……」

 その呻きと同時に、機体がぐらりと傾いた。

「おい大丈夫かよ。航空救難、打つか?」

「いや、まっすぐ降りる。着陸許可、頼む」

「了解。ミヤ2174より宇都宮管制。応答願います」

『宇都宮管制よりミヤ2174、どうぞ』と、すぐに百瀬が出た。

「今から引き返す。降りられるか?」

『滑走場は空いている。風は──東から八節』

『おい船崎。何かあったのか?』とカリュオンが通信に割り込んだ。出航してからわずか一時間しか経っていないのだから、気になるのも当然だ。坂井は諦めた様子で送信スイッチを押した。

「こちら坂井。傷が痛むんで、降りることにしました。大丈夫、操縦はできます」

『わかった。自動車を手配しておくから、ちゃんと帰ってくるんだぞ』

「あんまり大事にしないでください。心配いりません」

『心配するのが私の仕事だ。船崎も聞いてるか、任せたぞ』

「聞いてます。ミヤ2174交信終わり」簡潔に答えた船崎は無線を切った。

 

 十八分後、ミヤ2174号は再び滑走場の芝に降り立った。まっすぐ駐機場に入ってエンジンを切る。プロペラは惰性でカラカラと回り、最後にカタンと音を立てて止まった。静けさの中で、首に巻いたスカーフが力無く垂れた。

 すぐに、待機していた作業員がわらわらと坂井を担ぎ出し、自動車に乗せて行ってしまった。残された船崎が点検をしているところに、カリュオンがやってきた。

「姐さん」

「坂井は病院に送った。機のほうは任せたぞ」

「あいつのこと、叱らないでやってくださいよ」

 船崎はエンジンのカバーを開けながら、「半年も飛んでなかったら、インメルマン・ターンの一つでもやりたくなるでしょう」

「あのバカ、そんな大技を」

 カリュオンは小さく息をつき、目を伏せた。

上空(うえ)で、岐阜の松岡航空士と行き合ったんです。それで、別れ際に」

「松岡……滝登りの松岡か」

「ええ。通信で、おかえりと言ってました」

「わかった。そっちは私がやる。整備が済んだら、あがっていい」

「あい。お疲れ様でした」

 カリュオンはサクサクと芝を踏み鳴らし、ウマ娘らしい身のこなしで指揮所へと走っていった。

 機体を移動させるためのトラクターが、トコトコとやってくる。船崎は、低い太陽が透かす空を見上げて息をついた。

 それは何もかも呑み込んでしまうような、澄んだ空だった。

 

 *

 

 同日、午後八時十六分。蹄桜寮・二階。

 

「アスター! いるか!」

 どんどんと戸を叩く音がした。アスターは顔を上げ、メガネを外すと、ゆっくりと立ち上がり扉を開けた。

「ハイペリカム! やっと帰ってきたか」

「さっき着いた。正月の祝いを持って来たぞ」

 手提げの中には、菓子の袋やサイダー瓶の頭が覗いている。外気をまとったハイペリカムの吐息は白く、肩には霜のような粉雪が光っていた。木造の廊下を抜けてくる夜気が、部屋の畳をひやりと撫でる。就寝前のささやかな規則破りも、ここにいる二人が黙っていれば、誰の耳にも届かない。

 アスターは小さく笑って、学友を部屋へ招き入れた。

 

「まさか年明けまで園田にいるなんて思わなかったから、驚いたよ」

「ちょっとな。中で話す」

 ハイペリカムはのしのしと部屋に入り、いつものようにソファへ腰を下ろした。アスターは机の上を整えながら、湯気の立たぬ湯呑に目をやり、ふと視線だけを向けた。

「何か、いいことでもあったのかい?」

「良いも何も、園田はいいところだ。砂は少し硬いが、人は柔らかい。水も美味い」

 

