昭和十九年二月二日、十五時四十六分。生活区蹄桜寮前、芝生広場。
図書館を後にしたアスターは、足早に寮へと戻ってきた。
三女神を祀るマダムの最後の一人、寮母マダム・タルナの話を聞くためだ。
広場は立てられた太い棒にいくつもの竿が渡され、真っ白に洗われたシーツが干されていた。
はためく白い波をかき分けて行くと話し声が聞こえて、アスターは足を止めた。
「そう、寿卒業」
「はい。急ですが、三月限りで満期卒業いたします」
聞き覚えのある声に、アスターは息を潜めた。シーツの波の中で、カルミアの影がそっと頭を下げる。
「マダムには、大変お世話になりました」
「「お家の事だもの、仕方がないわ」
タルナはその柔らかな目元に微かな影を浮かべ、頷いた。
「お相手はどんな方なのかしら」
「地元で紡績業を営んでいらっしゃる方のご子息です。なんでも、大阪の帝大を出たとか」
「ふふっ。それは素敵ね」
タルナから小さな笑い声が漏れる。祝福のはずのそれは、どこか乾いた響きを持っていた。
「たしか、あなたのご実家も商売をやっていたと思ったけれど、ご兄弟は……」
「兄が二人おります。下の兄が、先方の新しい工場にぜひ来てほしいと、お声がけもいただきました」
「それはご実家も勢いがつくでしょう。結構なことだわ」
——風が通り、シーツがわずかに捲れた。声が一瞬、近くなる。
「それで、OG会はどちらに?」
「師範代ピースフルエコー先輩にご推薦をいただいて、照星会に列席を許されました。諸先輩方のお力添えを得て、まさに順風満帆でございます」
「そう。とても良いお話で、安心しました」
タルナは耳を立て、背筋を伸ばしてカルミアに向き直った。
「よくお聞きなさい。外では学園とは違うしきたりがあります。戸惑うこともあるでしょう。けれど、それもまた経験よ」
そっと差し伸べられた手が、カルミアの頬を撫でる。
「そして寿卒業は、ご実家の名だけでなく、学園の名を背負って嫁ぐことでもあります。学園はこれからもあなたを守り、時に縛るでしょう。しかしそれも、あなたの平穏な日々を守らんがため、日々心を砕いてくださる先輩方の努力の賜物です。先輩方のご期待に添えるよう、日々、気を引き締めてお過ごしなさい」
「お心遣い痛み入ります。マダム」
「あとは、あなたのその芯の強さがあれば大丈夫。幸せにおなりなさい」
「はい。それでは、他の先生方にもご挨拶がありますので──失礼いたします」
カルミアが振り返った時、シーツの隙間に袖章が舞った。
その数字は、七一。
アスターの一つ下、今年十八になる歳だ。
高女は良き妻良き母を育てる。
それは建前として整っているし、アスターも理解はしている。
少なくとも、ここに居る限りは、誰もがそれなりの場所に収まるようにできている。その点に絞れば、学園は日本一と評されることにも合点がいく。
──だが、あまりにも引っかかりがない。
すべてが滞りなく運び、誰も疑問を挟まない。疑う隙すら与えない。
五年にわたる勉学も、席次も、レースの結果すら、この瞬間に回収されていく。
それはまるで、最初から決められていたかのように──幸福の形をしてやってくる。
足音が去るのを待って、アスターは辺りに誰もいないことを確かめてから、わざと靴底を滑らせた。
ざり、という音に合わせて、タルナの耳がぴたりとこちらを捉える。
「あら、アスター。おかえりなさい」
「ただいま帰りました」
アスターはつとめて明るく振る舞い、まさに今仕事を終えて戻ってきた風を装った。
「まあ、すぐに戻らなければなりませんが」
「毎日毎日、学園のために偉いわ」
タルナは乾いたシーツの一つを手繰り寄せ、ふわりと畳んで籠に入れた。
「この時期は大変でしょう。あの子のように寿卒業する子。お仕事に就く子。そして、あなたのように高みを目指す子。まったく、春は選択の季節ね」
「私は、その全てが尊重されるべき選択だと思います」と、アスターは素直に答えた。自分以外の人生をどうこうする権利は、まだない。
「あなたの言う通り。私はただ、みんなに幸せになってほしいの。そのための選択が、私から見ても正しいと思えたら、ただ笑顔で送り出す。それが寮母の仕事よ」
「いつも私たちのために、ありがとうございます」
「大人になったわね、アスター」
その声に混じった寂しげな響きに、アスターの耳が揺れる。
「なぜです?」
「今の話、聞こえていたのでしょう」
「少し、ですが」
タルナはアスターへと向くと、小さく息をついた。
「この世界は、女が一人で生きていくには難しいわ。あの子のように型に収まって、生まれた土地に縛られることもまた正しい選択。あれはあれで、一つの幸せの形なのよ」
その言い聞かせるような口調に、まるで心に棘を刺されたような気持ちになった。耳を絞らないように意識して、言葉を選ぶ。
「まるで、私がこの世界に疑問を持っているとでも言うように聞こえますが」
