蹄音、高く   作:上條つかさ

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昭和十九年一月七日

 一月七日の夜。宇都宮市内・料亭「藤」。

 音も立てず、すっと障子が開く。和紙で作られた行灯が柔らかい光を落とす室内はほんのりと暖かく、隅に置かれた火鉢の中で、ゆっくりと炭が紅く燃えていた。

「年明け早々、遠いところまでご足労をおかけしました」

 宇航研所長・菅沼功は背広に身を包み、畳敷の個室へと足を踏み入れた。

「いやいや、とんでもない」

 内閣府航空機監理審査会事務次官・浅野勝之進は、菅沼に促されるままに上座の分厚い座布団へ腰を下ろし、それから余裕たっぷりに煙草へ火をつけた。

「こちらも、菅沼さんに動いていただいてなんぼですから」

「恐縮です」

 菅沼は下座に着くと、革製の煙草入れをそっとテーブルに置いた。

 

 中居がそれぞれのコップに麦酒を注ぎ、静かに部屋を出た。

「しかしあの新型機、一つ目から壊してしまうのは予定外でしたな」

 浅野は苦々しく切り出した。最も宇航研に近い彼は、今回の件で相当搾られたのだろう。

「その件は、ご説明申し上げた通りです。新技術とは、得てしてそういうものです」

「試作機が壊れるのは仕方ありません。が、予算にも限度があります」

 浅野は麦酒に手を伸ばし、一口呷った。

 

「まさか、成果なしに増額ができないことくらいは、理解していらっしゃいますよね」

 浅野の愚痴ともとれる発言に、菅沼は「心得ております」とだけ答えた。それを弾みに、彼はますます饒舌になる。

「米国も独国も、全金属機を量産したと喧伝しています。買ってきた設計図をなぞるだけでは、とても勝てませんぞ」

「次官。お言葉ですが、正直に申しまして、宇都宮の精錬炉は旧式で、良い鋼が作れません。ジュラルミンも横浜頼みでは、製造は遅れるばかり。独国製の精錬炉があれば、より良質な鋼が作れる、というのが私の調べです。どうかその辺りの予算を、調整していただけませんか」

「新しい炉? バカを言わんでください」と、浅野は菅沼の提案を突っぱねた。

「そんな金はどこにもありませんよ。先日落ちた飛行機が三十万円(約三億円)でしたか。図面を買いつけるだけで、十機分は下りませんよ」

「しかし国益を考えれば、百万や二百万は取るに足らないものと心得ます」

 菅沼は怯むことなく、堂々と言い切った。対する浅野はたびたび麦酒に手を伸ばし、煙草をふかした。

 

「いいですか。昨今は海自保安庁が追加の飛行艇を欲しがっていて、木更津辺りに圧力をかけています。海沿いは工場も建てやすく、上も説得しやすい」

 浅野は苛立たし気に煙を吹いて、短くなった煙草を灰皿へ押し付けた。

「反面、いくら陸上機の開発拠点だからと言って、宇都宮に資材を運び工場を建てるというのは、カネの無駄だと一蹴されるだけです」

「では私から木更津にかけあって、古い精錬炉を融通してもらいましょう。あちらの方が、いくぶんかまともな鋼を出しますから」と菅沼。

「融通? まさか、解体して汽車で運ぶおつもりですか」

 浅野は目に見えて狼狽した。その隙をついて、菅沼がたたみかける。

「必要な償却はしましょう。ですが、三十万円が四十万円に膨らんだところで、得られる国益から見れば僅かなものです。なにせ最後に機体を買うのは財閥。内部留保を吐き出させて経済を回してやるほうが、審議会のお歴々も首を縦に振りやすいでしょう」

「しかし、前例がないものを通すというのは……」

 ついに、浅野の顔が歪んだ。見計らったように、菅沼の少し薄い頭が下がる。

「そういった折衝は、この菅沼にお任せを」

 顔を上げた菅沼は、そこで初めて煙草を手にマッチを擦った。乾いた音が室内に響く。

「鉄は国の骨、と申しましてな。話のわかる県議の先生方には、すでに内々の承諾を得ております」

 それを聞いた瞬間、浅野の肩ががっくりと落ちた。

 

