蹄音、高く   作:上條つかさ

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希望と野心と

 それから半月の間、リーベはプラムを連れてリリウムパイスの下へ通っていた。

 

 皮肉なことに、「リリーの乙女達」の鍛錬法はプラムを飛躍的に成長させていた。それはリーベにも影響を与え、自己ベストをわずかに更新させるほどに効果的だった。

 

 シプロスは、昼食のたびにリーベの愚痴を聞いてやりながら、漏れてくる鍛錬の内容を自らの経験に照らし合わせ、ちゃっかりと応用した。さらに、簡略化させたものはカナの鍛錬にも取り込まれた。

 

 デビュー2年目を迎えた新進気鋭のウマ娘達のレース期間が始まり、学内は活気にあふれている。

 

 そして今日は、週に一度の鍛錬休み。

 

 いつものようにリーベと昼食を済ませ、早々と寮へ戻ったシプロスは、郵便受けに封筒が届いていることに気づいた。

 

 中身に見当をつけたシプロスは、微笑みを隠しきれない様子で階段を駆け上がった。

 

 *

 

 制服の襟元を整えながら、カナが扉を開けた。

 

「ただいま戻りました」

 

 机に向かっていたシプロスが、静かに顔を上げる。

 

「お帰りなさい。カナ、ちょっと」

 

「はい。なんでしょう」

 

 シプロスは静かに引き出しを開けた。そこから取り出されたのは、少し厚みのある茶封筒。カナの目にも、それがただの手紙ではないことはすぐに分かった。

 

「開けてみなさい」

 

 慎重に封を切り、封筒を逆さにすると、小さなワッペンが、手にふわりと落ちた。

 

「わあ……」

 

 黒い縁取りに、若緑の地色。それはシプロスのものと同じ、適正距離一八〇〇米を示す証だった。指先でそれをつまむと、想像よりも重みがあった。心の奥で、何かが静かに波打った。

 

「あなたの優駿章よ、大事にしなさい。それと、これ」

 

 続けて差し出されたのは、空色の薄紙で丁寧に包まれた、小さな包み。両手でそっと受け取り、包みを開いていくと、なめらかな手触りの無垢の桐が姿を現した。

 箱の蓋には、大きく焼き印が押されている。

 

 ──Rusticana。

 

 自分の名だった。少しだけ胸が熱くなる。

 

 シプロスが、わざわざ自分のために拵えてくれたのだろう。そんなことを考えると、包み紙の感触までが特別なものに思えてくる。

 

 蓋をそっと開けると、中には紫のサテンが敷かれ、中心に優駿章がぴたりと収まる形の窪みが設けられていた。

 

「お姉様、これ……!」

 

「プレゼント。日に焼けるといけないから、普段はそれにしまっておきなさい」

 

「ありがとうございます。大事にします」

 

 言葉にしきれない思いが、胸いっぱいに広がっていく。優駿章の重みも、箱の香りも、すべてが今日という日の証だった。

 

「じゃ、夕ご飯に行きましょうか」

 

「はい!」

 

 カナは優駿章の入った桐箱を胸に抱き、制服のスカートをふわりと揺らしながら、シプロスのあとに続いた。

 

 *

 

 よく晴れた次の金曜日、ドタドタと走る足音が廊下に響いた。

 

「シプロス、どこにいるの!」

 

 自習室のドアが爆音をあげて開き、リーベが転がり込んできた。

 

 何事かとざわめく他の生徒の注目を浴びながら室内をずんずんと進んでいく。当のシプロスは、カナの隣でまったりと縫い物をしているところだった。

 

「はあ、やっと見つけた」

 

「自習室では静かになさい」

 

 シプロスは顔も上げず、耳を絞って迷惑そうに答えた。

 

「いいこと。お裁縫なんてしている場合じゃないの」

 

 アイリがシプロスの細い腕をむんずと掴む。

 

「ちょっと、危ないじゃない」

 

