蹄音、高く   作:上條つかさ

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Les Filles de Lily

昭和十八年四月八日、十五時。

 

「集合ーっ!」

 

筆頭ウマ娘ハイペリカムの号令一下、七十二人のウマ娘が整列を済ませた。

前列にはリリウムパイス、フォアシュピール、アクシオプレピアといった、レース界の先最先端を走るウマ娘達が並んでいる。

同じ候補生でも学年として下になるシプロスやリーベは中列、カナやプラム、エトワルアルモニーといった練習生が後列だ。

春の日差しは高く昇り、淡い光を降り注いでいる。ときおり微風が吹き抜け、ウマ娘たちの尻尾を揺らしていった。

 

今日の東コースは、二種候補生達の貸切になっている。

芝はまだ完全に青々としてはおらず、冬を越した枯れ芝と、芽吹いたばかりの若芝がまだら模様を作っている。

踏みしめると、乾いた葉がかすかに音を立てた。柔らかい風が芝の匂いを運び、冬の終わりと春の訪れを思わせた。

 

七十二名の候補生と練習生たちは、それぞれ揃いの運動服を身に着けている。

候補生は臙脂色の半ズボンに白い半袖、練習生は明るい橙色の半ズボン。

どちらもすでに走る準備を整えていたが、練習生たちの方はやや緊張の色が濃い。

小さく息をついたり、尻尾をそわそわと動かしている者もいる。

 

師範達は、いつものように白い運動服に白い運動帽をかぶり、コースの中央に立っていた。

普段の鍛錬では師範の指示が絶対というわけではないが、新入生を含むこうした場では、自然と彼らに注目が集まる。

 

「気をつけぇー礼っ!休め!」

 

再びハイペリカムの号令がかかる。

三人の師範(トレーナー)の中から、一際がっしりとした体格の男が前に進み出た。

 

岩下中尉—シプロスやリーベ達の班を束ねる師範だ。

彼は師範の中でも経験が長く、そのキャリアは十年だという。

しかし、トレーナー制度が確立しきっていないこの時代では、師範の役割は絶対ではない。

しかも候補生たちは、普段からお互いに助け合いながらトレーニングを行っている。それぞれが自分に合った鍛錬法を工夫しながら実践しているのだ。

ウマ娘は師範と共にあるからこそ真の実力が発揮できると信じて疑わない一派もいるが、シプロスは懐疑的だった。

 

それでも今回は、新入生が含まれているために全体練習の形を取ることになった。顔合わせを兼ねた多分に形式的な集まりだ。

 

「さて、今日から本格的に鍛錬を始めていくわけだが、体力づくりを始める前に、まず練習生の体力試験を行う」

 

岩下は一回り小さな芝のコースを指した。

 

「このコースは一周が六〇〇(メートル)。スピードではなく周回した数が重要となる。つまり、この試験は勝ち負けを決めるものではない。今の自分にどの程度の体力があって、どの程度の距離のレースに出ることが適当かを見定めることにある」

 

そう言いながら、岩下は足元の芝を軽く踏みしめた。

よく整えられているが、まだ土の色の濃いコースには、時折風に乗って桜の花びらが散っていた。

 

「今回の結果は、出走する際の距離の参考とするので全力で臨むように。なお、候補生は各自、担当の練習生について走ること。では準備運動、はじめ!」

 

合図とともに、整列していたウマ娘たちが一斉に動き始めた。

 

 

シプロスが肩を回していると、隣から軽やかな声が飛んできた。

 

「ねぇシプロス。私はあなたが次に何を言うかがわかるわ」

 

シプロスはそちらに目を向けず、耳だけを向けて答えた。

 

「何よ、藪から棒に」

 

「“相変わらず堅物ね”。でしょ?」

 

シプロスは思わず顔をリーベに向け、小さく鼻を鳴らした。

「……正解。昭和ももうすぐ二十年だっていうのに、何十年も前のやり方で体力試験をして、それが何になるのかしら」

 

「師範方にはそれぞれのお考えがあるのではなくて? それに、出走するためには距離試験を受けないといけないのだし、やり方が古いかどうかは重要じゃないのよ」

 

「なんでも形式と先例が大事、か。肩こりだって、揉めばほぐれるのにね」

 

シプロスはやれやれと言った様子を見せていたが、急に顔を上げた。

「そうだ。いっそのこと、模擬レースにすればいいのよ。一六〇〇米あれば結果も出るし」

 

