蹄音、高く   作:上條つかさ

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野心の種火

 昭和十九年一月六日、十四時六分。学園管理棟・理事長室。

「──それで、お決まりになったの?」

 黒檀の机に向かう日本ウマ娘倶楽部筆頭、酉越・T・ユラナス衆議院議員は、ゆったりとした動きで生徒会長・アザーレアを見据えた。

 窓の外では、薄雪を踏む音が絶え間なく続いている。冷たい光が机上の帳簿に反射し、名簿の文字を淡く照らしていた。

 

「四人まで絞りました。こちらを」

 恭しく差し出された帳簿は、次回の生徒会長候補となる生徒たちの資料だ。選挙告示が迫り、生徒会はにわかに騒がしくなっていた。ユラナスがわざわざ学園に足を運んだのも、このためである。

 学園における生徒会長選挙は、とても公明正大なものだ。生徒全員に一票が与えられ、投票の内容を他者に漏らすことも、聞き出すことも許されない。さらに投票券は、講堂壇上に設置された記名台で記入の上、投票函に入れられるまで本人以外が触れることもない。最も進歩した民主主義の形がそこにある──ように見えた。

 

 ユラナスは、受け取った資料の中から、一冊を手に取って開いた。

「七十期、ウミビヨリ候補生……初めての方ね。どんな生徒かしら?」

 机上に並ぶ帳簿の紙が、彼女の指先でわずかに揺れる。目は冷たく光り、静かな圧力が空気を支配する。

「聡明ですが、決断力に欠ける傾向があります。しかし、上からの指示に従うことを是とする性格ですので、余計なことに手を出す心配はないかと」

 アザーレアの声も、慎重に抑えられている。ユラナスの視線は相手を穿つようで、言葉以上に権威を伝えていた。

 ユラナスは、関心も薄い様子で二冊目を開いた。

「七十期、ペールスターチス候補生。確か、一度お話したことがあるわね。特に目立つような子ではなかった、と思うのだけれど」

「魅力はむしろ、その目立たなさにあります。彼女は毒にも薬にもなりません。安穏に日々を過ごすことに力を入れるのなら、それもまたよしかと」

 ユラナスの目は帳簿の向こうで微かに光った。文字を読むだけでなく、そこに潜む性格や志向まで透視しているかのようだった。

「そうね。あなたもここに来て、やっと目が肥えたのではないかしら?」

「恐れ入ります」

 返答は低く控えめだが、その声すら、ユラナスの存在感に押し流される。

 

 ユラナスは残りの二冊の中を確かめた後、冷たい目でアザーレアを見据えた。

「ロートアスター候補生の資料は、どこかしら?」

 その一言で、部屋の空気は凍りついた。椅子の軋みも、かすかな呼吸音も、沈黙の中で浮き彫りになる。

「いや、しかし、その」

「なあに?」

「先日、ロートアスター候補生が御前にて失礼なことを申し上げたと聞いております。それを生徒会長に推薦するなど……」

 アザーレアの背筋に冷たい汗が伝った。ユラナスの言葉は、指摘ではなく鋭利な刃のように心の奥まで突き刺さる。

「前言を撤回するわ。アザーレア生徒会長」

 声は穏やかだが、その静けさは重く、空気に圧力を与える。アザーレアの耳には、机の端に置かれた書類の微かな揺れすら脅威のように響いた。

「も、申し訳ございません」

 言葉が震える。論理が回転しても、胸を締めつけるのはユラナスの存在そのものだった。

 その黒い瞳は鋭く、机の向こうから一点を射抜く。声の強さではなく、呼吸や姿勢、目線の微妙な角度が、全てを監視する権力の象徴となっている。部屋の隅々まで、視線の届かない場所はないかのような圧迫感が支配していた。

 

「私は、次に学園を任せるに適当なウマ娘を選びなさい、と申し付けたはずよ。なのに、なぜロートアスター候補生の資料が無いの?」

 指先がわずかに動き、書類を押さえるだけの仕草が、緊張をさらに深めた。アザーレアは肩を縮め、思わず背を丸める。

「そ、それは……」

 言い訳の声は自然に小さくなる。鼓動が耳に届くかのようだった。

「まさか、私怨?」

 短く響いた単語が、胸を刺す。アザーレアは視線を足下に落とすしかなかった。

「滅相もないことでございます」

「なら、どうしてかしら」

 問いは軽やかだが、切れ味が深く潜り込み、思考の隅々まで追い詰める。

「学園を任せるには、現在の体制を良しとする者でなければ……」

 言葉を紡いでも、緊張は解けない。ユラナスの前にある机が、言葉を遮る壁のように立ちはだかるように感じた。

 

「結構」

 ユラナスは弁解を遮った。空気が一瞬で鉛のように重くなる。

「大変な思い違いね、アザーレア生徒会長。あなたが選ぶべきは、ただ私の命令を聞くお人形ではなくってよ。あなたが見つけるべきは、私の言葉を理解できるウマ娘。おわかり?」

