蹄音、高く   作:上條つかさ

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飛行記録:宇都宮→岐阜

 昭和十九年一月十九日、午前十時四三分。

 宇都宮飛行場、第十二格納庫。

 

 副操縦士席の船崎が、無電の送信スイッチを押す。

「宇都宮管制へミヤ9080。『騅藍(すいらん)』第四回慣熟飛行、出航準備よろし。操縦士、坂井東一。副操縦士、船崎広。無線士、北村カリュオン。現在第十二格納庫にて待機中。行程表合わせ願います」

 機長席の坂井は、計器を確認している。課長たるカリュオンが無線士席に座るのは宇航研の慣いで、副操縦士席の船崎が出発前ブリーフィングをするのは、それが大型機の慣例だからにすぎない。

 一番できるやつが、一番使える場所に座る。それが、この組織の流儀だった。

『ミヤ9080へ宇都宮管制。搭乗員確認よろし。騅藍、第四回慣熟飛行、行程表合わせ、どうぞ』

 管制官の声は淡々としていた。それはどこまでも型通りで、儀礼的で、そして何度も危機を未然に防いできた。

「宇都宮管制へミヤ9080。目的地は岐阜飛行場。出航方位ヒトハチハチ。通過予定地点は大宮、御殿場、静岡、岡崎」

『ミヤ9080へ宇都宮管制。行程表合わせよろし。到着機優先につき、暖機して待機せよ』

「宇都宮管制へミヤ9080。待機する」

 打ち合わせを済ませて、船崎は大きく伸びをした。

 そのまま「何でまあ、わざわざ試作機を持っていくかねえ」とぼやく。

「全金属の飛行機は珍しい。こんなんでも飛んでくりゃ、やる気が上がるんだろ」と坂井。

 船崎の方を見ることもなく、淡々と出発の準備を進めている。その目には、飛行前のぎらついた光を湛えていた。

「けどよお。なんで向こうに行ってから休暇なんだ? 後から追いかけて行けば良いじゃんか」

「工事が始まれば、大型機は出せなくなる。それとも、立川や静岡でせこせこ給油するか?」

「そいつも面倒だな」

 船崎は軽く流して、ポケットのキャラメルをひとつ、口に入れた。

「おい船崎!」だらけるその姿を見ていたように、外からカリュオンの怒鳴り声が響いた。

「エンジンの点検は済んだのか!」

「はいはい。今やりますよっと」

 船崎は心底面倒臭そうに書類挟を抱えて立ち上がる。開いたドアから、カリュオンが顔を出した。

「坂井は待機。私は、天気予報を聞いてくる」

「了解」

 カンカンと音を立てて、船崎が降りていく。

 操縦席に一人残された坂井は、左手をスロットルに置いた。その指先だけが、微かに強張っていた。

 

 外に出た船崎は、ぐるりと機体のまわりを点検した。騅藍は全長十三メートル超、全幅十六メートル超と、乗り慣れた「驔風(たんぷう)・改」より背が高く、図体は一回り大きい。尾翼にはカリュオンの紋章である翼の生えた女神の標章が光り、ジュラルミンの翼がコンクリートの床に厚い影を落としている。

「排気管も異常なしっと。あれ、姐さん」

「船崎、よく聞け」

 カリュオンはつかつかと歩み寄ると、船崎の耳に顔を寄せた。

「坂井は、事故から最初の長距離飛行だ。あいつと水平儀から、目を離すな」

 突然の指示に、船崎の眉が歪む。

「何か、心配事でもあるんですか」

「事故を経験したパイロットは、復帰後の飛行で空間失調症を起こすことがある。お前を連れていくのは、そのためだ」

「まさか」船崎の声が揺れる。

「アイツに限ってそんなこと。だいたい、この間だって何もなかったでしょう」

「そういう奴ほど危ない。お前の基準でいい。危険だと判断したら、すぐに操縦を代われ。非常切替梃子を使っていい」

 操縦席に備えられた黄色いそれは、連動型副列操縦席の動索を片側だけ破断させ、正常な側の操作だけを通す装置だ。

 大型機では必須の装備だが、船崎はまだ一度も使ったことがない。

「なにも、そこまでしなくたって」

 まるで坂井が信用されていないようで、船崎はむっとした。訓練生時代に相棒となってまもなく十年、坂井の判断を疑ったことは一度もない。

「万が一のためだ」と、カリュオンが嗜めるように言う。

「相棒として言っておきますけどね、凧揚げ坂井は、こんなことで潰れやしませんよ」

 船崎は駆け出すとタラップに足をかけ「けど、わかりやした」と言い残して機内へと戻った。そのまま操縦席に入り、右側の席に着く。機長席の坂井は、ゆったりと煙草を燻らせていた。

