昭和十九年二月四日、二三時四五分。
蹄桜寮食堂棟二階・休憩室。
襖を開けると、リープパシフィックはすっかり寛いでいた。ちゃぶ台には魔法瓶が置かれ、皿に盛られた菓子が甘い香りを放っている。
「やあ、来たね」
「こんなに遅いのに、皆さまお元気な事ね」
リフィーニが腰を下ろすのと同時に、またどこかで笑い声が生まれた。この時期はいつもこうだ。学園の就学期間は、どんなに短くても五年間。卒業予定者にとっては、解放へのカウントダウンに他ならない。
やっと目の上のたんこぶが取れる、と笑いが止まらない者もいるだろう。寮生活では、最上級学年であることで生じるメリットは無視できない。
「みんな、やることがないのさ」
湯呑みを大きく煽って、リープは満足げに息を吐いた。さっと急須を手に取りお湯を注ぐ。二つの湯呑みを茶で満たすと、ひとつがリフィーニの前に置かれた。
「レースも終わって、後輩たちも育った。結構なことじゃないか」
「そうですわね。卒業おめでとうございますに振り仮名を振るとしたら、ようこそ私たちの時代、と言ったところかしら」
湯呑みに手を伸ばす。わずかに唇を濡らしたリフィーニの耳が、ひとつの足音を捉えた。それはそのまま外のドアを潜り抜けて、襖が開いた。
「久しぶりね、オーブ」
顔を上げると、青鹿毛を良く梳った、小柄なウマ娘が立っていた。行儀よく一礼して、襖が閉まる。
「ご無沙汰しております。リフィーニ先輩」
「同じ学園にいるはずなのに、なかなか会わないものね」
オーブは長袖の運動服姿であった。リープに示されるまま、座布団に腰を下ろす。三つ目の湯呑みが茶で満たされて、傍目には夜のお茶会の体裁が整った。
「さて、約束通り私は立ち会うだけだ。自由に話してくれ」
リープはそう言って、菓子の乗った皿を手に隅へと引っ込んだ。
リフィーニは、じっとオーブを見た。一つ下の後輩と話すだけなのに、レースよりも緊張しているかもしれない。当然、それは彼女が生徒会の中でも特に旧い仕組みの奥底にいるという、権威が見せる錯覚だ。裾を直して背筋を伸ばし、口を開く。
「早速だけど、端的にお伺いするわね。アスターのことをどう思っていらっしゃるの?」
なんとまあ、直裁に切り込むものだ。と、リープが苦笑を漏らす。
オーブはわずかに考えた後、ぴんと耳を立てた。翡翠のような瞳が、大きく開かれる。
「副会長は、アザーレア会長の手の届かないところにも果敢に光を入れようと努力なさっておられます。個人的な意見にはなりますが、現状の最有力候補と存じます」
「結構よ」
その返答に、リフィーニは少しだけ肩の力を抜いた。ここでアスターへの認識が食い違っていたら、この話そのものが決裂しただろう。
「そこまで見えていながらピルソスの下に居るのは、肩身が狭いでしょうね」
「お心遣い、痛み入ります」
その名前を出した瞬間、オーブの耳が揺れた。当然、リフィーニが見逃すはずもない。これは、よほど抑圧されているに違いない。
攻めるなら今か。リフィーニはちゃぶ台に身を乗り出した。
「それで。私たちには、どの程度のお力添えをいただけるのかしら」
「力添え、ですか」
オーブは目線を一度逸らし、ゆっくりと戻した。
「まずは、リフィーニ先輩のお考えをお伺いしたく思います」
オーブは慎重だった。リープがまだ何も話していないのか、わかっていて警戒しているのかは判断がつかない。リフィーニは湯呑みに手をかけると、飲み頃になった茶を一口啜った。
「アスターが生徒会長になれば、色々なことが変わるし、変えられる。そして私は、それが学園のためになると考えている──これで、よろしいかしら?」
「結構です」
あっさりとした答えに、リフィーニはやっと合点がいった。やはり、オーブ側もこちらの真意を計りきれていなかったのだ。
「ですが、私は生徒会では外様。そのうえピルソス先輩の強い監視下にあります。私の出自を警戒してのことと思いますので、具体的な協力となると」
「なるほど」
