藍星會。
それは、砂を得意とするウマ娘によって結成された生徒自治組織である。
芝のレースが制度に組み込まれる以前は学内最大勢力を誇り、輩出した生徒会長は六名に上る。
時代は下り、結成から二十余年。今やその勢いは過去の光となり、時代の主役は、芝のウマ娘に取って代わられた。この状況を打開するため、首脳陣は未だ砂が主流である地方学園との結びつきを強くすることに腐心。特に、次期主将リープパシフィック候補生は、笠松ウマ娘女学校で「吹雪」の異名を取るオオユキヤマ候補生と旧知の仲であり、協力して交換研修生の制度拡大を企図。このような、まさに砂を噛むような努力の結果、藍星會は向日会に続く一大勢力としての面目を、今日も辛うじて保っていた。
そしてアスターが練習生と共にお茶会を催していた頃、昭和十九年二月四日、正午。
ダートコース横、藍星會・野外倉庫。
土間と机しか無い掘立て小屋だというのに、そこはずいぶんと落ち着く場所に感じられた。部屋の隅には、リフィーニと一緒に出奔したノーブルレインボーが、粗末な椅子にそっと収まっている。借りてきた猫よりも大人しいその様子は、二人で行けば多少の牽制になるというリフィーニの目論見を吹き飛ばすには十分だった。とはいえ寒空に放り出すわけにもいかないので、リフィーニはまず、ふたつの椅子を貸してくれるように頼むことから始めなければならなかった。
そしてリープは、突然現れた級友を温かく迎え入れ、事情を聞いて苦笑した。
「それで、ダクティと決裂しちゃったんだ。君らしい」
リープは二人に椅子を出し、自分もどこから持ってきたのか、大きな背もたれのついた革張りの椅子にどっと腰を下ろした。
二人の間には古い木の机が置かれ、湯呑みには湯気を立てる白湯がなみなみと注がれている。小皿の上では、色とりどりの金平糖が光っていた。
石炭ストーブの上に置かれた大きなやかんはしゅんしゅんと音を立てて、吹き出す湯気が窓を曇らせていく。
リフィーニは湯呑みを大きく傾けて、ようやくと言った様子で息をついた。
「あのお方のやり方には嫌気がさしておりましたの。いい機会でしたから、これでお手打ちですわ」
淡々と語る間、リープは魔法瓶から湯を継ぎ足して、「それで、私たちに手を貸してもらえるという話かな?」
「さあ、どうかしら」
リフィーニは鷹揚に足を組み、金平糖を摘んだ。かりっという乾いた音が響く。
「そんなに高く買っていただけるのなら、あなたがどちらのお味方をなさるのか、確かめてからにしようかしら」
「やっぱり、そう来ると思ったよ」
リープは長袖の運動服の前を開けると、背もたれに寄りかかって天井を仰いだ。
「しかしだねリフィーニ。私たちは生徒会に存在を許されている組織だ。生徒会が支持する者を支持することが、ここで生き残る近道じゃないかな」
「至言ね。リープ」
級友にするにしても不躾なその態度を前にしても、リフィーニは動じなかった。ここは彼女とそのお仲間のための空間だ。つい先ほどまで自分が押し込められていた、沈没船の成り損ないとは訳が違う。
喉を鳴らして白湯を飲むリープに向けて、リフィーニがそっと口を開いた。
「あなたとは長い付き合いになるけれど、初めてお話をしたのは、いつのことだったかしら」
ふうという息と共に、空になった湯呑みが机を打つ。
「忘れたのかい。四年前の秋開催、中山レース場第四競走。天候は晴れ、良バ場。君が二枠三番、私が二枠四番」
「──そして結果は私の勝ち。結構よ、リープ」
リフィーニはやっと微笑むと、ポケットに捩じ込んだままだった緑閃党の内部文書を取り出した。すっかりしわくちゃになった藁半紙の束の中から、一枚を机に置いた。すぐに、リープの日に焼けた腕が伸びる。
「あなたが、ダクティよりもずっと友情に篤いと思っていた私の判断は、どうやら正しかったようね」
「へえ。これだけで、何かがわかるのかい?」
藁半紙に目を走らせながら、その口の端が上がる。リフィーニの翠玉色の瞳が、そのわずかな動きを見逃すことはなかった。