「外観に異常なし」とだけ口にして、何事もなかったかのように座席帯に手を伸ばした。

「おう」と坂井が答える。あとは出航の許可を待つだけだ。

 ピラーにかけられた宇都宮二荒山神社のお札が傾いていることに気づいた船崎は、それを指先でそっと直した。

 

 *

 

 二時間後。

 騅藍は東京・神奈川県境を越え、厚木上空に差し掛かった。

 飛行場がひしめく関東と違って、この先にあるのは小さな静岡飛行場だけだ。空白地帯に入る前に、一連の計器確認が始まった。船崎が水平儀を一瞥し、眼下の川筋を見下ろす。

「現在位置、相模川上空」

 それを合図に、坂井がコンパスに視線を落とす。

「機首方位フタサンハチ、自動操縦装置、異常なし。与圧確認せよ」

 船崎の視線が計器盤を走る。

「圧搾空気供給装置、圧力六七〇mmHg。異常なし」

 続けて坂井が機関の状態を問う。

「機関確認せよ」

「一番異常なし。二番異常なし」

「計器確認せよ」

 船崎が淀みなく読み上げる。

「速力九七節。燃料ヨンハチ。高度、一万三千八五〇英尺」

 次は無線。坂井の後ろ、無線士席ではカリュオンが受信状態を微調整している。

「無線士。帰投方位指示器を確認せよ」

 機内電話越しに、坂井の声が響く。

「帰投方位指示器、箱根電波標識、受信宜候」と、この時だけは、カリュオンも型通りに答えた。

「自機位置送信装置、東海管区へ切替」

自機位置送信装置(ADT)、東海管区へ切替。宜候」

「計器確認終了。現在時刻ヒトサンサンフタ、異常なし」

 坂井の報告を聞いて、カリュオンはそっと息をついた。杞憂ならばそれでいい。坂井のようなパイロットを失うことがどれほどの損失かは、わかりきっている。

 眼下には、伊勢原の街並みが、冬の日差しを受けて淡く広がっていた。

 飛行そのものは、静かに安定しているように見える。

 ——だが、その静けさの底に、わずかな癖が混じっていた。

 計器にはまだ出ない風の歪みを、船崎だけが皮膚で拾っていた。

 

 突然ブザー音が響き、一般回線の入電を示す緑のランプが点った。

 カリュオンが慣れた手つきでいくつかのスイッチを上げる。真空管が暖まるにつれて、スピーカーが鳴り出した。

『……測所より付近の航空機へ。感度あれば応答願います。こちらは、御殿場航空観測所。付近を飛行中の機体、ありましたら応答願います』

「御殿場航空観測所へミヤ9080、感度ロク。どうぞ」とカリュオンが答える。

 わずかな間があって、掠れた声が返ってきた。

『ミヤ9080へ御殿場航空観測所。貴機の進路及び目的地を明らかにされたし』

「御殿場航空観測所へミヤ9080。目的地は岐阜飛行場。現在、相模川上空を西進中」

『ミヤ9080へ御殿場航空観測所。富士山南側に、乱層雲の発達に伴う強い乱気流を観測中。風向きは東。雲頂は推定二万英尺、天候急変の恐れあり。進路の変更を検討されたし。以上、御殿場航空観測所』