「さすが所長殿は、広い人脈をお持ちでいらっしゃる」

 そして諦めた顔でなみなみと麦酒を注ぎ、一気に飲み干した。

「はあ。いっそ私なんぞを挟まずに、上と直接話してくださればいいのに」

「何事にも、序列というものがありますからな。越権行為をするほどの胆力は、私にはありませんよ」

「……では、その辺りの諸々のためにも、ここはご協力を」

 浅野はそう言って、鞄から大きな封筒を取り出した。菅沼は来たかとばかりに手を伸ばし、それを受け取る。

 

 紐で厳重に封をされた封筒は妙に厚みがある。表の印は共済会だったが、引き出した書類には通産省の名が印刷されていた。

「ふむ。今回はこう来ましたか」

 菅沼は紙束を二、三枚めくって、すぐに封筒へ戻した。あたかも、中身をあらかじめ知っていたかのような素ぶりだ。

「これほどの予算とは。ずいぶんと、余裕があるようですな」

「またまた。所長にはお見通しでしょう。今後の予算を引き出すには、最低限これは飲んでいただきませんと」

「結構です。しかし、人のやりくりに関しては、こちらの裁量でよろしいか?」

 浅野の表情がこわばる。明らかに言葉を選んでいる間があってから、「私は本件について、所長より承諾をいただくように、としか申しつけられておりません」と答えた。

 ──完敗だ。

 

 結局今回も、菅沼の手の上で転がされてしまった。

「よろしい」

 菅沼は煙草をふかして麦酒を呷った。まだ何杯も飲んでいないのに、その頬は赤く染まっている。

「では上に、菅沼は快諾した、とお伝えください」

 浅野は項垂れたまま、「助かります」と捻り出すのが精一杯だった。

 

 *

 

 ──五日後。

 一月十二日、午前十時五十五分。宇都宮飛行場、第四格納庫前。

「滑走場の、コンクリート化工事?」

 カリュオンは大きなマグカップを手に、耳を大きく揺らした。こんな時期に工事なんて、十五年勤めていて初めてのことだ。

「はい。なんでも、土木系の財閥から圧力があったらしいんです」

 試験課の航空整備士・鮎川充(あゆかわみつる)は、やれやれと言った様子で書類挟を抱えた。彼は試験課立ち上げの際、カリュオン自らが整備部から選抜した整備士で、こと動翼の調整には全幅の信頼を置いていた。

 

「冬の間に労働者を抱えておくコストを盾にされて、所長も断りにくかったらしいですよ」

 鮎川の言に、カリュオンは耳を振った。

 所長がそんなものに絆されるわけがない。が、それを鮎川に言っても仕方ない。

 代わりに、「それで、計画の内容は?」と続きを促した。

 鮎川は抱えていた書類挟をめくった。

「ええと、二ヶ月で芝を剥がし、両滑走場を幅百メートルで舗装します。西滑走場の南端に門を仮設して、夏までに一気に終わらせるそうです。同時に、工場にある精錬炉も新しいものに作り変えるとか。こちらは秋までに完成するそうです」

 説明を聞く間も、カリュオンはカップから茶を啜り、白い息を吐いた。それはすぐに、冬の風にかき消されていった。

 

「ずいぶんとまあ、人も資材も余っているようだな」

 宇都宮飛行場は名目上は宇航研の持ち物だが、実際には東北と東京を結ぶ運輸省の指定港だ。各自治体の定期便も頻繁に発着するから、いつかは舗装工事もしなければならない。かなりの突貫工事に見えるが、半年で済むなら現実的だ。

「それで親父さんから、騅藍で岐阜へ飛んで、工事が終わるまで訓練教官をやってこいとのお達しです」

「私にか? ずいぶん急だな」

 カリュオンら国選一級操縦士は、指導者としての素質も求められている。教官として雛鳥に空の厳しさを教えること。それも国選として、国の手厚い庇護を受ける対価だ。

 空と引き換えとはいえ、なんだか学園のウマ娘と変わらないな、とカリュオンはそっと目を伏せた。

 

