蹄音、高く   作:上條つかさ

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柔き黄金と見紛うこと勿れ。
我ら天道を駆ける者。
固き水晶と見紛うこと勿れ。
我ら天命を解する者。
神代の神託は縁にして
空蝉の朋友は緒なり。
我ら水滴穿石の志を以て
敷島に大平をもたらさん。
   ――琥珀の女神の祝詞


琥珀の女神

 ラピアスとタルナを見送った二人は、広場を後にした。

 学園を南北に貫く通りへと出ると、道に沿って植えられた桜がちょうど満開になっていた。風が吹くたびに淡い花びらが舞い、制服の肩にそっと降り積もる。

 シプロスの青いメンコと淡いピンク色のコントラストが、踏み固められた土の道の上によく映えていた。

 

「さて、次はお買い物に行きましょう」

「お買い物ですか」

「ええ。色々と必要でしょう。今日買っておかないと、面倒よ」

「でも、お金なんて、その……」

 カナは途端に縮こまった。

 それもそのはずで、新入生が持ち込める現金は二円までと決まっている。これからどこで使う機会があるかわからないから気軽に使うわけにもいかない。

 だからといって、知り合って二日目の先輩にお金を出させるのは気が引けるのだろう。カナは遠慮がちに足元を見つめ、小さな声で躊躇いがちに言葉を選んでいた。

 シプロスは「そのくらい、いいの」と笑い、軽く手を振ってみせる。二種候補生が年に五〇〇円近いお金を手にしていることは追々わかることだ。

「気にしないで。さ、行きましょう」

 二人は道を下って、学園の南側にある管理区へと入った。

 ここは学園の中枢となる管理棟をはじめ、郵便局や中央食堂、カフェー、購買などがある。普段から外部の人間の出入りがある区画だ。

 

 その中の一角には文具や菓子を取り扱う『桜花堂』と、衣類や靴などを扱う『ひまわり』のふたつの購買がある。学校から出られない生徒たちの購買欲を満たす重要な場所だ。

 さらに今日は入学式の翌日。生活の諸々を揃えたい新入生たちを慮った商店街からは十を超える出店が集まり、購買のまわりはさながら祭りのようになっていた。ただし、並んでいる品は玩具や娯楽品ではない。下着、手拭い、衛生用品、髪ゴム、糸や針、布──どれも学園から出なければ買えないが、生活には欠かせないものばかりだ。

 シプロスはカナに二円分の配給券を渡し、「文房具や消耗品を揃えてくるように」と言って一度別れた。そのくらいは自分で面倒を見られるようになってもらわなくては困る。これも自立のためだ。

 自分の買い物を済ませてぶらぶらと歩いていると、後ろから声をかけられた。

「あら? シプロス」

 振り返ると、リーベは一人だった。プラムを連れていないということは、自分と同じように買い物をさせているのだろう。

「アイリ」

「あなたも何か、足りないものがあって?」

「ええ、湯呑を」

 シプロスは紙でできた手提げを見せた。

「湯呑?」リーベは一瞬首を傾げ、シプロスの顔を見てから、ふと納得したように頷いた。「ああ、あなたのところには、そんなしきたりがあったわね」

 シプロスが暮らす蹄桜寮の一号棟には、朝茶の習慣がある。そこで、新入生であるカナのために湯呑を買ってやったところだった。

「アイリは?」

 話題を向けられたリーベは、苦笑しながら耳を軽く振った。

「全部買ってこさせてるところ。あの子、ほとんど何にも持ってこなかったの」

「全部?」シプロスは思わず聞き返した。リーベ呆れたような顔で続ける。

「そう。もう、びっくりしちゃった」

「だって、あんなに大きな葛篭だったじゃない」

「実家が雪深いところで、冬は毛布で蚊帳を吊るらしいわ。そのための毛布と、熊の毛皮」

「け、毛皮?」

 シプロスはますます混乱した。入学時に持参する物の一覧は、あらかじめ送られているはずだ。

「防寒着ですって」

「それはまた、大層な代物ね」

「あら、文化的多様性は健全な発展の土壌よ。学園にいる間は不要なものだけれど」

「おっしゃる通りね」

「だから毛皮は質入れしたの。百七十円(約15万円)になったわ」

 リーベの口調は、誇らしげでありながらも淡々としていた。彼女にとって、情や愛着は金銭に優先するものではなく、持ち物は使える形に変えてこそ意味があるのだろう。

 それを差し置いても、普段からリーベのほうが金の使い方はずっと上手い。質に入れてお金をつくるなんて、自分ならきっと思いつかなかっただろう。

「必要なものはそのお金で買わせて、家には手紙を出させたらいいでしょう」

「さすがね」

 その根回しの良さに、シプロスは関心の声を漏らした。

「でしょ?」リーベは得意げな笑顔を浮かべた。

「あなたも、お金のお勉強はしておくといいわよ」

「気が向いたらね」

 

