昭和十九年二月二日、十六時二分。教室棟・東棟三階、三〇一号教室。
室内では、秀愛会の会合が開かれていた。現時点では非公表なものの、各生徒自治会は、ペールスターチスが元生徒会長によるOG会『
じっとりとした空気が漂う室内に、戸を開ける音が響いた。
「失礼する」
一斉に耳が立ち、戸へと向く。
整えられた制服に生徒会の腕章をつけたロートアスターは、堂々と教室に足を踏み入れた。
「副会長?」「生徒会だ」
突然現れた生徒会副会長に、教室は騒然とした。
「アスターじゃないか」
教壇に置かれた椅子に掛けていたシナノダイアンサスが、驚きの声を上げる。
「何の用だ」
「シナノ」
アスターは踵を鳴らして級友に歩み寄った。シナノはその決然とした顔つきを目にするや立ち上がり、耳を絞って身構えた。
「話がある」
「断る」
アスターが口を開く前に、シナノが制する。
「ここは秀愛会が借り受けている教室だ。生徒会には、ご遠慮いただこう」
できるだけ穏やかな声で、入り口を手で示した。
それでもアスターは一歩踏み出し、シナノに詰め寄った。
「君に話さなければ意味がない」
「やめろ。聞きたくない」
「何故だ」
「場所を考えてくれ。それに、私の立場もだ」
シナノは自分の左胸を指した。丸く削り出した桐の木片に秀の焼印が押されたそれは、秀愛会の会章だ。つまりシナノは今、立場に縛られてここにいる。アスターは内心で、自分の視野の狭さを恥じた。こんなにも身近に、同じ重石を背負う生徒がいたのだ。
ここはシナノを説得するだけではだめだ──アスターがそう判断するのに、数秒もいらなかった。
「なら皆も聞け。私、ロートアスターは生徒会選挙への立候補を決めた。君たちの一票を、私に使ってもらいたい」
成り行きを見守っていた生徒たちは、その発言にどよめいた。その中で、トライガリアスの耳だけが、ぴたりとアスターを捉えている。
「……なんだと?」
シナノは呆気に取られた。立候補者が自治組織の会合に乗り込んでくるなど前代未聞だ。
「二度は言わない。シナノ、君が私を支持していることは知っている。だから、この場を貸してほしい」
「バカを言うな!」シナノは教壇に拳を打ちつけた。
「私の支持と、秀愛会としての支持は意味が違う。君も副会長なら、弁えろ」
「だから私は来た。君たちの話を聞かせてほしい」
その視線に、一瞬だけ場の空気が揺れた。
シナノはそれを振り払うように、声を張り上げた。
「いい加減にしろアスター!」
取っ組み合い寸前の二人を制するように、白い手がすっと上がった。
「お二方のどちらでもよろしいが、発言をお許しいただけますか」
シナノが応えるよりも速く、アスターが片手を上げた。同時に小さな舌打ちが鳴る。
「君は?」
肩下ほどの髪を軽く括った、素朴な外見のウマ娘が立ち上がった。
「秀愛会練習生筆頭、七一期のトライガリアスと申します」
トライガリアスは背筋を伸ばし、軽く一礼して答えた。その視線が、まっすぐにアスターだけを射抜いている。
「トライガリアス君か。聞こう」
「これまで、私ども練習生は生徒会との接点も少なく、常に後塵を拝す立場を甘受してまいりました。しかし、副会長殿のお名前は駿風寮にも聞こえております。直接お話を伺えるとあれば、練習生と生徒会が交流する好機として活用したく存じます」
「まったく君の指摘通りで、私の考えは広く知られるべきだ。だが……」
アスターはシナノをちらりと見た。これは、トライガリアスが寄越した唯一の機会だ。
レースと同じだ。時機を見誤れば彼女の支持を失い、全てが徒労に終わる。
「シナノがよしと言わないうえに、時間がない。他の練習生とも膝を突き合わせて語り合いたいところだが、今は私と君との対話で満足してもらえないだろうか」