「それじゃあだめよ」

リーベは険しい顔でシプロスを見た。

「一六〇〇米は私には短すぎるの。やるなら二二〇〇米にしてもらわないと、私に不利じゃない」

 

それを聞いたシプロスの耳がピンと立つ。

 

「それは、あなたが自分に向いている距離を知っているからでしょ?」

 

「そうよ?」

 

リーベは素直に認め、そして意地の悪い笑顔を浮かべる。

 

「それで、私がどうやってそれを知ったのか、覚えているかしら?」

 

シプロスはしまった、という顔をした。

言葉に詰まる彼女を見て、リーベはわざとらしく首を傾げてみせる。

 

「ね? 変わらないことには、ちゃんと理由があるの」

 

得意げな笑みを浮かべるリーベを見て、シプロスは不満げに頬を膨らませた。

だが、リーベの言うことは確かに理にかなっていた。

 

「それに、どんな風に切り分けたって、最後に勝つのは強いウマ娘なんだから」

 

シプロスは口を開きかけたが、その言葉を飲み込んだ。

 

「…本当にそうかしら」

 

疑問を口にすると、リーベは少しだけ眉を上げた。

 

甲級競走(GⅠ)を二つも獲っておいて、今更そんなことを言うの?」

 

リーベの口調は穏やかなままだったが、その瞳には冷静な光を宿している。

 

「今のやり方が一番良いと証明しているのはシプロス、あなた自身じゃない」

 

リーベの指摘に、シプロスは答えられなかった。胸の奥が、じわりと重くなる。

自分が疑問視しているこの世界に、自分自身が最適な答えを出してしまっているなんて——矛盾も甚だしい。

今のレースは、仕組みからしてそうなのだろう。詳細を知らせない報道、それで喜ぶ街の人々。

結局、私もこの仕組みの中でしか生きていけないのかしらね。

 

風が吹き、桜の花びらが舞い落ちた。ふと視線を落とすと、薄紅の花弁が芝の上に静かに積もっていた。踏みしめると、枯芝と芽吹いたばかりの若芝がかすかに擦れ合う音を立てた――シプロスの心が、さざ波のように揺らいだ。

 

耳を伏せながら考え込んでいると、突如、「こら、そこ!」と鋭い一喝が飛んできた。

シプロスとリーベが弾かれたように顔を上げると、ハイペリカムが威圧的な瞳でこちらを見下ろしていた。

 

「真面目にやらんと、怪我をするぞ!」

 

二人はすぐに姿勢を正した。

 

師範はともかく、生徒間、特に候補生同士の年功序列は絶対だ。

 

それに、ハイペリカムは自分にも相手にも厳しく、先例を大事にすることで名が通っている。こんな形式ばった場で口答えなどすれば、この後どうなるかわかったものではない。

 

リーベは軽く肩をすくめ、口の端を少しだけ上げてちらりとシプロスを見た。そして気づかれないように「また後で話しましょう」と口の動きだけで伝えた。

 

シプロスは小さくため息をついた。—— それは、疑念を吹き飛ばすためのものだったのか、それとも自分に言い聞かせるためのものだったのか、自分でも分からなかった。

 

 

芝の上を、七十二人のウマ娘がのんびりと走っていく。

その速度は時速十三(キロメートル)前後。ウマ娘にとっては、速足にもならない穏やかなペース。

江戸時代から変わらぬ標準的な速度だった。

 

しかし、単調な動きの裏で、すでに競技としての色が滲み始めている。

この試験はただの耐久走ではない。各ウマ娘がどの距離に適性を持つか、己の限界を知るための試練である。

 

十周目(六粁)

最初の脱落者が出た。

スプリンター――一英里以下の短距離を主戦場とするウマ娘たちが、次々と走るのをやめていく。

 

「もう無理……!」

「足が……ついてこない……!」

 

彼女たちにとっては、すでに競技の枠を超えた長さだった。

 

シプロスは横を走るカナに声をかけた。

 

「カナ、まだいける?」

 

「はい!大丈夫です」

 

額には汗が浮かんでいたが、その声にはまだ張りがある。

だが、呼吸の乱れが隠せなくなってきている。

シプロスは視線を前に戻し、耳を立てながら足を動かし続けた。

 

二十一周目(約十三粁)

 