 作業を邪魔されたシプロスはやっと顔を上げた。

 

「一体どうしたの?」

 

「どうしたもこうしたも、東京急行の日取りが決まったの!」

 

 リーベがそう発した瞬間、自習室全体が水を打ったように静まった。

 

「……東京急行?」

 

 誰かがそう呟いた瞬間、自習室が湧き上がった。そこかしこで椅子を引く音が響き、どこからか悲鳴まで聞こえてくる。シプロスも勢いよく椅子を蹴飛ばして立ち上がった。

 

「カナ、悪いけどお裁縫道具を片しておいて。それからプラムを探して、アイリが遅くなることを伝えてちょうだい。十七時までに戻らなかったら、夕食は二人で先に済ませていいから。ほらアイリ、行くわよ」

 

 シプロスは矢継ぎ早に指示をすると、カナの返事も聞かずにリーベの手を引いて歩き出した。

 

「師範代はこっちへ!」「監督生はどこにいるの?」

 

 蜂の巣を突いたような騒ぎを引き連れた候補生たちが次々に退出し、遠くなるざわめきに合わせて自習室のドアがゆっくりと閉まった。

 

「東京急行って……なに?」

 

 訳もわからないうちに置いていかれてしまったカナが、ぽつりと呟く。

 

 すると、向かいにいた芦毛の練習生——七三と書かれた袖章をつけているので、二つ上の先輩のようだ——が「東京急行は東中尉が企画する長距離マラソンなの」と教えてくれた。

 

 いわく、もともと学園には長距離マラソンで心・技・脚を鍛えるという催しがあった。後に季節ものとして体系化され、年に一度、学園を出て多摩辺りをぐるりと走って戻ってくるという大イベントになった、というのだ。そして現在の企画責任者である東京太郎(あずま けいたろう)中尉の名をとって『東京急行』とあだ名されているらしい。

 

「それで、どのくらいの距離を走るんですか?」

 

「二五英里よ」

 

 カナの質問に、芦毛の先輩はこともなげに答えた。

 

「二五英里⁉︎」

 

 二五英里、つまり四〇キロともなれば、いくらウマ娘でも汽車や自動車を使う距離だ。当然、カナはそんなに長い距離を走ったことはない。

 

「スタートは払暁。日没までに戻ってくればいいから時間的には厳しくないけれど、一日かけても二五英里はキツいわね」

 

 カナは脚を棒にしてよろよろと走るウマ娘の集団を想像して、尻尾の先まで震え上がった。

 

「そ、その、棄権とかは……?」

 

「もちろん、してもいいわ。ただし、来年まで『東京急行に挑めない小心者』と言われる覚悟があるならね」

 

「レースの都合以外で走らなくていいのは怪我人だけ。健康なら、走らないと恥よ」

 

 隣から、明るいブロンドのウマ娘が口を挟んできた。袖章からして、芦毛のウマ娘とは同学年のようだ。

 

「そうよねぇミリアム。あなた、去年は一〇英里地点でお医者様に止められてしまったものねぇ。スタート前はあんなに意気込んでいらしたのに私より先に棄権してしまうなんて。ああ! なんてお可哀想なこと!」

 

「あらあら。イーリアス様にご心配いただけるなんて、三女神様のご加護を得たも同然。恐縮の極みでございますわ」

 

 ブロンドのウマ娘、ミリアムがゆっくりと立ち上がると、つられてイーリアスと呼ばれた芦毛のウマ娘も立ち上がる。二人は踵を鳴らして歩み寄ると、鼻先が触れそうな距離で睨み合った。

 突然始まった応酬に、間に挟まれたカナは縮こまって見ていることしかできない。

 

「けれどおあいにく様。あなた、1年あれば赤ん坊だって立ちあがるってご存知かしら? 今年はちゃんと、あなたより先まで走ってご覧にいれましてよ」

 

