蹄音、高く   作:上條つかさ

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芝蘭結契の夜

 昭和十八年五月十八日、午後二時八分。

 教室棟三階会議室。

 五月の陽光は明るく、室内の窓はいくつか開け放たれていた。吹き込む風は確かに涼しかったが、それでも、これだけの人数が会議室を埋め尽くし、身動き一つせず座っていれば、空気は次第にこもっていく。

 湿気こそ少ないものの、場に満ちた人熱は、じわりと肌にまとわりつき、背筋に不快な汗をにじませた。

 

 長机には東京急行実行委員と幹部級の生徒たちが整然と並び、その他の生徒会生は、奥に並んだ椅子に腰掛け、黙したまま場を見守っている。

 誰もがきちんと制服を着こみ、その襟元は正しく整えられている。ギラリと光るメガネのレンズが、堅苦しい空気とともに暑さを助長していた。

 

「さて、最後の議題は東京急行ね。手短に進めましょう」

 

 アザーレアは銀色に光る丸メガネをくいと直した。

 

「日程は発表にある通りだから省略するわ。では、今年も皆で力を合わせて、誰一人怪我することなく終わらせましょう」

 

 ぱらぱらと小さな拍手が上がる中、アザーレアは手元のノートを静かに開いた。

 わずかに黄ばんだその表紙には、「昭和十七年六月」と、去年の日付が丁寧な文字で記されている。

 

 その制服は、新品のような張りを保ちながらも、硬さを抑えた手入れの良さが窺える。

 窓から吹き込んだ微かな風が、襟元を揺らした。

 

「今年もコースを含め、運営は全て昨年を踏襲して変更なし、ということでよろしいかしら」

 

 アザーレアが、涼しげな声で言う。

 だが、空気の重さにその声も少し滲んで感じられた。

 

「はい。異存ありません」

 

 文化委員長のヒャクニチコウが即座に手を挙げた。

 制服の袖口がぱりりと音を立てるほど整えられている彼女は、アザーレアの忠実な腹心と目される存在。

 その動きは、最初から決まっていたかのように淀みなかった。

 

 アスターは小さく肩を動かし、腰掛けた椅子で微かに体勢を変えた。

 固い椅子に長時間座ったせいで、背中に熱がこもり、どうにも落ち着かない。

 

 眉根に皺を寄せた彼女に、アザーレアの鋭い視線が向けられる。

 

「アスター、何か意見があるのかしら?」

 

「いいえ、特にございません」

 

 アスターはほんの一瞬逡巡したが、すぐに小さく頭を下げた。

 何かを変えようとしても、今は時機ではない。

 それがわかっていても、口をつぐむのはやはり苦かった。

 

「そう。なら、通過地点の割り当てを発表してちょうだい」

 

 アザーレアがすっと指先で促すと、書記のベイサナイトが立ち上がった。

 開けた窓から吹き込む風に、彼女のスカートの裾がわずかに揺れる。

 

「私から、各地点の配置を発表いたします。五マイル地点は──」

 

 淡々と名前の読み上げが続く。

 アスターは腕を組み、片膝をずらして組み替えながら、どうにか意識を保っていた。

 

「──以上です」

 

 読み上げを終えた書記が席に戻ると、部屋にわずかなため息が漏れる。

 

 アスターは軽く鼻を鳴らした。

 ここまで詳細に決まっているのなら、何かを議論する意味など最初からない。

 ただ、形だけの「同意」を取るための会議だ。

 

 出走者として三回、その後は生徒会生として二回の東京急行を経験したアスターは、伝統というものがいかに虚構の上に成り立っているかを痛感していた。

 

 そんなアスターの視線をよそに、アザーレアは何事も無いように会議を進めていく。

 

「駿風寮の割り当てがまだのようだけれど、回答は何時いただけるの?」

 

 その声は淡々としていたが、微かに疲労の滲みがあった。

 会議室の熱気に押されるように、彼女もまた、意識して呼吸を整えているようだった。

 

