蹄音、高く   作:上條つかさ

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蠢動

 昭和十九年一月十六日、午前八時五十二分。

 教室棟東三階・三の一。

 引き戸が勢いよく開き、朝日の中に、リリウムパイスの長い白髪が舞った。

「みんな、おはよう」

「おはようございます」

 整った挨拶が朝の空気を震わせる。リリーは真っ直ぐ壇上に上がり、集まった生徒たちの顔を一人一人確かめた。その末席には、プリミスプラムの姿も見える。

 ここに詰めるのは三十人。全校二千のうちの一握りにすぎない。だが、今ここで動けば学園の空気を変えられる。リリーはその確信を胸の奥に押し留めた。

「年も改まったところで、私から三月までの方針についてお話をしておこうと思うの」

 リリーは徐に教卓を退け、教壇に置かれた椅子に腰を下ろして足を組んだ。ちょうど正面に座る赤髪の一人と、目が合った。

「エスモア。三月には何があるか、ご存知?」

「はい。すでに告示があったとおり、生徒会選挙が行われます」

「その通り」リリーは頷いた。

「私たちの最終目標である長距離レースの拡大には、この凝り固まった体制の変革が欠かせないの」

 リリーの細い指が、ついっと空を舞う。

「ではススキヤマ。今のレース界を変えられる唯一のウマ娘は、どなた?」

 細身のウマ娘が立ち上がり「衆議院議員の、酉越ユラナス閣下です」と簡潔に答えて腰を下ろした。

「結構。しかし残念なことに、私たちと閣下の間にパイプは無い。では、その橋渡しをしてくれるのは誰かしら」

 銀髪のウマ娘が手を挙げる。

「ザフィーア?」

「はい。ロートアスター副会長殿、と拝察いたします」

「ご明察」

 リリーはゆっくりと立ち上がり、教室の空気を掌で押さえつけるように視線を走らせた。

「ご存知のとおり、アスターは、私たちのような“跳ねっ返り”にも寛容。それどころか、この古臭い体制の剥離剤として、私たちを使うつもりでいる可能性は十分にあるの」

 そこで一拍置き、リリーは唇の端をわずかに上げた。

「けれどね。協力ならともかく、利用されるだけなんて御免だわ。主導権をどう分け合うのかは、こちらから先に示して差し上げるべきよね。今日は、その踏み込みの"度合い"についてのご相談」

 前列から手が上がり、茶髪に白いメッシュを入れたウマ娘が立ち上がる。

「主導権と言いましても、ロートアスター副会長を推して、我々が得られる利益とは何でしょうか」

「いい質問ね、リナリー」

 リリーは鷹揚に腕を組んだ。

「アスターには、徹底的に改革を進めてもらうわ。そうなると、古いお考えの方たちはどんどん肩身が狭くなる。椅子を空ける者も出るでしょう。その穴を埋めるのがこの私。ひいては“長距離レース研究会”というわけ」

「まさか、リリー様が生徒会に入られるのですか?」と声が上がる。

「残念だけれど、二種候補生は生徒会には入れない決まり。私の声は、制度のために届かない。けれど、あなた方ならそれができる。さらに言えば、生徒会はもはや、ユラナス閣下の代弁者にすぎない。でも裏返せば、それは強固な繋がりがあるという証拠。懐に潜り込めば、舵を握る機会もあるでしょう」

 リリーは一息に言い切って、窓の外へ目を向けた。すっかり葉を落とした銀杏の枝が、寂しげに天を掴もうとしている。

「それに──、アスターにはまだ、人を簡単に切り捨てられるほどの度胸はないわ」

 誰もが、まだ、という言葉の意味を噛み締めた時──。

「それは、向日会のシンドウゲッカ会長あたりが反発するでしょうな」とススキヤマがぼやいた。

 少し気の抜けたその発言に、リリーは肩をすくめて笑う。

「あら。あのお方は小うるさいだけで、実行力はなくってよ。人の言うことに唯々諾々と頷くのがあのお耳の仕事。レースならともかく、(まつりごと)ではお相手にもならないわ。翻って、私たちは同じ目標を掲げて幾年も走ってきた朋友。埃をかぶった仕組みに甘んじてきたあの方達とは、理念も覚悟も違う。そうでしょう?」