「それは楽しみですこと。なんでしたら救護所を廻って、後からやってくる勇敢なウマ娘をどうか止めないでくださいまし、と触れ回って差しあげましょうか?」

 

「ご配慮痛み入りますわ。ですが、今年は先発組に登録させていただくつもりですの。イーリアス様におかれましては、のこのことごゆっくりお走りいただいて、救護所の皆様には私のフォームが如何に美しかったかでも、どうぞお尋ねになってくださいませ」

 

 どうやら、スタートさえしてしまえば、途中棄権は誹謗の対象でないらしいことだけはわかった。

 

 しかし、何気ない一言から先輩の口喧嘩を招いてしまったカナは、どうしたらいいかわからずにおろおろとするばかり。

 2人はじっと睨み合ったまま、一触即発の様相を呈していた。

 

「あなたたち、いい加減になさい!」奥から栗毛のウマ娘がやってきて、睨み合う2人の間に割って入った。

 

「初年生が困っているでしょう。喧嘩なら正々堂々、コースへ行ってやりなさい‼︎」

 

 引き剥がされても、二人は絡めた目線を外さない。慇懃にやり取りをしているだけで、この二人はよっぽど仲が悪いのかもしれないとカナは思った。

 

「ですってイーリアス。エトワルさんのご提案よ、キリよく1英里で決着をつけるのはいかがかしら? さあ、ついていらして」

 

 スカートを翻して、ミリアムが出入り口へ昂然と歩き出す。

 

「よろしくてよ。ゴールの後で芝の味についての品評を聞かせていただくのが楽しみだわ」

 

 その後にイーリアスが続いて、二人は外へ出ていった。

 

「あなた、大丈夫?」カナを慮ってか、栗毛のウマ娘は先ほどとは打って変わって優しい口調で話しかけてきた。

 

「私はエトワルアルモニー。七三期よ、よろしくね」

 栗毛のウマ娘はそう名乗ると、カナの隣の席についた。

 

「あっ、はい。よろしくお願いします」

 

「あの2人に脅かされたでしょうけど気にしないでね。誰にでも得意不得意がありますから、スタートしてしまえば、結果についての悪口雑言は厳禁なの」

 

「でも、今のお二人は……」

 

 先ほどのやりとりは悪口雑言どころか、ザラメをまぶした暴言にしか聞こえなかった。あれが候補生を目指す練習生達の作法なのだろうか。

 

「ああ、あれね」

 

 エトワルは軽くため息をついて「あの2人はいつもああなの。走る口実が欲しいだけだから、気にしなくていいわ」と呆れ調子で言った。

 

 そういうことだったのか。ルスティカーナは理解したしるしに相槌で答えた。

 

「心配しないで。師範方はスタートからずっと自動車でついてくるし、途中には給水所も救護所もちゃんと用意されてるの。それに初年生が最初の三英里で棄権するなんて珍しいことじゃないんだから。あなたも危ないと思ったらすぐに棄権して、脚を壊さないよう気をつけてね」

 カナは再び頷いた。

 

 どうやら命の危険はなさそうだが、そうなると不思議なのは候補生達のあの慌てようだ。

 

「なら、どうしてお姉様方は、あんなに血相を変えて出て行かれたのですか?」

 

「それはね、東京急行が非公式な寮の対抗戦になっているからなの」

 

 エトワルの話すところによると、候補生たちは、この催しを最もスタミナのあるウマ娘を決めるレースとして楽しんでいるというのだ。

 当然、各棟の監督生も一枚噛んでいて、優勝者には賞品として大浴場一番風呂の権利三〇日とカフェーの珈琲券一〇枚が進呈されるという。

 

「私のお姉様も優勝候補だから、きっと作戦を練りに行ったのかもね」

 

 長い距離があまり得意ではないカナは、シプロスが直接指導している。だから同じ一号棟の先輩達ともあまり面識がない。この先輩のお姉様は誰なのだろう、とカナは思った。

 