「各棟の寮長に、来週中には提出するように申しつけてあります」

 

 書記の返答に、アザーレアは軽く頷いた。

 

「よろしい。では、配布した去年の資料をもって準備に入ってちょうだい。私はこれから阪神レース場へ発つ。不在の間の諸々はアスターに伝えるように。では、解散」

 

 椅子が一斉に軋み、固く詰めて並んでいた生徒たちが三々五々立ち上がる。

 開け放たれた窓から新たに風が流れ込み、やっと熱の層がわずかに掻き乱された。

 だがそれも、廊下へ向かう生徒たちのざわめきにすぐに飲み込まれていく。

 

 あっという間に人が捌けて、会議室にはアスターとアザーレアだけが残された。

 

 アスターもやっと腰を上げ、机の上に置いた資料をまとめかけたところで、ふいに呼び止められた。

 

「アスター」

 

「はい。なんでしょう」

 

 アスターはすぐに背筋を伸ばして応じた。

 制服の生地が、こすれ合って微かな音を立てる。

 

 アザーレアは鷹揚と椅子にかけたまま、こちらを見ていた。メガネが光って、その真意を覆い隠している。

 

「どうにも気に入らない、ってお顔ね」

 

「いえ、そんなことは──」

 

 言いかけたアスターに、アザーレアは冷ややかに笑った。

 その仕草さえ、制服の整った身なりと相まって隙がない。

 

「隠してもダメ。大方、全部決まってから発表するなんて、とでも思っていたのでしょう」

 

 アスターは軽く唇を噛み、こぼれるため息を飲み込んだ。

 手元の資料を強く握りしめる。

 

「……ご明察です」

 

 開催まであと二週間。

 この期に及んで変更を求めれば、混乱は必至だ。

 それがわかっていても、胸の奥に残るざらつきはどうにも消えない。

 

「案外正直なのね、あなた」

 

 アザーレアはそれ以上追求しなかった。

 なのに、室内に残った湿り気を帯びた空気のせいか、整えられた制服の襟元さえ心なしか重たく感じる。

 

「その正直さに免じて教えてあげる。来年も生徒会の一翼を担ってゆくおつもりなら、余計な感情は抜きになさい。一人一人に構っている時間なんてないの。絶対多数の幸福を最大限まで引き上げることが、生徒会、ひいては私に課せられた義務」

 

 言葉の一つひとつはよく磨かれ、冷たく響いた。

 アザーレアは左腕に巻かれた腕章を、指先で軽く叩く。

 

「それがお分かりにならないうちは、あなたにこの腕章は重すぎる。私が卒業した後のことまでとやかく言うのはお節介かもしれないけれど、よくお考えになってから立候補されることね」

 

 アスターは押し殺した表情で、じっと前を見た。

 窓の外で、どこかのウマ娘が練習をしている声がかすかに響く。

 それすら、今は無関係な世界の音だった。

 

「ならば会長。これが終われば解放されるのですから、素直に晩節を汚したくないと言ってみてはどうですか」

 

 アスターはわずかに皮肉を交えながら言った。

 しかしその声音には、怒りよりも、むしろ焦りに似たものが滲んでいた。

 

 アザーレアは大きく息を吐き、おもむろに組んだ足を解いた。

 手の甲で滲んだ汗を拭い、背もたれに身体を預ける。

 

「それで求心力が保てるなら私がとっくに言ってるし、その方がずっと楽よね。でも、理想論をぶって通じる時代は、もう終わったの」

 

 姿勢を崩しても、アザーレアの返答はどこまでも冷静だった。

 

「なら、前例をなぞり続けることは求心力に繋がるのですか」

 

 アスターが返す。

 熱に浮かされるような思考の中で、それでも言葉を選びながら。

 

「なるわけないでしょう。このやり方が最も効率的で、反感を生まない。だから皆が選ぶ。この腕章をつけた時に選べる選択肢はただ一つ、“見限られないこと”なのよ」

 

