坂井と船崎が教官として岐阜へ赴任してから、もうひと月が過ぎた。二人は普段の訓練の成果を遺憾無く発揮し、それを見た訓練生達もメキメキと腕をあげていた。
宇都宮飛行場が滑走路改修工事をしているこの期間は、他の職員も技術教官として各地へ散っている。宇航研は全国でも有数の玄人揃いとくれば、遊ばせておく理由はなかった。
例外として、発動機開発に関わるカリュオンと設計課は残留している。
およそ半年にわたり滞在することになる二人には、場内の宿舎はあてがわれていない。その代わり、近くの温泉宿が住処となっていた。行き帰りは船崎が運転する飛行場付きの自動車で、毎日車通勤である。
そんなお客様扱いにも慣れてきた、昭和十九年二月三日。
この日は朝から天候が悪く、訓練飛行は中止となっていた。午前中を体力作りで済ませた十二時五一分。岐阜飛行場内・搭乗員用食堂。
「浜松の滑空場、管制を置いて飛行場に格上げだってよ」
すっかり空になった皿が並ぶ盆の前で、船崎が新聞越しに声を上げた。
昼食を終えた二人は、食後の一服を楽しんでいるところだった。煙草を吸わない船崎の前には、竹の皮が巻かれた大きな羊羹が置かれている。
「やっとか」半分ほどになった煙草を咥えた坂井が、口の端から煙を漏らしながら答える。
「あの辺は逃げ場がなくて、危なかったもんな」
「滑走路は一千米。川沿いのため視程が良く、知事は早急な工事完了を要請している。だってよ」
「安全になるならいいことさ」
そこへ、カラカラと音を立てて入り口の戸が開いた。
「坂井くん、船崎くん。おるかい?」
その声に、坂井が腰を上げて手を挙げる。視線の先に、岐阜飛行場管制部長・大村晃を捉えた。
「大村さん」
坂井の声に気づいた大村が、軽快な足取りでやってきた。
「ちょうどよかった。二人とも、飯は済んどるようやな」
ニヤリと笑う大村に、二人は顔を見合わせた。
「見せたいもんがある。ついてきやぁ」
──岐阜航空研究所・試験区。第六格納庫。
「見たらびっくりするで。よっ」
掛け声と共に大扉が開いて、庫内に日が差し込む。
そこには、橙色の試作機塗装を施された単葉機が鎮座していた。V型エンジン特有の長い鼻と、重量のある金属機ならではの太い主脚が目を引いた。
胴体には日の丸と9183という機体番号は書かれているが、所属を示すアルファベットも、尾翼にあるべき標章も描かれていない。
「どうや。工場から届いたばっかりのサラピン、新造の試験機
「すげえ、全金属機だ!」船橋が機体に駆け寄っていく。
「見ろ、前縁スラットがついてるぜ!」
「フラップもついとるぞ。どうや、君らで試験せんか」
「え? 僕らでですか?」
坂井は、わずかに眉を動かして大村の方へ向いた。
「岐阜にだって、テストパイロットがいるでしょう」
「確かにおる」
大村は大きく頷き、腕を組んで渋い顔を浮かべた。
「しかしあいつらは、航法装置の専門家。お前さんらのように、飛ばしてみるまでわからんような飛行機の操り方は知らんのや。教官の仕事が忙しいところすまんけど、データを取らんと次が作れん。そこで、お前さんらに任せたいんや」
任せたいと言う言葉に、坂井は機体をじっと眺めた。坂井には全金属機の操縦経験が無い。工場から来たばかりということは、まずは滑走試験だろう。そこで危険と判断すれば止められる。後席は、船崎がいれば心配はない。飛んでからのあれこれは……その時はその時か。
「癖がわかるまで半日、そこから飛ばして一日、か。日程の調整をやってもらえるなら、引き受けますよ」
「そうか! やってくれるか!」
大村の顔がぱっと明るくなって、坂井は頬を掻いた。こんなことなら、初めから乗りたいと言えばよかった。
