三日後。学校区・中央食堂。
昼時の食堂は活気に満ちていた。窓の外には春の日差しがあふれ、芝生の緑もいよいよ濃くなってきた頃。木製の長机に並んで座る生徒たちは、それぞれの昼食を前に談笑し、湯気の立つ味噌汁の香りがそこかしこに漂っている。
「それで、行ったの?」
シプロスが味噌汁を一口啜りながら、向かいに座るリーベに尋ねた。話題はもちろん、『リリーの乙女達』の件だ。
「行ったわ、当然でしょ」
リーベは漬物を箸でつまみ、ご飯と一緒に口へ運んだ。
「で? どうだった?」
「どうもこうも、リリー先輩がレース理論をぶって、それをみんなで試して、意見を書いてくるようにいわれておしまい。何か企んでるかと思ったのに、てんで拍子抜けだった」
「あら、存外ね」
シプロスはご飯を軽くかき込み、添えられていた焼き人参に箸を伸ばす。
「お祈りでもすると思った?
「いいえ。でも、もう少し先輩方のお考えが何かを聞く機会があったのかと思って」
「私が来てるのに言うわけないでしょ。目的は、私のプラムを取り込むことなんだから」
なかなか尻尾を掴ませないリリウムパイスへの苛立ちからか、リーベは鯵の開きを頭からバリバリと齧った。
「ちょっと、はしたない。それに、あなたのではないでしょ」
「あら、この学園で私をお姉様と呼んでいいのはプラムだけ。逆もまた然りよ」
「でも、条件まで示したのに、あのリリー先輩が答えを遣さないのも気になるわね」
「警戒しているのよ。私が一緒にいたから」
「まさか、鍛錬にも参加したの?」
「当然。負けるものですか」
「はあ、エトワルも大変ね」
シプロスはリリウムパイスの担当であるエトワルアルモニーの苦労を偲んだ。エトワルの適性はシプロスと同じマイル。距離が合わない練習に参加するのは、きっと大変だろう。
「エトワル? ああ、エトワルアルモニーなら来てなかったわ」
「あら、そうなの?」
「プレルディウム先輩が、ビートコンチェルトとまとめて面倒を見てくれてるんだって」
「そんな他人任せでいいのかしら」
「エトワルって確か丙級競走を勝ってるわよね。それなら、もう三種候補生にはなれるでしょう? つまり、リリー先輩の責務は果たされたってことになるのではないかしら」
「それじゃ、二種候補生の意味がないじゃない」
本来、二種候補生とは明治期のウマ娘学問所で行われていたマンツーマンの鍛錬制度を残すために成立したものだ。だから甲級競走に勝った、成績の良い生徒にのみその特権が与えられている。共に鍛錬を積んで上級のレースに勝ち、その技術を次の世代へと繋いでゆく。国際レースの出走権以前に、それが候補生のあるべき姿のはずだ。
「何を重視するかの違いでしょ? リリー先輩は最低限、求められていることはした。だからエトワルは自分の適性に合った先輩のところで鍛錬をする。適材適所、あなたの好きな考え方よ」
「もしかしてあなた、リリー先輩に迎合しているの?」
「……やめてちょうだい」
リーベは少し考えるように眉をひそめ、それからおぞましいものを見たような顔をした。
「私は人の練習生を取る気はないわ」
「まるで水と油ね」
リーベはご飯を一口食べ、冷めた味噌汁を流し込んだ。
「ともかく、しばらくは様子を見るつもりよ。次のレースは二四〇〇米に出るし、あの人のやり方の良し悪しはともかく、使えるものは使わせてもらうわ」
「止めるつもりはないけれど、ほどほどにね」
「任せて」
リーベは箸を置き、最後の一口を飲み込むと、ちらりと時計を見た。
「そういえばシプロス、午後は?」
「今日は外国語とお裁縫」
「なかなか時間が合わないわね」
「もうしばらくの辛抱ね。ひと段落したら、またお買い物に行きましょう」
「そうね」
リーベは空になった食器をお盆にまとめ、立ち上がった。
「じゃあ私、次は薙刀だから先に行くわ」
「ええ、また夜にでも」
昼時の食堂は相変わらず混雑している。お盆を片手に軽やかに歩き出した彼女の背中は、人の波の中へと消えていく。
シプロスはその後ろ姿を見送りながら、ゆっくりと味噌汁の最後の一口を啜った。
*
一時間後。学校区・道場。
「はあっ!」
カツン、カツンと木製の薙刀が交差し、鋭い打撃音が道場に響く。
リーベが踏み込む。左からの素早い横薙ぎ。プレルディウムは最小限の動きで受け流し、すかさず反撃の突きを繰り出す。
「ふっ!」
リーベは体をひねって突きをかわし、薙刀の柄を滑らせるように回しながら、刃先を下から跳ね上げるように振るう。
プレルディウムは紙一重でかわしつつ、刃の動きを殺すように自らの薙刀を打ち当てた。そのまま押し込もうとするが、リーベはすばやく間合いを切る。
間髪を入れずプレルディウムが攻勢に出た。
リーベはひらりと躱そうとするが、まるで避ける方向がわかっているかのような、鮮やかな突きが閃く。
カツン!