 突然、ビーッというブザーが学園中に鳴り響いた。

 ざわめきの中で、生徒たちが一斉に足を止める。何か重要な放送が入る知らせだ。

 柱に取り付けられたスピーカーに火が入り、バツンという音が響く。

『謹聴、謹聴。レース庁からのお知らせを申し上げます』

 瞬間、屋台の喧騒が霧が晴れるように消えた。耳をそばだてる者、尻尾の先を微かに揺らしながら息を潜める者。誰もが放送の続きを待つ。

『先程、ツラギ島レース場において日本対米国のレースが実施され、日本代表が勝利しました。祖国のために全力を尽くしたウマ娘たちに、賛辞を送りましょう。以上、放送を終わります』

 淡々とした声が消え、再びバツンとスイッチが切られる。

 桜の花びらが舞い散る静寂の中、次の瞬間、四方八方から歓声が弾けた。

「万歳!」「やったぞ!」

 誰かが三唱を始めると、あっという間に輪唱の渦が広がる。出店には値引きの赤札が次々と立てられ、肩車をされてはしゃぐ者まで現れる。生徒たちはこぞって腕を振り上げ、互いに肩を叩き合っている。

 そんな光景を、シプロスは冷ややかに眺めていた。

「何のレースに勝ったのかも知らされていないのに、お気楽なものね」

「あら、お国のためになることに違いはないのではなくて?」

 すぐ隣で、リーベは悠然と微笑んでいた。彼女は尾をゆったりと揺らしながら、熱狂する群衆をどこか他人事のように見ている。

「だとしても」シプロスはため息をついた。「せめて、誰が走ったのか、どういうレースだったのかくらいは報じたらどうなのかしら」

 彼女は恨めしげにスピーカーを見上げた。その拳は知らず知らずのうちに固く握られている。

「これじゃあまるで、勝敗だけが全てみたいじゃない。どんなコースが使われたのか、どんな走りをしたのか、そういう情報がなければ次に生かせないわ。ただ勝つために勝つなんて、破綻してる」

「破綻していようがいまいが、それが今の世間の仕組みなの」

 シプロスの辛辣な批判に、リーベは言い聞かせるように答えた。

「それに、細かいことを言わなくても、勝ったという事実さえあれば、あの人たちは満足なのよ」

 リーベ発言に、シプロスは悲しげな目をした。その青いメンコに包まれた耳が僅かに伏せられる。

「それは、満足しているんじゃない。ただ、考えることをやめただけよ」

「考える必要がないなら、それはそれで幸せなことかもしれないわ」

 リーベの答えは、どこまでも淡々としていた。

「それにね」彼女は唇に指を当て、少しだけ思案する素振りを見せる。

「言ったでしょ。文化的多様性は健全な発展の土壌なの。あなたのように考える人がいるからこそ、レースがただの勝負にならずに済む。けれど、全員がそうである必要もないでしょう?」

「……あなたらしい詭弁ね」シプロスは小さく舌打ちした。「つまり、あなたも流されているだけなのよ」

「それは違う」

 リーベの大きな瞳がシプロスを射抜く。

「今のレースの在り方で、私が不利益を被ることは何一つないの。むしろ、そのおかげで私もあなたも安穏に暮らせてる。それで何か困ることがあって?」

「それは……」

 今、まさにこの仕組みに取り込まれて禄を食んでいる事実を突きつけられて、シプロスは言葉に詰まる。

「そうでしょう? あれこれ考えたって、辛くなるだけよ」

 シプロスは耳ごと顔を背けた。

「そうやっていくら砂糖をまぶしても、本質は変わらないのよ」

「さて、どうかしら」

 リーベは意味ありげに微笑んだ。その笑顔がシプロスへの理解を示しているのか、それともただの余裕なのか──今のシプロスにはわからなかった。

 