気づけば、四割近いウマ娘が脱落していた。

一六〇〇米から二五〇〇米を主戦場とする者たちが次々と脱落し始める。

 

「……はぁ、はぁ……」

 

シプロスは呼吸の乱れを意識しながら、カナの様子を確認する。

肩が上下し、足元も重くなっていた。汗を拭う動きで、ステップが乱れ始めていた。

 

「そろそろ限界か……」

 

その横をハイペリカムが追い抜きながら、残ったウマ娘たちに檄を飛ばしていく。

 

「根性を見せろ!自分の限界を知るんだ!」

 

だが、その彼女もほどなくして脱落した。

 

二十四周目(約十四粁)

 

シプロスとカナも、ついに限界に達した。

 

「……お姉様、そろそろ……」

 

「いいわ、終わりましょう」

 

カナが止まり、シプロスも歩みを止めた。

そのまま外周の芝へ移動し、座り込む。

 

「……はぁ、はぁ……カナ、結構走れるのね……」

 

シプロスのレースにおける適性距離は一八〇〇米±四〇〇米。

休憩なしの耐久走なら、二十四周は妥当なところだ。

初めての長距離走だというのに、カナはよくついてきたほうだ。その根性に、シプロスは感心した。

 

顔を上げると、リーベとプラムはまだコースにいた。それでも、残るウマ娘の数は、半分以下になっていた。

 

二十八周目(約十七粁)

 

全体のペースは少し落ちて、時速一〇粁前後になっていた。

そして、リーベは限界を迎えつつあった。

 

「はぁ、はぁ……ちょっと、まずいかも……」

 

息は上がり、足は鉛のように重い。

だが――プラムは、まだまだ余裕の表情をしていた。

 

「お姉様、大丈夫ですか?」

 

「……っ、大丈夫……!」

 

言ったものの、もはやペースを維持するのも難しくなっている。

そして、ついに彼女たちは後続に追いつかれた。

 

「リーベ、この辺りにしておきなさい」

 

リリウムパイスの声が、背後から響く。

 

「……先輩……!」

 

「後は任せて」

 

リーベが歯を食いしばる中、リリウムパイスが隣に並んだプラムに言う。

 

「ついていらっしゃい」

 

プラムがそっとリーベを見る。リーベは息も絶え絶えになりながら、促すように頷いた。

 

「……はい!」

 

プラムは軽やかな足取りで、リリウムパイスの横についた。

まだまだ余裕がある――その表情が、彼女の潜在能力を物語っていた。

 

四十六周目(約二十七粁)

 

残るウマ娘は、ついに五人となった。

 

その速度もかなり落ちて、時速は八粁程度になっている。

しかし彼女たちは、すでに現行のレース制度では適用できない領域を走っていた。

現在存在するレースの最長距離は三六〇〇米、甲級競走に限れば三二〇〇米。

それを遥かに超える距離を、しかも休みなく走っている。だというのに、プラムはまだ、疲労の色を見せていなかった。

 

……まさか、ここまでとはね

 

リリウムパイスは、彼女の走りを横目で見ながら、決断した。

 

「みんな、もういいでしょう。五〇周目で終わりにするわ」

 

あえて、余裕のあるうちに切り上げる。

プラムが「もっと走れたのに」と思う状態で試験を終えること。

それが、リリウムパイスの狙いだった。

 

 

「集合ーっ!」

 

力尽きたハイペリカムに代わり、リリウムパイスが号令をかけた。

短距離のウマ娘たちはすでにクールダウンを終え、水を飲みながら芝に座り込んでいる。

一方、中距離勢は足踏みを続け、ストレッチをしながら呼吸を整えていた。

長距離勢に至っては、まだ余裕を見せる者すらいる。

 

プラムは、軽くその場で足を踏み鳴らした。

呼吸は落ち着いており、脚にもまだ力がこもっている。

 

リリウムパイスは、その様子を横目で確認しながら、内心で驚嘆していた。

 

再び、岩下が前に出た。

彼は短く手を打ち、全体の視線を集めると、いつもの調子で告げる。

 

「皆、よく頑張った! 練習生には、今回の結果をもとに優駿章を発行する!各自、担当候補生との相談の上、意見書を提出するように!期日は来週の金曜日、遅れるな!」

 

「気をつけー礼!なおれ!」

 

「この後、十八時までは自由鍛錬とする! 解散!」

 