リーベはすんでのところで受け流し、一気に間合いを開いた。
切り返して反撃に出ようとしたリーベの足がぴたりと止まる。一瞬のうちに、プレルディウムは攻めの型を構えていた。今攻めれば、確実に負ける。
二人の間に、緊張を孕んだ静寂が流れる。
その視線が互いの穂先を睨みつけ、ほんのわずかな動きすら見逃すまいと鋭く光る。
ゆっくりと息を整えながら、二人はじりじりと歩を詰めていく。
その間にも、道場のあちこちで木製の薙刀がぶつかり合う音が鳴り響いていた。
カツン、カツン、カン……
「──はっ!」
一際高く響いた「カン!」という音を合図に、リーベが仕掛けた。
まるで風に舞う羽のように、ふわりと跳ぶ。
身を翻し、くるりと空中で回転しながら薙刀を振るう。視線を惑わす動きは、まるで舞踏のようだった。
不意の動きにプレルディウムは的を絞り切れず、一歩引いて防御の姿勢を取る。
飛びかかるリーベの薙刀がわずかに空を切った。
着地と同時に襲いかかるプレルディウムの一撃。
リーベは鋭く膝を折り、低い体勢のまま滑るように横へと移動した。まるで舞う柳の枝のようにしなやかな動きで、襲い来る穂先がつくるわずかな隙間を抜けていく。
二人の位置が入れ替わり、再び間合いが切れた。
「やぁぁっ!」
次は立て直す暇を与えまいと、リーベはもう一歩踏み込み、さらに高く跳躍した。
空中でしなやかに体を捻り、突きを繰り出そうとする腕に力が籠もる。
華麗な跳躍も、一瞬の無防備を生む。その隙を、プレルディウムは見逃さなかった。
その瞳がきらりと瞬き、リーベの放った大技の隙を正確に突いた。
カンッ!
その穂先が鋭く閃く。狙い澄ました一撃が、リーベの薙刀を正確に弾き飛ばした。
手を離れた薙刀がくるくると回転しながら床へ落ちた。
リーベは軽やかに着地したものの、大技に体力を使い果たし、肩で息をしていた。
額にはうっすらと汗が浮かび、荒い呼吸を整えながら、プレルディウムをじっと見据えた。
「そこまで! プレルディウム、一本!」
審判役のウマ娘が手を挙げ、プレルディウムが構えを解く。
「構えー礼! なおれ!」
二人は向き合って礼をして、道場の隅へ退いた。
「次! ミヤコヤマザクラとセントリーカップ!」
「はい!」
入れ替わりの組みが小走りで出ていく。
リーベは面を外すと、手拭いで顔を拭った。窓から吹き込む春風が、火照った肌を優しく撫で、汗が引いていく。
隣ではプレルディウムも面を外していた。束ねられた青鹿毛のポニーテールがふわりと揺れ、すらりと背へと落ちる。
「プレル先輩。お手合わせ、ありがとうございました」
「こちらこそ。それよりさっきの技、すごかったわ! 久しぶりに負けちゃうかと思った!」
リーベは息を整えながら、視線を落としたまま応える。
「跳ぶ技が作りたくて、自分で編み出しました」
「自分で! すごいわね」
プレルディウムは笑みを浮かべるが、その目にはどこか探るような色が混じっていた。
「そっか、それで昨日の練習に来なかったのね?」
リーベは一瞬、わずかに間を置いた。
「……いえ、それは……リリー先輩に誘われまして」
「ん? リリー先輩に?」
「ええ。私の担当のことで、お話があると」
その瞬間、プレルディウムの表情がわずかに変わった。
「──ははぁ、なるほどね」
微笑んだまま、彼女は軽く腕を組む。まるで何かを確信したような仕草だった。
リーベはその様子を見逃さなかった。
「それで……先輩にも、お聞きしたいことがあるんです」
プレルディウムの目がすっと細くなる。興味を引かれたのか、それとも最初から覚悟していたのか。
「いいわ。ここじゃなんだし、着替えたらポテトへ行きましょ!」
*
日が傾き始め、街灯がぽつぽつと点り始める頃。カフェー「ポテト」の扉を押し開け、制服姿のリーベとプレルディウムが中へ入る。
店内は電球の柔らかな光に包まれ、隅ではクラシックのレコードが静かに鳴っている。
席はまばらに埋まっていた。本を読む者、談笑する者など、夜を控えて、店内は憩いの場の色を濃くしていた。
