エンジンの出力を上げる方法は、大きく分けて二つある。
小さな力で速く回すか、強い力でゆっくり回すかだ。
ここではわかりやすく、自転車に例えよう。
軽いギヤで回し続ければ、タイヤは速く回る。回転数が増えれば、速度も出る。
これまでの単列九気筒の設計は、まったくこれに則っていた。
だが、回転を上げれば上げるほど、摩擦や発熱は大きくなり、どこかで限界が来る。
では、どうすればよいか。
今度は重いギヤに切り替える。ペダルは重くなるが、一回転ごとの力は大きくなる。これが一般に言う『トルクを上げる』である。力が強ければ回転数を増やす必要がなくなり、安定した速度を保てる。
そして、回転数とトルクは互いに一得一失の関係にある。
高回転域を重視する設計では、低回転域のトルクが犠牲になりやすく、逆も同様である。これをどの程度の水準に調整するのかは、エンジンの設計や、用途によってさまざまだ。
直列やV型のエンジンなら、気筒数を増やすなら軸方向に伸ばすだけで良い。回転数やトルクは、それからじっくりと調整できる。
しかし、シリンダーが放射状に並ぶ星形エンジンでは、そう簡単にいかない。
気筒は必ず奇数でなければならず、各シリンダーの角度は厳密に計算されている。そこに潤滑油などの配管が絡み合っているのだから、星形エンジンにとっては「単純に増やす」ことが最も難しい課題なのである。
しかしながら、単列星形エンジンの改良の余地はわずかだ。過給機の登場によってその出力は六〇〇hpに漕ぎ着けたが、これ以上の性能向上には技術的課題が山積みだ。冷却、強度、振動。どれを取っても余裕は残されていない。
そこで辿り着いた答えが、単列星形エンジンを二段に重ねた、副列星形エンジンである。
それは今までよりも複雑な機構を持つ反面、理論上は二倍近い力が得られる。ギヤやベルトが縦横に絡み合い、配管が迷路のように這い回るそれは、丁寧に選別された部品でなければ実現できない。
小さな誤差が積み重なれば、大きな歪みを生む。今までのような誤差は、このエンジンには許されないのだ。
もしも、何かが一つでも狂えば──それは、機体そのものまでも破壊してしまうだろう。
昭和十九年二月二日、十二時三十分。岐阜航空研究所製品検査場・第二組立所。
「こりゃまた、ずいぶんデカいんだな」
坂井は、整備台に吊られたエンジンを前に口笛を鳴らした。
銘板には、試製
まだ基本的な部品しか付いていないそれは、これまでのエンジンとはまったく見た目が違っていた。とても厚みがあるのだ。横から見れば、わずかに角度をずらされたシリンダーヘッドの配置がよくわかった。
「鳴物入りの新型だぜ。航発も、アメリカに負けないように必死なのさ」
船崎はまっさらな発動機履歴簿を手に、各所につけられた銘板を写し取っていく。この履歴簿には、整備のあらゆる履歴が記録される。そしてそれは、後席搭乗員が管理するのが慣例だ。
「あと二ヶ月早ければ、宇都宮で試せたのにな」と坂井がぼやく。
その歯痒そうな様子に、整備台の下に頭を突っ込んだ船崎が「あちこち調整しなきゃなんねえんだ。間に合っても、結局は持ってくる羽目になっただろうよ」と冷や水を浴びせた。
「それで前の……〇一型だっけ。あれとは何が変わったんだ?」
「潤滑油系の調整と、タペット周りだな。最初のは、ずいぶん酷かったから」
返事をしながら、船崎の鉛筆が走る。一通り書き上げて、丁寧に閉じた。
「じゃ、さっそくバラすぞ」
「届いたばっかだろ? 弄っていいのかよ」と坂井。
「俺様は国選一級整備士なんだぞ──なんつってな。大丈夫、整備班が後から来る」
船崎は小さなタンスのような工具箱から、次々と引き出しを繰り出していく。中には、よく磨かれた工具たちが丁寧に並んでいた。