「ついでに、坂井飛行士も教官として連れて行くように、と」

 それから鮎川は少し声を落とし、「なんでも、海事保安庁絡みだとか」と添えた。

 海事保安庁とは警察組織の一つで、海上と航空の安全を担う組織だ。とすると、海保が飛行艇を増産しているというのは本当なのだろう。

 

 工事とはいえ、半年も宇都宮が使えないということは、やっと三号機の完成が見えた「駭風(がいふう)」も、エンジンを発注している最中の「騂風(せいふう)」も試験ができなくなる。もちろん、所長がそんなことを折り込んでいないはずがないのだから、必要な手続きは済んでいるということだろう。

 それに、何事も考えようだ。

 訓練なら、坂井にも思いっきり操縦をさせてやれる。試験機を飛ばしているという緊張から解放されて、気晴らしになるならそれも良い。

 

「仕方ない。所長あっての宇都宮だからな。行くとしよう」

「晴子ちゃんは、どうします?」

 カリュオンの養子である北村晴子は、まだ五歳だ。連れて行けるものなら空からの景色も見せてやりたいが、飛行機に乗るには幼なすぎる。

「長旅は、まだ難しいな。チヨさんに預ける」

「そうですね。うちの奴にも、まめに顔を出すように言っておきます」

 所内のご婦人たちは婦人会に属し、持ち回りで子どもたちの面倒を見ている。妻帯者である鮎川に子供はないが、その夫人は積極的に運営に携わるうちの一人だ。

「すまんな。ところで、船崎は?」

「船崎くんも同乗し、先方の手伝いをせよ、とのことです」

「所長もやっと、あれの使い方がわかってきたみたいだな」

 カリュオンは満足げに微笑むと、両手でカップを掴み、冷えた指先を温めた。

「僕から見ても、船崎君は優秀だと思いますよ。エンジンの整備なら、僕より確かなんじゃないですか?」

「甘やかすな。坂井と違って、調子に乗ると行動に粗が出るタイプだからな」

「知ってます。だから、課長にしか言いませんよ」と、鮎川はカラカラと笑ってみせた。

「そうしたら、燃料を用意してくれ。岐阜までだから、六百リットルでいいだろう」

「六百ですね」

 鮎川は書類挟を出すと、手早くメモを取った。

「明後日は府中へ行ってくる。坂井を助けてくれた、生徒の顔を見てこようと思ってな」

「せっかくなら、騅藍を使いますか? エンジンの慣らし運転も必要でしょう」

「そうだな」と、カリュオンは顎に手を当てた。

騅藍(すいらん)』は、英国から輸入した郵便機を発展させた双発複葉の輸送機だ。単発単葉の輸送機「驃雲(ひょううん)」と同系列の発動機を搭載しているから、安定性も良い。七四〇英里の航続距離は立川までの短距離飛行にはオーバースペックも甚だしいが、坂井のためにも慣らしは必要だ。

 そこまで考えて、カリュオンはぽんと手を打った。

「よし、そうしよう。なら一キロリットル手配して、明日のうちに四百だけ給油しておいてくれ。飛行申請は、私がやっておく」

「かしこまりました。では」

 鮎川は軽い敬礼をして、サクサクと霜を鳴らして去っていった。

 

「姐さん、おはようございます」

 入れ替わるように、冬用のツナギに身を包んだ坂井がやってきた。きっちりと刈りそろえられた髪が、その凛々しさを際立たせている。

 先日の救急搬送から一週間。毎食のように丼飯を平らげていた坂井は、すっかり元気を取り戻していた。

「坂井。そろそろ本調子だな」

「三日も布団に巻かれて、元気が有り余ってますよ」

 坂井は笑顔を見せ、腕を回して飛び跳ねてみせた。

「なら行けるな。明日は飛ぶぞ」

「はあ。どこまでです?」

 答えながら、坂井は腿についたポケットから地図を出した。あまりにも自然な動作で、しかも自分が操縦するのが当然という顔をしている。

 これは生粋の操縦士が育ったと、カリュオンは思わず口角を上げた。

「行先は」

 カリュオンは少しもったいつけて坂井の方を向く。

「お前の大事なウマ娘がいる、立川だ」

 

