蹄音、高く   作:上條つかさ

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境界

 昭和十九年二月二日、十四時八分。学園図書館。

 三階の司書室へ続く廊下は、知の番人の住処に相応しい洞窟のような静寂に包まれていた。

 赤い木材の内装が、その静けさをさらに深くしている。

 会見の後、真っ直ぐに司書室を訪ねたアスターは、事の次第を司書マダム・アルセに伝え、資料の提供を要請したのであった。

「……誰から聞いた」

 アルセの流し目がアスターを捉える。机に向かうその姿に、普段の冷静な司書の影はなかった。きゅっと絞られた耳からは、怒りよりも先に警戒の色が滲んでいた。

「ユラナス議員から、直接伺いました」

 名を挙げると、アルセの目が宙を滑った。

「やはり、生徒会長選挙の票は操作されていたのですね」

 アルセは机に肘をつき、眉間を押さえてじっと考え込んだ。石炭ストーブの上に置かれたヤカンが、細い湯気を立ち上らせている。

 そしてしばらくの沈黙の後、そっと口を開いた。

「浅学の私には議員の意図は計りかねる。が、事が起こったのは私が入学するよりも前だ。公式なものは、何も残っていない」

 アスターは落胆した。マダムほどの人物でも、この件は触れるには恐ろしいものらしい。

 これでは下手に出ても仕方ないと、アスターは目に力を込めた。

「これほどの件、司書たるマダムがご存知ないはずがない、と推察いたします」

 アルセは椅子を回し、アスターへ向き直って足を組んだ。

「ではひとつ、事実を話そう。私がそれを知らされたのは、学園に赴任した初日の、歓迎会の最中だった」

「……知らされた?」

「同席した先輩にな。もちろん名は伏せる。まったく、どこまで業が深いのやら」

「本当に、資料は無いのですか」

「公式記録は、生徒会の記録簿にもある通りだ」

「では非公式な……たとえば、集計記録などは残っていないのですか」アスターは食い下がった。

「あったとしても、君には必要ないだろう」

「マダムは司書です。司書とは、記録を守る職ではなく、読ませる職ではありませんか」

 その言葉に、アルセの口が歪む。

「記録、か。そういうものは大抵、見方を知る者以外には価値のないものに映るよう造られている。見ただけでは理解できないだろうし、雑多すぎて証拠にはなるまい」

「まずはこの目で確かめます。どうか、場所を教えてください」

「だめだ」

「なぜですか」

「世間には、禁書と呼ばれる本がある。そういった物に触れてしまう危険は、冒せない」

 その言葉に、アスターの耳がぴくりと動いた。禁書──生徒から遠ざけられる本。

 つまり資料は、禁書と共にあるのか。いや、何かを忘れている気がする──アスターは軽く唇を舐め、口を開いた。

「私は五日後に、再びユラナス議員と会見します。その時に空手では、議員に勝てません。私はただ、事実を確かめたいだけなのです」

 アスターは論点をずらし、わざと会話を引き延ばした。言葉尻から察するに、資料はある。場所は禁書が保管されているところだ。それはどこだったか。

 焦りを顔に出さないように気をつけながら、記憶を辿っていく。

 対するアルセは、なんとかアスターを丸め込もうと苦心している様子だ。よく梳かれた尻尾が、苛立たしげに空を切る。

「覚悟は認めるが、君は事実という言葉を軽々に使いすぎるきらいがあるようだ。事実は事実であって、正義ではない。結局はただ在るように在るそれを、どう使うかだ」

「この話を聞かせていただくにあたって、議員は『良い機会だ』と仰いました。私に資料を読ませることに、何らかの意味があるとお考えなのでしょう」

