この時代、ウマ娘はレースだけでなく、社会のあらゆる場面でその存在感を強めていた。女性の社会進出は国会にも及び、我が国で最初の女性議員が登場してからすでに十五年が経つ。その波に乗り、ウマ娘の権利向上を掲げて国政へ乗り出した政治政党が「日本ウマ娘倶楽部」だ。
日本ウマ娘倶楽部は、明治期に誕生した歴史ある組織である。当初はウマ娘修練学園をはじめとする各種団体や地方のウマ娘を取りまとめ、教育支援やレースの運営、生活支援を通じてその種族的統一性の象徴となっていた。
もっとも、国政進出を果たしたのは近年のことで、政党としては未だ若い組織である。それでも、ウマ娘たちにとっては、社会を変えるための大切な拠り所となった。
その頭目こそ、酉越・T・ユラナスその人である。
現役時代、「天帝」と呼ばれた彼女の名は天下に遍く轟き、かつてレースで築いた名声は、下野したウマ娘達によって各地に支持基盤を築いた。そして昭和十七年の選挙で、日本ウマ娘倶楽部は六つの議席を獲得するに至っていた。
午前四時四五分。
夜の帳がわずかにめくれ、空の端にかすかな光がにじみ始めた頃──。
体操服に身を包んだ生徒たちが、続々と正門前に姿を見せていた。
生徒達はメンコに飾りをつけたり、尻尾にリボンを結んだりしていた。レースでは違反とされるような装いだが、東京急行では体操服着用以外の規定が無いことを逆手にとって、今日ばかりは自らを彩ることが許されていた。
スタートを控えて、生徒会の腕章をつけた生徒たちが続々と数台のトラックに乗り込んでいく。彼女たちはそれぞれ割り当てられた中継点へと先回りし、やってくる生徒たちを迎えるのだ。
対する走者たちは、四つのグループに分けられていた。先発は希望者と長距離を得意とする者で構成され、最後に学園を出るのは短距離型の、概ね最初の五英里で脱落すると見込まれている者たちである。
参加者は合計一四三三名。実に全生徒の七割が一度に参加する、一大イベントであった。
特設のステージには紅白の垂れ幕が提げられている。その中央には演台が用意され、左右の長机にはアザーレアやアスターといった生徒会役員の他、来賓として招かれたお歴々も着席を始めている。
スタートまで、あと十五分。
正門前、一列目を担うウマ娘達中に、ミリアムとイーリアスの姿があった。
彼女たちは、どちらも蹄桜寮の練習生だ。明るい橙色の体操ズボンに白い丸首の半袖シャツという、寮指定の体操服をきちんと着こなしている。
「あら、イーリアス。あなたがこちらにいらっしゃるなんて。私はてっきり、今年はお見送りかと思いましたわ」
ミリアムがお団子に括った芦毛を揺らす。額にはシプロスとカナが拵えた聴色の鉢巻が巻かれていた。
「ご丁寧な挨拶をありがとう、ミリアム」
イーリアスも健康的に焼けた肌に同じ色の鉢巻を締め、ミリアムと対峙する。
「けれど、東京急行の先団という晴れ舞台をあなたお一人にお任せするほど、私は謙虚ではございませんの」
「それは驚きですこと。私はてっきり、去年のように中ほどをのんびりと走られて、十英里あたりで無念のご退場をなさるかとばかり思っておりましたのに」
「おあいにくさま。今年は二〇英里地点まで走らせていただく心づもりですの。もっとも、私などお気になさらずに、どうぞあなたのご信条に従って、思うままにお進みになって?」
「まあ、それほどの志とあらば、この私が見届けずして何といたしましょう? 汗に濡れ、涙をこらえて奮闘するあなたのお姿、それこそ私の目で余すところなく記録してこそ、好敵手の本懐というもの。せめてもの慰めに、私の背を心ゆくまでご覧あそばせ」
早朝だと言うのに、二人は普段と変わらない舌戦を繰り広げていた。
今日ばかりは同級生たちもそれを止めることなく、
「あの二人、またやってる」
「朝っぱらからお元気ですこと」
