昭和十九年二月三日、午前九時四七分。
図書館二階、雑書庫。
ここには分類不能とされた書物や、整理の手を逃れた資料が所狭しと積み上がっている。
背表紙の擦れた実用書から、出所の知れない帳簿まで。棚から溢れた紙は床に堆く積まれ、足の踏み場を削っていた。
紙の匂いは乾いて重く、空気そのものが沈殿している。窓に下げられたカーテンたちも、すっかり黄ばんでいた。
そんな、図書委員会の札がなければ、誰も足を踏み入れない場所。
その薄暗い部屋に置かれた机で、二人のウマ娘が声を潜めていた。
「──そろそろ、勘づかれたかしら」
裸電球の下で気味の悪い笑みを浮かべたムツノイチバンが、ぽつりと呟く。
「だから言ったのに」
向かいに座るユートルーナは、机上の砂糖菓子を一つ摘んだ。彼女はイチバンと同じ七一期で、給食委員会に属している。学内でも最も目立たない部類の組織だ。
「あんな人に関わると、碌なことにならないって」
ルーナは、手元の料理大全を無造作に開いた。ビーフシチューの頁が、メガネに鈍く反射する。
その様子を見てイチバンは身を乗り出し、級友へと柔らかな眼差しを向けた。
「そんな時でも、ルーナは私のところに来てくれるのね」
「給食委員が忙しいのは月末だけだって、知ってるでしょ」
ルーナはため息混じりに、転がっていた短い鉛筆を弄んだ。
「そんなに暇なら走ってきたら?」
「今時分にコースになんて行ってごらんなさい。天下は我が物、と言わんばかりの
「おお怖い」
イチバンは、わざと大仰におどけて見せ、「さしずめ私たちは、そのおこぼれで生かしてもらっている小判鮫かしら」
「あのね。学園は生徒会があるから平穏でいられるの。あなたも候補生として、お国から禄をもらっていることを忘れないでよね」
「私みたいなのがいるのに平穏? だいぶ耳が汚れているようね、ルーナ」
「それでも、自分が学園の中心だと勘違いしている、誰かさんよりはよっぽどマシなのよ」
それを聞いたイチバンは、春のように満面の笑みを浮かべた。
「そういう時はね、やいピルソス! この蜘蛛女! って言うの」
突然の大音声に目を丸くするルーナをよそに、イチバンの耳はくるくると舞った。
「大丈夫よ。どうせ誰も聞いてないんだから──」
突然、イチバンの耳がぴたりと外を向いた。
「え? なに?」
「静かに。……誰か来た」
ルーナも耳を廊下の方へ向けた。コツコツという規則的な足音が、まっすぐにこちらへと向かっている。
「どうやら、招かれざるお客様みたいね。ルーナ、こっち」
イチバンは飛ぶように立ち上がると、壁際の天井まである本棚をひょいと開いた。一瞬ぎょっとしたが、それは本棚に擬装した隠し扉だった。
「早く入って。裏階段は右へ行って、五六番書架を左。鍵は勝手に閉まるけど、足音には気をつけて」
「え? う、うん。わかった」
促されて覗き込むと、目の前には書架の海が広がっていた。
学園には、いくつもの抜け道がある──。そんな話を思い出しながら体を滑り込ませたルーナが振り返った時、そこにはもう、ただの壁だけがあった。
その頃イチバンは、ルーナが座っていた椅子へ適当な本を放り、手近な書物の埃を机へ払った。最後にスカートの埃を払い、あたかも作業中であったかのように書類挟を出し、鉛筆を転がした。
「さて。蛇かしら、鬼かしら」
イチバンが足を組むのと同時に乱暴に引き戸が開き、栗色のポニーテールが揺れた。
「蛇とはご挨拶ね、イチバン」
「これは、カズラキ先輩!」
弾かれるように椅子を蹴ったイチバンは椅子に載せた本を退け、布巾でさっと埃を落とした。
その間にも、カズラキは本の山を縫ってつかつかとイチバンに迫る。
「ご無礼をいたしました。どうぞ」
手で示されて椅子にどっと腰を下ろしたカズラキは、ポケットから出した数個のキャラメルを机に転がした。
「階段まで聞こえたわ。この蜘蛛女! ってね」
「おや。聞かれてしまいましたか」
イチバンは悪びれもせず、飄々と答えた。
「だから単刀直入に言うけど、あなたは睨まれてる。ここは一旦引っ込んだほうが、身のためね」
「会計室次期室長のカズラキ先輩直々のご忠告とは。あの蜘蛛女が、何か吹き込みましたか」
「わざわざ夜の休憩室に呼び出して、あなたを監視しろ、ですって」
途端、イチバンは思わず大声を出しそうになって、必死に口を押さえた。
「ふっくくく。それはそれは。猿が木から落ちましたか」
「今日のことも、うまく誤魔化してちょうだい」
「無論です」
イチバンは即答し、背もたれに体を預けた。