 言葉の一つひとつが鋭く胸を抉る。ユラナスの存在そのものが、権力の波となって押し寄せる。

「申し訳ございません。心得違いをしておりました」

「よろしい」ユラナスは鷹揚に答えた。

「では、三日与えます。ロートアスター候補生と、あと数人選んで持っていらっしゃい。下がってよろしい」

「はっ。失礼いたします」

 アザーレアは資料を抱え、そそくさと部屋を出た。ドアの閉まる音さえ、ユラナスの威圧感の前では霞んで聞こえる。

 

 ユラナスは細い煙草に火をつけ、深く息を吸った。気だるげな紫煙が立ち上り、空気にわずかな静けさが生まれる。

「ファレーズ」

「ここに」

 背後からすっと現れたウマ娘の黒髪には一瞥もくれず、ユラナスは煙の揺らめきを目で追った。椅子に深くかけなおし、ため息をつく。

「なあファレーズ。私たちのやっていることは、果たして正しいのだろうか」

 理事会として学園を維持運営する責任に加え、議員として国政に関わる大命が、肩に重くのしかかっている。国会におけるウマ娘議員の議席は、わずか七。泡沫政党として歴史の波間に消えぬよう、ユラナスはその意志を握りしめていた。

「制度とは、動かす者の意思によって自在に形を変えるもの」

 ファレーズは柔らかく、しかし力強く答えた。

「貴方がここで躊躇っては、我らウマ娘という種族の根幹が揺るぎます」

 ファレーズは手をユラナスの肩に置く。その手には、血の通った温かみがあった。

「やっとここまで来たのです。もうひと踏ん張り」

「そうだな」

 ユラナスはすっと立ち上がる。その目にたゆたう光は、ただウマ娘の安楽という一点だけを見つめている。

「三女神を詣でたら、帰るとしようか」

 ファレーズは無言で一礼し、ドアを開けるために歩き出した。

 

 *

 

 車寄せには、アザーレア以下の生徒会生二十名が並んでいた。そこへ、低いエンジン音を響かせた黒い自動車が入ってくる。スーツに身を固めた運転手が恭しく後席のドアを開け、ユラナスとファレーズが乗り込んだ。

 ドアが閉まり、運転手が乗り込むまでの一瞬で、ユラナスはアスターの姿を見つけた。

 甲高い笛の音が響いて、揃った礼に見送られた車が動き出す。

 ユラナスは、視界から消えるその瞬間まで、ただアスターを見つめていた。

 

 車の音が遠くなって、アスターが「なおれ」と声をかけた。

 四〇本の耳が一斉に天を指す。

「みんな、今日はご苦労だった。解散」

 アザーレアは特に訓示もなく解散を指示し、足早に管理棟へと戻っていく。ユラナス議員に何かを言われたことは、誰の目にも明らかだった。

 

 ばらばらと学園へ戻っていく足音の中から、アスターに近づく者がいた。

「会長殿は、何やらお忙しそうですな」

 振り返ると、庶務のピルソスが、目に怪しい光を湛えて立っていた。相変わらずの考えが読めない顔に、アスターの頬に力がこもる。

 アスターはできるだけ感情を乗せず、「年度末が近いのだ、仕方あるまい」と、顔も向けずに答えた。

「確かに。会長殿には、きっちりと引き継ぎをしてもらわなければいけませんからな」

 掴んだとばかりに、ピルソスは迎合してみせた。

 

 また探りか。

 アスターは心底うんざりした。これと同室の者は、神経が鉄の棒でできているに違いない。——こういう時の言葉は、どれも冷たく磨かれた刃物のように感じられる。触れれば切れるとわかっていても、黙っていれば背を刺される。

 

「君こそ、こんなところで油を売っていて良いのかい。庶務というのは、なかなかに煩雑なのだろう」

「雑務というものは、大きな動きがなければ生まれません。……が、静かな分、耳に入るものは多ございます」

 なるほど醜聞か、とアスターは思った。あれは生徒たちの、負の栄養素のようなものだ。気味の悪い笑みを湛えたその口からどんなゴシップが飛び出すのか、わずかな興味が沸いた。

「なら何か、面白い話でも聞かせてもらおうか」

 

 瞬間、ピルソスの視線が鋭くなる。左右に目配せをしたかと思うと、ふいと顔を下げ、構えたように口を開いた。

「目下の敵は、スターチス候補生にございます」

「敵?」

 一瞬、アスターの耳がぴくりと動く。その言葉に、アスターは反射的にピルソスの顔を見てしまった。

「……何の敵かは知らないが、詳しく聞いておこうかな」

 平静を装うアスターに、ピルソスはほのかな勝色を帯びて顔を上げた。

「風聞によれば、次期生徒会長の推薦を得ようと、会長殿に取り入ろうとしているとか」

「風聞というわりに、ずいぶんとはっきりした話に聞こえるな」

 ゆっくりと答えながら、アスターはスターチスという名のウマ娘を求めて、記憶の引き出しを漁っていた。

「私どもの耳は、いささか大きゅうございますゆえ」

「それはそれは。周りの音が、さぞよく聞こえるだろうね」

 

 そう受け流し──思い出した。

 名前はペールスターチス。生徒会設備部の生徒で、学園の練習コースを管理している。砂を平すことに命をかけているのか、生徒会室にも滅多に現れない。同期生だというのに、すっかり忘れていた。

