昭和十九年一月三十日、十三時二十分。蹄桜寮食堂二階、休憩室。
さっと襖が開いて、少し息の上がったリーベが入ってきた。背中には、袋に入れた練習用の薙刀を背負っている。
「遅くなっちゃった、ごめんなさい」
シプロスはちゃぶ台に向かって座っていた。周囲には、裁縫道具を詰め込んだ籐籠と端切れが散乱している。
「やっと来た。アイリ、何してたの?」
「下で先輩が演説をぶってて、すごく混んでたの」
リーベは薙刀を下ろし、息を整えてから座布団に腰を下ろした。伏せてあった湯呑みをひっくり返し、お湯を注ぐ。
「ああ、選挙ね」
シプロスは淡々と答え、手元の布にチャコを引く。
「あらつれない。一応は大イベントなのに」
「なら、面白い話だったの?」
「みんなのために〜ってだけ。具体的に何かって話はなかったわ」
その時、外から拍手が聞こえてきた。何事にも熱心な生徒というのはいるものだ。シプロスはちらりと耳を向けて、小さく息をついた。
「前回と一緒ね。ま、あれこれ変えられて、目が回るよりはいいでしょう」
「あなたはいつもぶれないわね」
「ちゃんと決めてるから、いちいち感化されないの」
答えながら、シプロスが布に鋏を入れる。しゃんという音と共に、布は真っ直ぐに切り落とされた。
「その割にみんな好きよね、こういうの」
「一種の勝負事だから、じゃない?」
その言葉に、リーベの耳がぴっと動く。
「勝負といえば、確かにそうね」
「本気にしないでよ」顔を上げたシプロスは苦笑して「レースとはきっと違うんでしょ、お政治は」
「それで、何作ってるの?」
「これ? ヴィスリユニオン先輩からの頼まれもの」
シプロスは散らばった布をそれらしくまとめてみせた。それはウマ娘ならではの、特徴的な構造をしていた。
「わかった、耳飾りね。フェルトに刺繍のイニシヤル、それにフリル……派手ねえ。誰の?」
「アズールシラー先輩」
聞き慣れない名前に、リーベの尻尾が揺れる。
「アズール……だれ?」
「昭和七年の生徒会長だって」
「七年? とっくに卒業してる人じゃない」
「これは
リーベはにやりとして、飲み頃になった湯呑みに口をつけた。
「それで、"感化"されちゃったわけだ。でもあなた、裁縫同好会に入ってないのに、どうしてこんなもの作ってるの?」
「これ見て」
リーベは、シプロスが差し出した黄ばんだ紙に目を落とした。耳飾りの図面のようだ。
「これがあっても、誰も作れなかったの。それで、直接頼み込まれちゃった」
「さすがシプロス。学園一の腕前は伊達じゃないわね」とリーベ。
「言っとくけど、ヴィスリユニオン先輩の肩を持つわけじゃないから」
「嫌いだもんね、ああいう熱さの人」
「それに勝負服って、すごく嵩張るの。トルソーに掛けないと、すぐシワになるし。これ見て」
シプロスは、手元の古い教本を開いてみせた。そこには勝負服のレース後の扱い、保管方法、修繕についての細かい注釈がびっしりと書かれている。
「結構面倒なのね」
「そう。作ったところで着られるわけでもないし」
「でも、昔はレースの華だったんでしょ?」
「ウマ娘の全力に耐えられる縫い方ができる、専門のテーラーがいたの。なのに、今じゃ耳飾りひとつで大騒ぎ」
「そこまでわかってるなら、もっと手伝ってあげたらいいのに」
「嫌」
食い気味に答えるシプロスに、リーベの頬が緩む。
「だと思った」
リーベが薙刀を袋から出した時、外からわっという歓声が響いた。今度は誰が出てきたのか。
シプロスは我関せずと言わんばかりに、黙々と糸を通している。
それを見たリーベも端切れに油を垂らし、薙刀へとしっかり刷り込みはじめた。
歓声は、まだ続いていた。
*
同日、十九時五十分。