「そりゃあ、これを見たら……少なくとも、俺は断りませんよ」
被せるように「うおおすげえ! これ油圧式かよ!」と船崎の声がかぶる。
「では、承ります」
坂井は苦笑して敬礼した。大村もくだけた答礼を返す。
「助かるよ。仕様書は機体に掛けてあるから、よろしく頼む」
「大村さん! こいつ、無線機は九七式ですか?」
いつのまにか、機体の腹に潜り込んでいた船崎が声をあげる。
「零式二号や。船崎くんは、訓練は済んどるかね」
「もちろん」船崎はひらりと身体を起こすと、大村の前に駆けてきて胸を張った。
「この俺に使いこなせない無線機なんて、日本には無いですよ」
「相変わらず頼もしいなあ、船崎くんは!」
大村のかっかと笑う声が格納庫に響く。
「よっしゃ。他の教官には話をつけてくる。詳しいことは明日伝えるから、任したで」
大村は満足げに二人の肩をぽんと叩き、格納庫を出ていった。
その背中を見送る坂井の横で、船崎が仕様書に目を走らせている。
「なあ坂井。こいつ、なかなかに癖がありそうだぜ」
坂井が覗き込むと、仕様書には三面図と装備詳細がびっしりと書き込まれていた。
坂井はすっぱりと諦めて顔を上げ、機体を再びじっくりと観察した。この主翼は、全長に対して異様なほどに幅がある。密閉型風防を備えた胴体はずんぐりして、シルエットは飛魚のようだ。主脚の位置から主翼桁の構造を推測し、胴体骨格とエンジンマウントとのバランスをイメージする。
大きな破綻は無さそうだ。坂井の目には"飛ばない"飛行機には映らなかった。
「エンジンは富士のハ-181、過給機付き。主翼は……こりゃ『駭風』の流用だ」
「ケツが細い割に舵がでっかいな。あれでいいのか?」
「資料の数字の通りなら、旋回性は高いと思うぜ」
資料に釘付けの船崎を横目に、坂井はポケットに入れた紙袋から黒糖のかけらを摘んで口へ投げ込んだ。
「ま、乗ってみりゃわかるか」
*
大村の根回しは意外に早く、翌日には早速呼び出しを受けた。その道中、坂井はカレンダーを見て気づいた。土曜日は大安だ。
機体の整備をする職員達と顔合わせを済ませた後、機体番号の前は「U」の文字が書き足された。
大村は二人に敬意を払い、嵐山を宇都宮所属の試作機として登録した。それはパイロットが宇航研の職員でありながら機体が岐阜の所属では、事故の際に責任の所在が一貫しないという実務的な問題でもある。
そして、胴体後部には宇航研試験課の標章『翼の生えた女神』が、垂直尾翼には坂井の新しいパーソナルマーク『青地丸に梨の花』が、それぞれ描き込まれた。
その後、神主によるお祓いと、エンジンの初回始動となる火入れ式が行われた。昼食を済ませ、本番の滑走試験へ移る。
坂井は問題なしと判断し、整備長も同様だった。
午後を整備に充て、明けて二月五日、午前十時。
嵐山ことミヤ9183号は、ついに初飛行に臨むのであった。
*
カチリ——指先に軽い抵抗を感じながら、船崎広がスイッチを押し込む。無線機の送信灯がわずかに灯り、ヘッドセット越しに微かなホワイトノイズが耳に滲んだ。
「岐阜管制へミヤ9183。「嵐山」第一回試験飛行、搭乗員準備完了。操縦士、坂井東一。無線士、船崎広。西エプロンにて暖機中。行程表合わせ願います」
スイッチを離すと、すぐにザリッというノイズが船崎の耳を打った。
『ミヤ9183へ岐阜管制。搭乗員確認完了。「嵐山」第一回試験飛行、行程表合わせ、どうぞ』
管制官の声は淡々としていた。それはどこまでも型通りで、儀礼的で、そして何度も危機を未然に防いできた。