「そして鍵を開けた私は厄介な役回りを押し付けられ、立場そのものが危うくなる。まったく綺麗な筋書きだ。残念だが、君の栄達の生贄になるのは御免蒙るよ」

「そんなつもりはありません」

「君が思わなくても、民意がそうするだろう。理想とは、常に贄を必要とする。そんな蒙昧では、お姉様方には勝てんよ」

「記録を封じることが、司書の仕事ですか? それとも、私がこの事を口外するとでも思っておられるのですか」

 答えながら、アスターは思い出した。禁書を収めるに相応しく、生徒が立ち入らない施錠された場所——地下書庫だ。資料が収蔵されている場所は、ここしかない。

「あるいは、そうだな」アルセは、アスターの結論に気づいていない様子で続ける。

「この話が外へ出れば、学園の根幹が揺らぐ。生徒会の関係者、ひいては議員のお立場すら危険になるだろう」

「そこまで仰るということは、やはり資料があるのですね──地下書庫に」

 アルセの耳が跳ねる。その動きで、アスターは自分の推理の正しさを確信した。

「……私は一言も」

「地下書庫に収蔵される禁書の目録は、生徒会に知らされる。お忘れですか」

 アルセは背もたれに体を預け、息を吐いた。

「どうやら、君の力量を見誤っていたようだ」

「では、やはり書庫に」

 連れて行ってくれという前に、アルセが手を挙げた。

「これは提案だが、資料は見せよう。ただし、複写で手打ちにしないか。君が知りたい事実には、それで事足りると思うのだが」

「持ち出しを、許していただけるなら」

「……いいだろう」

 

 体を起こしたアルセが足を組み替えた時、司書室の戸がゆっくりと開いた。

「失礼いたします」

 入ってきたのは、まるで朧のようなウマ娘だった。薄い薄い灰色の瞳が、滲むようにアスターを捉える。

 その視界の隅で、アルセが椅子からわずかに腰を浮かせた──ように見えた。

「や、やあ。ちょうどよかった」

 アルセは壁に設られた棚から古びた大きな鍵を抜き取り、白衣のポケットへと滑り込ませた。

「少しの間、図書室を頼む。アスターも、ここで待っていてくれ」

「はい」

 簡潔に答えるアスターの視線が、鍵の入ったポケットを撫でる。白衣を翻して引き戸を開けるアルセの手が止まり、ほんの一瞬だけ振り返った。

 そして何かを確かめるように、室内に視線を走らせ、灰色の瞳を捉えた。

「自由にして良いが……あまり、散らかさないでくれよ」

 そう呟いて、廊下へと消えていった。

 

 残されたウマ娘は、アスターへ向いて軽い会釈をした。焦点の合っていない二つの瞳が、じっとこちらを見ている。

 自然と、アスターも向かい合うように身体を向けた。血の気のない頬に、月の光で染めたような髪がとろりと流れている。

「私は生徒会副会長の、ロートアスターだ」

 すっかり慣れた、役職つきの自己紹介。なのに口にした瞬間、辺りの空気が急に薄くなったような気がする。アスターは喉を鳴らし、胸の詰まりを吐き出すように口を開いた。

「ええと、君の名前は……」

 アスターは問おうとしたが、なぜか言葉が出てこない。

 私は、この生徒を知らない。

 いや、知っているはずだ。

 名前だけが思い出せない。

 視線が、思わず彼女の左袖へ落ちる。

 あるはずの袖章がない。

 制服の型が、今と違う気がする。

 ──思い出せない。

 絞り出そうとしても、声が出ない。

 咄嗟に顔を押さえた、手の感触すら曖昧に感じる。

 今は何時だ。

 彼女がここへ来てから、何分経った。

 一分か、十分か、一時間か。

 ひどく頭が重い。座りたい。

 椅子はどこだ。彼女はずっとそこに立っていたか? 