「しかし世の中、何が身を助けるかわかりませんね。四年生の冬、尋常の校門で泣いて別れたあの日のことは、今でも昨日のように思い出せます」
「私は、あなたがこんなことをしているほうが驚きよ」
これで仕事は済んだとばかりに、カズラキはキャラメルを手に取って包装を剥いた。ため息に、甘い香りが混じる。
「昔は、あんなに可愛かったのに」
「それは先輩もでしょう。まさか会計室とは。
「亭主なんて当分いらないから、茶化さないでちょうだい」
カズラキは転がっていたキャラメルの一つを、イチバンの方へと滑らせた。
「しかしカズ姉」
パリパリと包装を開きながら、イチバンは砕けた口調で口を開いた。
「昨日の今日で私と会っては、いくら蜘蛛女でも勘付くのでは? 指示は、あくまで監視なのでしょう」
「ピルソスなら、今日は学園にいないの。外出届を出して町に行ってる」
「なんとまあ、不用心な」
イチバンは、呆れともため息ともつかない息を吐いた。
「私の足音が聞こえた瞬間に友達を逃すような瞬発力がないところが、あいつの弱点ね。レースでもそうだった」
「おや。お気づきでしたか」
「でも正解よ。誰かがいたら、こんな話できないもの」
「ここは、物見と参りますか」
「そうなさい。少なくとも五日は様子を見ましょう」
「ならば鬼の居ぬ間にもう一つ」
イチバンはさっと立ちあがり、本棚のかなり高いところから分厚い辞書を引き出した。
開くと中身はくり抜かれていて、折り畳まれた厚い紙がひと束。その中から一枚を取って、広げる。
カズラキが覗き込むと、それは食堂棟の、おそらく複写された見取り図だった。
「学内には多数の『ポスト』があります。そして一階お手洗いの一番奥、ここです」
イチバンが指す先には、朱墨で点が打たれている。
「この個室は、壁から二枚目の床板が外れます。監視の目が緩むまで、連絡にはそこを使いましょう」
「わかった。一番奥の床板ね」
「困った時は、ルーナを捕まえて聞いてください。彼女も、いつもそこを使っていますから」
すぐに見取り図を片付け、棚に押し込む。辞書は何年もずっとそこにいたように、静かに黙り込んだ。
「必死に逃した割に、しっかり巻き込んでいるじゃない」
「彼女は毒にも薬にもなりません。だからこそ深入りはさせない。それが私のプライドです」
そう胸を張る姿を見て、カズラキは一言「よかった」と息を吐いた。
「あなたがピルソスのように冷徹に育っていたら、この尻尾にかけて許さないところだった」
「とはいえ、カズ姉の思い通りにさせるかというと、どうでしょう?」
薄暗い笑みに、カズラキの目に興味の色が浮かぶ。
「へえ。アスターを勝たせて、生徒会の刷新を図るだけじゃ足りないっていうの?」
「ピルソス先輩が邪魔だ、とはっきり申されてはいかがですか。カズ姉」
その少し不貞腐れたような言い回しに、カズラキの頬が緩んだ。
「知っていたの。あなたには隠しても無駄ね」
「ですが現状、代わりとなる生徒がおりません。よしんば副会長が立つとしても、庶務部の梃入れは無理ではないでしょうか」
カズラキは数度頷いて腕を組んだ。耳がくるくると音を探り、誰もいないことを確かめる。
「それができる生徒が、一人だけいる。ピルソスなんかよりも冷徹で、独善的で、利益のための犠牲を顧みない生徒が」
「……初耳、ですね」
イチバンは慎重に口を開いた。
「それほどの生徒がいたら、方々に名前が聞こえているはずですが……」
「徹底的に隠してるの」と、カズラキが声を潜めたので、イチバンが顔を寄せる。
「会合にも出さないし、名簿でも、わざと下の方に入れるほどにね」
「それで、名前は」
ずいっと身を乗り出して、次の言葉に備える。
「彼女の名前は……」
*
同日、午前十時二十分。
商店街、シプロス行きつけの毛糸店。
リーベがドアを開けると、小さな鈴がチリチリと子気味良い音を立てる。
すぐにパタパタという足音を連れたおかみが現れて、二人を見て破顔した。
「あら! シプロスちゃんとリーベちゃん。いらっしゃい」
「おかみさん、こんにちは」
リーベが愛想良く振る舞う後ろで、シプロスが会釈をしながら真っ直ぐに反物の棚へと消えた。
「ずいぶんと、お忙しいようですわね」
いつもより雑然とした店内を見回して、リーベがつぶやいた。
「すまないねえ」
おかみは雑巾を手に、雑多な裁縫道具が並んだ棚をさっと撫でた。
「今時分は結婚が多いだろう? ミシンが使える人手が足りなくて、ちょいちょい駆り出されているんだよ」
「それは大変ですわね」