 かりんとうを皿へ開け、サイダーの栓を抜く。ぽん、と軽快な音が、静まり返った木造寮の空気に弾けた。

 アスターは指先でかりんとうを一本つまみ、口に運びながら微笑む。

「誤魔化しても無駄だよ、ハイペリカム。そんなことで二ヶ月も帰りを伸ばす君じゃないだろう?」

 探るような視線に、ハイペリカムはため息をついた。

「出入りの蹄鉄職人に、正志という見習いがいてな。何くれとなく世話を焼いて、私の靴に合わせて一から蹄鉄を作ってくれたのだ。お陰で、五ハロンの自己ベストを更新した。そしてある時から私に、いつ帰るのかと聞くようになった」

 

 珍しく淡々と語るハイペリカムに、アスターは口を挟まなかった。代わりに、その口角はどんどんと上がっていた。

「あまりにも熱心なものだから、私も無下にできなくて、もう少しもう少しと引き延ばしているうちに……年が明けてしまった」

 砂煙を蹴破って現れる黒い耳。その姿を鷹に見立て、誰もが「猛禽」と呼んだ。そんな勇猛で鳴らしたウマ娘が、鍛錬に出た先で若い蹄鉄職人と懇ろに──これは学園の出納帳より機密性の高い話だ、とアスターは確信した。入学以来の仲間でなければ、万力で口を開けても話さなかっただろう。

 

「猛禽と恐れられたハイペリカム様も、二枚目を前にすればたじたじ、ということか。確かにそれは、誰に聞かれても言えない話だ」

「笑い事じゃない。私は結局、レースには勝てなかった。たしかに、あと二年ある。けれど、強い奴らはいくらでも湧いてくる。だから、もう追いつけないと悟った時には……」

「君、まさか」

 アスターは思わず腰を浮かした。

「いや、まだだ。きちんとケリはつける。それは説明したし、よく理解してくれたと思う。それに、なったらなったで専属の蹄鉄打ちがいるというのは心強い。だから互いに精進しようと、約束して、きたのだが……」

「一人になってみたら思いの外寂しかった、と。いやはや、君もちゃんと乙女だったのだなぁ!」

 

「ああもう!」瓶を振り回しながら、ハイペリカムは真っ赤になった。

「貴様にしか話せないことだから、こうして口止め料まで持って来たのだ! どこかに漏らしたら外の桜を引っこ抜いて、根っこの下に埋めてやるからな!」

「わかっているよ」

 アスターは苦笑してサイダーを傾けた。

「それに、私はゴシップには疎いからね。明日には、すっかり忘れているさ」

 

「ところで、ゴシップといえば選挙はどうなんだ。私が帰ったら話すと、そう言っていただろう」

「まだ何も。会長はそろそろ動く頃だろうけど、生徒会は静かなものさ」

「そんなはずがあるか。速い者はとっくに動いている。だいたい、貴様はのんびりとしすぎだ。レースのようにハナ差で差し切れば良いなどと考えていると、あっという間に置いていかれるぞ」

 

「世の中も、レースのように簡単だったら良いのにな」

 アスターは瓶を傾け、ぽつりとつぶやいた。

「そうではないから生徒会があって、貴様がいるのではないか。今の立場に満足してあぐらをかくようになったら、いよいよ終いだぞ」

「ご忠告、痛みいるよ」

「さて、顔も見れたし、私は寝る。また来る」

 軽く手を振って、ハイペリカムは部屋を出ていった。

 廊下を渡る靴音が消えると、アスターはメガネをかけ直し、引き出しを開けた。

 

 残っていたサイダーを飲み干すと、泡が唇の裏で弾ける。

 ──恋、か。

 

 脳裏にふと、笑うハイペリカムと、彼女の言葉が浮かぶ。

 もし自分にも、そんな誰かが現れたら。

 

 ──いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 

 アスターは軽く頭を振り、机に向き直った。

 散らばった議事録を軽く整える。

 メガネをかけ直すと、冷えたつるがこめかみを撫で、わずかに身震いする。

 

 少し度がずれたのか、文字がぼやけて見えた。

 その紙の上には、冷たい外気のように淡々とした文字列だけが、静かに凍りついていた。




次回、野心の火種
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