「どうせ今日は皆ヘロヘロになるんだから、朝くらい華やかでいいじゃない」
と、一歩引いて見守っていた。
一方、高等科の生徒たちは、朝の冷気をものともせず余裕の笑みを浮かべ、準備体操を始めていた。
「いい天気になりそうね」
リリウムパイスは高く括ったポニーテールを揺らし、静かに体をひねった。臙脂色のブルマーから伸びる白い脚は、血を巡らせてほんのりと紅に染まりはじめている。
周囲には、件の「リリーの乙女達」が集っていた。全員が真紅のメンコをつけ、それは体力自慢の一列目の中でも一際目立っていた。そこへ、聴色の鉢巻を締めたステラペルセウスが歩み寄ってくる。
「おはよう、リリー」
「あらステラ、おはよう。あなたも先発なさるの?」
「まさか。私は、ハルカと一緒に四列目だよ」
ステラは大袈裟に肩をすくめた。
「けれど、君がとても楽しそうにしていたから、様子を見に来たのさ」
「あらそう。それで、ご期待には添えているかしら?」
「ああ。とても良い顔をしている。レースの前よりも楽しそうだ」
「当然よ。ここは私たちの独擅場──今日はそれを見せつける日だもの」
そこへ、小さな影が二人の間に割って入った。
「リリー先輩」
現れたプリミスプラムは、普段と違う真紅のリボンを耳に巻いていた。蹄桜寮五号棟のウマ娘であることを示す黄色い星のチャームと合間って、まるで頭上に明けの明星を頂いたようであった。
「おはようございます」
プラムはぎこちなく頭を下げた。緊張に張り詰めた顔つきだが、耳は天を突くようにぴんと立ち、蹄先は微かに地を探っている。
「おはよう、プラム。リーベは?」
「次の組で出られます」
「きちんと、出発の挨拶をしてきた?」
「はい」
ステラは驚きに目を見開いて、その様子をじっと見つめた。
「その子が、例の?」
「ええ。この子が私のお楽しみ」
リリーはプラムの頭にぽんと手を置いた。
「まさか、初年生だとは思わなかったよ」
「この鍛錬に年齢は関係ない。これから、ちゃんと証明してあげるわ」
リリーはふっと口元を緩めた。
「夕方には、あなたにもっと、驚いていただけるといいわね」
「うん。吉報を待っているよ」
*
二列目。
朝の光がじわじわと地面を舐めていく。
蹄桜寮に属する生徒の大半──つまり、賭けに参加できる者達──は、なるべく早く学園に戻れるよう、ここに配置されていた。上級生である候補生だけで構成されるこの二列目が、最も飾りの種類が多く、華やかさに包まれている。
各棟ごとに決められた鉢巻やチャームだけではなく、メンコに派手なフリルを付けた者や、尻尾に大きなリボンを結んでいる者までいる。
その中に、シプロスとリーベの姿があった。
「いよいよ、って感じね」
リーベは耳を小刻みに揺らしてそわそわとしていた。その耳には、プラムと同じ黄色い星のチャームが揺れている。
「それはそうと、プラムを行かせてよかったの?」
シプロスは肩を解しながら問うた。もちろん、その額にあるのは聴色の鉢巻だ。
「あの子に必要なのは、経験」
屈伸をしながらリーベが答える。
「レースに出る前に、一度くらいは限界を味わっておいたほうがいいの」
「珍しく厳しいことを言うのね」
「私みたいになりたいなら、どこまで行けるのかをきちんと見極めないとね」
リーベはシプロスの視線を避けるように体を捻る。
「足元を掬われてからじゃ、何もかも遅いもの」
「そこまで考えないといけないなんて、利己主義者って孤独」
「あら。私には、あなたがいるじゃない」
シプロスの動きがぴたりと止まって、心配そうな目がリーベを向く。
「一人でいいの?」
「一人いれば結構」
そう言って、リーベはシプロスに笑顔を向けた。
「誰しも、手は二つしか無いんですからね」
*
三列目。
練習生のほとんどがここに配置されていた。続く四列目と同様に、学年毎の比率も、ほぼ均等になるように分けられている。