 *

 

「お姉様ー!」

 喧騒の中からこちらを呼ぶ声がする。

 シプロスの耳よりも速く、アイリのそれが声のするほうへぴたりと向いた。

 奥から雑踏をかき分けて、小さな耳がぴょこぴょことこちらへやってくる。

 人混みの間から顔を出したのはプラムだった。その背中には、入学式のときに背負っていた葛籠がある。

 プラムは小走りで二人の前までやってくると、どかりと葛篭を下ろした。その中身は文具に体操服、石鹸などでいっぱいだ。

「お姉様、お買い物終わりました」

「全部揃えた?」

「はい!」

 昨夜は借りてきた猫のように大人しかったプラムは、打って変わって快活になり、その顔には笑みを浮かべていた。

「そしたら、荷物は置いていいから、これでラムネを四本買っていらっしゃい」

 リーベはポケットから五〇銭ほどのバラ銭を渡した。

「はい、いってきます!」

 兎のような軽い足取りで、プラムは人混みを縫って店の方へ消えた。

 シプロスは、その右耳に黄色いステッチの入った紫色のリボンが結ばれているのを見逃さなかった。

「可愛いリボンじゃない」

「あら、気がついた? 耳飾りをする習慣も無いっていうから、1番お気に入りをあげたの。あれなら、どこにいても見つけられるわ」

「あなたにしては、まあまあのセンスね。それと——」

 シプロスは、プラムが急に明るく振る舞うようになったことに驚いていた。

「昨夜、あの子に何を言ったの?」

「何も? ただ、私の生き方を話しただけよ」

「生き方を見定めるには、学園は狭すぎるわね」

「今日のシプロスお姉様は辛辣ですこと」

「あなたが緩すぎるのよ」

 そう答えた時、ふと、近くを歩いていくカナの姿が目に入った。

 大きな紙袋を抱え、ややぎこちない足取りで歩いている。

 新入生らしく慎重な様子だが、その手元には文房具や衛生用品がしっかりと収まっていた。

 その瞳がちらりとこちらを向いたが、再び前を向いて口を真一文字に結び直すと、しっかりとした足取りを取り戻して雑踏へと消えていった。

 どうやら、カナは自分の面倒くらいは見られるようだ。自分の力で言われたことを終えられるまでは声をかけるのは止そうと、シプロスはリーベへと視線を戻した。

 

「そういえば、女神像へご挨拶に行ったの」

「あら。それで、女神様は何か仰った?」

「カナは瑠璃の女神様からお言葉をちょうだいしたわ。マダム・ラピアス直々のお墨付きも」

「それはおめでとう。ヴィスリユニオン先輩も頼りになるし、あなたも手離れが良くて楽でしょう」

 リーベは、裁縫同好会の長として名の通ったウマ娘を出した。啓示によって一門に属するということは、自然とまとめ役が生まれるということだ。

 ヴィスリユニオンはその筆頭格で、情に厚く、文化と歴史を重んじることで名の通ったウマ娘だ。ただ、問題は——。

「ヴィスリユニオン先輩、ね」

 シプロスは一瞬、口を引き結んだが、すぐに視線を逸らした。

「学園が大事なのはわかるわ。でもあの人は、何事も勢いが先行しすぎるのよね。あの時も——」

 と、言いかけて、シプロスは口をつぐんだ。

 昨年、せめて学園の中だけでも勝負服を復活させようと企てたウマ娘達が、規則外の服装で学内を練り歩き、大騒ぎになった。

 ヴィスリユニオンが中心となって動き、勢いのままに準備を進めた結果、莫大な経費を消費して、生徒会の予備費を吹き飛ばしかけた。

 最終的には師範たちの介入でなんとか収まったが、シプロスは今でもあのときの光景を思い出すと頭が痛くなる。

「まあ、本人は真面目なんでしょうけど……とにかく、私はちょっと苦手」

 リーベは苦笑した。

「だと思った」

「アイリはどうだったの?」

「私たちはまだ。揃えないといけないものが多くて、お祈りどころじゃないわ」

「女神様もお銭には勝てないのね」

「そう。誰だってお銭には勝てないの。あなたも精進なさい」

 

 *

 