「御殿場航空観測所へミヤ9080。感謝する、交信終わり」

 カリュオンはマイクを無線機へ戻すと、地図を開いた。

「乱気流は厄介だな。船崎、南回りで迂回路を計算しろ」と、指示が飛ぶ。

「もうやってます」

 そう答えた船崎も、すでに地図を手にしていた。算盤を弾いて、必要な燃料を計算する。

「ええと、すぐに南下して伊豆半島の東側を迂回、石廊崎で西北西へ転進します。豊橋の電波標識を捕まえれば、あとは真っ直ぐ飛ぶだけです」

 船崎の提案した航路を指でなぞり「燃料は足りるのか?」とカリュオンが問う。

「通常の飛行で、三〇分の遊びを見てあります」

「わかった」と、カリュオンは即決した。

「坂井、船崎の指示通りに飛べ」

 間髪入れず、船崎が「転進。方位ヒトハチゴ」と指示を出す。

「方位ヒトハチゴ、宜候。増速します」

 坂井が脚操桿を踏み込む。操縦桿を左へ倒し、ゆっくりとスロットルを開いた。二発のエンジンが唸りを上げて、機体は緩やかに加速を始める。

 機首が巡り、太平洋と、伊豆半島の緑をたたえた山々が立ち上がった。横目に見る坂井の様子も、いつもと同じように見えた。

 ──空間失調症なんて、やっぱり姐さんの杞憂じゃないか。

 船崎はきつく締めた座席帯を、ほんの少しだけ緩めた。

 

 *

 

 雪を抱いた山並みが、冬の日差しに白く光っている。濃尾平野を貫く木曽川は青く水を湛え、冷えた空気が操縦席の窓越しに澄み渡っていた。

 坂井の操る騅藍は、その山々を横目に、静かに降下してゆく。

 高度計の針が滑らかに下がり、川沿いに敷かれた二本の滑走路が姿を現した。

 岐阜航空研究所・岐阜飛行場。国内でも稀なこの長大な滑走路も、今はこの雄大な景色に、すっかりと溶け込んで見えた。

 

 高度が下がる時の、独特の浮遊感が三人を包む。

 騅藍はわずかに機首を上げて、滑走路に吸い込まれるように降りて行く。接地の瞬間、短い衝撃が座席の下を走った。

 その振動が、飛行の終わりを告げる合図だ。

 プロペラの回転が落ち、騅藍は余韻を引きずるように速度を殺していく。

 ゆったりと舵を切り、停止することなく駐機場へと滑り込んだ。

 機体が停まると同時に、黄色いツナギの整備員たちが駆け寄ってくる。

 車止めが噛まされ、小さなタラップが手際よく据えられた。

 ロックが外されると、ドアが風に押されて開いた。

 冷たい外気が吹き込み、排気の匂いと混ざりあった岐阜の冬が機内に流れ込む。

 顔を出したカリュオンの耳が、ぺたんと倒れた。

 その一瞬、張りつめていた糸がふっと緩む気配があった。

 山の匂いを運ぶ風が駆け抜け、騅藍はようやく静かに息をついた。

 

 タラップを降りていくカリュオンを、管制官の徽章をつけた初老の男が、手を振って出迎えた。

「カリン! よく来たな!」

「大村さん。お久しぶりです」

 駆け寄ったカリュオンは、スカーフを脱いで頭を下げた。

「遠いところ、ご苦労さん」

「ええ。しばらくお世話になります」

 そこへ、坂井と船崎が大きな鞄を抱えて降りてきた。

「うちのパイロットの、坂井と船崎です。こちらは、岐阜飛行場管制部長の大村さんだ」

「坂井です」「船崎です」

「大村だ。二人とも、噂は聞いとるよ」大村は笑顔で二人の肩を叩いた。

「何にも無いとこだが、ゆっくりしてきゃあ」

「恐縮です」二人を代表して、坂井が答えた。

「機体のほうは、整備部に預けとくよ。里帰りのついでに、ピカピカにしちゃる」

「よろしくお願いします」

 カリュオンがふたたび頭を下げた。

 そして坂井たちに向き直り、「私は到着の報告に行ってくる。明日は休日にするが、あんまりはしゃぐなよ」と、言い残して、管理棟へと駆けて行った。

 その向こうでは、トラクターに繋がれた騅藍が、格納庫へと引かれていく。

「奥の駐機場に、練習機が停めてあるがや。せっかくだで、見て行きゃあ」

 大村の肩の向こう、トタン屋根の格納庫の前に、陽を返した黄色い翼が、波のようにゆらめいて見えた。

 立ち並ぶ格納庫へ足を向けたその背中を、荷物を抱えた二人が追いかけていく。

「練習機ったって、“パイン缶(九二練)”でしょう?」と坂井。

「九二練でも並べりゃ壮観だがや。いいから、ついて来やあ」

 