不意のノックに、アスターはメガネをそのまま引き出しに滑り込ませた。ゆっくりとドアが開く。
「こんばんは」
リリウムパイスがそっと顔を覗かせて、アスターは破顔した。
「リリー。珍しいね」
「印度から取り寄せていたお紅茶が届いたの」
リリーは提げていた籐籠を見せた。中には金属の茶缶や魔法瓶が見える。
「ご馳走するわ。一緒にどうかしら」
「嬉しいね。さあ、中へ」
促されたリリーは制服のスカートを翻し、ソファへと掛けた。
籐籠から陶器のポットと魔法瓶を取り出し、缶から丁寧に茶葉を掬う。お湯を注ぎ、抽出を待つ間に、洒落たティーカップが2つと、砂糖を入れた小瓶がテーブルに並んだ。
少しして、リリーがポットから紅茶を注いでいく。室内に柔らかな香りが満ち、ティーカップは静かに飴色へと変わっていった。
「良い香りだ。本当に良いお茶だね」
小さなスプーンで、砂糖をひと掬い。軽く混ぜてからそっと口をつけると、さらに豊かな香りがアスターを包んだ。
ゆったりとした空気が流れると、リリーがふと口を開いた。
「ねえアスター、あなたは覚えているかしら。私たちが初めて一緒に走ったレースのこと」
二人は七〇期入学の同期だ。なのに、同格のレースを走ったのは一度きり。三年前、新潟レース場で行われた
「──よく晴れた、夏の日だった。君は、私よりずっと前を走っていたね。四コーナーを抜けて、初めて君のゼッケンを見たよ」
「けれど私は負けた。同期で私より先にゴールしたのは、後にも先にも、あなただけなのよ」
リリーは闘志の滲む視線を向けた。彼女の戦績は、
「おかげで私はこの席を得た。そこだけは感謝しているよ」
少し誇らしげに、アスターがカップを傾ける。
「言うのが遅いわ」
答えるリリーの声にも刺々しさはない。命懸けといえるほど過酷なレースを共にすれば、それは生涯の絆として二人を結ぶのだ。
「五年なんてあっという間だ。走っていたら終わってしまう」
「そうね。だからもう一度、あなたの本気の走りを見せていただこうと思って」
「君は私に、まだ走れと言うのかい?」
「そのために、生徒会に入られたのでしょう。全てのウマ娘が、走り続けられるように」
「君の言うとおりだ。まったく、わかったよ」
「ありがとう。あとは、あなたの走り方で魅せてくださいな」
リリーは小さな紙片をテーブルに滑らせ、それはアスターの手の中に収まった。
書かれているのは名前のようだ。まったく手の込んだことをする、とアスターは苦笑した。急進派の頭目と副会長が密会というのは、噂になれば厄介だ。とはいえ、リスクを負ってまで渡しに来るということは、彼女らは十分に信頼できるのだろう。アスターは紙片をポケットへと潜らせた。
「必要なら使ってちょうだい。お代はいらないわ」
「ありがとう。君はいつだって、私より先を走りたがるね」
「このリリウムパイスを追い抜くことは、何人にも許されないの。ご存知でしょう」
「私が誰を迎えるつもりなのかも、とっくにお見通しかな?」
「ええ。あの方はイデオロギーこそ私と相反するけれど、その信条はご尊敬申し上げるところよ」
「結構。なら早速、明日にでも彼女と話をしよう」
「杞憂だと思うけれど、上手くおやりなさいね」
「わかってるよ。それに彼女は、私のことを十分に信頼しているはずだ」
「では、私はそろそろ休ませていただくわ」
リリーがすっと立ち上がり、長い白髪が揺れる。
「魔法瓶は、後で取りに来させるから。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ、リリー」
板を踏む足音が遠くなって、アスターは温くなった紅茶を飲み干した。
そっと引き出しを開けて、メガネを掛け直す。