 すでに空気が、わずかに熱を帯び始めていた。

 かき分けるようにして、白い手が上がる。

「しかし、その見返りとやらを手にするのは何年先になるかわかりません。目先の利益も大事とまでは申しませんが、その点はどうお考えですか?」

「お焦りにならないで、トネトル」

 リリーはゆっくりと歩み寄り、机の前でしゃがんで彼女の目線をとらえた。

「あなたが急ぎたい理由は、わかっているわ」

 その声は、驚くほどに柔らかかった。

「今の体系化されたレースの歴史なんて、たかが二十年。これ以上固められてしまう前に、楔を打ち込むの。それには金以上の値打ちがある。お分かり?」

 リリーは、そっとトネトルの肩に手を置いた。

「もちろん、あなたの不満は尊重するわ。今のあなたが実力を発揮しきれず、苦しい思いをしていることもね。ここにいる全員が同じ気持ちなの。だからこそ、次の子に、次の次の子に、同じ思いをさせないために……今ここで力を尽くしてほしいの。どうかしら」

 トネトルは顔を伏せたまま、絞り出すように言った。

「……お話、よくわかりました」

「ありがとうトネトル。あなたにも、三女神様のご加護がありますように」

 その瞬間、教室の空気がひとつ震えた。誰も声を発していないのに、全員が息を揃えて吸い込んだ気配があった。

 リリーがすっと立ち上がると、その長い白髪が光って、まるで光を纏うように輪郭を模った。コツコツと足音を響かせて教壇に戻り、スカートを翻して全員をぴたりと視界に収める。

「それでは。アスターの要求が仮に"生徒会構成員の刷新”だった場合──私の名代として、生徒会へ乗り込む者を募る! 候補生からお二人で結構よ。志願する者は、起立なさい!」

 

 *

 

 ──同時刻。

 教室西棟一階、一の四。

 秀愛会会長、シナノダイアンサスは腕を組み、机に置かれた名簿を見下ろしていた。

 この会は特に一英里前後を得意とする者の集まりだ。その結成は大正初期に遡り、二十年を超える歴史を持つ。

 秀愛会がここまで膨れた理由は至極単純だ。

 千六百メートルという距離は、どこのレース場でも避けて通れない。得意距離が同じ者が集まれば、歴史もコネも、自然と積み上がる。

 しかし、こういった便利な組織ほど、思想は揃わない。

 芝と砂の得意不得意があるように、保守と変革の軋みはひどくなるばかりだ。

 ダイアンサスも、生徒会長を選挙で決めるという制度自体は歓迎していた。生徒全員の信任を以て生徒代表を決める。進歩的で結構なことだ。

 しかし、生徒会首脳が会長の指名による、という点だけは受け入れ難かった。

 秀愛会は大所帯ゆえに、片手間に生徒会に籍を置く者もいる。そこから漏れ聞くところによると、やはり従順な者は登用されやすく、あれこれと変えたがる者は疎まれる傾向があるらしい。

 さもありなんという状況だが、お姉様方が就職だ進学だと席を外している今が好機であることは間違いない。秀愛会が旗色を明らかにすれば、他の会も追随しやすくなる。票田を握っていると豪語するほどではないが、一定の影響力があることは確かだ。

 ダイアンサスが決断を渋る理由が、もう一つあった。それは未だ立場を明らかにしていない、現生徒会副会長、ロートアスターの存在だ。風紀を正し規律を重視する姿勢は、自身の尊敬する琥珀の女神の教えにも通じる。立候補するならば個人的に支持するつもりだし、楽観的に見ても、会からは二割程度が着いてくるだろう。流動層の説得にも、喜んで時間を割くつもりでいる。

 なのに、アスターほど聡明なウマ娘が未だ旗色を示さないのには、何か理由があるのか。はたまた、ここで終止符を打つつもりなのか。

 もう少し素早く動くと思って意思統一に向けた会を開いたのに、これでは中身が薄くなってしまいそうだ。

 

「シナノ先輩、お待たせしました」

 戸が開く音と共に、候補生を纏めるオータムユーメンと、練習生を纏めるトライガリアスが入ってきた。後ろから、自主的に参加を希望していた二十人ほどがぞろぞろと入ってくる。