 *

 

 翌日の午後。

 東教室棟二階・自習室。

 昼の柔らかな光の差す教室では、二十人ほどの生徒たちが各々の宿題を片付けていた。削りたての鉛筆の香りが漂う教室の隅で、誰かが借りてきたラジオが、午後のニュースを伝えている。

 ……海外レースの結果をお伝えします。港湾使用料の引き上げをめぐり行われた、プロイセン王国と英国とのレースは、英国の若きエース・クロスレッドサニー閣下が一バ身差で勝利しました。プロイセンの港湾使用料は、当面据え置きとなる見通しです。英国国競会は……

 ラジオの声を背景に、コツコツと鳴る鉛筆の音は止まらない。生徒たちにとっては、国際レースの出走権を得るよりも、目の前の課題のほうが重要だった。

 

 突然バツンと音がして、壁のスピーカーに火が入る。間の抜けた鐘の音を追って、放送が流れはじめた。

『生徒の呼出です。ベルネンシプロスさん、アイオライトリーベさん。ラピアス先生がお呼びです。至急、救護室までお越しください』

 シプロスの耳が、くるりとスピーカーの方を向いた。

「マダム・ラピアスからの呼び出し?」

 遅れて、リーベが手を止め、怪訝そうに顔を上げる。

「珍しいわね」

 答えるより早く、シプロスは鉛筆を収め、ノートを閉じた。

 至急と言われた以上、理由を探る暇すらない。

 一方でリーベは、問題集を鞄に突っ込みながら、迷いの色を隠さない。

「この後、薙刀のお稽古があるのだけれど……」

「マダムのお呼び出しなら、少しくらい良いでしょ」

 シプロスは鞄を手に、さっと立ち上がった。

「さあ、行きましょう」

 

 *

 

 救護室前の廊下には、生徒会の腕章をつけた三人が控えていた。

 つまり、中にいるのは、学園の人間ではない。

 二人は軽く会釈し、その前を通り抜けた。

「失礼します」

 シプロスが目を伏せて引き戸を開けた瞬間、消毒液の匂いに混じって、排気ガスと機械油の刺すような臭いが鼻をついた。

 室内の空気が、外とはまるで別の温度を持っている。

 

「おお、来たな」

 白衣の裾を翻して振り返ったラピアスの向こうに、ツナギ姿のウマ娘に付き添われた坂井が、背筋を伸ばして立っていた。

「あっ、あなたは……」

「その節は、お世話になりました」

 刈り上げた頭を深く下げる坂井。頬はほんのり赤く、硬さが残っている。

 その頬に薄く残る傷跡が、光にかすかに浮き上がった。

 

 袖だけが青く染め抜かれたグレーのツナギ。その胸元には、翼の生えたウマ娘のシルエットを模ったワッペン。

 ──掌にべっとりと広がった、温い血の感触。

 腕に刺さった木片と、血と消毒液の匂い。

 あの場面が、ふいに蘇る。

 シプロスは喉奥に乾いた息を飲み込んだ。

 言葉を探すより先に、ラピアスが横へ退き、もう一つの影を示した。

「そしてこちらは、宇航研試験課課長のカリュオンだ」

 油染みのついた手袋を外しながら、カリュオンが一歩進み出る。

 

「北村リーヴカリュオン、五三期だ。よろしく」

 軽く頷いた拍子に、小ぶりなウマ耳がぴこんと揺れた。

「カリンは彼らの上司でね。立川に寄った足で、挨拶に来てくれたんだ」

 カリュオンは二人へと歩み寄り、手を差し出した。

「君たちのような、勇敢な後輩がいてくれて嬉しいよ。部下を助けてくれて、ありがとう」

 触れた瞬間、シプロスの胸の奥にむず痒いような誇らしさと照れが同時に広がった。

 少し遅れて、リーベもその手をしっかり握り返した。

 