「あなたには教えて差し上げるけれど、ダクティはもう、名簿すら見ようとしていない。そんなに時間をかけずに、あの椅子は空けてもらうことになるでしょう」
答えながら、金平糖をもう一粒。そして口の中に広がった甘さを、白湯で流し込む。
「今のはその確認、と言ったところかしら」
「随分と、厳しい事を言うんだなあ」
リープは呆れ調子で答えた。そして、読み終えたばかりの藁半紙をくしゃりと丸めて、ストーブに投げ込んだ。燃え上がる熱を感じる暇もなく、それはすぐ灰になった。
「そこまでするなら、いっそのこと君が立てばいいじゃないか」
「私が? なんのために?」
リフィーニは顔を上げ、目を瞬いた。そう言う話を期待していたらしいリープが、怪訝そうに顔を歪ませる。
「何のために、って……。君は、学園を変えたいんじゃないのかい?」
「冗談はよしてちょうだい」
リフィーニは伏せてあった湯呑みを手に取ると、そこに白湯をなみなみと注いだ。そのまま腰を上げて、ノーブルに歩み寄り、それを手渡した。
「いくら学園を変えようとしたところで──」リフィーニはノーブルを見下ろしたまま続ける。
「一人や二人の力では、どうにもならないでしょう」
顔を上げたノーブルの瞳には、まだ不安の色が濃い。リフィーニは軽く頷きかけて、元の椅子へと戻った。
「それこそもっと上の、ちゃんと権力のある『お姉様』を味方につけないと」
金平糖に手を伸ばすリフィーニを横目に、リープはふんと鼻を鳴らした。
「そんな酔狂な卒業生が、一人でもいるもんか。優蹄会が出てきて、小指の先で弾かれておしまいさ」
「さて、どうかしら」
その答えに、リープの手が止まる。薄灰色の瞳が、ゆっくりとリフィーニを捉えた。
「まさか、何か知っているのかい?」
その問いに、リフィーニは頷いただけだった。そして視線の先にある、砂埃に汚れた窓ガラスを見やった。察したようにリープが腰を上げ、隅にあった簾を立てかけて広げた。
すぐに椅子へと戻ると、コンコンと机を鳴らした。待っていたように、リフィーニが口を開く。
「ある生徒会生が、貴賓室に出入りしている。そしてその時には必ず、車寄せに同じ自動車が停めてある。私にわかるのは、そこまで」
「ずいぶんと具体的だね」
緊張からか、リープは湯呑みを大きく煽った。ごくりと喉が鳴る。
「そこまでわかっているのなら、それが誰かも知ってるんだろう?」
「教えて差し上げても良いけれど、ひとつ、呑んでいただけないかしら」
「さて。なんだろうね」
「あの子、貸していただける?」
「誰のこと、かな」
「隠しても無駄」
リフィーニが机を鳴らすコンという音が響く。
「生徒会に潜り込ませて、あのピルソスの懐にしまってある、毒の入ったお薬のことよ」
毒という言葉に、リープの耳が震えた。椅子を少し回して肘を置き、鋭い視線がリフィーニを貫く。
「彼女を毒呼ばわりするのは、やめてくれないか」
リフィーニは動じることなく、再び湯呑みに口をつけた。
「私はいつも彼女をあてにしている。そういうことなら、力にはなれないよ」
「そういうところは、変わらないわね」
背筋を伸ばしたリフィーニの双眸が、ぴたりと級友を捉える。
「なら、私が副会長に流れるようなことがあっても、文句はなくって?」
リープははっとして顔を上げた。選択肢があることと、それを選ぶかどうかが別問題であることはよくわかっている。しかし、この級友にそれを選ぶだけの理由があるという事実が、リープの心を揺さぶった。
二人はたっぷり一分も睨み合って、リープが先に顔を下げた。
「……人は変わる、ということか。残念だ」
「あら。私は今まで、あの方が嫌いと言ったことは一度もなくってよ」
勝ち誇ったような声が響く。
「ただ、やり方が『気に入らない』というだけ」
「嫌いと気に入らないの差は、君の中では日本アルプスよりも高いもののようだね」
おどけた口調に「からかわないでちょうだい」と、リフィーニはぴしゃりと言いつけた。
「そもそも、あんな綺麗事だけで学園が変えられるなら、今頃は日本中のウマ娘が、この学園に押し寄せているでしょうよ」