ルスティカーナとミュルテブーケは、この列でスタートを待っていた。初年生である二人は、他の一年生と同じく、そわそわと足を動かしながら、列の動きを窺っていた。
「いよいよだね。カナちゃん」
ブーケは明るい緑のブルマーから伸びる尻尾を、くるくると振り回していた。
「うん……」
対照的に、カナの耳は力なく垂れている。
「どうしたの?」
「ううん。お姉様と別の組になっちゃったから、ちょっと……それに、色も違うし」
カナは、自分の体操服の色が一般の練習生と区分けされていることに引け目を感じていた。
周りにいる生徒のほとんどが緑色の体操ズボンの中、自分だけが橙色をしている。浮いている気がして、落ち着かない。
見渡すと候補生らしき姿も見えたが、彼女達は参加者であると同時に監督という役目がある。せめてあの立場だったらいくらか気も楽なのに、とカナは唇を噛んだ。
「じゃあ、一緒に頑張ろ? カナちゃんのこと、私はすっごく頼りにしてるから」
どこまで察しているかまではわからないが、ブーケは柔らかな笑顔をカナへ向けた。
カナは、一瞬きょとんとしてから、小さく笑った。
「……うん。ありがとう」
その耳がすっと立ち上がって、椿を模した耳飾りが風に揺れる。
「一緒に、がんばろうね」
*
バツンという音がして、スピーカーに火が入る。
にわかに生徒会生達の動きが慌ただしくなった。進行役らしい生徒会の腕章をつけたウマ娘が、しずしずと壇上に上がっていく。
「これより第二五回、長距離鍛錬の開会式を行います。こちらに注目してください」
生徒達が三々五々、演壇に目を向ける。が、手首を回したり足を揺らしていたりと、その統制にはかなりの乱れがあった。
「まず初めに、日本ウマ娘倶楽部代表、酉越・T・ユラナス衆議院議員よりご挨拶を賜ります」
同時に、和装のウマ娘がすっと立ち上がる。
その姿を認めた途端、生徒達が一斉に動きを止めた。高島田から覗く耳に、全員の目が釘付けになる。
完璧な。
そう、それは完璧としか言いようがない姿だった。染め抜かれた濃紫の紋付に、鶴の羽根のごとく静かな足取り。風にたなびくに任せている耳と尻尾が、より一層その存在感を高めている。
ユラナスは一切足音を立てずに壇上へ上がり、マイクを手に取った。
「皆様、おはようございます」
その声には、四十を越えた者ならではの重みと、なお衰えぬ張りとがあった。
「この歴史ある長距離鍛錬を、今年も滞りなく開催できますことを、心より喜ばしく存じます。学園の運営に携わる一人として、皆さんが健やかに、そして誇りをもって走り抜く姿を、三女神様と共に見届けさせていただきます。日本のウマ娘としての矜持を胸に、それぞれが力の限りを尽くしてください」
ひと息置いて、ユラナスは静かに後方に控える生徒会生たちへと視線を送った。
その目は、どこか慈しみと厳しさが入り混じった、まさに“導く者”の眼差しだった。
「また、運営を担う生徒会の皆さんには、日頃の尽力に深く感謝申し上げます。学園は、私たち日本ウマ娘倶楽部と、生徒会の皆さんとによって支えられております。後進を導き、その力となることもまた、日本のウマ娘としての立派な務めであります。学園一丸となり、今年もこの鍛錬が実り多きものとなりますよう、心より願っております。私からは、以上でございます」
ユラナスはマイクを進行役の生徒へ手渡すと、また音もなく席へ戻った。その所作があまりに自然なので、進行役が我を忘れて台本を見直してしまうほどだった。
「ユラナス議員、ありがとうございました。続きまして、生徒会長アザーレアより開会の挨拶をいたします」
音がするほど糊の効いた制服に身を包んだアザーレアが、ゆっくりと壇上に上がった。その髪はとことん梳られ、メガネには一点の曇りもない。それは生徒としても、生徒会長としても、非の打ち所がない姿だった。アザーレアは、緊張を見せるどころか、むしろ心なしか口を引き締めていた。あれほど完璧な姿の後でも、彼女なりの気概がそこにあった。