「ところで君たちは、何期生だい?」

「はい。七二期です」

 リーベが左袖をすっと出す。

 候補生を示す黄色い星が光り、シプロスもそれに倣う。

「ほお。二人とも候補生とは、立派なことだ」

 カリュオンが目を細めると、リーベは誇らしげに背筋を伸ばした。

 そのとき、ラピアスが軽く手を挙げた。

「そうだ。隣にいる二枚目が、船崎操縦士だ」

「船崎です」

 船崎は短く、しかし礼法通りにきっちりと頭を下げた。

 普段なら軽口を挟むような場面でも、今日は一切崩さない。

 その真面目さを、カリュオンは横目で確かめながら、うっすらと笑みを深めた。

 ──こいつは状況を弁える、という含みがその顔にあった。

 最後に、カリュオンが口元をやわらかく緩める。

「名前がごちゃごちゃしているが、呼び方はカリュオンで結構だ。家の事情で姓をつけたが、むず痒くてかなわん」

 やや照れたように頭を掻くその姿に、室内の空気がわずかに和らいだ。

 

 *

 

 廊下を駆ける足音が響いて、引き戸が勢いよく開いた。

「姉上!」

 飛び込んできたのは、図書館司書、マダム・アルセだった。

「アルセ!」

 カリュオンは弾けるように立ち上がると妹の手を取り、そのまま、当然のように肩を抱き寄せた。

「久しぶりだなあ、元気そうで何よりだ」

「もう。来るなら電話の一つでもよこしてくれたらいいのに」

「いやあすまん。急に決めたものでな」

 

 二人のやり取りを見ていたリーベが、そっとラピアスのそばへ寄った。

「カリュオン先輩は、マダム・アルセのお姉様だったのですね」

「ああ。カリンは学生時代から数学と体操が大得意だった」

 ラピアスはいつもの仕草で煙草を取り出し、マッチを擦った。

 薄い煙が立ち昇る。

「飛行機は計算の塊だから、天職だろうな。しかしあの二人、何年経っても変わらんなあ」

 その声音には、先に卒業して後輩たちを見守り続けてきた者だけが持つ、柔らかい誇りが滲んでいた。

 

 しばし姉妹の再会に浸った後、アルセはふと我に返り、姉の服装を見た途端、目をむいた。

「姉上、その格好はなんですか!」

 カリュオンはツナギの袖を抜き、腰に巻いていた。女学校の構内を言い訳にしても少々緩すぎるし、いくら体温の高いウマ娘でも、一月にする格好としては少し薄着にも見える。

 アルセは白衣の裾を直し、ぴっと指を立てた。

「いいですか姉上。飛行機も結構ですが、慎ましさというものも──」

「うるさいなあ。整備の時はこの方が楽なんだ。口出しするんじゃない」

 カリュオンが耳を絞ると、アルセは「そうは参りません」と詰め寄ってツナギの袖をほどいた。

「せめて格好くらいはきちんとしてください。周りに示しがつかんではありませんか!」

「おい、やめんか!」カリュオンはアルセの肩を掴んで引き剥がした。

「ここは高等女学校です。最低限の品位は守っていただきませんと!」

「お前は本に埋もれているだけじゃないか! それになんだ、その白衣は、裾が汚れているぞ!」

「私は司書として、学園の読本を守っておるのです! インクの擦れ程度、なんだというのですか!」

 

 突然始まった姉妹喧嘩に、坂井と船崎はすっかり取り残されてしまった。その横で、ラピアスの耳がぴくぴくと震えている。かっと目を見開いて、踵をカンと鳴らした。

「ええい、やかましい! 救護室では静かにせんか!」

 ラピアスの大音声が、部屋を震わせた。

「お前たちもウマ娘なら、正々堂々とターフで決着をつけたまえ!」

 ラピアスはぴしっと外を指した。その指は寸分の狂いなく、東の芝コースを指している。二人は、取っ組み合ったままで固まっていた。

 

「あっはっはっは!」

 声を上げ、破顔したラピアスは新しい煙草を出した。

「これを言うとぴたりと黙るのは、学生の頃から変わっていないな!」

 二人はバツが悪そうに耳を伏せて、やっとおとなしくなった。

 