「岐阜管制へミヤ9183。出航方位ヒトマルマル。目標は浜名湖航空観測所。周辺を飛行の後、岐阜へ帰投の予定」
『ミヤ9183へ岐阜管制。行程表合わせよろし。滑走路上に航空機なし』
「岐阜管制へミヤ9183。出航する」
船崎の合図とともに、白いツナギの地上員が輪止めを外す。
操縦席の坂井も、飛行前の最終確認に余念がない。その鋭い目が計器板を走る。高度計、吸気圧力計、潤滑油圧力計。
準備万端。エンジンも快調だ。
「暖機よろし。出航準備、完了」
坂井の言葉に、船崎が即座に応じる。
「岐阜管制へミヤ9183。出航準備よろし」
『ミヤ9183へ岐阜管制。出航を許可します』
管制官の返答と同時に、合図のブザーが鳴り響く。
嵐山は滑走路の端までゆっくりと進み、計測のために立てられた旗の横で一度停止した。
「後席よし」
「前席よし。フラップ展開。離昇出力へ」
スロットルを開く。プロペラが回転を上げ、機体がゆっくりと加速を始めた。
コンクリートの滑走路が、滑らかにタイヤを受け止める。半分以上を過ぎたところで、嵐山はやっと首を持ち上げた。
緩やかに上昇し、後方鏡に映る滑走路がどんどん小さくなっていく。
「高度七〇〇英尺。着陸灯、滅」
「方位170」と、船崎の指示が飛ぶ。
「方位170。宜候」
嵐山は南へと舵を切り、太平洋へと機首を向けた。その少し重い操縦桿に、坂井はこの機に込められたものが、まだ言葉になっていないまま残っているのを感じていた。
*
十一時二七分。浜名湖から西へ数英里の地点。上空約
「坂井、どうだこいつは。振動は想定内、俺は気に入ったぜ」
後席の船崎が、子供のように声を上げる。
「ああ。驔風とはえらい違いだ」
反対に、操縦桿を握る坂井は、慎重にスロットルを絞った。風に煽られて機首が右に流れ、慌ててラダーを踏み込む。フラップが風を巻き込んで、機体は右へ左へと、まるで船のように揺れていた。
「ったく。金属機ってのは、みんなこうなのか?」
「こいつは特別だよ」と船崎。
「機動フラップも前縁スラットも、試作品の塊さ。テストパイロットじゃなきゃお目にかかれないんだぜ?」
「ありがたい話だけどな、このフラップは機敏すぎるぞ」
坂井が操縦桿を軽く揺すると、それだけで機体はゆらゆらと不安定になった。
速度計はぴったり
「舵がふわふわし過ぎだ。もう少し遊びがないと、水平も取れねえや」
「やっぱりエンジンが重すぎるんだな。星形にしないと、性能は引き出しきれないか」
答えながらも、船崎は文書挟にカリカリとメモを取っていく。機体の特性や微妙な歪みを捉える感性は船崎のほうが優れているので、坂井は素直に待っていた。
「ま、試作一号機がここまで飛べるようになっただけ、進歩だよな」
坂井はマスクをずらし、飴玉を口に放り込む。マイク越しに、わずかな雑音が漏れた。
「おっしゃる通り。よし、記録終了っと」
「したっけ、一旦帰るか? 腹も減ったし、昼飯食ってる間に調整できることだけ……」
そこに突然、ブザー音が響いた。緊急周波数の受信ランプがぱっと灯り、それを認めた船崎が、送信回路の出力ダイヤルを一瞬で最低に絞る。
『名古屋管制より緊急放送。
遭難機発生、遭難機発生、遭難機発生。航空非常事態宣言を発令する。発令時刻、十一時三〇分。当該機、瀬戸内航空組合所属セ711号。機種は『駃洋』。
「坂井」
船崎の呼びかけに、坂井は応と答えた。
「もちろん行くぜ。なんたって、こいつは腹の下まで橙色だからな」
緑をベースとした他の機体と違って、嵐山は全体が試作機を示す明るい橙色一色。海上からの視認性は抜群だ。
陸上機の二人からすれば、遭難機の正確な位置を特定すれば勝ち。行く価値は十分にある。