二人は窓際の席についた。テーブルには柔らかな湯気をたちのぼらせる紅茶のカップが二つ。
「ふぅ、今日もなかなか動いたわね」
プレルディウムがカップを手に取り、紅茶をひと口。滑らかなポニーテールが軽やかに揺れる。
「それで、知りたいことって?」
「ええと……」
リーベは迷いながらも、昨日のリリウムパイスとのやり取りを語り、そして尋ねた。
「プレル先輩は、どうしてリリー先輩に協力しているんですか?」
プレルディウムは、カップを持ったまま、じっとリーベを見た。
そのまま数秒が過ぎる。やがて彼女は小さく笑い、紅茶をひと口飲んだ。
続きを促されたのだと思ったリーベが続ける。
「学園のやり方を無視して、エトワルを蔑ろにするようなやり方、どうしてそんなことをするのか、私にはわからないんです」
「ふむ、ふむ」
プレルディウムは紅茶のカップをくるりと回しながら、楽しげに聞いている。
「なるほどね」
そして、一拍置いてから、さらりと言った。
「正直に言うと、私はリリー先輩のやり方それ自体はあまり好きじゃないの」
「──やっぱり」
リーベは思わず呟いた。
「でも、エトワルが望んだことでもあるのよ」
「エトワルが?」
「そう。あの子の夢は故郷へ帰って教師になること。そのためには学園での成績を上げて、師範学校の推薦を取るのが一番の近道。でも、練習生はレースに出なきゃいけない。そこで、リリー先輩は自分のやり方を通すために、エトワルになんでも自由に選ばせる交換条件を出した。私を選んだのもエトワル自身。だから文句も出ないという訳。まあ、あの子も割り切ってるのよね」
プレルディウムは、どこか楽しげに肩をすくめる。
「でも、それじゃあコンチェルが……」
リーベが言いかけると、プレルディウムはくすっと笑った。
「コンチェルはコンチェルで、自分の鍛錬に集中できてるわよ? 私だって、やるべきことはやってるけどさ、正直なところ──」
彼女はテーブルに肘をつき、少しおどけた口調で言った。
「あなたも候補生になってわかったと思うけど、私はもうちょっと自分の時間が欲しいの。勉強もあるし、やりたいこともあるし」
「それって……つまり、全員の利害が一致しているってことですか?」
「そういうこと!」
プレルディウムは紅茶をもう一口飲んで、満足げに微笑む。
「リリー先輩は自分のやりたいことをしてるし、私は勉強の時間が取れる。コンチェルはまだ自分の鍛錬に集中する時期だし、エトワルはコンチェルと居ることで”鍛錬をしている”っていう体面を保てる。ほら、意外とうまく回ってるでしょ?」
リーベは少し考え込みながら、静かに頷く。
「そんな事情があったのですね」
「まあね。でも、あなたはまだ候補生になったばかりだし、こういう話に慣れてなくても仕方ないって」
プレルディウムは軽く紅茶をかき混ぜながら、リーベを覗き込むように微笑んだ。
「それに」
「……それに?」
プレルディウムは、カップを置き、茶目っ気たっぷりに指を立てる。
「実はね、この話、いつか誰かにすることになるって──リリー先輩が言ってたの」
「えっ?」
リーベは思わず目を見開く。
「どういうことですか?」
「リリー先輩はね、自分のやり方が候補生の伝統に悖ることをちゃんとわかってたの。だからエトワルを私に預ける時に、“そのうち誰かが問いただしに来るわ”って言ってた」
プレルディウムはクスクスと笑いながら、リーベを指さす。
「で、その”誰か”が、まさかあなたになるなんてね!」
リーベは複雑な心持ちだった。
リリウムパイスがそこまでの事態を見込んでいたことよりも、その『いつか現れる誰か』に自分がなってしまったことに。
「つまり、リリー先輩は……」
「ん? なあに?」
「もしかして、間違ったやり方を止め……」そこまで言って、リーベは口をつぐんだ。例えそうだったとして、今の状況を利用できるか、まだわからない。急いで結論を出す必要もない。
「いえ、買い被りでした」
その様子を見たプレルディウムは意味深な笑みを浮かべた。
「さあ、どうかしら。あの人も時々、突拍子もないことを考えるからね」