「お姉様、戻りました!」

 プラムが四本の瓶をカチカチと言わせながら戻ってきた。

 その後ろでは、カナが紙袋を抱えながら、小さく息を吐いていた。緊張の糸がほどけたように、一瞬だけ肩の力を抜く。その姿は、新たな環境に馴染もうとする者の慎ましさと、確かな自立心を感じさせた。

「ただいま戻りました」

「カナ、おかえりなさい」

 シプロスはちらりとカナを見たが、それ以上何かを言うことはなかった。それが「できて当然」という彼女なりの評価だった。

「カナちゃんも一緒だったのね。お買い物ご苦労様」

 そんなシプロスとは対照的に、リーベは二人を労った。

「そこの出店で会ったんです。ラムネです」

 プラムが汗をかいたラムネ瓶を差し出した。

「ありがとう」

 リーベはふわりと微笑みながら二本を取り、一本をシプロスへ渡した。シプロスは無言でそれを受け取る。

「それは、二人で分けなさい」

 リーベが言うと、プラムは一本をカナへ差し出した。

 二人は顔を見合わせると、まだ幼さの残る笑顔を浮かべた。ラムネの瓶を両手で包み込むように持ち、口を付ける。そのしぐさには、ほんの少しのぎこちなさと、それを上回る喜びがあった。

「冷たいね」

「うん、美味しい」

 そんなやり取りをする二人の様子を、リーベは穏やかな顔で見つめていた。

 シプロスも瓶を煽る。

 炭酸がぱちぱちと弾け、甘酸っぱい刺激が舌をかすめた。

 ひんやりとした清涼感が喉を滑り落ちると、わずかに強張っていた肩がほぐれる。

 それが、胸のわだかまりを、ほんの少しだけ洗い流してくれた。

 

 *

 

 そして迎えた夕刻。

 シプロスは談話室に陣取り、ラジオの前で耳を立てて待っていた。

 夕食前だからか、談話室にはシプロスのほかには誰もいない。

 それとも、誰も昼のレースについて関心がないのか。

 少し音の割れたファンファーレがスピーカーを震わせて、ニュースが始まる。

 内容は、農産物の収穫状況、気象情報、映画の封切り、演奏会の案内と続いてゆく。けれど、どこにもレースの話はなかった。

 シプロスは肩を落として談話室を後にした。

「勝っても負けても、この国は何も変わらないのね」

 つぶやきを暗い廊下に残して、シプロスは自室へと歩き出した。

 どこか遠くで、また、万歳の声が聞こえた。

 

 *

 

