いつも「蹄音、高く」をお読みいただいてありがとうございます。
本文に入る前に、『蹄音』って何て読むの?って聞かれることが多いのでお答えします。
本作のタイトルは「あしおと、たかく」です。覚えましたね?
それと、本文はかなり踏み込んだ内容になります。
物語を一度読んだ方が、あとから拾える部分だけ拾ってもらえれば十分です。
では、本題に入りましょう。
まずは八月に書いた、このストーリーを書くにあたって常に付き纏っていた、「この話はウマ娘でなくても良いのでは?」という悩みについては、完全に吹っ切れることができたと思います。
彼女たちは社会、つまり制度の中に取り込まれ、ぶつかりあい、悩み、その中でわずかな自由と希望を見出して生きています。
この姿を追いかけているうちに、当初の「昭和に置いたウマ娘の挙動実験」は、いつの間にか「ウマ娘という主体を通し、人間と社会を問う試み」へと変わりました。これは意図した転換ではなく、描写の帰結として自然に辿り着いた地点です。
では、ウマ娘を土台に据えたこの複雑な社会は、どのように構築され、いかに運用されているのか——順を追って読み解いていきます。
◇ウマ娘を語る前提ーー「話せる」ことの意味
私は常々、競走馬とウマ娘の違いとは、「主体性と意思の言語化」にあると指摘してきました。
つまり彼女たちとは、言葉を使い意思を交わすことができる、ということです。
これによって、私たちは彼女らに「個」として向き合わざるを得なくなります。それは同時に、彼女らと私たちとの間に「社会性」の存在が否定できないことを証明したのです。
そして、それらを社会の中に生きる個人として投影した時、その個は一つの主体として立ち上がり、思想が生まれ、信条が育ち、意思を形成します。その主体性を持つ個の集合体が「友人」であり「組織」であり「国家」です。
◇制度化された集団ーーわざと「歪まされた」組織たち
主体性を持つ個が集まれば、その集団には、当然のように意思決定と統率を担う存在が必要になります。
ここで私は、あえてウマ娘というIPが本来持っている「レース能力」を、学園における政治的序列に結びつけず、ヒトが作り出した民主制を基盤に据えました。
ただ、これだけでは「政治能力」と「競争能力」を切り分けるには不十分です。
そのため、生徒会という統治組織に加入条件を設け、望む望まないに関わらず、一定の能力を持つ者には役目が与えられる構造を付帯させました。
これは彼女たちを統率する制御装置であると同時に、学園の支配構造を複雑化させ、見ようとする者にしか全貌が見えない仕組みとして働きます。
またこれは、彼女たちが「ヒトならざる者」でありながら、いずれヒト社会で生きていかなければならないという事実を、隔絶された学園内で学ばされることを意味しています。複雑ではあっても、ウマ娘が自らを種族的マイノリティとして自覚するための緩衝材として、先人たちが用意した小さな優しさとも言えるでしょう。
作中の制度がいずれも「どの角度から見れば誰が利益を得るのか」が変わるように描かれているのは、この発想から来ています。この点に着目していただければ、物語の読み味はさらに広がるはずです。
◇制度の試験場ーーミニ国家としての「学園」
劇中において、学園は物語の支点と作用点でありながら、その力点は外部にあります。理事会の存在は明かされるものの、理事長も校長も存在がぼかされ、代わりに生徒会長が運用レベルのトップとして君臨しています。
しかし生徒会長の権限は理事会によって強く制限され、時には発言権すら奪われます。
これを抑圧と見るか、成熟していない個の集団に対する安全装置と捉えるかは、学園をどの視点で見るのかによって、容易に変化します。これが生徒と管理者の軋轢という形で具現化されているのです。
二千人という生徒数は、一つの町に相当します。そして、それをいかに管理運営するかという方法は、情報伝達が高速化した現代ですら、根本的には解決されていない問題です。
次の項では、その点を構造的に読み解き、この世界の均衡点を探ります。
◇抑圧と自己表現ーーいかに「制度」の中で生きるか
本作が描く学園制度の核心は、「柔軟に個を育てようとする力」と「個を役割に固定しようとする力」が常に拮抗している点にあります。
ウマ娘という特異な存在だけで形成された閉鎖的コミュニティは、これらの課題に対する実験場として非常に有意です。