プレルディウムは表情を隠そうとカップを手に取った。リーベの考えに、そうだと思う、と答えられる確信もなかった。
リリウムパイスは確かに尊敬するべき先輩には違いない。けれど、プレルディウム自身も、そのやり方に疑問を持っていることには違いない。そのわだかまりを悟られないように、柔らかな笑顔をリーベへと向けた。
「さて、疑問は解決したかしら?」
「はい。ありがとうございました」
リーベが礼を述べると、プレルディウムは満足げに頷いた。そして、まだ半分ほど残ったカップを手に取り、ぬるくなった紅茶を一口で飲み干した。
「じゃ、私は先に行くね。ゆっくりしていって」
椅子を引く音が静かな店内に響く。プレルディウムは軽やかに立ち上がると、ポニーテールをひょいと揺らしながら入り口へ向かった。扉のベルが軽やかに鳴り、夜風がわずかに吹き込む。
リーベはテーブルに残るプレルディウムのカップを見つめながら、そっと息をついた。
あの人は私に、何を選べというのかしら。
窓の外では、すっかり夜の帳が降り始めていた。
*
同時刻。蹄桜寮一号棟・談話室
日は西の空に沈みかけ、窓の外は茜色から藍へとゆっくりと移り変わっていた。
談話室には上級生たちが集い、夕食を前にして思い思いの時間を過ごしている。
隅では誰かが勉強でもしているのか、パラパラとページをめくる音がする。窓辺では、二人組が白熱の将棋を指していた。時折、小さな笑い声が響き、湯飲みが卓に置かれる軽やかな音が混じる。柔らかな照明が木目のテーブルを照らし、静かな安心感が漂っていた。
夕方から消灯までの間、蹄桜寮では高等科生は談話室、本科生は自習室へと分かれるのが不文律となっていた。
ここには自然と、経験を積んだ者たちの余裕が漂っている。
リリウムパイスは、出入り口近くの小さな卓で、同輩のステラペルセウスと向かい合っていた。
ステラペルセウスは金髪を短く切りそろえたボブカットのウマ娘で、穏やかな微笑を浮かべながら、指先でコップの縁をなぞる。その中では、サイダーの泡がちらちらと弾けていた。
「そういえば、そろそろね?」
リリウムパイスが問いかけると、ステラペルセウスは軽く瞬いた後、すぐに意図を察した。
「ああ、もうそんな時期か。今年も完走狙い?」
「もちろん。今年もいただくわよ」
リリウムパイスは唇の端を釣り上げた。
白い髪から覗く切長の瞳が、微かに光を帯びる。
「おお怖い」
ステラペルセウスは大袈裟に両手を挙げてみせた。
「私は今年も、そこそこで退かせてもらうとするよ」
「まあもったいない。今年は楽しくなるのに」
コップに口をつけていたステラペルセウスはそのままリリウムパイスに目を向け、わずかに片眉を上げた。
「ほう。君にも好敵手がいたのかい?」
「さあ、どうかしら」
「もったいぶるな。いつのレースでやりあった奴だ?」
「レースじゃなくて、今年の初年生よ」
「まさか! 長距離に敵なしと呼ばれた君が、初年生に手こずるわけがないだろうに」
「負けるつもりは毛頭ないわ」リリウムパイスは口元に微笑を湛えたまま、ちらりと横目でステラペルセウスを見やる。ほんの一瞬、瞳に揺らめく光が射したような気がした。
「けど、走り切るくらいなら、やってみせるかも。ね、楽しみでしょう?」
不敵な笑みを浮かべるリリウムパイスを見て、ステラペルセウスは鼻を鳴らした。
「なるほどね。やっぱり君に足りないものは、血湧き肉躍る好敵手との戦いなんだな」
「そう見える? 私はどんなレースでも、最後には全員を撫で切って差し上げるつもりなのだけど」
「それだよ、それ」
ステラペルセウスは指先で軽く卓を叩いた。
「君は自分の土俵なら、どんな相手にでも勝てると思っているだろう? それこそが、君に好敵手がいないという明確な証拠さ」
「私が強すぎる、とおっしゃりたいの?」
「ある意味でね。君ほどの持久力のあるウマ娘はほかにいない。それが破られることのない強みだとわかっているから、そんな底知れない笑みを浮かべていられるんだろう?」