「まずは過給機を取り外す。連中が来たら、シリンダーもバラすぞ」
せっかく貰った半ドンなのに、エンジンのことになると歯止めが効かない奴だ。そう思いながら、坂井もオイルに光るタペットをじっくりと眺める。
「で。どんだけ出るんだよ、コイツは?」
坂井の問いに、船崎はわずかに躊躇って「……今んとこ、カタログ値で六〇〇hpだ」
坂井はきょとんとして「それじゃ、
「冷めること言うな。これは試作品なんだからよ」
坂井の言い草に、船崎は河豚のように膨れた。
「まだまだこれからよ。見てろ、俺の手で八〇〇を出してやるからな」
エンジンに覆い被さってボルトを緩める背中を見ながら、坂井は煙草を取り出した。そして壁に掛けられた火気厳禁の札を恨めしそうに睨みつけ、代わりにべっこう飴を口へと放り込んだ。
「んで、そんなに簡単に出来るもんなのか?」
「この俺に任せとけって。何年整備士やってると思ってんだ」
答えながら、船崎が金属部品の付いた太いゴム管に手を伸ばす。
「おっとエアが無え。坂井、
「あいよ」
坂井が壁のブレーカーを上げると、モートルが唸り出した。すぐにぷすぷすと音がして、圧力計の針が首をもたげていく。
「よーしやるぞぉ。まずは過給機減速比の確認だ。さあギヤちゃん出ておいでぇ」
鼻歌まじりに分解を進める船崎を放って、坂井は開け放たれた大扉から外へ出た。
二月になって、空が少しずつ青さを取り戻してくる。
ここ岐阜では、春の気配をしっかりと感じられるようになってきた。府中はきっと、まだ肌寒いのだろう。
坂井はよく日の当たる芝生に座って、ポケットから手帳と折り畳んだ画用紙を取り出した。そこに挟まっているのは、シプロスが描いてくれた新しいパーソナルマークの草案。丸の中に梨の花が描かれている、シンプルだがよく映えるデザインだ。
梨の花は、単純な白だから十分な視認性がある。しかし坂井は、地となる色を決められないでいた。航空機は試作機なら橙、任務機なら緑に塗られ、パーソナルマークは大抵の場合、胴体後方か尾翼に描かれる。その中でも潰れない色にしなければ──と、顔を上げた坂井の視界が青に染まる。
そうだ、この青い空のような、深い青を地にしよう。白い線で縁を切れば、尾翼に描いてもよく似合う。
坂井はさっそく、画用紙に鉛筆を走らせた。色を塗って手紙に入れたら、喜んでくれるだろうか。
懸命に絵を描くその頭上を、飛行機の轟音がひとつ、東へと消えていった。
*
同日十三時。府中ウマ娘修練学園高等女学校・第二生徒会室。
広い室内に、長机がいくつか置かれている。上座にはアザーレアが座り、部屋の隅にはピルソスが控えていた。
「貴方が引き受けてくれて、本当によかったわ」
アザーレアはゆったりと湯呑みを口に運んだ。
「議員のご推薦ということであれば、是非もありません」
ペールスターチスは教室の中央の質素な椅子にかけたまま、熱のこもらない調子で答えた。
その左胸で、若緑色の優駿章が日差しに光っている。平時は着用義務のないそれを、彼女はいつも欠かさず身に着けていた。
磨き抜かれた徽章には、曇りも傷もない。ただ、その輝きとは裏腹に、彼女の眼差しはひどく静かだった。
「私と生徒会が全力で支援させていただきますから、ご安心なさって」
アザーレアは、完璧な笑顔を向けた。会長室に据えられた椅子でなくとも、足を組み背もたれに身体を預けるその威圧感は、衰えることを知らないようだ。
「学園は、これからもあり続けなければならないの。わかるわね?」
アザーレアの言に、スターチスは小さく「微力を尽くします」とだけ答えた。小さな身じろぎに、裾についていた砂の欠片が、さらりと床に落ちた。
「あまり深くお考えにならなくていいのよ。ペール」