岩下は二人の師範を連れて足早に去っていった。

 

師範らが去って、弛緩した空気が流れる。

 

リーベはまだ息を整えることすらできず、肩で荒い呼吸を繰り返していた。

額だけでなく、腕や首筋にも汗が浮かび、視界が揺れるような感覚がする。

 

「お姉様、おつかれさまでした」

 

プラムが、大きな茶碗にたっぷりと注がれた麦茶を差し出した。

 

「……ありがとう」

 

リーベは茶碗を両手で持ち、喉の渇きを癒すように一気に飲み干した。

冷たい麦茶が胃へと流れ込むと、体が少しずつ落ち着いてくるのを感じる。

 

「ずいぶん粘ったのね」

 

へたり込むリーベの元へ、シプロスが歩み寄った。

 

「……私にも、プライドくらいあるのよ」

 

リーベは未だ熱を持つ息を吐きながら、芝の上に座り込んだまま言う。

 

「そうね」

 

シプロスは短く答え、すぐにプラムへと視線を向ける。

 

「それにしてもあなた、とんでもないスタミナね。リリー先輩についていけるなんて、それだけで、もうウマ娘としての価値があるわ」

 

「……ありがとうございます」

 

プラムは、まだ何のことかよくわかっていないような顔をしていた。

 

やっと立ち上がったリーベが、そんな彼女の肩に手を置く。

 

「深入りしちゃだめよ。三〇〇〇米を超えるレースなんて、勝ったところで何も残らないんだから」

 

その言葉には、どこか警戒の色がにじんでいた。

 

少し離れた場所で、リリウムパイスはその光景を静かに見つめていた。

 

プラムの余裕を残した走り。

シプロスの驚き。

そして――リーベの警戒。

 

「あの子なら、もしかして……」

 

リリウムパイスの唇が、わずかに意味深な笑みを描く。

 

「もしかして、本当に『その先』へ行けるかもしれない」

 

そう呟くと、彼女はゆっくりと踵を返し、コースを後にした。

 

 

長距離レース研究会、通称『リリーの乙女達』。

ここに属するウマ娘たちは、共通して驚異的なスタミナを持つ。

二四〇〇米ですら彼女たちには短すぎる。四〇〇〇米どころか、最も体力のある者は六〇〇〇米でも全力を維持できる。まるで常識外れの耐久力を持つ彼女たちだが、現在の競走制度ではその力を発揮する場がない。

レースはほとんどが中距離以下に最適化されており、『超長距離型』と呼ばれるウマ娘たちは、持て余したスタミナを活かせる場がないままに、「長く走れるだけの役立たず」との烙印を押されてきた。

二年前、その潮流に一石を投じたのが、当時二種候補生になったばかりのリリウムパイスだった。

彼女は三〇〇〇米の甲級競走を制し、超長距離型の可能性を証明した。そして、その実績を引っ提げて候補生となり、制度の偏りを指摘する機会を得た。

意外にも、当時の生徒会長はリリウムパイスの進言を好意的に受け止めた。しかし、競走制度に意見するには学園の運営を担う日本ウマ娘倶楽部の承認が不可欠である。生徒会長はその現状を踏まえ、「生徒たち自身が長距離レースの必要性を証明できれば、制度改正の根拠を持って倶楽部と交渉できる」と考えた。

こうして設立されたのが「長距離レース研究会」である。

表向きはどこにでもある生徒による自主的な倶楽部である。しかしそれは、既存の競走制度に挑む者たちが集う場であり、超長距離型ウマ娘にとって、数少ない希望の光でもあった。

 

 

消灯前、蹄桜寮五号棟は静まり返っていた。ヒトよりはスタミナに優れるウマ娘にも限界はある。今日の試験で体力を使い果たしたウマ娘達は、取るものもとりあえず早々に床についていた。

 

プラムも例外ではなく、二十時を回る頃には寝台から寝息が聞こえていた。リーベはプラムの優駿章のための意見書を書き終え、水差しからコップ一杯の水を飲んだ。

 

静かで、控えめなノックの音が部屋に響く。

 

「どうぞ」

 

昨日の今日で、またアルセのようなウマ娘が訪ねてくるはずもない。暇を持て余した寮生の誰かだろうと、リーベは軽く答えた。

 

「失礼するわ」

 