 ──夕食後、シプロスの部屋。

 消灯前の寮はしんと静まり返っていて、廊下の向こうから時折パタパタと誰かの足音が響いてくるだけだった。

 シプロスは机の上に並べられた二つの湯呑みにゆっくりと急須を傾ける。お茶の湯気がふわりと立ちのぼり、仄かに香ばしい香りが漂った。

 そのまま湯呑みの一つを手に取ると、片手で朝の新聞を開いた。紙面をめくるたびに、ぱらりと小さな音がする。

 向かいの机では、カナが一心に手紙を書いていた。鉛筆の先が紙の上を走るカツカツという音だけが、静かな部屋に心地よく響いている。

 しばらくして、ふぅという声とともに、鉛筆が転がるカランという音がした。

「手紙、できた?」

「はい」

 カナが顔を上げるのを見計らって、シプロスは手元に置いていた一枚の藁半紙をすっと差し出した。

「これを一緒に入れておきなさい」

 カナはその紙を受け取ると、首をかしげながら読み上げる。

「『公正ヲ保ツ為、持込許可ノ品ヲ除キ、物品ノ差シ入レハ御遠慮頂キタク存ジマス。但シ親御様ノ御心ヲ拝察シ、常温ニテ保存可能ナ食品ニ限リ拝受致シ候』……?」

「たまにいるのよ。娘が心配で、あれこれ送りたがるご両親が」

 シプロスはそう言って、新聞の端を軽く折った。

「でも、学園で衣食住は平等。だから、後ろにも書いてあるでしょ」

 カナが裏面をめくると、そこにも整然とした活字が並んでいた。

『頂戴致シタ食品ハ全生徒ヘ平等ニ配布スル用途ニ充テサセテ頂キマス』

「なるほど……」

「長持ちするものは数が揃うまで取っておいて、美味しい時にいただくの」

 カナは「へえ」と感心しながら、改めて手紙の封筒に紙を添えた。

「そうた。私の実家は宇多津ですから、もしかすると、塩を山のように送ってくるかもしれません」

「宇多津?」

「四国は讃岐、高松から南へ下ったところにある港町です。昔から塩の産地として有名なんですよ」

 カナは湯呑みに手を伸ばしながら、ふっと目を細める。

「海の光を浴びて、塩田がきらきら輝くんです。冬になると、朝の霜が塩の結晶みたいに見えるんですよ」

「素敵なところね」

 彼女の言葉を聞きながら、シプロスは静かに湯呑みを傾けた。

 ほのかに渋みのある温かい茶が、喉を滑り落ちていく。

 しばらくの間、シプロスはカナの地元の話を楽しげに聞いていた。

 消灯時間まで、あと少し。

 廊下の足音はいつの間にか消え、寮にはいつもの静かな時間が流れていた。

 

 *

 

 黄金色の光の中で、リーベは目を覚ました。

 まるで太陽に包まれているような、柔らかくも強い光だった。

 ゆっくりと身を起こす。寝台の端に手をつくと、指先が微かに沈み込んだ気がした。けれど、冷たさも熱も感じない。まるで夢の中にいるような、不確かな感覚がした。

 寝室は見慣れた形のままなのに、どこか違っていた。

 

 何が違っているのかを確かめようと、顔と耳を巡らせる。

 すると、足元にはいくつものトロフィーが積み上げられていることに気づいた。

 煌めく金と銀の輝き、繊細な装飾が施された台座。銘板には、見たこともないレース名が刻まれている。

「宝塚、記念……、日本……ダービー……?」

 それらは、どれもウマ娘の名が記されたリボンを纏っていた。

 けれど、どの名前も聞いたことがない。ふと、嗅ぎ慣れた芝の香りを乗せた風が吹いた、気がした。

 

 事実に気づいたリーベは戦慄した。

 こんなこと、あり得ない。

 こんなもの、私たちの世界には存在しない。

 どんなレースに勝とうとも、与えられるものは小さなバッジひとつのはずだ。

 けれど、『それ』は確かにそこにあった。

 もしもこのトロフィーが、本当にウマ娘のためのものだったなら──

 彼女たちの誇りを刻むために、誰かがこれを作ったのだろうか。

 それとも、これはただの幻で、誰にも見られることのない夢なのだろうか。

 リーベは、指先でそっと銘板をなぞろうとした。わずかに空気が震えたのに、その手は空を切った。

『進みなさい』

 不意に、声が降る。

「だれ?」

 リーベは顔を上げた。広縁の障子は光に溶け、外の景色はどこにもなかった。ただ、眩しさがあるばかりだった。

『進みなさい』

 再び同じ声が囁く。音のない空間に、確かな言葉だけが響いた。

「進む? 進むって、どこへ?」

 リーベが光の中へ呼びかけても、返答はない。けれど、その沈黙が肯定のように思えた。

『足りないものは、何一つない』

 リーベはもう一度、足元のトロフィーを見つめる。

『求めるままに、進みなさい』

 光の中で、確かにそこにある。けれど、手を伸ばしても届かない。

 それでも、確かに、そこにある。

 リーベは顔を上げ、黄色く光る窓へと体を向けた。

『そうだ。それでいい』

 それは、あり得たかもしれない世界。

『君は、君のままでいい』

 これは、あり得ないとは言えない未来。

『天道を行きなさい。君には、それができる』

 不意に、まぶたが重くなる。

 次の瞬間、視界が白に染まり──すべてが溶けていった。

 