「皆さん、おはようございます。天候に恵まれ、絶好の鍛錬日和となりました。この催しも今年で二十五回目。ここに立つ全員が伝統を守り、学園の益々の発展に寄与しようとしていることを心から嬉しく思います。各員持てる力を存分に発揮して、この初夏の空に府中ウマ娘の誇りを刻みましょう。最後に、この歴史ある催しにご協力いただきました日本ウマ娘倶楽部、また府中町の皆様にお礼を申し上げまして、私からの挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました」
ユラナスほどではないが、アザーレアも教科書通りの整った所作で演台を降りた。
「続いて、実行委員より今年の行程についてご案内いたします」
生徒会の腕章をつけた、派手さのかけらもないメガネのウマ娘が壇上に上がる。
「お知らせします。昨年と同様、往路は第一中継点を通過後、第二中継点を通り、第三中継点で折り返します。復路は再び第二、第一中継点を通って、学園に戻ります。また、府中駅前商店街一同より、各中継点では水のほか、塩飴とバナナが提供されます。以上、伝達を終わります」
見た目どおり、彼女は余計なことは何一つ言わず、必要なことだけを伝えてつかつかと降りていった。
「最後に、救護室長アスクラピアス先生より、訓示をいただきます」
壇上に、颯爽とラピアスが現れた。いつもの白衣の下は、ブラウスにスラックスという涼しげな出たちだ。医者の肩書の前には式典や形式は最低限で結構、やりたい者だけやれば良いとでも言いたげに、差し出されたマイクをゆったりと受け取った。
「えー、みんなおはよう。私からは一つだけだ。もし怪我をした者、体調を崩した者を見かけた時は、すぐに随伴の師範か中継点の生徒会生に知らせること。医務班は第一と第三中継点、私は第一中継点にいる。以上」
ラピアスはさっぱりと言い切ると、さっさと演台を降りていった。同時にトラックがエンジンをかける音が次々と聞こえてくる。爆音の中、進行役が声を上げた。
「これにて、開会式を終わります。一列目の生徒は、準備に入ってください」
サイレンが鳴らされて、来賓や生徒会生が一斉に拍手を起こす。
「さあ、みんな集まって!」
リリーの呼びかけに応じて、揃いの紅いメンコをつけたウマ娘が円陣を組む。超長距離を得意とする彼女達が他のウマ娘に意地を見せつける機会は、ここしかない。
リリーは全員を見渡し、目に力を込めた。
「いいこと。打ち合わせ通り、先導は一英里ごとに交代よ。練習生は事前に組んだペアをきっちり追走するように。では、いきましょう!」
「はいっ!」
リリーの乙女達が一斉に散り、先頭に並ぶ。
「午前五時になりました。次のサイレンでスタートしてください」
ガラガラという音と共に門が開いて、再びサイレンが唸る。
と同時に、怒涛のような蹄音が地面を揺らした。
二五英里走「東京急行」が、ついにスタートした。
紅いメンコが、その先頭を一斉に駆けて行く。
数ハロンもしないうちに、バラバラだった隊列はすぐに整った。牽引役のウマ娘を先頭に、足取りまでぴたりと揃っている。
後ろには、なんとなくそのペースについていこうとするウマ娘達が団子になっていた。
そんな中、さらに後ろから、猛烈に追い上げる蹄音が響いてきた。
「ぉぉぉお根性おぉぉっ‼︎」
風を巻き起こして、リリーの横を黒い影が追い抜いて行く。
見覚えのある長い黒髪に、薄青と桃色の耳飾り。
ヴィスリユニオンだ。
「あのバカ、正気⁉︎」
思わずリリーが声を上げる。
ヴィスリユニオンは振り返りもせず、その顔を天に向けた。
「わーっはっはっは! 三女神のご加護は我にあり! リリー、ゴールで会おう!」