 最後の生徒が引き戸を閉めないことに気づく間もなく、ユーメンがまっすぐこちらにやってきて耳打ちする。

「生徒会のピルソス副庶務長の御指図で、学園備品の適正利用に関する監査が来ています」

「なんの監査だって?」

 顔を向けると、確かに廊下には生徒会の腕章をつけた三人が立っている。廊下の奥で、隣の教室の戸が開く音がした。

 ──標的は、我々だけではない、か。

 監査担当と名乗る生徒たちは、皆一様に書類挟を抱え、視線も黒板の方へ向けている。ただ、その静けさがかえって落ち着かない。

「備品の無駄遣いをしていないかを調べるだけだと言っています。発言もしないと」

「当然だ。ここは秀愛会が借り受けた教室だ。口を挟まれてたまるか」

「なら追い返しますか。こちらは正規の手続きで…」

 ダイアンサスは指を立てて話を遮った。生徒の自治組織が会合を開くことは校則で保証された権利だが、最終的な裁可は生徒会が出す。立場が下の我々がここで楯突けば、信用が下がることは間違いない。そこから選挙戦でヒリついている連中の耳に届いて、あれこれと引っ掻き回されるのも癪だ。それなら、チョークの使いすぎに小言を言われる方がまだ良い。

 生徒会が監査だというのなら本当なのだろう。もしもブラフだとしたら、この場をやり過ごすように場を動かせばいい。とにかく、今は敵も味方も作るべきではない──ダイアンサスは大きく息を吐いた。

 

「仕方ない。痛くもない腹を探られても堪らないからな。入れてやれ」

「はい」

 ユーメンに促されて、生徒会生たちは入り口近くの机に掛けた。整えられた制服と、胸に抱えた書類挟。微動だにせず姿勢良く座る姿は、見慣れた"優秀な"生徒会生の姿そのものだ。ダイアンサスも、まさか奴らも鬼や蛇でもあるまい、と腹を決めた。

 カラカラと引き戸が閉じて、教室がしんと静まる。

 ダイアンサスは軽く息を吐いて立ち上がり「では始めよう」と大きく手を打ち鳴らした。

「みんな、集まってくれてありがとう。今日は生徒会選挙に向けた、自由な意見交換の場だ。諸々の蟠りは忘れて、歴史ある秀愛会の一員としてのみ、振る舞ってくれ」

 瞬間、部屋の隅で眼鏡が光る。

 残念だったな──、ダイアンサスはあえて胸を逸らした。

「では、最初に誰か?」

 

 *

 

 一方その頃、カフェー・ポテト。

「そう不貞腐れるなよ、ハルカ」

 ステラペルセウスは、ぬるくなったコーヒーカップをテーブルへ戻した。

「だって、猫も杓子も選挙選挙。別に誰がなったって一緒なのに、みんな熱心だなって」

 肩肘をついたヤマノハルカゼの視線は、他のテーブルで熱心に語る同級生に向けられている。根も葉もない話から、多少は信憑性のありそうな話まで。カフェーの中は、まさに混沌といった有様だった。