「ターフでやれ、ですって。昔から変わってないのね」

 やり取りを見ていたリーベが、くすくすと笑う。

「十年やそこらで、ころころ変わるものでもないでしょう」とシプロス。

「伝統、ってこと?」

「たぶんね」

 そう答えながら、こういう伝統ならいくらあってもいいのにな、とシプロスは思った。

 

 *

 

 その後すぐ、リーベは薙刀の稽古のために席を外した。さらに、入れ替わるように現れた副会長ロートアスターが、「接待」と称して、船崎を連れて行ってしまった。

 閉門まではまだ時間がある。

 ラピアスの勧めで、シプロスは坂井を連れて、三女神の広場を案内することになった。

 

 陽が傾いた午後の広場は、シプロスの耳にもはっきり分かるほど、静まり返っていた。辺りに植えられた木はすっかり葉を落として、石畳の上にはわずかな枯葉が舞っている。

 三女神像の台座を囲うように敷き詰められた御影石に踏み込んだところで、ラピアスたちの気配がそっと遠のいた。

「こちらが三女神様。私たちの、心の拠り所です」

「大きな像だなあ」坂井は手を広げ、像の足元にあてがった。そのままゆっくりと上を見上げ、「高さは八尺と……六分、ってところかな」

 シプロスはその距離感覚に耳を揺らした。ウマ娘なら、前を行く相手が何完歩先にいるかは感覚でわかる。それを目に映るすべてのものに応用している姿は、シプロスが初めて見るものだった。

「ぴったりです。さすがですね」

「あはは。飛行機乗りなら、誰でもできますよ」

 シプロスはゆっくりと歩いて、ある女神像の前へと坂井を案内した。

「ここで、お祈りをするんです」

 見上げると、その女神の目には赤く光る石が嵌め込まれている。坂井はなんとなく厳粛な気持ちになった。仏を拝むようにしてみようと思ったものの、なんだか場違いな気がして、頬を掻いてシプロスの方を向いた。

「ええと、お祈りに作法とかは、あるのかな」

「ありません。祝詞だけです」

 

 シプロスは一歩前へ出て、坂井の横に並んだ。目を閉じて、大きく息を吸う。

「──紅き女神を奉る吾が魂は、万世一系にはあらねども、その結束は末末まで秋津洲を護り参らせん。胸懐は藍玉よりも気高くあれ。されど血気は紅玉よりも紅くあるべし。御御霊の功徳を以て、いざ我ら悠久の時を駆け抜けん」

 その瞬間、強い風が吹いて、シプロスの髪が風に舞った。偶然にしては出来すぎている気がして、坂井はもう一度、女神の顔を見上げた。

「これが祝詞です。私たちは、こうして遠い神話の世界の力を借りるのです」

紅玉(ルビー)、か……ええと、上手く言えないけど、君には似合うと思うよ」

 

 広場の隅のベンチで、ラピアスらはぎこちなく会話をする二人の様子を見守っていた。

 ラピアスとカリュオンは腰を下ろし、年少のアルセだけが立ったまま控えている。

 その距離と配置は、見守るためであり、同時に、余計な噂を生ませないためのものでもあった。

 

 *

 

 二人は手近なベンチに掛けて、ぼんやりと空を見ていた。冬の高い雲が朱に染まり、ゆっくりと東へ流れていく。

「しばらく、岐阜に行くんだ」

「岐阜、ですか」

「養成学校には、特別な課程があってね。それの手伝いさ」

 坂井は癖でポケットに手を突っ込んだが、中身は空だった。

 煙草はカリュオンに取り上げられていたのだった。坂井は何も言わず、指を引っ込めた。

 