 静かに目を開けると、見慣れた木の天井があった。

「……夢?」

 瞬きをすると、夢の残滓がまぶたの裏に揺れた。

 黄金色の光、見知らぬトロフィー、手の届かない幻。それらは確かに存在していたのに、今はただ、指先に余韻すら残っていない。

 横を向くと、隣の寝台でプラムが静かに瞬きをするところだった。

 その瞳に、小さな黄金色の光が宿り、そしてふわりと消えていった。

 リーベは思わず息を止めた。今見たものが残像なのか、それとも──

 不意に、プラムが口を開いた。

「不思議な、夢を見ました」

 プラムの声は、どこか夢と現の境を彷徨っているようだった。

 リーベはゆっくりと身体を起こし、プラムの寝台へと体を向ける。立てかけられた鏡が、朝の光を受けてきらりと輝いた。

「どんな、夢を見たの?」

 プラムは少しの間、言葉を探すようにまばたきをした。

「ウマ娘の形をした、黄金色の影が言いました」

 掠れるような声で、彼女は告げる。

「望むままに走れ、目指すままに走れ、って」

 リーベの指先が、知らず知らずのうちに掛け布の端を握りしめていた。

 プラムの言葉が、彼女自身の夢と静かに重なっていく。

「そう……」

 リーベはそっと視線を落とした。

 啓示は、像の前に立ち、女神と心が通じた時に与えられるとされている。

 この夢が、本当に女神の導きなのか、ただの偶然なのかはわからない。

 しかし、たとえ幻であったとしても、プラムは今、この夢に導かれようとしている。

 ならば、今の自分にできることは──

 

 リーベはそっとプラムの横顔を見つめた。

 プラムが目指すべき道へと進むのなら、それを見守ることが、自分にとっての最大の幸福なのではないか。

 それとも、女神は私に自分の限界を知れと伝えにきたのだろうか。

 ならば、届かないトロフィーを追い求める必要もない。今はただ、この瞬間を大切にしよう。

 プラムが導きを信じて走るのならば、自分はその背を押せる存在でありたい。

 夜明けまでは、まだ少しかかりそうだ。

 リーベはそっと目を閉じた。

 夢の余韻が、まだほんのりと、指先に残っていた。

 

 *

 

 コン、コン。

 