「そうと決まれば」
「試験中止。高速巡航、用意」
フラップの収納レバーを引いた坂井の目が計器板を滑る。高度計、吸気圧力計、潤滑油圧力計。そして燃料計。
「高速巡航、宜候。ガスの残量は?」
船崎が問うと、坂井が「およそ三時間」と即答する。
「十分だな。遭難予想海域へ転進、方位270」
「方位270、宜候!」
スロットルを開き、出力を上げる。
加速を感じて操縦桿を倒すと、機体は機敏に反応した。さっきとは打って変わって、舵の効きが滑らかだ。操縦桿を通して感じる翼端の気流が、明らかに違う。
こいつは、速い方が安定するのか──。坂井はこの機体の、秘められた性能を見つけた気がした。
『岐阜管制より飛行中の各機へ一斉放送。岐阜飛行場の受け入れ体制よろし。順次我と交信せよ。おわり』
船崎がマイクを取る。出力ダイヤルを回し、送信スイッチを押した。
「ミヤ9183より名古屋管制。我、試験を中止して捜索に向かう。転進の旨、岐阜管制に取り次ぎを乞う。現在位置は豊橋航空観測所から南へ十英里。交信おわり」
船崎の通信が切れるのを待って、周辺の機体が続々と交信を開始した。
『ヒロ3011より名古屋管制。キサ2677からの支援受諾を中継する。キサ2677の現在位置は、高野航空灯台から東へ十八英里。通信圏内に入り次第誘導願う。以上交信おわり』『タチ4699。我、急送便につき道中沿岸部の捜索にあたる。おわり』
雑然とする交信に混じって、聞き慣れた声が坂井の耳を打った。
『岐阜管制よりミヤ9183。聞こえとったぞ。転進受領した。返信は不要。全力で支援にあたられよ。交信おわり』
「今の、大村さんだよな」と坂井。
「今日も管制所にいるのか。仕事人だなあ」
感心する二人をよそに、無線が鳴り続けている。
『こちら海事保安庁所属、救難飛行艇「くろわし」。あと二十分ほどで焼津港より出航する。各機の協力に感謝する。以上交信おわり』
無線が切れると、坂井の舌打ちが響いた。
「飛行艇は焼津だあ?」
「こりゃ一時間はかかるな」と、船崎が計算と記録で真っ黒になった紙を手にぼやく。
「仕方ねえ。それまでに見つけてやろうぜ」
「おう。速度、もっと上げるぞ」
エンジンの振動が大きくなって、身体が椅子に押しつけられる感覚がする。
このまま飛ばせば、想定海域までは五〇分弱。
※
二人は、十分たらずで伊良湖岬の上空に差し掛かっていた。
スピーカーがザリっと音を立てて受信を知らせる。
『こちらは第四管区所属、巡視艇「すがしま」。現在、名古屋港にて緊急出航の準備中。我の電信呼び出しには一般海難周波数を使用されたし。我の船舶符号はJC5713QG、JC5713QG。以上交信おわり』
「海保の連中、やっとお出ましか」
船崎が地図を睨みながら呟く。
「船なんかにゃ負けないぜ。転進まだか?」と坂井。
「もう少しだ」
会話を遮るように、再び無線機が鳴る。
『名古屋管制へ日本海上航空JP5017。日本海上航空JP5017。付近の漁船から、麦崎灯台南方の沖合で黒煙を吹いている飛行機を見た、と通報を受けた。遭難推定位置は麦崎灯台の南方二〇から三〇英里の範囲。繰り返す。遭難推定位置は麦崎灯台南方二〇から三〇英里だ。当機は民間人搭乗故、これにて失礼する』
『名古屋管制よりJP5017。通報に感謝する』
通信が切れると、船崎が口笛を吹いた。これで、捜索範囲は南北一〇英里、東西五英里の範囲に絞られた。第四管区全域、十四万平方英里を探すことに比べれば、感覚的には見つけたも同然だ。
「
「灯台が目印なら、話は早いぜ」
「その麦崎灯台ってのは、どっちだ?」