そのまま、ヴィスリユニオンはスパートとばかりに全速で駆けて行く。土煙を巻き上げて、その背中はあっという間に点になった。
「……あの、追いますか?」
先導のウマ娘が振り返る。その顔はそのまま、困惑という題の静物画のようだ。
「ほっときなさい」
リリーは呆れ顔で答えた。
「まだ始まったばかりよ。みんな、列を乱さないでね」
「はいっ!」
*
スタートを見送る正門前では、すでに閉会へ向けた準備が動き出していた。
正門からは、まだ生徒たちが続々と出ている最中だ。
ほの合間を縫って、師範を乗せた自動車や、途中棄権した生徒を回収するためのトラックがぼちぼちと出発していく。体操服に緑色が目立つようになってきたので、そろそろ三列目に差し掛かる頃だろうか。
ロートアスターは、生徒会のテントからその様子を静かに見守っていた。
ここで、彼女が能動的にできることは何もない。アザーレアに上げるまでもない細やかな対応を処理しながら、淡々と鍛錬が終わるのを待つだけだ。
「アスター」
不意に、アザーレアが声をかけた。振り向きざま、その後ろにユラナスを認めたアスターは、耳をぴんと立ててすっと立ち上がった。
「はい」
「私は議員を中央棟にご案内するから、ここを頼むわ」
「かしこまりました」
アスターは型通りの礼をした。顔を上げると、ユラナスは微笑を浮かべたままでこちらをじっと見ている。──何か、声をかけるべきか。
「では」
アスターが動くより速く、アザーレアが恭しく手を差し出す。
「どうぞこちらへ。ご案内いたします」
ユラナスはアザーレアに従って静かに背を向けた。その一瞬、ユラナスの細い目がこちらに向いていたことを、アスターは見逃してはいなかった。
二人を見送ったアスターは、ふっと息を吐いた。
外のあれこれとは、なんとも疲れるものだな。
そう心の中で呟いたところへ、生徒会庶務のピルソスが麦茶を乗せた盆を持って現れた。こっちに気を回せるということは、来賓も捌けて諸々ひと段落、ということだろうか。
「副会長、お疲れさまです」
ピルソスは適度に慇懃な態度で盆を差し出した。湯呑みには、よく冷えた麦茶がなみなみと注がれている。
「ありがとう」
アスターは湯呑みを受け取ると一息に飲み干した。やっと、少し緊張が解けた気がする。
「会長というものは大変ですな。今年で満期だというのに」
ピルソスは盆を手にしたまま小さく鼻を鳴らした。彼女の属する庶務部は、あれこれと仕事を回される割に、その活躍が日の目を浴びることは少ない。ゆえに不満は溜まりやすく、反対に吐き出す場は少なかった。手持ち無沙汰なアスターは、慰みにピルソスの話を聞いてやることにした。
「社会に出れば、議員とのパイプは強みになる。会長は会長で、ご自身の今後を考えておられるのだろう」
アスターの答えに、ピルソスはほんの少し口角を上げた。こんな雑談をすると、アザーレアには仕事に専念しろとでも言い捨てられていたのだろうか。
「ほう。さすが、副会長は広くものが見えていらっしゃる」
アスターはおもむろき足を組んで、次の言葉を待った。
「会長ご自身の根回しも結構ですが、議員には来年のことも考えていただかないと、残される私どもが困ります」
アスターの態度を見たピルソスは、途端に饒舌になった。血が通って、頬に赤みがさす。
「卒業した後の立身はその者の技量如何ですが、我々学生は、何かと面倒を見てもらいませんと」
「声が大きいぞ」
アスターはピルソスをそっと嗜めた。辺りにはまだたくさんの生徒がいる。どこに耳があるか、わかったものではない。
「もちろん卒業する時には皆自立できなくてはいけない。そして学園はその力を育てるためにあって、我らは手助けをする側でもあり、される側でもある」
「仰る通り。生徒会なくして、学園は立ち行きません。生徒会が目指すものは、生徒全員の幸せですから」
迎合するようなその答えに、アスターはかすかな違和感を感じた。