開いたドアの向こうに立っていたのは、美しい白毛と黒い流星――リリウムパイスであった。

 

「……リリー様?」

 

口をついて出た瞬間、リーベは内心で舌打ちした。

この人に敬称をつけてしまうなんて。

言葉にしてしまった以上、取り消すわけにもいかない。

 

「昼の件で、あなたにお話があってね」

 

「まあ、なんでしょうか?」

 

リーベは全てをわかっていながら訊いた。

リリウムパイスが新入生のいる部屋を訪ねる理由など、一つしかない。

 

彼女はちらりとプラムの寝台を見て、その後ゆっくりと部屋を見渡した。机の上にはリーベの優駿章が置かれている。その色は二〇〇〇米級ウマ娘であることを示す山吹色だ。視線をリーベへと戻したリリウムパイスは、静かに口を開いた。

 

「あなたの担当を、長距離レース研究会で預からせてくれないかしら」

 

そら来た。

リーベは背筋を伸ばし、無意識に拳を握る。

 

リリウムパイスは淡々と、しかし熱のこもった調子で語り続けた。

 

「もちろん、あなたの普段の鍛錬を邪魔するようなことはしないわ。私たちの活動は週に数回、この子のように超長距離を得意とする仲間と共に鍛錬をするだけだから。……この子の才能は、そのくらい、本当に貴重なのよ」

そこに滲んでいたのは、確かな熱意だった。

 

美しい切れ長の目が、まっすぐにリーベを見据えている。その瞳を覗き込むほどに、リーベの警戒心がさらに強くなった。

 

確かに、長距離型のプラムにとって、それに特化したトレーニング環境は好都合だ。

リリーの乙女達に属するウマ娘は諸々の垣根を持たないと聞く。そこでプラムが得るだろう経験は、決して悪いものではない。

 

けど――問題はそこじゃない。

 

リリウムパイスは「普段の鍛錬を邪魔しない」と言った。

だが、それは「プラムの考え方を変えない」とは言っていない。

 

プラムはまだレースを経験していない。挫折も知らなければ、勝利の喜びも知らない。

勝たなければ未来は得られないという事実すら知らないのだ。

その芽が育つ前に 「改革」 という思想を植えつけられたらどうなる?

 

「勝てばいい」だけだった目標に、「勝って変えるべきものがある」 という考えが混ざったら――プラムの走りは、どこへ向かう?

 

リーベはふと、リリウムパイスの表情を観察する。

 

落ち着いた口調。慎重な言葉選び。こちらを刺激しない距離感。

 

まるで交渉の場だ。

 

リリウムパイスは三つ年上の二種候補生。

本来なら、格下である自分に対して、もっと強い態度で出てもいいはず。

 

それなのに、この柔らかい口調。

 

――なるほど、警戒させないつもりね。

 

リーベは静かに息を吸った。

 

このウマ娘は賢い。

そして、おそらく本気でプラムを「仲間」にしようとしている。

 

ならば、自分の役割は一つだ。

 

プラムを強くすることと、余計な思想を植え付けさせないこと。

リリウムパイスが 「この場で何を言うか」 を見極めなければならない。

 

「お手伝いするとして、私にどのような利益があるのでしょうか?」

 

リリウムパイスの目がわずかに細くなった。

ほんの数秒、沈黙が落ちる。

 

「勝たなければ何も変えられない。それは、あなたもよく知っていることだと思うわ」

 

わずかな沈黙すら気にならなくなってしまうような、まるで用意していたような答えだ。凡庸なウマ娘なら、ここでほだされてしまうだろう。

 

「この子の能力は、長距離のレースで最大に生かされる。そして、レースで結果を残せば、学園の評価は自然とついてくる。 それが何を意味するかは――あなた自身がよく分かっているんじゃないかしら?」

 

リーベが反応する前に、リリウムパイスは軽く微笑む。

 

「今はそれだけを考えてくれればいいの」

 

理屈は正――いいえ、まだよ。

 

リーベは、納得しそうになった自分を戒めた。

 

プラムの評価は、確かにリーベの評価に直結する。

二種候補生の役割とは、自身が選手として世界レースを目指すことに加えて、担当する練習生を候補生として仕上げることにある。

つまり、リリウムパイスの提案が理にかなっていることはよくわかる。適性の合わない鍛錬ほど負担になるものはない。

 