さらにこの閉鎖環境は、未熟な個が会得しようとする思想・信条を如何なく発達・発揮させる為の安全地帯としても機能しています。そして彼女たちに「自分とは何か」「相手とは何か」という本質に向き合わせる機会を与え、学園は多様な思想を発達させる最良の土壌として完成したのです。
こうした“安全地帯としての閉鎖性”は、同時に彼女たちの内面世界を制度化する圧力にもなります。
『戦争がない世界』という本作独自の設定の行先は、個を認め、個が個であるための制度づくりを加速させ、一般に言う「人権」や「個人の権利」を急速に発達させるのだ、という結論に至りました。しかしその反動、もしくは代償として「個は与えられた役割から逃げられない」という構造が、自然と形成されたのです。
ただしこの構造は、個を守りながら個を縛るという構造上、思想の暴走を抑える調整機構の不在による崩壊の危険を孕んでいます。次項では、その制御と調停者の役割について触れていきます。
◇箱庭の”管理者”ーー三人のマダムと三女神信仰
ウマ娘を語る上で外せないものが、「三女神」の存在です。劇中では“教え”として広く共有され、信仰の対象として奉られている三女神は、それぞれ「勇敢」「愛情」「規律」を象徴しています。
価値観が成熟していない個が集う学園では、この三要素が相互に補完しあい、「自分とは何か」「相手とは何か」を理解するための共通言語として機能することに気づきました。
また、ウマ娘の持つファンタジー要素である「継承」を、この教義にのみ結びつけて還元することで、この世界と現実世界の決定的な差異を一点に集中させることができました。
しかし生徒たちは言語的にも思想的にも未熟であり、もしもその混沌の中に無造作にこの「信仰」を放り込んでしまえば、それは急速な変質と本質の脱落、そして崩壊を招きます。
その思想の防波堤として配置される成人ウマ娘こそが、校医ラピアス、司書アルセ、寮母タルナの三人です。
彼女たちは三女神の象徴性を学園内で“地に足のついた形”へと翻訳する担い手であり、同時に自己の意思や視点を見失わず、それぞれの専門職として学園社会に実際的な貢献をしています。
しかもこの三職は、医療・知識・生活という“集団が崩れる三大要因”をそれぞれ支えており、単なる精神的支柱に収まらず、制度の実務的安定を担う三本柱でもあります。
これは学園を完全な閉鎖社会にさせないための安全弁でもあり、彼女たちが「外の世界を知っている」ことが、箱庭に外気を送り込む換気口として機能しています。
こうした“箱庭のルール”が完成した先で初めて、その外側に存在する社会が彼女たちをどう受け止めるかが問われます。
◇想定外の成功例ーー「宇航研」の存在とカリュオンというキャラクター
学園という閉じた制度の外側には、宇都宮航空研究所をはじめとした“別の社会”が存在します。
宇航研で働くカリュオンはウマ娘ですから、当然、学園の卒業生です。そして同時に、レースとは無縁の分野――航空機設計、操縦適性、そして組織を束ねる能力――を武器に現在の地位を得ています。
ここで重要なのは、宇航研が彼女という“学園制度外の存在”を、ごく自然に職能者として受け入れている点です。
これは、ヒト社会がウマ娘を単なる競技資源としてではなく、一個の担い手として扱う段階に達していることを示し、同時に学園が育ててきた“社会性”が確かに機能している証拠でもあります。
そして、この配置は私が最初から意図したものではありません。
宇航研とカリュオンの関係は、制度が主体に合わせて自律的に変化した結果、生まれるべくして生まれた関係であると言い切れるでしょう。
◇価値の衝突ーー「悪役」を作らないという選択
もう気づいている方も多いと思いますが、この作品には明確な「悪役」は一人も登場しません。誰もが自分を軸に、友人や属する組織を守ろうとして動いているだけです。
この世界で悪があるとすれば、それは個人ではなく、構造の歪みや摩擦のほうでしょう。
同じ場面でも、彼女たちは皆ちがう答えを選ぶはずです。
キャラクターたちはそれぞれの思想で動く。
そして、読者であるあなたも、あなた自身の思想で選んでいい。
その選択を、私は絶対に否定しないことを約束いたします。
◇選択と発展ーー「ウマ娘」というIPへの新たな視点
一年という長い時間をかけて、重い設定を扱い、キャラクターの死を描き、制度の癖を描き、組織の歪みを描いてきました。確かに、ウマ娘は「可愛さ」や「萌え」を軸としたIPです。だからこそ「ウマ娘をスポ根や青春という原作が用意した枠に収める」ではなく「ヒト社会に出ていかなければならないウマ娘だからこそ重く生きる話にする」という選択をとりました。