「そこまでわかっているなら」リープはずいと身を乗り出し、「それこそ、副会長に与すればいいじゃないか。君の見識なら、私が保証するよ」
「そうなると、邪魔になるお方がいるわね?」
あからさまな流し目に、リープは自嘲混じりに唇を吊り上げた。
「それは、私のことかな」
「ええ。友人と損得勘定のどちらが大切かは、大人でない私にはまだわかりませんもの」
これで、状況は決したように見えた。リープにも、リフィーニを押さえておくメリットは多い。なまじ自由に動かれて、盤面が混乱する事態だけは防がなければならない。
リープは髪をかき上げ、いつのまにか滲んでいた汗を拭った。
「わかった。彼女には会わせる。ただし、私も立ち会わせてもらう。これでいいか」
「結構。それでよろしいわ」
「なら深夜零時、休憩室だ。目標に蹄鉄をかけておく」
「承知しましたわ」リフィーニはすっと腰を上げ、「ノーブル」
「はい」
やっと声をかけられて、ノーブルはすっくと立ち上がり、居住まいを正した。
「その簾を片付けなさい。帰りますよ」
二人が去って、一人残ったリープはわしわしと頭を掻いた。
「あとは、奴に悟られないことだけ、か」
すっかり燃え尽きたストーブを、靴の先で小突く。藁半紙だった灰の塊がくずれて、燃え滓の中に混ざって消えた。
同日・十二時三六分。生徒会・第三会議室。
「あのリフィーニが逃げた先が藍星會とは。ずいぶんと、大胆なことをするものだ」
リフィーニ候補生、藍星會に接近──。受け取ったばかりの紙片を手の中で握りつぶし、ピルソスは、そう吐き捨てた。
机の前には、紙片を持ってきた青鹿毛のウマ娘が凛と立っている。その冷たい視線が、ピルソスの手元に注がれていた。
「秀才を気取っていたお嬢様があのザマでは、ダクティリオスも終いだな。次を当たろう」
そこで、青鹿毛がすっと頭を下げた。
「今回は、私の読みが甘かったようです。ご迷惑をおかけしました」
「まだどうにでもなる。気にすることはない」
ピルソスは薄暗い笑みを浮かべ、空になった湯呑みを机の端に置いた。そのまま背もたれにもたれかかり、顎を上げてみせる。
「それに、アパティアは十分に動いてくれた。これで尻尾を掴めるかとも思ったが、リープパシフィックの動きが見えるなら、望外の収穫だよ」
「恐れ入ります」
青鹿毛のウマ娘は顔を上げると、手にした急須に、やかんから湯を注いだ。
それを横目に、ピルソスは極秘と赤い判の押された薄い綴込みに手を伸ばした。
開くと、それは名簿であった。生徒会に籍を置く生徒を中心に、アスターをはじめとする「反生徒会派」と目された生徒たちの名前が記されている。そしていくつかには、意味ありげな丸や三角の印が書き込まれていた。
「リリーの乙女たち、蹄鉄研究会、裁縫同好会、秀愛会、そして緑閃党のはみ出し者、か」
そっと湯呑みが差し出され、馥郁とした茶の香りが立つ。するりと茶を飲み込む一瞬の隙をついて、青鹿毛の翡翠にも似た瞳が名簿の上を走った。
湯気に目を細めたピルソスは、窃視には気がつかない様子でゆっくりと息を吐いた。
「これでいよいよ、大勢が見えてきたかな」
「しかしこの数日、ムツノイチバンが動いておりません。何か、臭いませんか」
「あれはカズラキが監視している。勘づいて大人しくしているのなら、それもまたよしだろう」
ピルソスは引き出しに入っていたキャラメルを二つ摘んだ。一つを青鹿毛に滑らせて、包みを開く。
「では、次の駒はいかがしますか」
「その前に、離反したのは、リフィーニだけなんだろうな?」
「そこまでは、把握しておりません」
熱のこもらない調子で、青鹿毛が淡々と答える。
「とはいえあの体たらくでは、同調する者はおりますまい」
「希望的観測では選挙には勝てないぞ、オーブ」
「失礼しました」
「どちらにしても、今日の今日ではろくに動けまい。ひとまずは物見としよう」
例の名簿を鞄に押し込んで、ピルソスが席を立つ。
「では、私は授業があるからこれで失礼するよ。君も、良いと思うように動いてくれ」
「承知しました」
ピルソスは上機嫌で会議室を後にした。
良いように動け──。それが、どのような結果をもたらすかも知らずに。