「ずいぶんと、あちこちを回られているのですね」

「後ろには、いつも船崎が乗ってくれるから……どこにいても、何とかやってるよ」

 坂井の、行き場を失ったままの指先を見つめながら、シプロスがそっと口を開いた。

「私も、三つ下の後輩と相部屋です。いつも面倒を見てやって、勉強を手伝って……毎日、楽しいです」

 その静かな笑顔に、坂井はどきりとして視線を下げた。

「手紙に書いていた……ええと、カナちゃん、だったかな」

「はい」

 短く答えて、シプロスは顔を上げた。

「今時分は部屋に戻って、宿題を片付けている頃ですね」

 その視線の先、枯れ枝の向こうに赤い屋根が見え隠れしていた。あれが寮の建物らしい。

 窓の向こうに、ちらちらと人影も見える。それはきっと、賑やかで、少し鬱陶しくて──それでも悪くない生活なのだろう、と坂井は思った。

 

 二人の初々しいやり取りを横目に、ラピアスは小さな笑みを浮かべていた。

「……なるほどな」

 その耳が、くるりとカリュオンへ向く。

「で、どうだあの二人。お似合いじゃないか」

「まったく、先輩はご熱心ですねえ」

 隣に座るカリュオンはカッと燐寸を擦り、「坂井はあの通りの盆暗ですよ。浮いた話の一つも聞いたことがない」と呆れた様子で煙を吹いた。

「なおさらじゃないか。シプロスは今年十七だ。早ければ来年には卒業。頃合いだろう」

「しかし、ご存知の通りパイロットとは危険な仕事です。あんな器量良しをみすみす……」

 ラピアスは、うんうんと頷きながら煙草を出して口を折った。

「君だって学生の時分、時折やってくる機関士に熱を上げていただろうに」

 ラピアスの言に、カリュオンの耳がぼっと膨らむ。

「そ、それは、二十年も前の話じゃあないですか!」

「転勤の知らせを聞いて一人にしてくれと私を追い出し、救護室の枕を濡らしたのは誰だったかな?」

 カッと音がして、燐寸が燃え上がる。赤い光が、ラピアスのニヤリと笑う口元を照らし出した。

「おやおや」アルセが横で、耳をぴこぴこと動かしながらほくそ笑む。

「硬派な姉上にも、そんな甘酸っぱい過去があったとは」

「アルセ、この話は忘れなさい」

 首まで赤くなった姉を見て、アルセは、「私は何も聞いちゃあ居りませんよ。ただちょっと、図書館に新しい本を入れたいと思っていたところです」と飄々と言ってのけた。

「わかったから、もう黙りなさい」

 カリュオンは耳だけをアルセに向けて、しっしと手を振る。

「今度ニ十円寄付してやるから、それでいいだろう」

「持つべきものは、話のわかる姉上ですな。ラピアス先輩」

「はっはっは! 君たち姉妹は仲が良いねえ」

 

 *

 

 夕闇が迫って、街灯に火が入った。二つの影が、石畳に揺れる。

「今日は話せてよかった。ありがとう」

「私もです。これからもどうぞ、お気をつけて」

 街灯の白い光が、シプロスの耳の輪郭を淡く縁取っている。

「実は今、新しい飛行機を作っていて……それには、パイロットが自分の印を描くことができるんだ。それで……」

 言い淀む坂井に、シプロスは小さく頷いた。

「はい」

「俺の機体に、梨の花を描かせてくれないかな」

 一瞬、風が止んだ。

「梨……私の名前を?」

「空では、何が起きるかわからない。けど、翼に君の名前があれば、何があっても帰ってこられる。そんな気がするんだ」

 坂井の声は、いつもより低かった。

「坂井さん」

 名を呼ばれて、彼は思わず背筋を伸ばす。

「やっぱりだめ、かな」

「ちょっと、待ってください」

 シプロスは、ポケットから小さな手帳を取り出した。

 細い鉛筆が、紙の上をさらさらと走る。

 街灯の光に照らされて、その動きがはっきりと見えた。

 頁をちぎる、乾いた音。

「これを」

 そこには梨の花のイラストと、細い筆記体で書かれた言葉。

「レ、ヴ……読めないや」

 坂井は一瞬視線を外して、笑ってみせた。

「英語なら、少しはわかるんだけどな」

 そんな言葉に、シプロスが微笑みを返す。

「これはフランス語の、詩の一節です。意味は、今度のお手紙で」

 坂井は、手にした紙片をそっと撫でた。

 意味はわからない。それでも、これが尾翼にあれば、空で迷うことはないような気がした。

「ありがとう。出来上がったら、きっと写真を送るよ」

「はい。お待ちしています」

 さっきとは逆の方から風が吹き抜けて、青いメンコの耳が揺れた。

 