 

「しかし、あまり耳が大きいと、風が吹けば流されてしまうな」

 敵とやらの正体も明らかになったので、アスターにもやり返すだけの余裕ができた。

 しかしピルソスは「お心遣い痛み入ります」の一言で、あっさりとアスターの皮肉を受け流した。やはり、この程度の揺りが効く相手ではない。こうなれば、どちらが手玉に取られているのかなど、考えるだけ無駄というものだ。

「ご心配なく。私どもの耳は、きちんと“聞きたい方”を向くよう、手入れをしております」

「結構なことだ」アスターは苛立たしげに尻尾を振った。

 こちらの聞きたい事をすぐに言わず、とことん値を釣り上げる。これほど人の神経を逆撫ですることに長けた人物というのも、そういない。まるで慇懃と無礼の狭間で反復横跳びをしているような態度だ。それでも、敵と明言されたからには、アスターはこの会話を続けて情報を聞き出すしかなかった。

 

「しかし解せないな。この話をして、君に何の得がある?」

 これだけは本音だった。スターチスに味方するつもりなら、一方的に肩入れをしたほうが勝つ可能性が高い。

「得があるかどうかは、結果論として話せる時期が来れば良い、というのが、私どもの総意でございます」

 ピルソスの仰々しい礼を見て、アスターは妙に納得した。つまり、双方に同じ情報を流すつもりなのだ。結果、有利になった方に着こうという腹なのだろう。

 

 普段、学園の華やかな行事から遠ざけられていると、根性というものは岩を噛んだにんじんのようにひねくれてしまう。そんな連中の“総意”と言われても当てになるものか。

 こちらが圧倒的多数派である、と証明できなければ、彼女らを味方にするメリットは無いだろう。軽々に味方に取り込もうとすれば、足元を掬われるのは、こちら側だ。

「その立派な耳も、今は静観ということかな。まだ、何も動いていないのだから」

 アスターは会話を打ち切ろうと、あえて大仰に身を翻した。切りそろえた栃栗毛の髪が揺れる。

 

「風がいつも、北から吹くとは限りませんぞ」

 ピルソスの小さなつぶやきが、その背中を打った。

「……何と言った?」

 アスターは耳だけを後ろに向けた。取りつく島もない会話に、ついに痺れを切らしたのだろうか。

 この状況でアスターを引き止められる情報を出すということは、かなりの値打ちがあるものに違いない。

「この風はいずれ、台風となるやも知れません」ピルソスは追い打ちをかけるように言った。

 この風見鶏が"台風"というからには、それは学園を揺るがしかねない人物、あるいは企みがあるということだ。

 

 ピルソスの目的とはおそらく、自分たちの存在感を常にアスターに見せつけ続けること。次いで、現場の発言力は強いのだと知らしめることだ。

 健気なことだが、これでは、どこまでが奴の掌の内なのか、もはや測りかねる。奴が値をつけるというなら、買ってやるのが優しさというものだ。

「さて、それが誰なのかは、教えてもらえるのかな」

 アスターは振り返らず、声だけはつとめて優しく問いかけた。

「二五英里を駆ける孤高の天才。美的センスと、それを実現する技術を併せ持つ類稀なるウマ娘。──聡明なる副会長殿ならば、これでお察しいただけるでしょう」

「そのようなウマ娘が、一般生徒の中にいたとはね」

「金の流れは全てを語ります。どこから来て、何に化け、どこへ去ったか。これだけで、その者の姿形までが透けて見えるのです」

 そのねっとりとした口調に、アスターは懐を探られたような不快感に襲われた。どうやら、ピルソスの目が届く範囲は思ったよりも広いらしい。生徒会に「入る」金まで見えるということは、情報の出所は経理部。しかも、すでに彼奴らの手によって風に靡く耳と化している可能性は大いにある。

 

 この目で見なくても、ピルソスが勝ち誇った顔をしていることは手に取るようにわかった。まんまとこれを、価値がある情報だと認めてしまった。

「ずいぶん手広いのだな。君たちは」

「ご心配なく。私どもは、耳は大きくとも、声は小さいものでございます」

 一部の生徒しか知り得ない金の流れを吹聴すれば、ただではおかない──そんな含みすら、ピルソスにとっては頬を撫でる風に過ぎないらしい。冷静になったアスターは、いよいよばかばかしくなった。

「……そうあることを願うよ」

「では、私はこれにて」

 目的は果たしたとばかりにピルソスが歩き出し、アスターの横を通り過ぎた。

 

 アスターは去っていく背中を見て、しばらく立ち尽くした。そっとポケットに触れる。そこには、生徒会室の鍵が入っている。動き出した者がいる──その事実だけで、心が波立つ。

 今すぐ動き出せば悟られるかもしれないが、残された時間は少ないらしい。

 大きく吸い込んだ空気は、凍りつくように冷たかった。

「……急いでは事を損じるが、急かずして二兎は得られず、かな」

 白い息を残して、アスターは足早に教室棟へと消えていった。

 




次回、昭和十九年一月七日
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