坂井の問いに、船崎が地図に鉛筆を走らせる。
「ちょっと待て。ええと、俺たちがここだから……方位、190。190だ。海岸線に沿って飛んでくれ」
「方位190。宜候」
二人が飛び続ける間も、名古屋管制は情報の整理を続けている。無線が、海と空に散らばる機体達を、少しずつ結び始めていた。
『名古屋管制より支援の各機へ一斉放送。遭難機は新宮の東方三〇英里付近、麦崎灯台の南方二〇から三〇英里の範囲に不時着水したものと推定される。ミヤ9183は先行して想定海域に進入せよ。続けてキサ2677、応答せよ』
しばらく間が空いて、ノイズ混じりの声が聞こえてきた。
『名古屋管制へキサ2677。感度フタ、どうぞ』
『キサ2677は新宮航空灯台上空へ回り、機首方位〇九五にて捜索に入れ』
しばらく間があって、雑音の中に小さく声が聞こえた。
『キサ2677了解。向かい風で速力が出ない。到着には時間を要すと思われる。交信おわり』
間髪入れず無線が鳴る。
『割り込み失礼。「すがしま」より各機。第四管区より、名古屋港湾管理局へ波浪及び風の状況を照会中。結果入電まで交信に留意されたし。おわり』
『名古屋管制確認した。続けて名古屋管制より各機へ。捜索支援のため、フ5922、フ1513、及びタチ8578が出航した。海側の各機は位置を送信されたし。おわり』
『フ5922より各機。現在位置は豊明航空灯台から北へ数英里。他の二機も後ろにいる。伊良湖岬を抜けたら、海岸線から捜索に入る。おわり』
雑音を残して無線が黙る。船崎は自分の番を察して、送信スイッチを押した。
「ミヤ9183より名古屋管制。現在、大王崎灯台上空を通過中。雲多し。おわり」
『キサ2677。現在位置は高野山上空。雲底低い。海岸線が見えたら降下して捜索する。おわり』
そして、無線は再び黙り込んだ。遭難機を捜索に向かっている飛行機は五機。そして、その先頭はおそらく自分たちだ。
操縦桿を握る手に力を込める。洋上の雲は、少しずつ晴れようとしていた。
*
約十分後、麦崎灯台を通過した坂井たちは外洋へと舵を切っていた。
ヘッドホンの奥で、またザリザリと音がする。
『……らは名……港湾管理局……波浪情……波高……メートル、風は東……』
「なんだ? 聞き取れないぞ」
「出力を上げてもらおう」
船崎がマイクを取るよりも早く、他の機体が反応した。
『タチ8578より名古屋港湾……再送願う。おわり』
『こちらは名古屋港湾管理局気象部です。名古屋港沖10英里地点では、波の高さ1メートル、風は東から10節を観測しています。受信どうですか?』
『タチ8578感謝する。おわり』
「最初からやっとけよな」と船崎が愚痴をこぼす。
「慣れてなかったんだろ。責めてやるなよ」
『こちら「くろわし」。ただいま離水した。二千英尺まで上昇したのち、遭難海域へ向かう。交信おわり』
『こちら「すがしま」。ただいま外洋へ出た。想定海域到達までは一時間の見込み。おわり』
「連中、やっと来やがったか」坂井は時計を一瞥した。
「このままいけば、俺たちが一番乗りだ」
「見つけりゃ休暇が増えるぜ。適当な水上機を借りて、瀬戸内うまいもんめぐりか?」
「奴らがちゃんと生きてたらな」
答えながら、坂井が電装操作盤に付けられたスイッチを上げていく。機体の各所に備えられた灯火が次々と灯り、最後に主脚の着陸灯が点いた。これで、海上からの視認性がさらに上がるはずだ。
「航空灯、点灯よろし。減速して降下する。捜索任せたぞ」
「あいよ」
船崎が黒い双眼鏡を構える。合わせるように、機体は緩やかに降下をはじめた。
*
高度八〇〇英尺まで降りた坂井たちは、捜索飛行に移っていた。