確かに、学園は生徒会を長とした組織によって運営されている。しかし学園を学園たらしめるものは生徒であって、必ずしも生徒会ではない。
アスターは、自らが口にしたばかりの考えが矛盾していることに気づいた。顎に手を当ててみても、すぐには答えが見つかりそうにない。
「しかし私としては、次の生徒会が、もう少し時世を見て動けるようになればと思っております」
語り続けるピルソスの、その黒檀のような瞳がこちらを見据えていることに気づいて、アスターは顔を上げた。
この会話は、どうにもやりづらい。喉の奥がひりついて、まるで唾を飲む音まで聞かれているようだ。
どこまでも奥行きがあるようなあの黒い目に、思考が剥かれるような感覚がする。
なるほど、探りか──。そう察したアスターは心にそっと鍵をかけた。
「副会長のような方が音頭を取れば、また違った景色になるのでしょうな。もちろん、望まれるのであれば、の話ですが」
「その言葉はありがたいが、気が早いぞ」
アスターは、あからさまに話をはぐらかした。しかも、このピルソスというウマ娘はかなりの狸だ。探りなのか本心なのかも、その表情からはわからない。これなら、ハイペリカムの様な実直な物言いの者と対話をするほうがずっと楽だ。
「庶務一同、会長の吝嗇ぶりには随分と頭を悩ませております故、期待も高まるということです。さすれば、私どもの努力も報われるというもの」
「さあ、ご期待に添えるかな」
アスターはつとめて答えを避けた。なるほど、これにはアザーレアも手を焼くはずだ。敵にも味方にもしづらい者というのは、どこの組織にもいるらしい。
「こうしてお話を聞いて頂けるだけでも慰めになりますとも。──ついでに、予算が動けばなお良いのですが」
「会長に、予算を勝手に決める権限は無いよ。誰かを優遇することも、無碍にすることも、してはならない」
アスターの型通りな答えに、ピルソスはなぜか満足げな笑みを浮かべた。やはり、私は試されているのか──アスターは一度ピルソスを視界から外し、耳だけを彼女へ向けた。
「よく存じておりますとも。その上でのお願い、とでも捉えていただければ」
ピルソスが食い下がるそぶりをみせたので、アスターは視線を逸らしたままに足を組み直して片手を上げた。話は終わりだという合図──それが見抜けないような木偶ではないだろうと問う、アスターなりのささやかな仕返しだった。
「こうして話を聞いたということだけは、覚えておくよ」
「それで結構でございます」
狙い通り、ピルソスは恭しく頭を下げて一歩引いた。
「ただし、私どもも風は読ませていただきますゆえ──その辺り、お忘れなきよう」
ピルソスはもう一度礼をして去っていった。
再び一人になって、アスターは天を仰いで苦笑した。なんとも情けないやり取りだったと思う。もしも、今のやり取りをハイペリカムが見ていたら何と言うだろうか。
とにかく今回のことは、庶務部とは敵にしてはならない勢力だとよく理解できる機会だった。つまり彼女達はあらゆる情報の交差点であり、その中心にいるのは情報を武器として扱うことに長けた者だということだ。
これは非常に厄介なことで、彼女らには理念や願望などというあやふやなものは、最初から通用しない。
もし選択を誤れば、彼女たちはいつでもアスターの喉を切り裂く刃になりえるだろう。
裏を返せば、庶務部を利用できさえすれば、手番は常にこちらにある。問題は、彼女達の求める対価がわからないことくらいか。
──いや、いずれわかるだろう。できれば、あの狸以外から聞かせてもらいたいが。
『運営委員会よりお知らせします。全走者が門を出ましたので、各担当者は次の準備を始めてください』
アスターの耳に、全員無事に出発したことを告げる放送が響く。
それを聞いたアスターは思索の海から意識を引き戻し、長く張りつめていた肩の力をようやく抜いた。
次回、密室政治。