プラムの面倒を見てくれるなら、リーベは自身の鍛錬にかなりの時間を割くことができる。

国際レースは三年のうちにウマ娘鍛錬競走甲級に三勝することを出走条件としているから、リーベに残された時間はあと二年。プラムにばかりかまけてはいられない。

 

――しかし、それは「競走の話」だ。

 

「リリーの乙女達」の目的は、単なる競技の枠に収まるものではない。

プラムに純粋な競走者としての価値を持たせるのか、それとも「変革の象徴」に仕立て上げるのか――それはリリウムパイスの手の中にある。

 

リーベの視線がわずかに細くなる。

 

もしリリウムパイスがプラムを「勝つためのウマ娘」として見ているのならば、彼女の交渉は極めて理知的で、こちらの利益と合致している。

 

だが――もし、「勝たせて何かを変えよう」と考えているのなら?

 

プラムが何を信じ、何のために走るのかは、まだ白紙だ。

だからこそ、リーベは慎重にならざるを得ない。

 

議論を交わしても仕方がない。ここは、折衷案か。

これが容れられなければ、リーベの利益のほうが少なくなる。

 

静かに顔を上げる。

 

「私から提案がございます」

 

悟られないように慎重に口を開く。

 

「なにかしら?」

 

「ふたつ、お約束を頂きとうございます」

 

「言ってちょうだい」

 

「ひとつ、鍛錬の場ではリリー様の目的、目標についてのお話をなさらないこと」

 

「ひとつ、私が必要と感じた時には自由に鍛錬を休ませ、その理由を詮索なさらないこと。いかがでしょう」

 

リリウムパイスは薄い笑みを浮かべたまま、しばらく考え込んでいた。

リーベはその沈黙を観察する。

 

思案か、それとも――こちらの真意を測っているのか?

 

すぐに言葉を返さないのは、ただの逡巡ではない。

相手の出方を見極め、自分にとって最も有利な返答を導き出そうとしているのだろう。

――ならば、こちらも焦る必要はない。

リーベは静かに息を整えた。どちらにせよ、リリウムパイスはまだ「最善の答え」を探している。それならば――この交渉は、まだ終わらない。

 

「あなたのお考えは、よくわかりました」

 

リリウムパイスは突然会話を打ち切った。同時に、消灯五分前の鐘が鳴る。

 

「明後日、私たちの鍛錬を見にきてちょうだいな。もちろんリーベ、あなたも一緒に」

 

時間切れ、というわけか。

又聞きの情報だけで頭ごなしに否定するほどリーベは自分の視野は狭くないと自負している。それに、一緒ならプラムが余計なことを吹き込まれる前に連れ出せる。少々打算的かもしれないが、百聞は一見にしかず、か。

 

「わかりました。お邪魔させていただきます」

 

そう答えた瞬間、胸の奥でほんのわずかに、得体の知れない感覚が揺れた。自分の幸せのために他人のために動く。それはリーベにとって、シプロスにすらしたことがない行動だった。

 

「十五時に東コース、北スタンドによ。よろしくね」

 

リリウムパイスがリーベの葛藤に気づいたかはわからない。彼女は薄笑いのまま、長い白毛を翻して去っていった。

 

 

同じ頃、ロートアスターの部屋。

 

「アスター!いるか!」

 

どんどんとドアを叩く音がする。アスターは顔を上げ、眼鏡を引き出しへ片付けてからドアを開けた。

 

「ハイペリカム。どうした」

 

「愚痴を聞いてくれ。おごりだ」

 

ハイペリカムは手提げを差し出した。その隙間からは菓子の袋やサイダー瓶の頭が覗いている。生徒会副会長の地位にあるアスターは一人部屋で、二人は同級生として付き合いも長い。就寝前のささやかな規則破りも、黙っておけば誰も知り得ない。アスターは笑顔で学友を招き入れた。

 

「君が愚痴とは珍しい。明日は雪でも降るのかね」

 

「からかうな。まったく、今日ほど腹立たしい日はない」

 

ハイペリカムはのしのしと部屋へ入ると、どかりとソファへ腰を下ろした。

アスターは机の上を軽く片付けながら、静かに笑う。

 

「それほどのことかい」

 

「今日、新入生の体力試験をやったんだ」

 

ハイペリカムは麩菓子を皿に並べると、手慣れた手つきでサイダーの栓を抜いた。ぽんと言う音と同時に、細かな泡が口の部分に上がった。

 