 アザーレアは軽く鼻を鳴らした。

 会議机の上、誰もいなくなった長机に、今やただ書類だけが残っている。

 

「つまり、私に最小の悪になれ、と?」

 

「……ふむ。それも間違いではないかもね。誰か一人に百点をもらうよりも、全員が一点をくれて、誰も零点にならない。それを目指すのが生徒会長の仕事。わかったかしら?」

 

 アスターは、しばし黙った。

 立ち止まったまま、蒸し暑さに滲む額の汗を無意識にぬぐう。

 

「はっきりわかりました。いかに学園の制度が歪んでいるか。そして、なおさら私が登極せねばならぬことが」

 

 彼女の声は、先程までとは違う、静かな決意を孕んでいた。

 

「そう。ならお好きになさい」

 

 アザーレアはようやく微笑みを浮かべた。汗で滑り、ほんの少しずり落ちたメガネの向こう側で、赤い瞳が瞬く。

 

「そうだ、一言だけ。私を理解するもしないも自由だけれど、あなたが副会長である間は、私の言うことを聞かなければいけない立場なの。それは忘れないで」

 

 その時、会議室の扉が控えめにノックされ、間を置かずに戸が開く。

 現れたのは、生徒会の腕章をつけた生徒だった。緊張した面持ちで、手元のメモを握りしめている。

 

「会長。飛行機が立川に着いたとの電話がありました。まもなく車が来ます」

 

 生徒は一礼して告げた。

 

「予定より遅れてるわね」

 

 アザーレアは懐中時計を一瞥し、わずかに溜息をついた。そして、資料を鞄に詰め込んで脇に抱えた。

 会議室の重苦しい空気を少しだけ和らげるように、また窓からそよ風が吹き込んでいた。

 

「話せてよかった。後は任せたから、後片付けよろしく」

 

「はい。行ってらっしゃいませ」

 

 アスターは一礼した。

 背筋を伸ばすその仕草は、彼女なりの矜持の表れだった。

 

 アザーレアはそれに背を向け、歩き出す。

 制服の裾が、規律を体現するように揺れた。

 

 そして扉のところでふと立ち止まり、振り返らずに言った。

 

「あなたが何を考えているかは聞かないけれど、年が明けるまでは大人しくしていなさい。学園は有象無象の巣食う伏魔殿。甘い見積もりで生き残れるところじゃなくってよ」

 

 アスターの返事を待たず、アザーレアは廊下へと消えた。

 

 残されたアスターは、深く小さな息を吐き、窓から吹き込む風に顔を向けた。

 

「後片付け、か」

 

 それがこの小さな会議室のことだけを指していないのは、彼女にもすぐにわかった。

 明確な指示ではなかったし、正式に託されたわけでもない。

 生徒会選挙までは、まだ幾月もの時間がある。

 それでもアスターにはわかっていた。アザーレアは、今のこの段階でただ一人、自分という存在を「人」として、そしてその考え「だけ」は認めたのだと。

 

 それは称賛でも信頼でもなかった。

 けれど、否定されなかったという事実だけが、蒸し暑い午後に一筋の風のように胸に残った。

 

 *

 

 同日十八時。官営伊丹飛行場。

 

 プロペラの唸りもすでに止み、夕暮れの芝を撫でる風の中に、油と草の混じった匂いが漂っていた。飛行機は静かに翼を休め、空気だけが振るえている。

 

 タラップを下りるアザーレアは、片手にダッフルバッグを提げながら、制服のスカーフを緩めて大きく息を吐いた。

 

「……ふう」

 

 肩の力をようやく抜くその仕草は、学内で“会長様”として過ごす彼女の姿とは異なり、どこか年相応の疲れをにじませていた。

 

「お疲れのようだね」

 

 すぐ隣にいたホーテンシアが、水筒を差し出した。ジャギーの入った芦毛の髪が傾いた光にきらめき、やわらかな目元と相まって、街の教師のような落ち着きを感じさせた。

 