「それと、これも非公式だけど、お姉様方は上位見込みのウマ娘で賭けをしているの」

「それ、いいんですか?」

 ルスティカーナは眉間に皺を寄せた。

 

 ウマ娘のレースを賭けの対象にすれば手が後ろに回る。そんなことは小学校で教わるはずだ。

「もちろん、外でやれば問題ね」

 エトワルは腕を組み、思わせぶりな顔をした。

 

「もちろん、師範方は先刻御承知よ。けど、一口たったの十銭。だから黙認されているの」

 

 一口十銭とはいっても、蹄桜寮の候補生だけでも四〇〇人、練習生も含めれば五〇〇人を超える。一人三口も買えば一五〇円になるのだから、結構な金額だ。

 

 ルスティカーナは納得できないという様子で唇を尖らせた。

 

「そんな顔しないで。たまのお祭りみたいなものよ。完走するのは十人いればいいほうだし、実入りは部活動費の足しになるの。さ、私もヤマを張りに行かなくちゃ」

 

 エトワルは椅子を引いて立ち上がった。ヤマを張ると言うことは、賭けに参加するのだろう。

 

「シプロス先輩に言われたでしょう。お道具を片付けて、お友達を探しに行きなさい」

 

 エトワルはそう言って、外国語で書かれた本を抱えて部屋を出ていった。

 

 それから、カナはすっかり人のいなくなった自習室で、てきぱきとシプロスの裁縫道具を片付けた。

 

 シプロスが戻ってきたのは、消灯時刻も迫った頃だった。

 

 *

 

 翌日。

 

「東京急行の話、聞いた?」「四〇キロなんて無理無理。私は三英里でやめる」「うちの班長が、初年生は五英里でいいってさ」「根性ないわね、一〇キロくらいは頑張んなさいよ」

 

 本科一年生の教室は、朝会で正式に発表された東京急行の話題で持ちきりだった。

 

「カナちゃん。東京急行、どうする?」

 

 そんな休み時間、隣の席のミュルテブーケが話しかけてきた。

 

 彼女はプラムを通じて知り合った同級生で、候補生から指名を受けていない一般の練習生。寮が違うので、顔を合わせるのは教室くらいだ。

 

「お姉様は、五英里走れば充分って言ってたけど……どうしようかなあ」

 

 カナは小さなナイフで鉛筆を削りながら答えた。

 

「私のところの班長がね、『駿風寮の誇りにかけて、誰か一人くらい完走しよう!』って張り切っちゃって。もう大変なの」

 

「そうなんだ。先輩がたくさんいると、やっぱり大変?」

 

 カナの周りにいる先輩は、シプロスも含めて皆優しく、時に導いて、時に背中を押してくれる者ばかりだった。そうではない種類の先輩もいるという事実が、カナの心をほんの少し暗くした。

 

 自室ではシプロスの機嫌さえ気にしていればよかったカナにとって、駿風寮のような共同生活は想像もつかなかった。学年も目指すものもバラバラなところに、班長同士の勢力争いまで加わるとなれば、そのヒエラルキーの複雑さは想像を軽く超えるだろう。

 

「もう大変。でも、カナちゃんは先輩と二人部屋だもんね」

 

 カナは特命練習生として、自分が学内でも特別な待遇を受けていることを薄々察していた。それでも、同級生に対してそれを鼻にかけるようなことは、その性格が許さなかった。

 

「そうだけど、ブーケちゃんのほうがお部屋が広いでしょ?」

 

「広くても、一人あたりは何畳もないよ。それに、ベッド以外はなんでも共用なんだもん。一人部屋なのは、班長だけ」

 

「そうなんだ……」

 

「だから、はやく班長になって一人部屋を貰うか、候補生になって、カナちゃんと同じ寮に入りたいな」

 

 ブーケは口にこそ出さないものの、カナを羨むような目で見た。それが本心なのか、会話の中の軽い冗談なのか、カナには判断がつかなかった。

 