紙片を開く。先頭に書かれていた名前を認めたとき、驚きに目を見開いた。
*
翌日、十九時二十七分。
ロートアスターの部屋には、二組あるべき寝台と机がひと組しか置かれていなかった。空いた空間には、ゆったりとしたソファと、木のテーブルが並んでいる。夜の気配だけが、淡く灯るスタンドライトの傍に満ちていた。
テーブルの上には、湯気を立てる急須と、ふたつの湯呑みが置かれている。アスターは急須を持ち、慎重な手つきで湯を注ぎながら、まだ開かれていない扉の方へと視線を向けた。
やがて、控えめなノックが一度、二度。
「どうぞ」
「ヴィスリユニオン、入ります」
扉が静かに開かれ、大きな白い流星を持つウマ娘が姿を現した。彼女は姿勢正しく一礼し、凛とした足取りで部屋の奥へと進む。
「来たね。そっちのソファへ」
「はっ、失礼いたします」
腰を落ち着けるのを待って、アスターは黙って湯呑みをひとつ差し出す。ヴィスリユニオンはわずかに眉を寄せながらも両手でそれを受け取り、その温もりに指先を馴染ませた。
「さて。今日君を呼んだのは、裁縫同好会の件だ」
「ええと。私、何か粗相を……?」
「徴収簿は受け取った。いつも通りの、素晴らしい仕事だ」
アスターは湯呑みを口に運び、湯をひとくち啜る。
「しかし、どうして徴収した会費が全て連番の配給券なのかは、説明してもらえるかな」
ヴィスリユニオンの手元が、かすかに揺れた。唇がわずかに開くが、すぐに閉じる。その間に、湯の香りが空気に溶ける。
「それは……」
「本来の会費は布代へ、穴埋めは君の財布から。そんなところかな」
アスターは、あっさりと手の内を見せた。
「なぜ、それを」
「私は副会長だ。調べればすぐにわかる」
「つまり、その……没収、でしょうか」
「まさか」と、アスターは首を振って否定した。
「君がしていることは、我らウマ娘文化の保護だ。私も父母からよく聞かされた。ターフを駆ける、煌びやかな衣装に身を包んだウマ娘たちのことを」
ヴィスリユニオンは視線を少し落とし、胸の奥にしまっていたものを引き出すように、静かに語り始める。
「……私は、中山で挙行された最後のレースを、この目で見ました」
「そうか。それで裁縫同好会を隠れ蓑に、勝負服の文化を残そうとしていたんだな」
「ご明察の、通りです」
アスターは湯呑みを机に戻し、穏やかに微笑を浮かべる。
「君の活動に感銘を受けた、と言うには大袈裟すぎるが、来年度の予算編成について、裁縫同好会への予算を増やすことを提言しても良い」
「それはどういった条件で、でしょうか」
アスターはその問いを喜ぶように、ほんの少し口元を緩める
「話が早くて助かるよ、ヴィスリユニオン。条件は、君の生徒会入りだ。ぜひ文化委員長の席について、学園の発展に尽くしてほしい。大手を振って、私は学園の文化を守っている、と公言できるぞ」
学内では、金銭よりも施設の使用権のほうが価値があることがある。委員長は個室を与えられ、個室風呂のある休憩室も優先的に利用できる。
それなのに、ヴィスリユニオンは戸惑っているようだった。
「ありがたいお話です。……しかし、私には後輩たちがおりまして」
「酒匂中尉は優秀な師範だ。任せても差し支えないだろう。それに私は、君なら二つ返事で引き受けると思っていたよ」
ヴィスリユニオンの耳が、左右に揺れた。問いかけに即答せず、湯呑みを口に運ぶ所作の裏に、熟考の色が見える。
「副会長には、何か遠大な計画がおありとのこと。それに納得できるご説明をいただければ、あるいは」
「──なるほど。よろしい」
アスターは机の上に置かれていた小箱を手に取り、中から出来たばかりの眼鏡を取り出した。静かにかけて顔を上げると、曇りのないレンズが灯の下できらりと光った。