 その頃、大人たちの話題は生徒会長選挙に移っていた。現役の生徒でないものに投票権はないが、諸々の予算を生徒会が握っている以上、気にしないわけにはいかない。

「ところでカリン。あのロートアスターという生徒、どう見えた?」

「アスター、副会長ですか」

 カリュオンは耳を撫で、「聡明そうですが、あの手合いは、理想に食い潰されるでしょうな」と評価した。

「君も、そう思うか」

 ラピアスは、少し残念そうに漏らした。

「私は立場上、人を選び、切らねばなりません。アスターとやらに過剰な野心があれば、それは組織にとって毒になります」

「ふむ。アルセ、君はどう思う」

 話を振られて、アルセは背筋を伸ばし、視線を上げたままで答えた。

「琥珀の女神が至上となさるのは、水滴穿石の努力と、規律を守る自立した心です。それを満たす者であれば、私は結構です」

 学園でマダムと奉られる人物として申し分のない答えに、ラピアスは煙を吐いて応えた。

「確かに、それは欠かせない素質だな。今の学園は──」

 声をかき消すように、スピーカーが閉門を告げる鐘を鳴らす。それを合図に、ラピアスは、咥えていた煙草を皮袋に捩じ込んだ。

「もう閉門か。名残惜しいな」

「また、遊びに来ますよ」

 カリュオンが腰を上げ、大きく息を吸い込んだ。

「坂井! そろそろ帰るぞ!」

 

 *

 

 ラピアスに見送られて、船崎の運転するトラックが正門を出た。大きな前照灯がよく踏み固められた土の道を照らし出し、太いタイヤが土煙をあげる。

 荷台に乗った坂井は、ラピアスが見えなくなるまで手を振っていた。

 まだらに油染みの残る荷台へ腰を下ろし、煙草に火をつける。白い煙が、排ガスとともに後ろへ流れていく。

 坂井は、シプロスにもらったメモを入れた胸ポケットを、そっと押さえた。

 

 一方の船崎は、カリュオンが迎えに行くまでずっと、生徒会の「接待」を受けていた。

 助手席のカリュオンが煙草を出し、マッチを擦る。

 焦げた臭いが、少し開けた窓から夜気に吸い出されていった。

「それで、お前は何してたんだ?」

「俺ですか?」

 船崎は重いクラッチをガコガコと踏み替えながら、前を見たまま答える。

 低速のまま、土道を選ぶようにハンドルを切った。

「小洒落たカフェーに連れて行かれて、人参の乗った、山みたいなパルフェを食わされてましたよ」

「……それだけか?」

 カリュオンは前を向いたまま、口の端だけを吊り上げた。

「姐さんも人が悪いなあ。

 ええ、次から次へとウマ娘がやってきて、ずいぶんと口説かれましたとも」

 そうはにかむ船崎の胸ポケットは、たくさんのメモですっかり膨れていた。

 カリュオンは面白がって「で、好みのウマ娘はいたか?」と追い討ちをかける。

「そりゃ、ウマ娘はみんな美人ですよ。でも高嶺の花ばっかりで、俺にはとてもとても」

「あのなあ」

 カリュオンは煙を吹いて、短くなった煙草を灰皿で揉み消した。

「お前は十分に高給取りなんだ。全寮制の高女に乗り込んでおいて、取って食われなかっただけありがたく思いな」

「取って食うなんて、鬼じゃあるまいし」

「尋常で習ったろう。ヒトはウマ娘に勝てない、ってな」

「それ、忠告ですか?」と船崎。

 石を乗り越えたのか、車体が大きく揺れた。

「どうやら、手遅れのようだな! はっはっは」

 笑い声が、闇の中へ溶ける。後には、土煙だけが残された。

 

 この翌日、第二九回・生徒会長選挙が告示された。




次回、蠢動
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