「ほう。まだ三日目だというのに、岩下中尉殿は血気盛んでおられるな」

 

「いや、それはどうでもいいのだ。それよりも、新しく二種になった連中が、体力試験のやり方がどうのと愚痴を零していてな」

 

そこまで言って、ハイペリカムはサイダーを煽った。炭酸が喉を刺激し、軽く咳き込む。

 

「大お姉様方が、これぞウマ娘の適性を見極める手段、とお決めになった制度だぞ。それに意見するなど、言語道断の極みではないか!」

 

大お姉様。

すでに鬼籍に入った方々だが、学園の基礎、ひいてはレースの基礎を作った、歴史的なウマ娘達だ。

ハイペリカムのような先例主義者には、神とも思えるような存在だろう。

そんなことを考えながら、アスターは静かに麩菓子を取り上げると、一口齧った。

軽い食感が歯の間で崩れると、ふわりとした甘みが広がる。

 

「その大お姉様方も、その時々の時代に合わせて制度を変えてこられたのではないか?」

 

「だからと言って、我々が軽々に変えて良い理由にはならんだろう!」

 

「大お姉様が今の制度を作られた時、それは大お姉様方にとっての『現代』であった。世界とは、常に変わっていくものだ。我々の時代に合わせた形に変質したとして、それは必然だと思わないのかね」

 

「思わん!」

 

ハイペリカムは麩菓子を一気に口に押し込み、もう一度サイダーを煽る。

 

「どうして貴様は何でもかんでも変えたがるのだ。今まで上手くいってきたのだぞ。よしんば変えたとして、何かあったら責任を取れるのか?」

 

「何かが起これば、私たちの世代は学園の汚点として語り継がれるだろうね。永遠に、まるで怪談のように」

 

そして、わずかに間を置いて、ぽつりと零した。

「望むところだがね」

 

「それが分かっていながら、なぜ変えたがる?」

 

ハイペリカムは瓶を机に置き、アスターを睨むように見た。

 

「私も貴様も、この制度のおかげで今の立場を得たのではないか」

 

アスターは軽く肩をすくめ、麩菓子の欠片を手のひらで払う。

 

「改革とは、痛みを伴うものだ。特に私たちのように、今の制度によって利益を得ている者にとっては、な」

 

「その通りだ。ならなおさら、痛いとわかっていることを進んですることもあるまい」

 

「何処かで何かをしなければ、その痛みを受ける者は私たちの後進の中の誰かだ。それを知っていながら、私は見過ごすことができない」

 

「我らがこの立場を手に入れるために、一体どれほどのものを捨ててきたと思っている。今更何かを変えるなど、過去の自分を否定するようなものではないか。いや……」

 

ハイペリカムはサイダーの瓶を手の中で転がした。ガラスが冷たく指先を刺す。

変わらないものは美しい。けれど、それは変わることを恐れているだけなのではないか?

そう思う自分がいることに、気づきたくはなかった。

 

「くそっ、くだらない。これが自己犠牲というやつか」

 

「そうかもしれない。だがハイペリカム、忘れないでくれ」

 

アスターはゆっくりと、真正面からハイペリカムの目を見据えた。

 

「私は知っている。今の制度によって利益を得ている者がいることも、変えたときに生まれる混乱がどれほどのものかも。だからこそ――私は君を必要としている」

 

ハイペリカムは数秒、アスターの目をじっと見つめた。

やがて静かに息を吐くと、瓶の中のサイダーを飲み干した。

 

「ふん。私の自己対話には貴様以外あり得ないな。いつだって、私の疑問を解決してくれない」

 

「友は第二の己である。私たちは、そういう関係だろう?」

 

「こんな時にアリストテレスを引用するな、皮肉屋め」

 

ハイペリカムはもう一本の麩菓子をバリバリと口に押し込むと、すっと立ち上がった。

 

「とにかく考えはまとまった――かどうかは知らんが、もういい。残りは食え。また来る」

 

軽く手を振って、ハイペリカムは部屋を出ていった。

残されたサイダー瓶と麩菓子をじっと見つめる。

瓶の底に溜まったわずかな泡が、ゆっくりと消えていった。

 

遠くなっていく足音に、アスターは小さく息をついた。

そして再び引き出しを開け、眼鏡をかけ直した。

かけた瞬間、世界が少しだけ鮮明になった。




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