リフィーニは腕を組んだ。思ったよりも、生徒会のオーブに対する警戒度は高いようだ。奴らは無理を押して通る相手ではないし、彼女をこちらにつけたところで表立っては動かせない。使い所を誤れば大惨事だ。
「ところで、御母堂はどう思っておいでなのかしら。母娘で生徒会長におなりになれば、なかなかに箔がつくと思うのだけれど」
「積極的には応援なさらないでしょう。里桜元会長の統制は凄まじく、アングレーカム元会長などは、だいぶご苦労をなさっていると伺っております」
部屋の隅で「ほう」とリープが声を漏らした。気づかないふりをして、リフィーニが続く。
「下野した方々にもお声がけを? お勇ましい方ね」
「母はいつも申しております。大御所はまだ隠居なさらないのか、と」
「さすがは第十七代・マツカサギク生徒会長の御息女。聡明だわ」リフィーニは朗らかな笑みを浮かべ、「──ところで」
「なんでしょう」
「あのムツノイチバンたちが使っている「ポスト」という連絡網をご存知かしら?」
「……存在だけは」と、オーブが慎重に答える。
「今後ピルソスには手を貸さない、という確約と引き換えに、一つを教えて差し上げる。代わりに、あなたはそれを利用して私に情報を流す。これでどうかしら」
「お言葉ですが、私は彼女とは親交がありません」
「それはこの際、問題にはならないでしょう」リフィーニは小さな紙片を滑らせた。そこには『委細承知但御自重候。泉』と走り書きされている。
「あちらにはあちらの理屈がおありで、私たちはそれをちょっとだけお借りするの」
オーブはその紙片をじっと眺めた。わずか一文に圧縮された回答に、暗号名で記された送り主。慣れている者の仕業には違いなかった。
「結構なお話ですが」と、オーブが紙片を押し返した。
「ポストに入れられた他の方のお手紙を、私が盗み見る恐れがございます。それについては、どのようにお考えですか?」
「当然、織り込み済み」リフィーニは動じなかった。「けれど、私としてはあなたと秘密裏に連絡が取れることのほうが有利だと判断したの」
「その情報の対価が、ピルソス先輩に手を貸さないこと、ということですか」
「話が早くて助かるわ」
リフィーニは手を伸ばし、かりんとうを摘んだ。口の中に広がると黒糖の甘さを、お茶で流し込む。
「定かではないけれど、作られたのは十五年以上前だそうよ」
ということは、連絡網が作られたのは昭和元年ごろ、ということになる。時の生徒会長は二十一代ポンシーノヴァ。優蹄会の指導の下、生徒会長選挙が普通選挙に改められた時期にも重なる。あまりに出来過ぎているようで気味が悪い──オーブは肩を縮めた。
もっとも、憶測ならいくらでもできる。たとえば、学園の外に出る抜け穴だけでも十を数えるという。何から何まで優蹄会の陰謀にしてしまうのは、あまりにも芸がない。
「邪推かもしれませんが、泳がされているという線はありませんか」
「大お姉様方もめくらじゃないのよ」間違いだと言わんばかりに、リフィーニが即答を返す。
「ならばなぜ……まさか」
「その通り。私の見るところ、生徒会も一枚岩ではないわね」
それは勝利宣言に近いものだった。自分は、オーブが確実に知らない情報を掴んでいる。それだけで、この盤面は完全にリフィーニのものだ。
「して、どなたが」
ゆっくりと顎を上げたリフィーニの、白い頬がにやりと歪む。
「その前に、お約束をいただけるかしら。あなたが知らないことを教えるのは、なんだかとっても気分が良いの」
*
その後、いくつかのメモ書きが交わされて、リフィーニは静かに部屋を出て行った。ドアが閉まる音が聞こえるのを待って、リープがやっと腰を上げる。
「リフィーニは、一体何を企んでいるんだ」
リープは温くなった茶を飲み干し、煎餅をばりばりと噛み砕いた。
「あんな調子では、そのうち板挟みとなるぞ」
「先輩には、お分かりになりませんでしたか」
座布団に腰を落としたリープの、少し眠気を含んだ瞳がオーブを捉える。
「何か、仕込んだんだな?」
「はい。アングレーカム元会長のお名前を出したのは正解でした。近いうちに、接触を試みるでしょう」
「まさか。そこまで読んでいたのか」