アザーレアが手を挙げると、控えていたピルソスが歩み出て、一枚の紙をスターチスへ手渡した。細い腕が、そっとそれに手を伸ばす。
「あなたは選ばれたのだから、もっと胸をお張りなさい」
ピルソスの背中越しに、アザーレアが檄を飛ばす。
受け取ったペールスターチスは、そっと紙へ目を落とした。
「それは演説の原稿。不手際の無いように、こちらで整えておきました。議員の承認もいただいているわ。一言一句暗記して、お勤めを果たしなさい」
湯呑みを置く音が部屋に響く。
打ち合わせというにはあまりにも一方的な会話は、こうして終わった。
「では、失礼いたします」
スターチスは耳を伏せたまま、一礼して部屋を後にした。
空になった湯呑みを認めて、ピルソスが魔法瓶を手に、急須へと湯を注ぎはじめる。
足音が遠のいたことを確かめたアザーレアは肘をつき、ゆっくりと息をついた。
「──結局、止められないのね」
小さな呟きに、ピルソスの手が止まる。
「何か、おっしゃいましたか」
「いいえ」
アザーレアは、両手を硬く握り締めた。
「後は良いわ、お疲れ様」
「失礼いたします」
丁寧に急須を揃えて、ピルソスはすぐに出て行った。
足音が消えるのを待って、アザーレアは、ため息とともに天井を仰ぐ。
「よかったわねアスター。──あなたの代わりは、ちゃんと見つかったのよ」
*
──その頃、管理棟・貴賓室。
「お久しぶりね、ロートアスター副会長」
ユラナスは、普段よりずっと温和な声でアスターを迎えた。昨年のような、凍りついた空気も感じられない。今日は前回のような、試される場ではなさそうだ──。そう理解したアスターは、しっかりと床を踏み締めた。
「推薦の件は残念だったわ。私の一存じゃないことは、わかっていただけると思うけど」
アスターは静かに頭を下げた。ユラナスはそれを横目にゆったりと煙草を燻らせ、紫煙が立ち上る。
「それでも、立候補なさるのね」
「はい」
アスターはただ、力強く答えた。
「そう。なら、アザーレアにはご自分で伝えなさい」
ユラナスの返答には、なぜか興がる様子があった。まるで、あと千六百メートル先にゴールがあるような、そんな空気が、部屋に満ちている。
「そうだ」と、ユラナスが顔を上げたので、アスターは身構えた。
「いい機会だから、色々と教えて差し上げるわ。そこにお座りなさい」
肩の力をわずかに緩め、アスターは言われるがままにソファへと掛けた。ユラナスは新しい煙草を出し、銀色に燦くライターを擦った。重く、甘い香りが空間を支配していく。
「──あれは今から21年前。レッドガーベラを選出した時よ。あの時はまだ、選挙が生きていた。けれど里桜会長が、真新しい投票箱を前にこう言った。『私たち卒業生が優秀と認めた生徒を、会長に据えましょう』と。思えばあれが、全ての間違いの始まり」
「まさか。監査記録にはそんなこと一言も……」
続きを遮ったユラナスは、ゆっくりと首を振った。
「開票は行われたわ。厳粛に、厳正にね。けれど数字は、初めからそこにあったの」
「しかし、開票作業には生徒が立ち会うはずです」
「おっしゃる通りよ。副会長」
諦めを含んだ調子で、ユラナスは続ける。
「でも、あの人はそれも利用したの。人は儀式の前では、権威を疑わない。それは、あなたが私への態度を崩さないことが証明しているわ」
この二十年の選挙は、全て操作されていた──。あまりにも信じられない話に、アスターは吐き気を覚えて顔を押さえた。
「……ずっと、欺いていたのですか」
「残念だけれど、騙されたのよ。あなたも、アザーレアも」
ユラナスは細く煙を吹いた。差し込む日を透かして、煙が空中に波を描く。
「そしておそらく、在学中にこれを知った生徒はいない。あなたを除いてね」