ヒトの社会の中に、ウマ娘という“身体的に特異な存在”が放り込まれることは、彼女たちの存在を際立たせます。ウマ娘という存在はある種のSFであって、人間臭いリアリティに巻き込むには一癖も二癖もある存在です。そんな彼女たちが、昭和特有の制度的な粘性の中に投げ込まれたとき、その重さは自然と増幅されるのです。
概ねバブル崩壊あたりまでにお生まれになった方であれば、いくつかの組織に漂う、昭和特有のヤニのような粘っこさや苛立たしさを、肌で感じ取られたのではないでしょうか。あれは計画的に仕込んだものです。意図通り感じていただけたなら、とても嬉しく思います。
◇舞台は昭和、描かれたのは現代ーー「組織論」との戦い
では私は、一年かけてどこへ辿り着いたのか。
それは、「この世界とは、ある意味で現代である」という結論です。
劇中に登場する組織はどれも、解像度の高い“日本的”構造を持っています。
上へ行くほど縦の繋がりは強固になり、横の繋がりは乏しくなる。
反対に、階層を下りるほど横の絆は濃くなり、上からの圧力はぼやけ、誰の指示かも曖昧になっていく。
この“奇妙な非対称性”こそが、現代日本の組織の特徴であり、軍隊的でもなく、かと言って民間的でもない、中間領域のような体系を形づくっています。
それらは史実の制度を踏まえながらも、時に合理的で、時に非効率なものとして立ちあがります。その“ねじれ”を支えているのは、人と人の情の濃さや、公私の境界の曖昧さといった昭和独特の空気でした。あの時代の“ぬめり”のようなものを、私は作中の組織にどうしても反映したかったのです。
では、私がそれを描いたのはなぜなのか。
日本人としての経験からなのか、日本的組織論への理解ゆえなのか、それとも無意識が生み出した理想像なのか。
その答えは、私自身にもまだわかりません。
◇ 作者の役割ーー物語を“導かずに成立させる”という選択
もう一点の気づきは、私の作品の中において、「作者は導くのではなく観測者に徹することでストーリーが進む」ということです。
シプロスも、アイリも、坂井も、カリュオンも。いつのまにか、全員が私の意図よりも“思想”で動くようになりました。
確かに、いくつかの設定は、彼・彼女らの人生を描くために後付けされたものです。しかし、それは必然的に生まれたものであって、英雄性や悲劇性を持たせるためのものではありません。
個として別物なのだから、にんじんの焼き具合から煙草の趣味まで違うことは至極当然、ということの延長に過ぎないのです。
◇結論ーー「もう戻れない」ではなく「自分にしか作れない」
何を言おうと、ここで私が諦めることは、もはや許されないほどにこの世界は「存在してしまった」ことに違いはありません。
キャラクターとは、作者の都合で動かす駒ではありません。
彼・彼女らは思想と選択を持ち、作品世界の中で、私には触れられない領域を生きています。
もし彼らが試練に直面したとしても、その選択を私が書き換えることは許されないでしょう。
いかなる選択だったとしても、それを尊重することこそがキャラクターとの信頼であり、創作の最も大切な原則なのだと、いまでははっきり言えます。
◇最後に
一年という時間は、決して短いものではありません。ですから、ここまで書き続けられたことは、素直に誇りにしようと思います。
それでも、全体の流れを優先するあまり落とさざるを得なかったストーリーや、読み返してみて、書ききれていないなぁ、と思うところがたくさんあります。
今はまだ、シプロスたちの次の選択を書かなければなりません。
この先のどこかで、彼・彼女たちが、自分の選択をその目で見返す時が来るでしょう。その時には私自身も一度立ち止まり、この物語を書き抜いた痕跡を見つめ直したいと思っています。
そして、完全版として皆様にお目にかけることができたら良いなあ、というのが、ぼんやりとですが、来年の抱負です。
次回更新は一月二日金曜日。
いつも通りの十八時ではなく、午前十時に更新となります。
次回は正月拡大スペシャルということで、割り増しでお届けする予定です。(間に合わなかったらごめんなさい)
来年も「蹄音、高く」をどうぞよろしくお願いいたします。
来る年が、読者の皆様にとって良き年となりますように。
作者敬白
次回、昭和十九年一月七日