「そうでもないよ。誰とは言わないけれど、私たちの代で、学園は大きく変わるぞ」とステラ。

「変えたって、やることは一緒でしょ。走って、勉強して、立派に社会に出ていきなさいって」

「あと二年しかない私たちにとってはそうかもしれない」ステラは軽く身を乗り出した。

「けれど、後輩たちはどうだ。先輩たちのおかげで今があると、将来それは感謝するぞ」

「私たちの先輩だって、そう思われようとしてきたんじゃないの? その結果がこれなら、何もしないほうがましじゃない」

 ハルカは連れない様子でカップを手に取った。底に残っていたミルクがわずかに唇を濡らしただけで、カップは静かに卓へ戻された。

「そう言う見方もある。けれど、変えようとし続けることを放棄したら、それこそオシマイだよ」

「どうしてステラは、お外のことには興味がないの?」

「私の田舎は、小さな港町だからね。幼馴染も待っていてくれるし、卒業したら引っ込むと、前々から決めていたんだ」

「なのに、後輩たちのことまで考えているんだね」

「出て行かなければならないからこそ、学園をより良くして残さなければならないのさ」と、ステラは肩をすくめてみせた。

「そんなの、考えたこともなかった」

 ふんわりとした答えとは裏腹に、ハルカの大きな耳がくるくると回る。語っているうちに、ステラも考えがまとまってくるのを感じていた。

「別に、義務でやっているわけじゃない。君が今の学園に満足していて、良い思い出として仕舞っておけるなら、それでいい」

「もしかして、それで発破をかけたつもり?」

 ハルカの大きな目が、ステラの琥珀色の瞳を覗き込む。

「まさか。誰の支持を手伝って欲しいのかなんて、言わなくてもわかっているのだろう?」

「けど、何をするのかわからなきゃ、支持のしようがないじゃない」

 ハルカはむくれてみせた。白黒分明を旨とするハルカにしてみれば、なんとも飲み込みきれない話ばかりだ。

「本人がきちんと説明するさ。もう少しだけ、我慢してくれ」と、ステラは優しく宥めた。

「村の偉い人とそっくり。大事なことは、最後まで言わないのね」

「それがお政治というものだよ。会席料理だって、いきなり寿司は出さないだろう?」

「お寿司を食べに来てる側からしたら、苛立たしいったらありゃしない」

 ハルカは再びカップに手を伸ばし、それが空であることを思い出して息をついた。

「わかったわかった」ステラは椅子を引いて立ち上がる。

「おかわりは、ホットチョコレートでいいかい? おごるよ」

「それ、買収?」と、ハルカの無垢な瞳がステラを射抜く。

「まさか。ただの、友情の物質化さ」

 なんだか見透かされた気がして、ステラはポケットに手を突っ込んだ。

 

 *

 

 同日、夕刻。

 西日に染まった光がガラス窓から差し込み、教室と同じ造りの木の引き戸にも、淡い橙色の影を落としていた。

「ロートアスター、入ります」

 木製の引き戸が、きしむ音とともに横へと滑る。アスターは制服の裾を軽く整えながら一礼し、足音を控えるようにして室内へと入った。

 木造校舎特有の乾いた匂いに混じって、どこか薬品めいた刺激が鼻をかすめる。クレゾール石鹸──この部屋が救護室であることを、言葉よりも早く伝えてくる匂いだった。

 部屋の奥では、白衣を羽織ったラピアスが書類に目を落としていた。薄いブラウスの襟元に淡い光が反射し、肩越しに差す夕陽の輪郭をぼんやりと際立たせている。

「やあ、呼び出して悪いね」

「いえ。こればっかりは」とアスターは目を伏せた。

「そうだな」と、ラピアスも少し悲しげな笑顔を浮かべた。

 アスターは静かに扉を閉めると、軽く頷いてラピアスの前に進み出る。床板がわずかに軋む音に、窓の外で鳴く鳥の声が混じる。

 ラピアスは机の引き出しから筆入れのような小箱を取り出し、アスターに手渡した。受け取った彼女は、箱の蓋をそっと開ける。

 中には、ウマ娘用のつるを備えた丸眼鏡が一つ。金属を使い、細部まで丁寧に仕上げられた品だ。

「掛けてみたまえ」

 アスターは静かに息を吸い、指先で前髪を払うと眼鏡を掛けた。視界が変わったのか、瞳が一瞬だけ大きく見開かれる。

「……ああ。とても、よく見えます」

 彼女は小さく微笑みながら、部屋をぐるりと見渡した。壁に並ぶ薬棚、手洗い励行の貼り紙、曇ったガラス越しの校庭の片隅──すべてが、輪郭を取り戻すように目に映る。

「受け取りのサインを。代金は補助金込みで、一四円五十銭だ」

 ラピアスが伝票を差し出す。額面は四十四円五十銭、充当された補助金は三〇円。慎ましい家庭なら一月は暮らせるだけの金額が、たった二枚のレンズを顔にかけるためだけにかかるのだ。