「承知いたしました。副会長」
「結構。それと、ここにいる誰もが私をアスターと呼んで構わない」
アスターは胸を張り、左腕につけた生徒会の腕章を外して教壇へ置いた。
「これは着せられた立場であって、自ら望んでのものではない。私は今日、これを脱ぎ捨てる覚悟を持ってここに来た。今すぐに垣根を取り払うことは難しいだろうが、私は受け入れるつもりだ。君たちも、勇気を持って発言してくれ」
その演説を聞いたトライガリアスは、わずかに口角を上げて口を開いた。
「では先んじて、アスター先輩に一つ質問がございます」
「なんだい?」
「見返りは」
その簡潔な質問に、アスターはこのウマ娘を使えると判断した。胸の中で、何かが跳ねる。
「——いい質問だ」
とにかく、アスターは答えた。迷っている時間はない。彼女たちを納得させるには、生徒会を内側から破壊──、いや、再生させる道を示すしかない。
「生徒会に、練習生の代表席を設ける。これは私の任期中に、必ず実現する」
ざわめきが走る。
もう一歩だ。
高揚を抑えながら、次の一手を射す。
「加えて、今まで指名制であった委員長も何らかの選挙で選出する。高等科以上の練習生も立候補できるよう整備しよう。だが、それだけでは足りないだろうから──」
一歩踏み出す。これでもう、私は戻れない。
「今、この場で約束する。今後、生徒会の会議は原則公開とし、傍聴も認める。閉じた場にはしない」
教室は、水を打ったように静まった。練習生は学校運営に関われない──。その常識が壊れる時が来た。幾人かは、そう確信しただろう。
「承知しました。——この場にいる練習生として、まずは私が賛同いたします」
まばらな拍手が上がり、トライガリアスは席についた。
そのやりとりを見ていたシナノは、息を吐いて椅子に腰を下ろした。
「随分とまあ、大きく出たもんだ」
そう呟いてゆったりと足を組み、ポケットからキャラメルを取り出す。
「あと五〇分で、ちゃんと片付けてくれるんだろうな」
「悪いなシナノ」アスターは手の甲で額を拭った。
「今日のことは、貸しにしてくれ」
「利子は高いぞ」
アスターは微笑みを返し、教室を見渡した。
迷いを押し殺したような表情の、生徒会の腕章をつけた生徒と目が合った。次の瞬間、彼女は外へと消えた。
引き止めなかったし、止める理由もなかった。
不安と期待が混ざり合った、灰色の空気がアスターを包む。
まだ確かではない足場。
砂の上に立つような不安。
だからこそ、私は自分を信じて立たなければならない。
アスターは左手を軽く握り、口を開いた。
「では、まずは生徒会の現状を……」
*
アスターが秀愛会に乗り込み、演説を繰り広げていたその頃──。
蹄桜寮二号棟、一〇六号室。
勢いよくドアが開いて、アクシオプレピアの大ぶりな耳が揺れる。同室のリフィーニがいないことを確かめると、プレピアはまっすぐにペールスターチスへと詰め寄った。
「どうして従ったの?」
スターチスは机に開いた本に目を落としたまま、耳だけを向けた。
「蒸し返さないで」
「だめ。説明して」プレピアは真っ赤な顔を隠しもせず、「どうしてあなたなの? 他にいくらでも向いてる人がいるじゃない」
「初めから、拒否権なんて誰にもないの」
「だからって、その場で決めてくるだなんて」
「あなただってあの場に立たされたら、嫌だなんて言えないわ」
「なら当然、対価くらいは取り付けてきたんでしょうね」
「そうね。あなたには教えてあげる。パリスアップル先輩のお口添えで、卒業前に財閥関係のご子息をご紹介いただくの。家族にも家を用意してもらえるわ。東京か横浜の、大きな街に暮らすのよ」