 アザーレアは水筒を受け取りながら、どこか呆れたような目を向ける。

 

 なぜか、学園からずっと一緒にいたホーテンシア。生徒会の一員でもない彼女が秘書役を買って出た理由は、アザーレア自身にも計りかねていた。

 

「ありがとう。飛行機はどうも苦手ね。耳が痛くなるわ」

 

「おやおや。君にも苦手なものがあったとは」

 

 ホーテンシアは大袈裟におどけてみせた。アザーレアと同級生の彼女は、戦績が振るわずにターフを去った後も、大学編入を目指して学園に籍を置き続けている。そして入学以来、二人は長い友情を育んできた。だがそれを知る者は、学内でもほんのわずかだった。

 

 アザーレアは喉を鳴らして飲み干し、ふうと息を吐いた。どこか嬉しそうにすら見えた。

 

「それにしても、あなたも物好きね。生徒会でも無いのに、レースが見たいだなんて」

 

 そう言って、水筒を返したアザーレアはサクサクと芝を踏んで歩き出した。陽が斜めに差し、影が長く伸びる。芝はところどころぬかるんでいたが、彼女は気にした様子もなく靴の先で払うだけだった。

 

「つまらないわよ、今のレースは」

 

 その声は心なしか重く、夕日に照らされたメガネが表情を隠している。

 

「実は、私は君が心配だったんだ。レースはその口実。そろそろ発散してやらないと、また破裂するからね」

 

 ホーテンシアは彼女の少し後ろから歩を揃える。軽やかな足取りだが、アザーレアの言葉に対する真剣さは崩していない。

 

「そこまでして大阪までついてきたの? あなたって、本当に世話焼きね」

 

「君に必要なのは、対等でいられる仲間だからね。こういう時でもないと、ゆっくり喋れないじゃないか」

 

「私は公用でレースを観に来たの。二五〇マイルを、しかもお国の飛行機で」

 

「なら、汽車の方がよかったかい? あの時間に府中を出たなら当然夜行で、着くのは明日の昼過ぎだろうけどね」

 

「私はそんなにのんびりしていられないの。あなたにもわかるでしょ」

 

「やっぱり、飛行機にしてよかったじゃないか。これで二晩はゆっくり寝られるね」

 

 ホーテンシアは再びおどけてみせたが、その笑みの奥には計算を秘めた光があった。芝に立つ二人の影が、夕陽に引き伸ばされて重なり合う。鞄一つにまとめられた荷物も、道中で誰に会っても失礼のないように整えられた制服も、その一つひとつが周到に準備されたものだった。

 

 この一夜のために。

 アザーレアのために。

 

「それに、メインのレースは明後日だろ。今夜くらい良いじゃないか」

 

 言葉の合間に、次の飛行機が降りて来た。エンジンの爆音と、巻き起こる風が二人の耳を揺らす。

 

「……まあ、食事の後なら」

 

 アザーレアは飛行機に目線を向けたまま答えた。それが照れ隠しであることは、ホーテンシアには察するまでもないことだ。

 

「そうこなくちゃ。私の愚痴も、たっぷり聞いてもらわないとね」

 

「勝手になさい。さ、車が来たわ」

 

 アザーレアの視線の先、格納庫脇の通用路から黒塗りの車が姿を現した。砂利を控えめに鳴らしながら滑り寄るその様子は、まるで彼女の気配を察したかのようだった。

 

「そうだ。今日の宿は良いところだよ。カズラキ君に頼んで、学園の名前で押さえてもらったからね」

 

「あなたって人は、また勝手に」

 

「生徒会長様を宿舎の粗末な布団に寝かせるのか、と言ったらあっさりだったよ」

 

「はあ。まあいいわ」

 

 アザーレアはすっと顔を上げた。

 

「せっかく押さえたなら、堪能しに行きましょう」

 