 アスターはため息と共に内ポケットから万年筆を取り出し、名前をしっかりと書き記す。筆圧の強さが紙に伝わる音が、わずかに響いた。

「支払いは、配給券でも構いませんか?」

「もちろん」

 アスターはポケットに手を差し入れた。しっかりと綴じられた配給券の束を取り出すと、その場で指先で一枚ずつ数え始めた。

「しかし、こんなものにまで補助金があるだなんて、知らぬものが聞けば驚くでしょうね」

 数を確認し終えたアスターは、金額分の券を束から切り取り、机の隅に丁寧に揃えて置いた。

 ラピアスはその様子を見やりながら、どこか嬉しげに頷いた。

「君たちは国のウマ娘である前に、未来そのものだ。それはそれ、これはこれ、というやつだよ」

「なら、メガネが必要な者にも、もう少しレースに出る機会をやりたいものです」

 アスターは姿勢を正し、じっとラピアスの顔を見つめた。視線には確かな意志が宿っている。

 ラピアスはその視線に耐えきれず、目を逸らした。

「これは医者としての意見だが、メガネをかけてのレースには危険が伴う。時速五十キロで転倒でもしてみろ。失明じゃ済まんぞ」

「だからといって、挑戦する権利ごと取り上げるのはいかがなものか、と申しておるのです」

 アスターは、ひと呼吸置いてから目を伏せた。揃えられた指先にわずかに力が籠る。

「──それは、私の関知するところではない」

 硬い言葉が、アスターの耳を打つ。

「いえ、おっしゃる通りです」

 小さなため息をひとつ吐いて、アスターはふっと力を抜いた。

「失礼ですが、マダムの時代にも、私のようなことを言う方は居られたのでしょうか」

「もちろんいたさ。しかし周りの理解は、今よりもずっと薄かった。まるで声を吸い取られるように、より内向きな集団に取り込まれて、最後は静かに去っていったよ」

「三〇年を費やしても、変わりませんでしたか」とアスターは首を振った。

 ラピアスは、机の引き出しから燐寸箱を取り出す。そこから一本を取り、火を灯した。小さな火に照らされた瞳は蒼く、慈愛を満たしているように見えた。

「学園には、変わることを嫌う風土がある。それは認めよう。しかも大抵のことは不文律だ。変えようと思えば、変えられるだろう」

 ゆったりと紫煙がたちのぼり、部屋の中に消えていく。強い香りが、アスターの鼻をついた。

 俯いたラピアスの、大きなメガネが光る。

「君が何を目指しているのか、今はまだ聞かない。だが一つ言っておく。その先にある壁は厚く、高いぞ」

「壁……」

 アスターは窓の外を見やる。斜陽に染まる中庭に、生徒たちの影が長く伸びていた。

「学園には二千の生徒がいて、その考えは千差万別だ。彼ら全員を納得させるのに、昔からこうだった、という言葉ほど説得力のあるものはない」

 夕日が室内を紅く染めていく。それは煙に淡く滲んで、アスターの影を濃く浮かびあがらせた。

「アスター。何かを成そうとするならば、君に必要なものは支えてくれる友、つまり仲間だ。学園は、たった一人で生き抜けるほど単純な場所ではない」

「仲間、ですか」

 アスターは机の上に視線を落とした。自分が頼れる者、頼ることを受け入れてくれる者が、今の学園にいるのだろうか。

 俯くアスターを横目に、腰を上げたラピアスが小さく窓を開けた。秋の夕暮れを乗せた枯葉の香りが、漂う紫煙を押し流していく。

「──私はかつて、何も成さないままに制服を脱いだ。私には頼るべき仲間も、友もいなかった。探そうとすらしなかった。あるいはそれは、君ほどの熱意も、覚悟もなかったからかもしれない」

 ラピアスは、背を向けたままで言葉を紡ぐ。

「外を知っている私が助けてやれることは僅かだが、それでも一人のウマ娘として、私は君を支持するだろう」

「ありがとうございます、マダム」

 アスターはその白衣の背中に頭を下げ、ゆっくりと身を起こした。眼鏡越しの瞳が、もう一度まっすぐにラピアスを見据える。振り返った時、ラピアスの瞳は、いつもの気怠げな色に戻っていた。

「どんな結果になろうと、私は、君という後輩がいることを、誇りに思うよ」

 アスターは眼鏡を外し、端切れに包んで丁寧に箱へ戻した。

「常に疑い、真実を見つめ、答えを探し続けなさい。君にできることは、まだ沢山あるはずだ」

 アスターは再び礼をして、廊下に出た。冷えた風が、尻尾を揺らす。

 窓の外には、ぼんやりと滲んだ世界が、茫洋と広がっていた。

 

 




次回、飛行記録:宇都宮→岐阜
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