低速で舵が落ち着かない機体なので、坂井は教本通りの葛折飛行をすぐに諦めた。
そして、半径一英里ほどの円を描くように旋回しながら、中心を少しずつ北へずらしていく方法をとった。
機体は常に左へと十度傾け、船崎の視界を確保する。緩やかな旋回ならば、百二十節でも身体への負担は少ない。左舷の赤い航空灯も、発見に一役買ってくれるだろう。
雲は晴れて、視程は一〇英里ほどになっていた。海上の白波が作り出す影までが、はっきりと見える。
嵐山は重いエンジン音を響かせて旋回を続けていた。
*
捜索を続けること三十分。燃料計が、想定よりも早く沈んでいた。
「船崎、何か見えたか?」
坂井の声に、わずかに焦りが滲む。ここまでずっと、エンジンは高回転を続けていた。このままでは燃料が持たない。
「だめだ。何も浮いてない」
「そろそろ燃料がやばい。帰投限界まであと三十分」
燃料計を睨む視界が急に霞んで、坂井は頭を振った。すぐに水平儀に目を向け、機体の安定を保つ。
洋上飛行を滅多にやらない坂井は、波に目が眩んだのだと思った。
「どこだ……どこにいやがる」
その間も、船崎の目は青く光る海に釘付けだった。
水上機はフロートを履いている分、陸上機よりもシルエットが大きい。まだ浮いているなら見つけやすいはずだ。
「くそっ、波が光って見えねえ」
双眼鏡を構えるその額にも汗が滲む。もしも機体が水没してしまったら、発見はずっと難しくなる。燃料が先か、見つけるのが先か。時間との勝負だ。
「もう少し降ろすか?」
「いや、いい。ちくしょう、色素筒でも撒いてくれてりゃ……」
双眼鏡の隅に影が沈む。同時にその隙間から、赤い煙が立ち上った。
「七時下方に煙弾! 見つけた! 距離四英里!」
坂井も顔を上げて後方鏡を覗き込む。空の中に、一筋の赤い煙が立ち上っていた。
「見えた。回り込むから、無電頼んだ」
「やった! まだ浮いてるぞ!」
船崎は、ついに波間に揺れる日の丸を見つけた。二人の搭乗員が手を振っているのも見える。無線機の出力を上げ、マイクを取る。
「ミヤ9183より各機へ。目標発見。目標発見。機体は半分水没している。搭乗員は無事の様子。我の燃料わずか。誰か見えるか?」
一分ほど置いて、無線が鳴る。
『フ5922よりミヤ9183。麦崎灯台の南側六英里にいるが視認できない。煙弾にて位置を示されたし。おわり』
「まったく、目の良い連中だぜ」
船崎は腰につけた信号銃を手にした。続けて、袖のポケットから銀色の薬莢を取り出す。弾頭が赤色の蝋で封印されていることを確かめて、装填。
「赤色煙弾、装填よし。風防開けるぞ」
風防が開くと、湿った潮風が操縦席に吹き込んだ。船崎は座席帯を外して立ち上がり、筒を空へ向ける。
「各機へ。位置確認のため、赤色煙弾を打ち上げる」
同時にポンと音がして、白煙が噴き出す。煙弾は赤い筋を引いて、空の中に小さな花を咲かせた。
すぐに無線機が鳴る。
『こちらフ1513。煙弾を視認した。位置は……麦崎灯台から南東へ十八英里。「くろわし」応答せよ』
『こちら「くろわし」。位置を確認した。おわり』
風防を閉じた船崎がベルトを締め直す。
「後席よし」
「減速する。速力、九六節」
坂井はなるべく遭難機の近くに留まるため、旋回半径を狭めて速度を落とした。途端に機体がバランスを崩したので、フラップを下げて揚力を稼いでやる。不安定な状態になったとしても、確実に引き継ぐまではここを離れることはできない。
数度の旋回の後、坂井は視界の隅に影を捉えた、
「三時方向に機影」
坂井の声に、船崎がすぐに双眼鏡を構える。
「発光信号を確認。フ1513だ。後ハ任サレヨ」