まったく自分のためだけの話に、プレピアは唖然として口を開いた。
「……それだけ?」
「それだけよ」
「後輩達のことは? 私の妹はどうなるの?」
「私の実家がどんなところか、知ってるでしょう」
歯軋りのような、押し殺したような声が漏れる。スターチスの言わんとすることを察してしまったプレピアは、唇を強く噛みしめた。
「お金がないのはわかる。けどお飾りの生徒会長をやって、卒業したら使用人に奥様とおだてられて、そうやって死ぬまで燻っていくわけ?」
「私は、自分の思う幸せを掴んだ……」スターチスは左手を強く握り、その腿を打つ。
「そう。私は、自分で掴んだの。誰にも非難はさせないわ」
捻り出すような答えに、プレピアは鼻を鳴らした。
「それが"白南風のペールスターチス"最後の矜持なのね」
「やめてよ、プレピア」
「やめない。私は、ペールスターチスがそんな腑抜けのウマ娘だなんて思わない。生徒会に入ってからこっち、あなたおかしいわ」
「何も知らない。生徒会は、順調よ」
スターチスの熱のない返事に、プレピアは頭を振った。
「嘘。なら、どうしてなすがままにされているの。答えなさいよ」
「たとえあなたでも、それは言えないの」
「へえ。口に出せば碌でもないことが起こるってわけね。会長サマはいつもそう、耳触りのいい事しか言わない」
「会長を、悪く言わないで」
「私はあの人に投票してない。だから、私には反論を言う権利がある」
「会長だって、悩んでいらっしゃるの。色々なところから板挟みにされて、学園はもう、ただのユートピアじゃないのよ」
「あんな紙風船みたいな話しかしない人の、どこに悩みがあるのかしら」
スターチスは、プレピアの意図をきちんと汲み取っていた。そしてもう、自分に何もできないこともわかっている。だから彼女は苦しいのだ。
「誰だって立場のための責任からは逃げられない。あなたも、候補生ならわかるでしょう?」
「立場を引き合いに出すのなら、それは責任と等価であるべきよ」
それでも、プレピアは食い下がった。それが友としての矜持であるように。
「ねえ、会長なんてひとりぼっちでしょう。あなたは、それで満足なの?」
「大根で嵩増ししたご飯しか食べられないなら、私はずっとお飾りで良い」
ぴしゃりと言われて、プレピアはついに黙り込んだ。
沈黙の中で、ぱたっ、と水滴が床に落ちた。
「どうして、どうして勝手に決めたの」
そこで初めて、スターチスは顔を上げた。見上げたその目には、涙が溢れていた。
「入学したときに決めたじゃない。もしもレースで勝てなくても、社会に出たら、一人でやっていけるくらいのウマ娘になろう、って」
「プレピア……」
「私はもう卒業するの。それなのに、これから私は、あなたの何を尊敬したらいいの」
「──ごめんなさい」
スターチスは再び目を伏せた。
「でも、私は私と家族のために生きていく。……そう、決めたの」
「なら、あなたに同情なんかしてやらない。裏切ったと怒り狂ってもやらない。このアクシオプレピアには尊敬する友が"いた"。あなたには、それしかくれてやらないから」
「あなたがそれで満足なら、それでいい」
「あと一月もないけれど、先に言っておく。さようなら」
言い切るより前に、プレピアは背を向けた。
「プレピア」
スターチスの小さな声に、足が止まる。その耳がこちらを向こうとするのを、じっと堪えている様子が見えた。
「ずっと友達でいてくれて、ありがとう」
スターチスは心から言ったつもりでいた。プレピアはしばらく立ち尽くした後、小さく頷いて出ていった。
開いた左手には、うっすらと血が滲んでいた。
*
同日、二一時五七分。蹄桜寮食堂棟二階・休憩室。