 カナの暮らす蹄桜寮一号棟では、監督生以外には二種候補生か、その指名を受けた練習生しかいない。よってヒエラルキーという言葉は、そのまま年功序列という意味になる。

 

 ブーケの話を聞く限り、駿風寮ではひとつのレースに勝った負けたでコロコロと立場が変わるのだろう。カナは、もしも自分が彼女の立場だったら、きっとやって行けないだろうと思った。

 

 自分が大半の生徒よりも恵まれていると気づいたカナは、なんだか申し訳ない気持ちになって、無理に話題を変えようとした。

 

「えっと、ブーケちゃんは、もうレースに出る話はしてるの?」

 

「どうだろう。瀬田大尉は、秋には出られるように鍛錬を組むって仰ってたけどね」

 

 ブーケは熱のない調子で答えた。鍛錬はウマ娘同士でも、レースの出走の可否は師範に決定権がある。

 

「だけど、東京急行の距離次第では、夏休みの後には出してもらえるかもしれないんだ」

 

「レースに出るの、楽しみだよね。勝ったら、家族にも自慢できるし」

 カナは微笑んで応じた。

 

「うん。でも……」

 一拍置いて、ブーケは少し声のトーンを落とした。

 

「でも?」

 

「大きなレースじゃないと、ラジオで放送されないんだって。家に写真が届くのも、早くても五日かかるって」

 

 口元は笑っているのに、その笑みには寂しさがにじんでいた。ほんの少しうつむき、指先で制服の裾をいじるその様子に、カナはふと胸の奥がちくりとした。

 

「ブーケちゃんの家って、確か……」

 

「秋田。冬には、家から出られなくなるくらいの雪が降るの。カナちゃんは?」

 

「私、宇多津から来たんだ。だから、積もった雪なんて見たことない」

 

 ほんの少し声を弾ませる。話題を切り替えるように、けれどそれは、どこか優しく包み込むような口調だった。

 

「そうなの? 宇多津って香川県だよね。瀬戸内って、そんなに暖かいんだ」

 

「いつか遊びに来てよ。塩田がずーっと広がってて、綺麗だよ」

 

 カナの声には、どこか思いやりがにじんでいた。自分の故郷の話をしながら、ブーケの心に少しでもあたたかさを届けたかったのだろう。

 

「じゃあいっぱいレースに勝って、一旗あげないとね。偉くなったら、どこでも行けるもん」

 

 そこまで言って、まだ走ったこともないのに勝つ気でいるなんて、と言って、ブーケは照れくさそうに視線を逸らした。けれどその頬には、先ほどよりも確かな笑みが浮かんでいた。カナのささやかな気遣いが、ちゃんと届いたのだ。

 

「うん、一緒にがんばろうね」

 カナは笑ってうなずいた。

 

「応援するよ。四年生になるまで、こっちの寮で待ってるね」

 

「カナちゃん、ありがとう」

 

 ブーケがやっと笑顔になってくれて、カナはすっと気が楽になった。——その瞬間を断ち切るように、教室の戸が勢いよく開いた。

 

「起立!」

 

 当番の号令に、二人は慌てて椅子を蹴った。

 

 レースに勝って、偉くなって、やりたいことをやる。

 ブーケちゃんが目指しているものは、お姉様に教えられた義務に縛られたレースとは、ちょっと違うのかもしれない。

 

 学園に来てわずか一月。この短い期間で、カナは色々な生徒と出会い、多様な夢のあり方を見た。

 

 まだ見たこともない本物のレースの向こうには、誰ひとりとして同じではない、色とりどりの夢がそこにあるようだった。

 

 昼の明るい日が差し込む教室で、カナは一人、夢のかたちをそっと心に描いた。

 

 *

 

 十四時三十分。

 蹄桜寮一号棟二階、監督生室。

 