 袖章が無いのは校則違反だ。

 視界が歪んでいく。

 暗闇が迫る。

 板張りの床が遠くなる。

 空気の感触が、ぷつりと途切れた。

 

 ──火の手が上がる音がする。

 重なる万歳の声。生徒手帳を出しなさい。

 サイレンの音。

 凍えるような吹雪。飛行機の爆音。

 ここに君の居場所はない。

 高く跳べ。灼けるような痛み。私の名は、芝が薫る。

 突き上げた白い左腕が、太陽を掴む。

 頬を伝う血の生ぬるさ。砂を蹴る蹄音(あしおと)

 私の名は、大空の底。

 編んだばかりの草履の手触り。震える指先。

 ノートに滲んだ文字の羅列。記された忘却。

 瓦礫の街に降る焦げた雨。動かない影。

 砂浜で朽ちた灰色の船。

 風に揺れる長い髪。

 私を見上げる星屑たち。

 砂煙の向こう側で影が揺れる。

 肌を焼く夏の日差し。

 私の名は、夢の欠片が消えていく。

 土に突き立てられた銃。

 顔についた泥。

 伸びる無数の腕。

 ありがとう。

 落ちてゆく歓声。

 木霊する落涙。

 私の名は、

 埋もれろ。

 私はどこだ、

 連れ出して。

 どこだ! 

 忘れて。

 私の名は──、

 

「アスター」

 呼びかけられて、はっと目を開く。目の前に、白いブラウスを着たアルセが立っていた。

 見渡すと、司書室は午後の日を受けて明るく光っている。石炭ストーブの陽炎が、窓の外の枝を揺らしていた。

「楽にしていて良いと言ったのに。まったく、真面目だな」

 アルセは笑い飛ばし、金色に光る真鍮の鍵を、そっと棚へと戻した。

 左手に視線を落とす。

 握る。開く。

 確かに自分の手だ。けれど、なぜか自分のものでないような気がする。

 白昼夢──そう言い切るには、妙に重い感触が残っていた。

「ええと、少しぼーっとしていただけです」

 何が起きたのかわからなくて、結局曖昧に答えた。アルセは伏せてあったマグカップを取り、「君も疲れているのだな。珈琲でも飲んで、目を覚ましたまえ」と、粉末珈琲の瓶を開けた。

「それと……今、ここに誰かいませんでしたか?」

 その問いに、アルセの手が止まる。わずかな沈黙を、珈琲の香りが上書きしていく。

「……階段では、誰とも会わなかったぞ。それに、空けていたのは十分ほどのはずだが」

 その答えに、アスターは壁に架けられた時計に目を向けた。確かに、あれから何分も経っていない。

「さ、飲みなさい」

 差し出されたマグカップを、アスターは素直に受け取った。一口啜ると、強い苦味が舌を駆け巡る。それが間違いなく自分の感覚だと確かめるように口の中を転がして、飲み込んだ。

 