「……なら、私たち生徒会は何のためにいるのですか。信じてくださったのでは、ないのですか」
頭を抱えるアスターを視界の隅に捉えて、ユラナスの口角がゆっくりと上がった。
「信じる? あなたたちを? ふふ、冗談はよしてちょうだい」
ユラナスは嘲笑を隠そうともせずに続ける。
「私が卒業してから、三〇年もあったのよ。それなのにあなた方は、何も変えられなかった。だからもう、期待しないことにしたの。あなた方の政治は、私のような立場ある大人が守ってやるからこそ成立する。よろしい?」
アスターは耳を震わせた。
悔しさからきつく拳を握りしめ、「誰かができなかったから全員ができないと、どうして決めつけることができましょうか」
それを聞いて、ユラナスは初めてアスターの方へ顔を向けた。その顔には、わずかな驚きの色が浮かんでいる。
「ずいぶんと、力強い目をするようになったのね。あなた」
「議員の、お教えのおかげです」
「あら。何と言ったかしら」
「支持とは妥協と諦めが生むもの。そして強固な地盤とは、迎合と無関心。議員はかつて、そうおっしゃいました」
ユラナスが頷くのを待って、アスターは続ける。
「だから私は、無関心を辞めました。血を通わせるように誠実に問いかけ、答え、以て仲間を募りました」
ユラナスはゆっくりと顔を上げ、アスターの方を向いた。
「仲間とはいい言葉ね。それで、良いお仲間は見つけられたの?」
「幾人かの友を得ました。よって私は、もはや引けません」
「熱いわね、ロートアスター副会長。いずれその熱が、身を焼くことになるのよ」
その冷たい返答にも、アスターは怯まなかった。
「具体的に、どのように、でしょうか」アスターは言葉を選び、ゆっくりと問いかけた。
対するユラナスは、落ち着いて煙草を吹かしている。片手間に指先で猫をじゃらすような、そんな気配すら漂わせていた。
「誰だって、自分の手の届く人間しか守れない。そして、人は自分が思うよりも、ずっと残酷になれる。この二つに何時気づくか、そこが分水嶺よ」
「だから抗うな、とおっしゃるのですか?」
「それはあなたの力量次第。自らの手で風を起こせると思うなら、どうぞお走りなさい」
「個人的な応援を頂いたと受け取りますが、議員は私をどうなさりたいのでしょう。どうにも掴みかねます」
「私はもう、生徒という集団の自浄作用には期待していない。けれどそれは、個人に抱く感情とイコールではない、といったところかしら」
「正直に申し上げて、まだ議員のお考えを理解しきれておりません。ですから──」
ユラナスの耳が跳ねる。それよりも早く、アスターが口を開いた。
「後日改めて、お時間をいただけませんでしょうか。考えをまとめて……いえ、議員ときちんと議論をするだけの材料を、用意いたします」
ユラナスの目に、興味の色がたゆたう。たっぷり一分の間、その双眸がアスターを貫いた。
「……いいでしょう。五日与えます。ただし、少しでも意味のない話だと判断した時点で、会見はお終い。いいわね?」
「承知いたしました」
答えながらさっと立ち上がり、深く礼をする。今日の話はこれで終わり。次を与えられたのならば、安穏にはしていられない。
「ではお下がりなさい。アザーレアにも、よろしくね」
アスターは静かにドアを閉め、部屋を後にした。
*
冷え切った廊下で吐いた息が、白い煙となって消えていく。
「……五日、か」
ふと顔を上げた先に、欄間額が掲げられている。
それは二十六代生徒会長、エレガンスダリアが卒業に際して残した書だ。
伸びやかに描かれた「百花繚乱」の文字。それはただの空想か、それとも未来への希望か。
──ここはまず、"あの方"に話を聞こう。
歩き出したアスターの蹄音に、迷いはなかった。
立候補期限まで、あと九日。
次回、【資料編】生徒会長一覧