 南向きの窓から春の陽光が差し込み、室内の木製の床に淡い影を描いていた。窓辺のカーテンが風に膨らんでは揺れ、静かな部屋にかすかな布擦れの音を響かせる。

 

「で、今回の作戦は?」

 

 ユノークローネが椅子の背にもたれ、右手に紅茶のカップを掲げながら言った。淡い色合いの茶が揺れ、その香りが室内にふんわりと広がる。彼の視線は窓際からテーブル越しの相手へと戻っていった。

 

「なんのことかしら」

 

 リリウムパイスは対面のソファに腰掛け、組んでいた脚をゆったりと組み替えた。カップを持った手は微動だにせず、そのままの姿勢でユノークローネを見つめている。頬に浮かぶ薄い笑みは、曖昧で、それゆえに確信を帯びていた。

 

「とぼけないでくれよ。東京急行のことに決まっているだろう」

 

「あら、私に勝つおつもり? ユノー」

 

「まさか。僕はしばらく走ってないんだ。今年は、数英里で降りるよ」

 

 ユノークローネは笑いながらカップを置き、すぐにテーブルの上のビスケットの皿に目をやる。だが手は伸ばさず、その代わりに椅子の肘掛けに腕をかけて上体を傾けた。

 

「あなたも少しは手を抜くようになったのね。結構なことだわ」

 

「心外だな。僕はいつだって全力だよ? そうじゃなきゃ、監督生なんて務まらないよ」

 

「あなたの手腕は評価しているわ、ユノー」

 

 リリウムパイスはそう言って静かに笑った。唇に触れたカップが僅かに濡れ、そのまま手元の皿へと戻される。彼女の前の丸テーブルには、形の揃ったビスケットがいくつか欠けたまま置かれていた。

 

「でも来年に向けて、そろそろ次の監督生も考えていただかないとね。誰か、目星はつけられたのかしら」

 

「そうだねえ。僕としては、もう少し監督生でいたいんだけどね」

 

 ユノークローネはテーブルの端に置かれた書類を指で軽く弾いた。指先の動きには張りがなく、沈黙がひと呼吸だけその場に流れる。

 

「なら、もう少しシャキッとしなさい。ご自分で望まれてこの役職にいらっしゃるのに、疲れた顔をされるのは見ていられないわ」

 

 そう言って、リリウムパイスはスカートのポケットから小さな紙片を取り出し、指先で滑らせるようにテーブルの上に置いた。淡い色の厚紙には、整った手書きの名前が並んでいる。

 

「きちんと人を使って、手を抜いてちょうだいな」

 

 ユノークローネはそれに目を通すと、静かに頷いてから、手元の本に紙片を挟んだ。

 

「ありがとう。お言葉に甘えることにするよ」

 

「あのお方の天下もあと一年。……そうしたら、私たちの時代が来るのよ」

 

 リリウムパイスはカップを軽く回しながら、紅茶の中で踊る光を眺めていた。ユノークローネは黙って彼女を見つめ、やがて肩を竦めた。

 

「君は、アザーレア会長がそんなに嫌いなのかい? 僕なんかは、あの保守的な先例主義に、だいぶ助けられたのだけどね」

 

「困るわ、ユノー。あなたにも、きちんと役目を果たしていただかないと」

 

 彼女の声音はやわらかいが、言葉の選び方に遠慮はなかった。

 

「やめてくれよ、リリー」

 

 ユノークローネは、わざと大げさにため息をついてみせる。

 

「監督生は生徒会の役員になれない。君も知っているだろう」

 

「それならそれで、寮の統制をきちんとしていただかなければ困るの。来年こそ生徒会長をアスターにしなければ、私たちに未来はないのだから」

 

 リリウムパイスの声には、確信と切迫が入り混じっていた。ユノークローネはその言葉に応える代わりに、空になったカップをそっとソーサーに戻す。

 

「その時は、一部の先輩方が猛反発するだろうね」

 