「そして本題だが」言いながら、アルセが椅子に腰を下ろす。大きな背もたれが軋んで、ぎいっと音を立てた。

「これが、君の探していた物だ」

 アルセは折り畳まれた藁半紙を差し出した。開くと、鉛筆でぎっしりと文字が書かれている。

 選挙の行われた日付、選挙管理委員の名前、さらに生徒会側の委員たちの名前。そして立候補者の得票数に、アスターの目は釘付けになった。

 フランギパニー  得票二六八

 ポンシーノヴァ  得票三九九

 リリウムフラーヴ 得票二七一

 ヒゴロモソウ   得票四〇一

 それはアスターが知っている『圧倒的多数の支持によって選ばれた生徒会長たち』という記録とは真逆の数字。生徒数から逆算しても、二倍以上の数字が水増しされている。

 一番下に、アザーレアの名を見つけた。

 選挙日、昭和十六年二月十八日。選挙委員長、ノウゼンハレン。得票三五二。

 その意味を理解した時、アスターは足元が崩れるような感覚に襲われた。今まで尻尾の先ほども疑っていなかった生徒会という世界が、虚構の存在であると証明されてしまった。

「それが真実だ」アルセはそっと珈琲を啜り、息をついた。

 あまりにも露骨な不正に、アスターはすっかり言葉を失っていた。

「できれば、今すぐ燃やしてしまいたいところだが……君を信じて、持ち帰ることを許そう」

 アスターはしばらく藁半紙を凝視していた。そして数度の瞬きの後、それをぐしゃりと握りつぶした。

 その後に、アルセの耳が驚きに跳ねる。

「これは、焼いてしまいましょう」

 アスターは、握りつぶしたそれを、さらに固く絞った。

「いい……のか? それは君が、あれほど欲しがっていたものじゃないか」

 アスターがゆっくりとアルセの方を向く。その瞳はまるで、ずっとずっと遠くの物を見ているようだった。

「全て覚えました。今ここで燃やしてしまえば、マダムに類は及ばないでしょう。それが、最も安全な方策です」

 あの内容をこの一瞬で覚えた──アルセはわずかに訝しんだ。しかし自信たっぷりに応えるその様子に、上位の生徒ならそんなこともあるだろう、と深く追求しなかった。

「さすがは学年主席だな。結構」

 アルセは腰を上げ、握られた藁半紙を抜き取った。そして躊躇いもなく、赤く燃えるストーブの中へ投げ込む。

 藁半紙は一瞬で灰になり、何もなかったような炎だけが残った。

 

 その様子を見つめるアルセの耳から、ふっと力が抜ける。その顔には、安堵の色が浮かんでいた。

「さて。これからどうする?」

 問われたアスターは、カップの中の漆黒をじっと見つめていた。

「今回のことで考えを改めた。今後私は、君の才覚を高く評価していこうと思う。立場上、公にはしにくいが、内々には支持を確約しよう。しかし知っての通り、図書委員会は独立独歩の生徒が多い。人数面での支援とまではいかないがね」

 自身の安全が保証されたからか、アルセは饒舌だった。繰り出される言葉が、アスターの思考にノイズのように響く。

「おそらく、君はもうラピアス先輩あたりの支持を取り付けているのだろう。そうでなければ、私を説得することは難しいと踏まない訳がないからな。次は寮長たちか? それとも、どれかの委員か」

 しばらくの沈黙のあと、アスターは決然と顔を上げた。

「マダムのご好意には感謝申し上げます。ですが手の内云々は、これからは自然とお耳に入ることでしょう」

 アルセは数度頷き、「結構。楽しみにしているとしよう」

「では、失礼いたします。お力添え、ありがとうございました」

 

 カラカラと戸が閉まる。規則正しい足音が廊下に消えたことを確かめて、アルセが虚空へと口を開いた。

「──それで、何を見せた?」

 いつのまにか、アルセの背後には、月で染めたような髪のウマ娘が立っていた。焦点の合っていない、薄い薄い灰色の瞳が揺らめく。

「選ばれなかった、彼女の魂の行先。炎の海に沈む鉄杭。磨かれなかった宝石。そして"死"」

 細い絹糸のような声が司書室にこだまする。それは空気全体が震えているような、不思議な音色のようにも聞こえた。

「それと。何か、彼女に細工をしただろう」アルセは振り返りもせずに続ける。

「あれだけの資料を、しかも一目見ただけで覚えるだなんて、常人には不可能だ」

 アルセの問いに、薄い灰色の瞳が空を撫でる。

「無限の空の中に、掴むべき星が瞬く。三つの祈りが道を定めるとき、無数の蝶が放たれる」

 アルセはカップを傾け、すっかりぬるくなった珈琲を流し込む。粘り気のある苦味が、舌に絡みついた。

「三女神の威光益々だな。また守られてしまうとは。そして、私のある限り、君もここにいられる。そうだろう」

 ちらりと視線をずらすアルセの視界の隅で、月の光で染めたような髪が揺れる。

「私はまた"外"に行く。次に収束する時は、ここにいてね」

 不意に、小さな砂時計が宙を舞う。封じられた青い砂は、まるで自分から光を放っているように煌めいていた。

「ああ」

 それを手の中に収めたアルセが、さっと立ち上がる。

「わかっているよ──アディ」

 振り返ったアルセの視線が捉えるより早く、空白だけが残されていた。

 ただ、ストーブの陽炎だけが、ゆらゆらと立ち上っていた。




次回、『幸せ』の選択
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