「ええ。あなたも挑んでらして構わなくてよ? いつだって、お相手して差し上げるわ」
「よしてくれ。私は
「残念ね」
ガチャリ。
不意にドアが開いた。
リリウムパイスがすっと振り返ると、土に汚れた体操服姿のエトワルアルモニーが現れた。
「お姉様。ただいま戻りました」
「あら、今日は早いのね」
エトワルの声を聞くなり、リリウムパイスはすっくと立ち上がる。
ステラペルセウスは肩をすくめ、コップの中の残り少ないサイダーを軽く揺らした。
「もう行くのか?」
心なし寂しげな声に、リリウムパイスは肩越しに振り返る。
「ええ。お風呂が混む前にね」
「担当が帰ったと思えばすぐにこれだ。まあいいや、またな」
リリウムパイスはほんの小さく手を振り、エトワルに向き直って肩にそっと手を置いた。
汗で微かに湿った体操服の布越しに、彼女の息遣いが伝わってくる。
「お疲れさま。行きましょう」
リリウムパイスがするりと外へ出ていき、ドアがゆっくりと音を立てて閉じた。
やわらかな震えが床板を伝い、まるでその場の空気だけが、何かを噛み締めるように静まり返る。
ステラペルセウスは黙ってコップを持ち上げ、残っていたサイダーを一息に呷った。
微かな炭酸が喉を刺し、胸の奥に残ったのは、冷たさというより、鈍く沈むような重さだった。
「ねえステラ、あれがもうすぐってほんと?」
ぴょこぴょこと足音を忍ばせながら、背後からヤマノハルカゼが声をかけた。
大きな耳がそわそわと揺れ、彼女の無邪気な関心が言葉よりも先に届いた。
「あれって?」
わざととぼけるように言うと、ハルカゼはむっとしたように唇を尖らせる。
「東京急行。さっき話してたじゃない」
「やっぱり聞いてたのか」
「聞こえちゃったの」
耳をぺたんと伏せ、どこかいたずらを見つかった子のようにかぶりを振った。
「ああやだやだ。毎年のことだけど、長く走るだけなんて、何が楽しいのかしら」
「伝統ってやつだよ。完走しようなんて思ってるのは、一部の物好きだけさ」
「もうちょっとでいいから、私たちに合わせてもらえないものかしらね」
「君も私も、長距離は得意じゃないからね。それに──アザーレア会長のうちは、まあ無理だろうな」
「それってつまり、ロートアスターが……」
「しっ」
ステラは鋭く指を立て、唇に当てた。その様子に、ハルカはきょとんとしてそのくりくりした目を瞬かせた。
「ハルカ。今は、余計なことは言わないほうがいい」
「なんで?」
無垢な問いに、ステラの眉間に静かに皺が寄る。
「勘が悪いな、君は。伝統というものはな──変えようと口にしただけで、拒絶する者がいる。まるで、自分の存在を否定されたとでも思うように。たとえ、それがほんの呟きだったとしても、だ」
「……でも、私は権力争いなんて興味ないし」
「君になくても、興味がある者は確かにいる。そして、そういう連中は決まって、大きな声を持っているものだ」
ハルカが口をつぐむ。
ステラは空になったグラスをそっと卓に戻し、しばらくそれを見下ろしていた。泡の跡が、底に円を描いて残っている。
「君だって、面倒ごとに巻き込まれるのは嫌だろう?」
「……それは、そうだけど」
「なら、あと一年はおとなしくしていたまえ」
窓の外に目をやる。日はすでに沈み、外灯がカーテン越しに机を淡く照らしていた。
その光に、机の上の空きグラスがかすかに煌めく。
「機会は、必ずやってくる。今は、時を待て」
「ステラ、やっぱりあなた……」
「まだ言うな。今は我慢しろ」
「うん。わかった」
ハルカは素直に引き下がった。この同輩の無邪気さが、ステラの庇護欲を掻き立てた。
バツン、とスピーカーが音を立て、鐘が鳴る。夕食の時間だ。
一斉に立ち上がる足音が談話室を揺らし、ざわめきが遠くから押し寄せてくる。
「ステラ。私は難しいことはよくわからないけど、アスターのやってることは、正しいと思う」
その言葉に、ステラは短く息を吐いた。
「ああ。私も、そう信じているよ──いずれは、ね」
ステラの視線は、もう夜の帳が降りた窓の向こうへと向いていた。
次回、希望と野心と