 控えめなノックが、まだ薄暗い部屋の静寂を破った。

 この時間に訪れる者など滅多にいない。せいぜい寮長か、生徒会の誰かだろう。

 リーベは寝台から降りると、軽く裾を直しながらドアへと向かう。

「はーい」

 ドアを開けると、そこにいたのは予想外の人物だった。

 肩より少し長い黒髪と、すらりとした肢体を持つウマ娘。

 彼女は、まるで夜明け前の訪問が当然であるかのように佇んでいた。

「リーベくん、おはよう」

 琥珀の一門を束ねるウマ娘、マダム・アルセ。

 その銀色の瞳が、どこか探るような光を宿していた。

「マダム・アルセ……?」

 アルセは寝巻きらしい浴衣の上に、長い白衣を羽織っていた。

「どうされました、こんなに朝早くから」

 リーベの問いに、アルセは微笑みを返すだけだった。

「話がある。失礼するよ」

 それだけ言うと、彼女はリーベの横をすり抜け、静かに部屋へと足を踏み入れる。

 閉じられたドアの音が、早朝の静寂に溶けていった。

 白衣をゆるやかに翻しながら、アルセは部屋の中央で足を止める。軽やかに振り返って、その瞳がリーベをぴたりと見つめた。

「君は今朝、女神様から何かお言葉をもらわなかったかね?」

「……それは」

 リーベは言葉を詰まらせた。

 ──目に浮かぶのは、煌めく数々のトロフィー。

 それは、陽の光を浴びて輝く湖面のように、まばゆく、それでいて儚かった。

 伸ばした指先に届きそうで、触れれば消えてしまいそうな光。

 その光景は、目覚めた今もまぶたの裏に焼きついて離れない。

 夢の余韻と呼ぶには、あまりに鮮烈すぎる。

 啓示は三女神像の前で受けるもの。それが学園における”常識”だった。

 昨日、リーベたちは買い物を優先し、まだ三女神への挨拶を済ませていない。

 なのに、なぜ──

「お姉様、その方は……?」

 寝乱れた髪を軽く整えながら、プラムが寝台から身を起こす。

 アルセは振り返り、静かにプラムの前まで歩み寄ると、その場で膝を折った。

 その瞳が、彼女の双眸をじっと見つめる。

「ほう。女神様は、君へ啓示を与えたのだな」

 アルセの声は穏やかだったが、その響きには確かな確信があった。

「おめでとう。我ら一門は君を歓迎する」

 アルセはプラムに握手を求め、プラムもそっとその手をとった。

「五十六期のアルセだ。図書室で司書をしている。知りたいことがあったら、いつでも来るといい」

「あ、はい。あの……プリミスプラムです。よろしくお願いします……」

 プラムの声はかすかに震えていた。

 行き場を失った指先が、知らず知らずのうちに浴衣の裾をぎゅっと握りしめる。

 アルセは、まるでプラムの奥底に眠る何かを掬い上げようとするかのように、じっと瞳を覗き込んだ。

「ふむ……」

 アルセは静かに息をつき、わずかに微笑む。

「そういうことか」

 その視線はやわらかいのに、どこか鋭い。プラムは心の奥底を覗かれているような気持ちになった。それでも、逃げ出したくなる衝動を押し殺し、視線をそらさなかった。

「どうやら、君には何らかの『素質』があるようだ」

 アルセは満足げに微笑むと、リーベに視線を移した。

「リーベくんが彼女を選んだことも、女神様がお決めになったのだろう」

 リーベは思わず首を傾げる。

「しかし、マダム」

 言葉を探すように唇を噛む。

「私たちはまだ、三女神様へは……」

 行っていない。そう言いかけた瞬間、アルセの言葉が遮る。

「おやおや。女神様が”常識”に縛られるだなんて、誰が決めたのかね?」

 その口調は冗談めかしていたが、それが逆に、リーベの心にずしりと響いた。

 アルセはゆっくりと続けた。

「時に、女神様は思いもよらない形で御心を示される。気づくかどうかも、受け取るかどうかも、それは授かる者次第だ」

 アルセの瞳がきらりと光り、深い森の奥を覗くように揺れる。

「女神様からすれば、君たちが、それに値する存在だった。そういうことだよ」

 その瞬間、リーベは思わずプラムを見た。

 その瞳の奥で、また金色の光が瞬いた。だが、それが実際に見えたものなのか、それともただの錯覚なのか、リーベにはわからなかった。

 ──私が見た光と同じものなのだろうか。

 アルセはどこか恍惚としたように微笑み、言葉を紡ぐ。

「柔き黄金と見誤る勿れ、固き水晶と見誤る勿れ。我らは"規律"のウマ娘。琥珀の女神は、いつも我らと共にある。だから、君たちが本当に、私の魂までも揺さぶるほどの何かを持っているとしたら──」

 アルセの濡れたような黒髪が朝焼けに光る。その神秘的な神々しさに、リーベは息を呑んだ。

「──それはきっと、君たちの未来が明るいことの証明だろう」

 

 静寂が、ほんの一瞬だけ部屋を満たした。

 リーベはアルセを見据えながら、ゆっくりと口を開く。

「明るい未来、ですか」

 アルセが小さく頷く。

「ああ。君たちの歩む道が、祝福と希望に満ちているということだよ」

 応えるように、リーベはふっと微笑んだ。

「それは……とても心強いお言葉ですね」

 だが、内心では違う考えが浮かんでいた。

 ──“未来が明るい”かどうかを決めるのは、私たち自身でしょうに。

 啓示が何を意味していようと、それがどう役に立つのかを決めるのは、自分だ。

 誰かに選ばれたからといって、それが運命になるとは限らない。

 全ては、どう生かすかにかかっている。

 そう──私たちが、それをどう利用するか、だ。

「もっとも」

 アルセは静かに立ち上がると、二人にやわらかな視線を向けてゆっくりと言葉を紡いだ。

「幸せの形は、人それぞれだ。何を選ぶかは、君たち自身が決めることだからね」

 アルセが意味深に微笑む。

 なんだか見透かされたような気がして、悔しさが胸の奥にわだかまる。けれど、それを悟らせまいと、そっと奥歯を噛み締めた。

「さて。女神様が教えてくださるのはここまでだ」

 アルセはさっと白衣を翻し、音もなくドアノブに手をかけた。

「ここから先の答えは、君たち自身で見つけるといい」

 振り返りもせずそう言い残して、アルセは朝の静けさに溶けるように去っていった。

 まるで、初めからそこにはいなかったかのように。

 リーベは、夢の中で杯へ触れたはずの手をじっと見つめた。芝の香りだけが現実感を持ち、トロフィーの輝きが遠ざかっていくように思えた。

 啓示が何を示していたのかは、まだ分からない。

 けれどきっと、答えは”これからの選択”にある。

 窓の向こうには、朝日が差し始めていた。トロフィーの輝きとは違う、本物の光がそこにあった。

 夜を追い払うように、部屋の中は黄金色の光で満たされていった。

 




次回、"Les Filles de Lily”
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