 広々とした駐機場には、真っ黄色に塗られた飛行機が、ずらりと並んでいた。

 その正式名称は、九二式中等練習機。単独飛行ができるようになった「後期訓練生」が乗り組む練習機で、二人も訓練生の頃に乗り込んでいた。

 奥の方では、双発の訓練支援機『雛菊』が整備を受けている様子も見える。

「ほれ。それなりに見栄えするやろ」と大村が胸を張る。

 確かに、練習機でも二十機も並べは、それなりに見えた。

「まるで横須賀ですね」と坂井は頷いた。

「明日には撫子も来る。賑やかになるで」

 その時、隅の方に一機だけ色の違う飛行機がいることに気づいた船崎が声をあげた。

「おい‼︎あれ、俺たちのじゃないか⁉︎」

 船崎の指す先に、教官色に塗られた九二練が陽を受けて佇んでいた。脇腹に描かれた機体番号は「T0217」。訓練生の頃、坂井たちが二年にわたって乗り続けた機体だった。

「なんだお前、まだ現役かよ!」

 荷物を放り出した船崎が駆けて行って、その胴体に抱きつく。

 坂井も早足で歩み寄り、カウリングに手を沿わせた。初めてこの機体を見上げた時の匂いまでが蘇ってくるようだ。色は違っても、触れた瞬間に、その下にある懐かしい骨格は、はっきりと分かる。尾翼には真新しい坂井のパーソナルマーク「白丸に『雷』」が光っていた。

「ニーナ、元気そうだな」

「教官色になる日が来るなんて、お前も出世したなあ。他のやつにどこか壊されてないか?」と、船崎が機体のあちこちを撫でて回る。

 練習機にとって、どこかにぶつける、ひっかけるは日常茶飯事だ。それでも、卒業から五年もの間墜落しなかったのだから、217号は強運の持ち主と言って良いだろう。

「九七式無電を乗せるために、あちこち改造したらしいで」

 サクサクと芝を踏んで、大村が追いついた。

「多少は味が変わっとるかもしれんと、整備長が言っとったわ」

「こいつには丸二年乗ってたんです。多少の違いなんて、気にしませんよ」と坂井。

 そのままするすると機体に登り、操縦席におさまった。背中に伝わる座席の硬さが、五年前と同じ角度で体を受け止める。

 いくつかの計器は、新しいものに替えられていた。それでも、握った操縦桿の重みは、間違いなく自分を育てたそれだ。

 続いて船崎が後席に滑り込み、機体がゆさゆさと揺れる。

「後席よし! 蓄電池通電、宜候!」

 船崎が型通りの声を上げたので、坂井も思わず訓練生の癖で袖を捲る。

 大きく息を吸い込んで、「発動機、始動前手順! 燃料……あれ?」

 指の先で、燃料計の針が底を指していた。

「大村さん! こいつ、ガス欠ですよ!」

 坂井の頓狂な叫びと、大村の笑い声が響く。

「わっははは! 残念やったな。燃料は明後日まで我慢しや!」

 すっかり不貞腐れた坂井が、機体から降りる。

「今日は飛んだばっかなんやし、宿でゆっくりしやあ」

 背中をぽんと叩かれて、坂井は唇を尖らせた。

「せっかくコイツと会えたのに、お預けかぁ」

「しゃあねえ、とにかく温泉に行こうぜ。まずは骨休めだ」と船崎。

「そうやな。しっかり休みゃあ」

 そこへ、幅の太いタイヤを履いた自動車がやってきた。整備班と同じツナギを着た男が降りてきて、大村に書類挟を渡して去っていった。

 書類を確認した大村が「二人とも、車は運転できんね?」

「もちろんですよ」と船崎が先に答えて、運転席のドアを開けた。

 二人は荷物を積み込み、大村に見送られて車を走らせた。

 細い雲がたなびく岐阜の冬空を背負って、自動車は軽快に畦道を駆けていく。

 坂井は上着のポケットに手を入れ、紙の感触を確かめていた。

 折り畳まれたままの、小さなノートの切れ端だ。

 小さな笑みを浮かべた坂井は、ポケットから煙草を取り出し、ライターを擦った。




次回、遺志、匪石之心
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