「まさか、それは……」
「そう。今の私は、メガネがなければ生活もままならないのだ」
突然の暴露に、ヴィスリユニオンは狼狽えた。
「しかし、そんな話は誰も」
「私が眼鏡をかけていることを知っているのは、マダム・ラピアスだけだ」
「なんと……」
居た堪れなくなって、ヴィスリユニオンは顔を逸らした。はっきりとした視界で、アスターがそれを捉える。
「その様子では、眼鏡の者がどのような待遇を受けているかも、知っているようだな」
「はい。私は練習生とよく話しますので、存じております」
「君は、それをどう思う? 学園の、文化の守り手として」
その問いは、ヴィスリユニオンの行動の本質を突いた。膝に乗せた手に、わずかに力がこもる。
「……文化とは、ただ守り続ければ良いという物ではない、と思っております」
「具体的には?」
「本来の文化は、より多くの者を幸せにするためにあります。誰かを不幸にしている仕組みを、私は文化とは呼べません」
「……結構」
アスターはそう短く返し、ゆっくりと湯呑みに口をつけた。会話の「間」に、信頼の芽がわずかに芽吹く。
「ではお返しに、私の計画を話そう。それは全てのウマ娘が、学園という安全な社会の中で、各々の持つ力を目一杯に発揮できる場を作ることだ」
「各々の力を、目一杯に?」ヴィスリユニオンの目が瞬く。
アスターは「そうだ」と短く答え、拳を握った。
「眼鏡の話は、身体的特徴によって、当人に非がないにもかかわらず排斥されている良い例だ。しかも生徒会はそんな生徒に声をかけ、学園のために働けるぞ、と言って取り込んでいる」
「……初めて、知りました」
「だろうな。取り込まれた当人も、下手に声をあげて立場を奪われるくらいなら、と口をつぐんでいるのだろう」
アスターは、ため息とともに湯呑みを空にした。
「では、副会長は」
「そうだ。私はそれを正したい。そのためには、変えるべきものと、変えてはならないものの分別がつく者が必要なのだ」
「それで、私にお声がけいただいた、と」
「その通り」
ヴィスリユニオンは、じっとアスターを見ていた。数度の瞬きの間も、レンズの向こうから二つの瞳がしっかりと自分を見つめ返している。
裁縫同好会を含めた文系クラブは、正規の生徒自治組織ではない。それに不満の声が多いことはよくわかっている。自分が立ったと分かれば、他のクラブも活気づくだろう。
文系クラブの設立が認められてから十二年。自身の手で冬の時代が終わらせられるのならば、賭ける価値もある。
──そうだ。
最後に先頭であれば良い。あのリリウムパイスにできて、自分にやれないことがあるものか。
黒い耳が、ぴんと天を衝く。
「わかりました。ご協力いたします」
「そうか。ありがとう」と、アスターはやっと温度のある笑みを浮かべ、「けれど、当面は黙っておきたまえ。噂が立てば、早合点したハイペリカムあたりが騒ぎかねん」
「もう二月です。なのに、まだ水面下で動かれるのですか?」
「君が言ったとおり、遠大な計画というものは、なかなか理解を得られないのさ」
アスターは急須に湯を注ぎ、再び二つの湯呑みを満たした。
「しかし、君が居れば勝ち筋は見えたも同然。もちろん、君の声が届く生徒達も、引き入れてくれるのだろう?」
「はい。副会長の慧眼には感服いたしました。内々に声をかけ、仲間を募ります」
「期待しているよ。ヴィスリユニオン」
「はっ。それと……」
ヴィスリユニオンは一拍置いてから、やわらかく微笑んだ。
「せっかくの同級生です。私のこともぜひ、愛称でお呼びください」
アスターは、静かな笑みを返した。
次回、風発