 わずかに肩をすくめながらバッグを持ち直し、車へと歩き出す。その隣を歩くホーテンシアの足取りは、アザーレアと同じだけ静かで、それでもどこか、その歩幅に合わせているようでもあった。

 

 *

 

 二一時十三分、ホーテンシアの部屋。

 

 すっと襖が開くと、ゆったりと浴衣を着たアザーレアは部屋に足を踏み入れた。

「やあ。来たね」

 待っていたホーテンシアも同じ浴衣に身を包み、まだ少し上気した頬を紅色に染めていた。

 湯上がりの肌には、宿の湯気と檜の残り香がわずかに漂っている。

 

 室内には行灯の明かりがぽうっと灯り、障子越しの闇が静けさを際立たせていた。

 床の間には一輪挿しがあり、咲きかけの桔梗が飾られている。荷物らしいものは端に置かれたダッフルバッグ一つだけで、他には何もない。旅の一夜を静かに受け止めるような、余白の多い部屋だった。

 

 アザーレアは静かに襖を閉めると、羽織を丁寧に畳み、畳の縁に沿って几帳面に腰を下ろした。その所作にはまだ「会長」の癖が残っていたが、湯上がりの表情にはわずかな緩みが見えた。

 畳の軋む音すら柔らかく、二人の間に流れる空気は、湯にほぐされた心地よさと、それでも残る言葉の重さを内包していた。

 

「あなたに絆されるのは、これで何度目かしらね」

「良かっただろ、温泉。疲労回復と腰痛に効くと、この辺じゃ有名らしいよ」

 

 ホーテンシアは湯呑みに茶を注いだ。やや黄味を帯びた番茶の香ばしさが、蒸気とともにふわりと広がる。

 湯呑みを差し出すとき、ホーテンシアはわざと視線を逸らした。湯の熱が彼女の指先を伝い、アザーレアの手に触れる一瞬に、何かを委ねるような静かな気配があった。

 

「ふう……」

「やっと一息、かい?」

 

 アザーレアは湯呑みを手にしながら、一拍の沈黙を挟んで答えた。湯気はまだ熱を保ち、眼鏡の縁をかすかに曇らせていた。

 

「あなたに隠し事はできないわね、ホーテンシア。今の悩みは、アスターのこと」

 

 その名を口にした瞬間、行灯の灯がふと揺れたように感じた。気のせいだったかもしれない。けれど、名が持つ重みは確かに二人のあいだに落ちた。

 

「彼女ならよくやってるじゃないか。七〇期じゃなくても、あれほど優秀なウマ娘はいないだろう」

 

 ホーテンシアはそれを事実として言った。評価でも弁護でもなく、ただの観測だった。だが、そこにわずかに含まれた感情のざらつきを、アザーレアは聞き逃さなかった。

 

「だからこそ、よ」

 

 彼女は頬杖をつきながら、売店で買って来た羊羹の竹の皮を剥いた。刃物を使わず、指先で静かに裂く。慎重な動きだった。まるで、その話題そのものを裂いているかのように。

 

「というと?」

 

「彼女の目指している事の大きさ。聡明なあなたにも、まだ見えていないのね」

 

 ホーテンシアは何も言わず、湯呑みの縁に唇を寄せた。その目はアザーレアから逸らさず、茶の苦味すらも味方につけるような沈黙だった。

 

「話しなよ。どうせ誰にも言えてないんだろ」

 

「そうね」

 

 障子の向こう、竹垣がまた細く鳴った。風の音にまぎれて、どこか遠くで鈴虫がひとつ、涼やかに声を落とした。

 

「私が今まで、先例を遵守することで学園を守ってきたことは、あなたもよく知っていることだと思う」

 

「うん」

 

 ホーテンシアの返事は短かったが、肯定の音色に迷いはなかった。

 

「けれどアスターは、その先例を“歪み”だと言った。全員が幸せになるためには、それでは足りない、と」

 