「離脱する。方位〇」
坂井は翼を振って答え、機首を真北へと向けてスロットルを開いた。
そのまま安定する速度まで駆け上がり、フラップを収納する。
「帰投するぞ。方位は?」
船崎がダイヤルを操作すると、アンテナは名古屋飛行場の直線上へ誘導する電波標識を捉えた。
「帰投方位指示器合わせ、豊橋航空標識。方位046」
「方位046、豊橋航空標識。受信宜候」
機首が巡るのに合わせて、船崎がマイクを取る。
「ミヤ9183より名古屋管制。フ1513に遭難位置を引き継いで帰投する。燃料に余裕なし。受け入れ用意されたし」
『名古屋管制よりミヤ9183了解。捜索中の各機は、フ1513を除いて逐次帰投してください』
「方位よし。なんとか間に合ったな」
坂井はやっと息をついた。
「ああ。大手柄だ」
船崎はまだ興奮冷めやらぬと言った様子だ。
「貴重な飛行データだ。研究所の連中も、飛び上がって喜ぶぞ」
「まったくだ。大村さんには一つ貸しだな」
「そういうことなら、改修が済んだら俺らが貰おうぜ」
「そりゃあいい!」坂井は膝を打った。
「こいつには橙より、緑のほうがきっと似合うぜ」
こうして、岐阜航研技術試験機「嵐山」の初飛行は幕を閉じた。
*
後日——。
岐阜飛行場の一角で、坂井と船崎は、海事保安庁の職員から感状を手渡されていた。
形式ばった文面とは裏腹に、その紙はやけに軽かった。
「ま、こんなもんか」
式の後、坂井は感状の入った筒をぽんと叩いて呟いた。
「壊れたのは機体だけ。死人もいない。万々歳じゃねえの」
船崎は笑いながら、嵐山の方へ目をやった。
エプロンで静かに佇む橙色の機体は、すでに試験機の顔をしていなかった。
視線の先では、作業員が忙しなく機体の周りを走り回っている。外された装備が台車に載せられ、不要になった点検孔を塞ぐ作業が続いている。
この改修は、二人の報告書で決まったようなものだった。
高速時の安定性は翼の特性によるもので、これは僅かな改修で済む、と高い評価を得た。
しかし翼端スラットは、この機体には過剰だった。重量に見合う効果を得るには、エンジンの出力が足りていない。
——ならば、削られる。坂井にはそれがわかっていた。
嵐山は複雑な機構のない、ありふれた飛行機になろうとしている。
「丸くされちまうな、あいつ」
芝生に腰を下ろして、坂井は煙草に火をつけた。まだ冬を引きずった風が、煙を散らしていく。
「まったく、もったいねえよなあ」
その横で、船崎も歯痒そうに機体を見つめている。
「けどよ。そういうのが優秀な飛行機なんだよな。誰でも扱えなきゃ、意味が無えんだ」
「ま、テストパイロット冥利には尽きるんじゃねえの?」
船崎は、嵐山から目を逸らさずに問いかける。
「開発記録には、ちゃんと俺らの名前が載るんだしさ」
坂井はたっぷりと煙を呑んで、ゆったりと吐き出した。
「……まあ、そうだな」
やがて竣工する改修型はフラップのみを残し、水上機化改造を目指して霞ヶ浦水上機試験場へ送られることになると聞いた。
基礎スペックの高さが証明されたことで、優先開発機の指定も受けられる可能性も高い。これから、嵐山には十分な予算が投下される。水上機型が初飛行するまで、あまり時間はかからないだろう。
「さ。面倒な行事は済んだし、飯にしようぜ」
船崎の手が坂井の肩を叩く。
「午後は飛ぶんだろ。今度は、訓練生をしごき倒してやらなくちゃな」
「ああ。たっぷり絞ってやろう」
坂井は腰を上げ、煙草を皮袋に捩じ込む。歩き出しかけて、ふと足を止めた。
そしてそっと振り返り、小さく呟いた。
「——お前、結構いい飛行機だったぜ」
次回、余波。