「それに、こちらもじゅうぶんな条件が得られました。せいぜい利用させていただきましょう」
「初手は相手から、か」
「はい。数日は模様眺めといたします。副会長の出方ひとつで、盤面はどうとでも変わりますから」
彼女が敵でなくてよかった──と、リープは心から思った。同時に、これを手元に置いておけるピルソスの底知れなさが、その背中を粟立たせた。
「なあ、オーブ」語りかけながら、リープが魔法瓶に手を伸ばす。傾けると、湯はだいぶ温くなっていた。「一つ、教えてくれないか」
「なんでしょう」
「君は学園をどうしたいんだ。壊したいのか。それとも、守りたいのか」
それは、あまりにもばかばかしい質問に思えた。学園大事でない生徒などいるわけがない。どんな派閥に属していても、これだけは揺るがない共通の理念のはずだ。
そして意外にも、オーブは少し考え込んだ。
「そのご質問にお答えするには、二つの要素が未確定です」
「要素とは、なんだ?」
「新たな生徒会長がどちらを望むのか。そして、その方が私を登用なさるのか──。この二つです」
なるほどその通りだ。次が誰であれ、彼女が懐に入らなければ目的は達成されない。
それでもリープは、この後輩の頭の中に蟠る思考の向かう先が気になった。ゆっくりと湯を啜る。
「なら、君に最も有利な形に事が運んだとしたら、どうする」
「新会長を推し、初代会長・利春御大が目指した、ウマ娘の自由な走りのための学園を築きます」
絵に描いた餅も甚だしい仮定だというのに、オーブは真正面から答えを寄越した。気押されないように、ちゃぶ台に肘をつく。
「なるほど。それで、君に得るものはあるのか」
「ウマ娘の、安寧を得ます」
それは呆れるほど壮大で、しかし確信に満ちていた。野望かくあるべしとは、まさにこのことなのだろう。
「それが魔女と謳われた、オーブオレアンダーの寄って立つところか」
オーブの頷きを見たリープは、わずか一つの組織にこだわっている自分が小さく見えた気がした。
生徒会のように、金と人脈を駆使してOG会と渡り合える器ではないことはよく理解している。それがまた、彼女を縛っていることも。
リープがそっと噛み締める奥歯を慮るように、オーブが口を開いた。
「──己が脚を以て世を変えること能わざると嘆く勿れ。ウマ娘よ、その脚は凡庸に非ず。万バよ、地響きを以て天下に知らしめよ。その脚は、新たなる時代を齎すべし」
「御大の『回想録』か。しかし、書かれてからすでに五十年。もはや、枯れた理念ではないのか」
「理念とは言葉です。時が経ったのならば、今様に改めるまで」
「つまりそれが、琥珀の女神に連なる君の継承か」
「──おそらく」
「結構。君の考えはわかった」
答えると同時に、リープはあくびを漏らした。時刻は二時を回っている。そろそろお開きにしなければ、明日に差し支える。
「それで今回の件、先輩はご参加なさいますか」
「私はやめておこう」と、リープはすっかり空になった湯呑みを弄んだ。
「藍星会は学園で唯一の、砂を行くウマ娘たちの拠り所だ。秀愛会の二の舞になってしまったら、諸先輩に申し訳が立たないだろう?」
その様子を、オーブは不思議なものを見るような目で見つめていた。
「では私から一つ、ご質問を申し上げます」
「なんだい」
「拠り所が一つしかあってはならないと、どなたがお決めになったのでしょうか」
問いと同時に、リープの手から湯呑みが落ちた。それはちゃぶ台の上を転がって、オーブの伸ばした手に収まった。
その間も、リープは目を見開いたままで固まっていた。
学園の歴史は七十年に迫る。そして、一人の生徒が学園を動かすような大事に関われるのはわずか数年だ。今の組織は、何十人もの先輩たちが、こうあるべきとして築き上げてきた。それを疑うことなく享受し、つつがなく次代へと引き継いでいくことが使命だとも思っていた。
なぜ、そんな簡単なことに気が付かなかったのか。
長い吐息のあと、リープはやっと口を開いた。
「オーブ」
「はい」
「リフィーニへの最初の手紙に書き足しておいてくれ。──私も君に手を貸すことにした、と」