 その言葉を口にする時、アザーレアの紅い瞳が一瞬揺らいだ。理解と不安と、後悔にも似た色が交錯していた。

 

 ホーテンシアは静かにアザーレアの瞳を見ていた。そこにある感情の層を読み取ろうとするように。あるいは、読み取ることをやめまいとするように。

 

「私ももう卒業。だから次に生徒会を担うのは、七〇期の中の誰か。そして、アスターを支持するかもしれない者は、決して少なくない」

 

「それは、危機感かい?」

 

 問いには、からかいも断罪もなかった。ただ、問いそのものが純粋だった。だからこそ、答えるのは難しかった。

 

「あるいは、ね。学園は教育の場である前に、この日本を支えるウマ娘を排出する場でないといけないの。そのためには、例え凝り固まっていると言われようと、伝統を守る必要がある。そう思わない?」

 

「駿風寮の私にお政治の話はわからないけれど、君たちは二人とも、学園が大事なんだね」

 

 ホーテンシアの率直な言葉に、アザーレアは微かに笑った。その笑みには疲労と自嘲、そして、それでも誇りを手放さぬ意志があった。

 

「入学して八年もいれば、学園に愛着を抱かないほうがどうかしてる。けど、私もここへ来て、それが全て正しいとは思えなくなってきているのよ」

 

「かと言って今更変えるわけにもいかない。君が出す、いつもの結論だ」

 

「ええ。でもアスターならやるかもしれない。私が卒業してしまったら、もうアスターを止められない。変えさせないために対立候補を出すのか、アスターに賭けたらいいのか。今の私には、わからない」

 

 アザーレアは、湯呑みの縁に指を添えたまま、言葉の残滓をそっと口の中で転がした。茶の味はもう薄れていたが、心の苦みは抜けなかった。

 

「……だろうね」

 

 ホーテンシアの声が、ふと柔らかくなった。意図的ではなかった。ただ、そう言うしかなかった。

 

「それ、どういうこと?」

 

「どちらも正しいんだ。君も、アスターも。だから君たちは必死に悩み、そして必死に抗う。──それは、当然のことなんだよ」

 

「必死に、抗う」

 

 アザーレアが繰り返すその言葉は、すでに自分の中で何度も反芻した記憶の欠片だった。

 

「そうだろ。君は自分の信条と、より生徒達が幸せになれるかもしれないアスターの考えを天秤にかけている。それが釣り合ってしまったから、そんなに苦しんでいるんだよ」

 

 ホーテンシアは、湯呑みを包んだままのアザーレアの手をそっと取った。夜気はもう冷えていたが、湯の温もりと掌の熱だけは確かにそこにあった。

 

「それだけ生徒のことを考えているんだ。君がこの先に何を選んでも、誰も恨みはしないよ」

 

「ホーテンシア、あなたは教師に向いているわ。ついでに、生徒会に入るべきだったわね」

 

 その言葉に、ホーテンシアは寂しげに笑った。

 

「生徒会は向いてないよ。君のように、いつも気丈に振る舞うのは向いてない。それに」

 

「それに?」

 

「君の泣き言を聞く特権は、私だけのものにしておきたいからね」

 

 ホーテンシアの声は、いつもよりわずかに低かった。行灯の光が、彼女の頬の線を静かに照らしていた。冗談とも、真剣とも取れるその言葉に、アザーレアはすぐには返事をしなかった。

 

 けれどその沈黙は、拒絶ではなかった。まるで湯気のように、ゆっくりと、空気の中へ溶けていった。

 

 *

 

 同じ頃。

 蹄桜寮一号棟、シプロスの部屋。

 

「そう、そこをひっくり返して……そう」

 

 シプロスは、カナと共に大量の鉢巻を拵えていた。

 夜の九時を回り、廊下のざわめきもすっかり収まった。寮の灯りは落とされつつあり、この部屋の中も、天井の裸電球ふたつでは少し心もとない。そこでシプロスは、机の上にあった電気スタンドを床へと下ろし、ふたりの手元を明るく照らしている。