「でも、違うとは言い切れないでしょう?」
悪戯っぽい笑顔に、アスターは一歩引いて言葉を収めた。
「マダムには、隠し事はできませんね」
「ただの当てずっぽうではないのよ。今朝のお言葉は、紅の追憶が、運命を自らの手で掴み取った──。アスター、あなた最近、何かあったかしら」
「……いえ、何も。変わらずお守りいただいております」
「そう。なら、安心していいのね?」
「はい。私は変わらず、私のままです」
タルナはその答えを噛み締めるように数度頷いた。
「そうね。自分が自分であると証明することは、この世界で一番難しいことだわ。その点あなたは何事にも筋を通す。大したものよ」
次のシーツに手を伸ばすタルナの背中へ、アスターはそっと問いかけた。
「ところで、三女神のお告げというものは、どのように聞こえるものなのでしょうか」
「ううん。ウマ娘による、としか言えないわね」
タルナは腕を組み、顎に手を当てた。
「私はぼーっとしている時に見聞きすることが多いし、先代は夢に出てお話をしてくださると言っていたわ」
「そういうものですか」
釈然としない様子のアスターに、タルナは不安そうに問いかけた。
「あなた、何か悩みがあるの?」
「選挙のことです」と、アスターは簡潔に答えた。
「副会長として、ここは立候補するのが筋と思います。ですが、私に何ができるのかと悩むこともあって」
「あなたらしいお悩みね、アスター。でも、立場が人を作るというのは、往々にして起こることです。それに、三女神様が立場に相応しく成れるとお認めになれば、必ず良い風を吹かせてくださいます」
タルナのいう通りなら、学園の未来までもが三女神の手の内ということか。選挙とは、なんとくだらないものだろうか。
アスターは苦笑を浮かべた。
「民主主義を神頼みと並べるのは、少々滑稽に見えますね」
「いいえ。今の選挙は、神頼みですらないわ」
突然の硬い声に、アスターの尻尾が跳ねる。
「そう」
それだけで、タルナは全てを察した様子で息をついた。
「あなたも知ってしまったのね。残念だけれど手伝えないわ。私には亭主だけでなく、あなたたちがいるのですから」
「……では一つだけ。どこまでご存知なのでしょうか」
「このお告げには、続きがあるの。──優美なる姿は王のまやかし。あるいは鋳鉄の夢。憂う者と愛する者は花札の裏表。水平線を見上げ、
アスターは目を見開いた。それは、この詩に心を動かされたからではない。その意味が形作るものを、理解できそうになったからだ。全身の毛が立ち上がるのを必死に抑えて、平静を装う。
「三女神様にしては、ずいぶんと遠回しなお言葉ですね」
アスターも入学当時、三女神による継承を受けた。茫漠とした砂漠が森になっていくまでの様子をつぶさに見せられたことを、今でも覚えている。
三女神は時間を超えた景色を見せる──それはウマ娘たちの共通の認識であるはずだった。
しかしこれは違う。この詩には、敵意以外の何かが仕込まれている。
「珍しいことだわ。いつもなら景色もあるし、もっと意味の通る内容のはずなの」
そこまで言って、タルナはじっと考え込んだ。不意に巻いた風で、割烹着の裾が揺れる。
「まさかアスター、あなた……」
深く青い瞳がアスターを捉える。
「……なんでしょう?」
「いいえ考えすぎね。大丈夫。あなたは、守られている子だから」
「本当に、そうでしょうか」
アスターはわずかに耳を傾けた。超常的な存在を感知するウマ娘でも、盲信するほど単純ではない。
「あなたが今の立場にいることまでは、三女神様のお導きに違いないわ」
「まで、と仰いますと」
「時には、自分の力で選ばなければならないこともある。そう捉えてごらんなさい」
「ええと……背中を押していただいた、ということでしょうか」
「解釈はお任せするわ」タルナは満足げな笑顔を浮かべた。
「アスター、これだけは覚えておきなさい。誰かが守ってくれるのは、誰かの選択にもたれている間だけ。自分の足で立ち、自分の頭で考えて決断をした時、その結末は、自分だけに見届ける価値があるものになるのよ」
「見届ける価値、ですか」
「その先で何が起きても、それは選んだ自分だけのもの。……憂いも、後悔も、断絶もね。きっと、そういうものよ」
その時、アスターの中で何かが繋がった気がした。
自分で選んだものにこそ価値がある。それはいつの時代も変わらない真理だ。
耳を立てて、背筋を伸ばす。日没まであと一時間。決着をつけるには十分だ。
「ありがとうございます、マダム。すぐに行かねばなりません」
「ええ、お行きなさい」
タルナの力強い頷きに見送られて、アスターは再び学校区へと走り出した。
不意に、風が舞う。
──朽ち落ちた幹の中で、新たな林檎が空を目指した。器が地平に降る朝、紅い明星は北極星に成り変わる。
その声を聴いた者は、まだ、誰もいなかった。
次回、砂上の矜持