「学園に残る先輩方はもう僅か。そして来年になれば、その数は私達よりも少なくなる。そうすれば、私たちの番ってわけ」

 

 ユノークローネはリリウムパイスの目を探るように見つめた。部屋の時計が、静かに一刻の針を刻む音が響いている。

 

「まったく、君の慧眼には恐れ入るよ」

 

 ユノークローネは諦めて目を逸らした。今回も彼女の勝ちだ。

 

「それで、アスターは一体何をするつもりなんだい?」

 

「わかりやすく言えば、私たちウマ娘の解放……それとも、自立、とでも言った方が良いかしら?」

 

「ずいぶん遠大な話だね。たかが三年で、そんなことができるのかい?」

 

「校則に、生徒会長の任期を明文化したものはないのよ。単純に、卒業と世代交代がイコールで結ばれていただけ」

 

「つまり、アスターは──」

 

 リリーはそっと唇に指を当てた。

 

「これ以上は言えないわ。監督生に収まって、生徒会の枠の外にいる、あなたには」

 

 ユノークローネは静かに眉を上げる。皮肉めいた笑みを浮かべながら、椅子の背に身を預けた。

 

「そういう君だって、徒党を組んで生徒会とやり合っているらしいじゃないか」

 

「あら、徒党とは聞き捨てならないわね。私たちはきちんと、生徒会の承認を得ているのよ」

 

「ほう。つまり、見返りということか。アスターのやつも、なかなかに狡猾だ」

 

 リリウムパイスは微笑みを崩さず、目線だけを窓の外に滑らせた。

 

「──ご想像にお任せするわ。それと、東京急行だけれど」

 

「そうそう。それで?」

 

「今年は、きっと面白くなるわよ」

 

「君が負けるくらいに、かい?」

 

「ふふっ。それはあり得ないわ」

 

 ユノークローネは、彼女のほころぶ笑みの裏に何かを探るように、その横顔をじっと見つめた。

 

「まさか、初年生から完走する者が出る、と?」

 

「ええ」

 

「気になるね。誰だい? それは」

 

「ナイショ。今はまだ、右も左もわからない子だけれど……数年後には、どうかしらね」

 

「なるほどね。それが君の後継者となるのか」

 

「あら。私は今の立場を世襲にするつもりはなくってよ。欲しければ、いつでも奪いに来るといいわ」

 

 リリーの口角がぐっと上がる。凛とした光を宿す瞳が、ユノーを真っ直ぐに捉えた。

 

「ふふ。百合という花が、こんなに恐ろしいものだったとはね」

 

「私の名は、ただの百合ではなくってよ。白く、気高く、美しく。それこそが、花の王の証」

 

 そのとき、校内に本科の授業終わりを知らせる鐘の音が響いた。室内の空気がわずかに揺れ、時の流れが現実に戻ったことを告げる。

 

「あら、もうこんな時間」

 

 リリウムパイスはゆったりと立ち上がり、整えられたスカートの裾が柔らかく揺れる。白い髪が背を流れ、午後の光を帯びてきらめいていた。

 

「もう行くのかい?」

 

 ユノークローネの問いに、彼女はドアの前で振り返った。

 

「今日は、エトワルたちと鍛錬の約束をしているの。たまには、お姉様らしいこともしなくっちゃね」

 

 ドアノブに手をかけた彼女はふと動きを止め、再びこちらへと視線を送る。

 

「そうだ、ユノー」

 

「なんだい?」

 

 ユノークローネは柔らかな微笑みを湛えたまま答えた。

 

「あなたにも、三女神様のご加護を。じゃあ、頼むわね」

 

 そう言い残して、リリウムパイスは部屋を後にした。

 ユノークローネは、その言葉が何を意味しているのか、わかっていた──あるいは、わからないふりをするしかなかった。

 

 窓のカーテンが揺れ、遅い午後の光が机上の本を照らしていた。




次回、芝蘭結契の夜
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