消灯時間を過ぎても、休憩室のいくつかには在室を示すランプが点いていた。語り合う場所を求める者、同室を慮って寝床を求める者など、その目的は様々だ。
カズラキはポニーテールを揺らして薄暗い廊下を進み、ある部屋の前に立った。その手には「今夜十時、生徒会用休憩室」と書かれたメモが握られている。
顔を上げた先には、部屋番号の代わりに『生徒会優先』の札が掛けられている。在室のランプも点いているので、ここで間違いなさそうだ。
ノブを捻ると、ドアはきいと音を立てて開いた。そっと身体を滑り込ませ、鍵をかける。
土間から上がりサンダルを揃えて、視線を下げてから襖を開けた。
視界には座布団、ちゃぶ台、伏せられた二つの湯呑み。
「カズラキ、参りました」
答えるように、薄暗い部屋の中で一つの影が動いた。
「わざわざ呼び出して、悪かったね」
その声にはっと顔を上げたカズラキは、電球の淡い光に浮かび上がる黒髪を捉えた。そして思い描いていた髪色ではなかったことに、落胆を滲ませた。
「ピルソス。あなただったの」
「おや。何か、別のことを期待していたのかな?」
「聞かないで」カズラキは、用意されていた座布団に腰を下ろした。
「それで、ご用件は?」
「学園の秩序を守る為に、手を貸して欲しい。生徒会会計室・カズラキ候補生」
「へえ」
わずかに顔を上げた時、メガネの縁が光った。
「面白そうじゃない」
「君は、こういう演出の方が好きだと思ってね」
ピルソスはおもむろに水筒を引き寄せて、淡い湯気を立てるお茶を注いだ。一つをカズラキの前に差し出す。
「それで? 具体的に何をするの?」
「ムツノイチバンを、監視してほしい」
「えっ」カズラキの顔に驚きの色が浮かぶ。
「だって、彼女は生徒会の……」
「無論、承知している」
「なら一体、どうして」
「いわゆる獅子身中の虫、というやつさ」
カズラキは何かに思い当たったように、「それって……副会長のこと?」と慎重に訊いた。
「それだけなら、よっぽど楽なんだろうね」と、ピルソスは気にもせず湯呑みに口をつけた。
「いくつかのクラブが動いていることは掴んだ。けれど、どれも出所が不確かで難儀している。私の"耳"が何か企んでいるのなら、突き止めなければ」
なるほど、とカズラキは膝を打った。
「それで、ムツノイチバンね」
図書委員会——ムツノイチバンの属するそこは、生徒会の中でも外様に近い。マダム・アルセの城である図書館に詰める委員たちは、生徒会の配下ではあるが、もはや別個の組織と言える体系を持っていた。
「彼女は私の便利な耳だが、忠誠までは保証してくれない。秩序を乱すつもりなら、早めに対処しなくては」
「そんなの、後腐れのない卒業予定者にでもやらせれば良いじゃない」
「外に出ることに浮かれ切っているようじゃ、使い物にはならないよ」
その吐き捨てるような言い方に、カズラキの耳が揺れた。
「随分と冷たいことをおっしゃるのね。あなた」
「会計室に響く算盤の音よりは、温かいつもりさ」
「どうかしら。でも、話はわかった。手伝ってあげる」
そこでカズラキは、ピルソスが髪を下ろし、しかもそれがしっとりと濡れていることに気づいた。
「もしかしてあなた、待ってる間にお風呂に入ってたの?」
「いいじゃないか。たまには一人の風呂もいいぞ」
そう答えたピルソスは腰を上げると、寝巻きの裾を直した。
「君もひと風呂浴びて行くといい。私は帰って寝る」
ピルソスの少しひんやりとした右手が肩に触れる。
「じゃ、おやすみ」
その手が離れた時、カズラキの唇の端が、わずかに上がった。
長い長い一日が終わり、混迷に突き進む生徒会長選挙。
誰もが自分の目に映るものを信じて疑わない閉じた世界で、最初に答えに辿り着くのは誰か。
次回、耳の向こう側