 

 板張りの床に並んで座るふたりの下には、椅子用の座布団がそれぞれ一枚。椅子を使わないのが不思議と落ち着く、そんな夜の作業だった。

 

 東京急行で、一号棟の寮生は皆、同じ色の鉢巻を締めて臨む。そのために、監督生ユノークローネの指揮の下で、一号棟の伝統色である聴色(ゆるしいろ)の布が手配された。例え棄権前提の長距離走であっても、どこまで進めたかは皆の自尊心を養うために最適だ、とユノークローネは考えていた。

 

 そして鉢巻を作る役目は一号棟で最も裁縫が上手いウマ娘、つまりシプロスに任された。

 

 普段は寮のあれこれに口を出さないシプロスも、この時ばかりはまるでミシンのような正確さで針を進めていた。迷いなく、真っ直ぐに、均一な縫い目を生み出していく。

 

 一方のカナは、まさにおっかなびっくりといった様子で、ちくちくと確実に針を進めている。

 電球のやわらかな明かりが、ふたりの影を床に長く落としていた。

 

「あ痛っ」

 

 カナの声に、シプロスの手がぴたりと止まる。

 

「だいじょうぶ?」

 

「ちょ、ちょっと刺しただけです」

 

 カナは針を置き、気まずそうに指先を隠した。

 目を合わせるのもどこか恥ずかしいようで、小さく身をすくめる。

 

「絆創膏貼ってあげるから、ほら」

 

「すみません……」

 

 カナはぺしゃりと耳を伏せた。椿を模した耳飾りも力無く垂れる。

 

「私、不器用ですよね。お姉様みたいに、すいすい縫い物ができたらいいのに」

 

「お裁縫はたまたま得意だっただけ。偉いも何もないの」

 

 しょんぼりとするカナを横目に、シプロスは小さな巾着から綿球を取り出すと、さっと血を拭ってすぐに絆創膏を貼った。

 その動作は手慣れていて、シプロスも突然裁縫ができるようになったわけではないことを物語っていた。

 

「はい、できた」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 丁寧に貼られた絆創膏を見たカナは、なんだか嬉しそうに頬を緩めた。

 

 その間に、シプロスはすぐに針を手に作業に戻っていた。

 

 布の擦れる音に混じって、時折鋏が糸を切る音だけが部屋に響く。時計の針が刻む音すら聞こえてきそうな、そんな静けさだった。

 

 何本目かの鉢巻を仕上げたシプロスが、ふと顔をあげた。

 

「そういえば、東京急行が終われば中間テストね。あなた、得意な学科はなあに?」

 

 カナは少しだけうつむいて、糸を引き締めた。

 問いかけに答えるまでに、ほんの小さな間があった。

 

「えっと、数学は得意です。でも、外国語が全然だめで……もう付いていけなくなりそうです」

 

「それなら、エトワルに見てもらないさいな」

 

「エトワル……エトワルアルモニー先輩ですか?」

 

「そう。もう知り合っていたのね」

 

「あの、リーベ先輩が東京急行のお知らせをしてくださった日に」

 

「なら話が早いじゃない。エトワルは英語と仏語が堪能で、もう高等科の授業に出てるのよ」

 

「……すごい、ですね」

 

「私から話してあげるから、よく教えてもらいなさい」

 

 カナは、こくりと頷いてまた針に糸を通した。

 その手つきは、さっきよりほんの少しだけ、迷いがなかった。

 電気スタンドの灯りの中、ふたりの影は静かに並び、まだ縫われていない布の山にやさしく重なっていた。

 

 東京急行まで、あと二週間。

 教室で、廊下で、寮の一室で。

 誰に知られるでもなく、少女たちはそれぞれのやり方で、心の靴紐を結び始めていた。

 

 まだ遠いようで、けれど確かに近づいてくるその日に向けて。

 




次回、昭和十八年六月三日
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