「仕事があるのはいいことさ。これ、貰い物だけど食べな」
そう言っておかみは、おかきがたっぷりと入った木皿を出した。香ばしい醤油の香りが、ふわりと立ち上る。
「いただきます」
リーベは早速、醤油の染みた一粒を取って口に含んだ。
「結婚といえば、二人とも今年で十七だろう? いい人、いないのかい」
結婚という言葉に、リーベの耳がぴこっと揺れる。シプロスが消えた棚をチラリと見て、手で口を隠した。
「私はまだですけど、シプロスに……」
「あらあらあら」
おかみはカウンターを跳ね上げると、二つの丸椅子を持ってきた。
「これにお座りよ。それで?」
リーベはスカートを整えて腰を下ろした。シプロスに気づかれないように、そっと声を潜める。
「去年、学園に飛行機が落っこちた事故があったこと、覚えていらっしゃいます?」
「ああ。そういえば、新聞で読んだねぇ。なんでも操縦士が大怪我をしたとか……」
「そのパイロットを助けたのが、まさかのシプロスなんです」
「へえぇ。事実は小説よりも奇なりとは言うけれど、よく助けたもんだよ」
「もうそこらじゅう血まみれで、それは大変だったんですから」
実はリーベは、血に汚れた水を取り替えるために救護室と水道を往復していただけなのだが、そのことは言わなかった。
「それで、マダム・ラピアスがすぐに処置をしてくださって、なんとか助かったんです」
「ラピアス先生が診てくれたのかい。アタシも検診をしてもらったけど、良い腕だね」
おかみは木皿に手を伸ばし、おかきを頬張った。
「──それで、良い男かい」
「ええ。まめにお手紙を送ってくださるの。とっても誠実な方ですわ」
「気になるね。写真とか見たことないのかい?」
「それが、また見栄を張った写真でね……」
クスクスと盛り上がる二人のところに、反物を抱えたシプロスが戻ってきた。
「おかみさん、これを四尺切って……なに、二人してニヤニヤして」
「聞いたわよシプロスちゃん」
おかみはさっとシプロスの後ろに回り、肩に腕を回す。
「あなた、良い人ができたんですって?」
「ど、どこでそれを……」
顔を上げると、視線の先でリーベが小さく舌を出していた。
「アタシとシプロスちゃんの仲じゃないか。写真持ってないのかい? 見せておくれよ」
シプロスはしばらく黙った後、観念した様子でポケットから手帳を出した。リーベには恨めしげな視線を向けつつ、ページを開く。
そこには、機体の前で飛行服を着込んでポーズを取る坂井。大判の台紙に、彫りのある顔がくっきりと浮かんでいる。
「こりゃまた格好良い男だね。ええ?」
おかみは写真とシプロスを交互に見て、納得したように頷いた。
「そうかい。前に山のように綿布を買って行ったのは──」
「さすがおかみさん、鋭い」リーベが手を鳴らして、からからと笑う。
「"個人的な"お礼のお返しに、空の上で寒くないように、肌着を縫ってあげたんですのよ」
「あれは別に、ただのお返しで……」
おかみはシプロスをぐっと抱き抱えると、整えていた栗毛を遠慮なくわしわしと撫で回した。
「まったく、いじらしい子だねえ。言ってくれたら、適当に裁ってあげたんだよ」
「それは野暮ですよ、おかみさん」
もみくちゃのシプロスを横目に、リーベが呆れた調子で口を挟んだ。
「シプロスは、自分の手で作ったものを差し上げることに浪漫を感じているんですもの」
「ちょっと、アイリもやめてよ」
「──でもね、シプロスちゃん」
頭を撫でる手がぴたりと止まる。おかみの逞しい腕の、その温もりが伝わってくる。
「……はい」
「その人はきっと、シプロスちゃんに感謝してるよ。胸を張って、いいんじゃないかい」
「そう、でしょうか?」
その時、シプロスの耳からふっと力が抜けた。
「アタシは応援してるよ。ねえ、リーベちゃん」
「そうですね」
リーベは、抱き抱えられたままのシプロスに暖かい眼差しを向けた。
「ついでに、私にも良い殿方をご紹介いただければ万々歳ですわ」
「リーベちゃんはほっといても引く手数多だろうさ!」
おかみは腕を伸ばし、リーベの髪もわしわしと撫でた。
「もし選べなかったら、アタシが面倒見てやるからさ」
「ふふっ、お願いいたします」
おかみの腕の中で、すっかり髪を乱したシプロスがもがく。
「ところでおかみさん、そろそろ離して……」
「おお、ごめんよ。姪っ子がこういうの好きでね」
解放されても、シプロスは不思議と悪い気はしなかった。しかし窓ガラスに映った自分を見て、その耳が力無く垂れた。
「あの……櫛を、貸してください」
次回、特殊試験機『嵐山』