蹄音、高く   作:上條つかさ

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密室政治

 時刻は六時を回った。太陽は東の空を染めていたが、風はまだ冷たく、地表近くに溜まった夜気が肌を撫でていく。田植えを終えたばかりの田んぼには水がたっぷりと張られ、細く伸びた苗が整然と並んでいた。風が吹くたびに苗がそよぎ、きらきらと光が波打つ。空と山の稜線を映した水面に、時おり蛙の波紋が広がっては消えていく。

 

 四人が並んで走れるかどうかといった幅の畦道は、トラックの轍と先行した者達の蹄跡(あしあと)が混ざって、とても走りづらくなっていた。列は長く伸びて、同時にスタートしたはずなのに、かなり先にいる者も見える。これはレース場のバ場と同じで、得意不得意から来るものだろう。

 

 追い抜かれるに任せていた結果、シプロス達は一時間で五英里(九粁)しか進めていない。後続はもっと速度が落ちているのだろうか。そんなことを考えながら、シプロスは前を行くリーベの背中を見つめて走り続けていた。

 

 その五英里地点、第一中継点の空き地では、腕章を巻いた生徒会生たちが忙しく動き回っていた。まだ脱落者はいないので、各走者の通過記録を取る役に給水の手配にと人手が要る。長机が道に沿って一列に並べられ、その上に並べられた茶色い紙コップには、応援に来た商店街の大人たちが次々と水を注いでいた。

 

 シプロスは速度を緩めることなくその一つを掴み、水を一息に流し込んだ。冷たさが喉を抜け、胸のあたりで跳ね返ったような感覚が残る。息をつき、腕を振って次の一歩に乗せると、空になった紙コップを放り投げた。道の端に立つ小学生たちが麻袋を手にずらりと並んでいて、その一人が手を伸ばして器用に受け止める。

 

「おねーちゃん、がんばれー!」

 

 声援に軽く手を振ると、子供たちは満面の笑みで手を振り返した。額に汗を浮かべながらも、誰も手を抜かずに次々と落ちたコップを拾い上げ、袋に押し込んでいる。無邪気に声を上げながらも、はしゃぎすぎることはない。

 

 前を行くリーベも一口で飲み干し、カップを投げ終えると姿勢を整えた。汗が首筋に沿って滴り、尻尾が風に靡く。

 

 少し進んだところで、道が二股に分かれていた。左に折れるのは棄権ルートだ。ルートを外れた先には、待機する学園のトラックが数台並んでいる。完走を狙う一列目の者に脱落者はいなかったが、適正距離が短く、体力温存が常の二列目では、ちらほらと棄権する者の姿が見えた。

 

 前を行くリーベの、さらに前にいた二人のウマ娘が左に逸れた。

 脚が持たないと悟れば潔く身を引く。それは、ウマ娘として理性的な判断だとシプロスも納得した。

 

 それから半英里(八〇〇米)ほど走ったところで、リーベが右手を挙げた。掌を大きく広げたサイン──減速するので右に避けろ、という意味だ。

 シプロスは教本どおりに右へと道を開けた。同時にリーベの耳がくるりとこちらを向く。シプロスの足音が真後ろにないことを確認すると、歩調を緩めたリーベの肩が、すっと横に現れた。

 

「シプロス、どの辺りで終わりにする?」

「おかみさんがどこかにいるはずなんだけど、さっきの給水所にいなかったの」

「おかみさんって、毛糸屋のおかみさん?」

「そう。昨日、応援の手紙が届いたの。商店街の手伝いで沿道にいるから顔を見せて、って」

「給水所はもう少し先よね」リーベは額に浮かんだ汗を拭った。

「一〇英里の中継点までにはあるはずだから、そこまでは走ってみようかと思って」

「なら代わってもらえないかしら。前に誰もいなくて、ちょっと辛いの」

 リーベの声はまだしっかりしていた。額には細かい汗が浮かび、陽を受けて頬がうっすらと赤い。耳の付け根が熱を帯びていて、風に揺れる尻尾も、よく動いていた。

「わかった」

 シプロスは、答えると同時に加速してリーベの前に出た。すぐに左へずれると、気配がぴたりと真後ろにつく。

 

 前が開けて、気分がぱっと晴れ気がした。

 顔を上げると、前を行く背中まで一ハロン以上離れている。

 

 ウマ娘は集団で走るほうがペースを維持しやすいが、それにはある程度の人数と、先導に慣れたウマ娘が必要だ。レースではハナを取ることもあるシプロスならともかく、リーベのように最終直線まで脚を溜める走り方のウマ娘には堪える状況だろう。

 

 しかも、無理に前を追わなくても良いのだという緊張が、かえって体力を消耗させているのかもしれない。リーベを慮ったシプロスは、ほんのわずかに速度を落とした。

「このくらいでいい?」

「いい感じ。疲れたら言って、また変わるから」

 リーベの声が、背後から風に乗って届く。

 水面に影を落としながら、二人は一歩ずつ先へ進んでいた。

 

 そして、シプロス達が通過してからおよそ十分後。

 ルスティカーナとミュルテブーケも、第一中継点に差し掛かっていた。

 

「はっ、はっ、はっ……」

 ゆっくりと、だが着実に、ルスティカーナは進み続けていた。呼吸は少し荒いが、足どりは安定している。

 肩越しに見えるブーケの表情には疲労の色があったが、それでも一歩ずつ、ついてきている。

 

「結構、走りづらいね」

「うん。でこぼこで、全然前に進まないや」

 

 舗装されていない畦道は、足の裏に土の柔らかさと轍の深さを感じさせる。走るたびに足を取られ、体の軸を保つのが難しい。だが、この悪路の感触も、今だけのものかもしれないとカナは思う。

 

「カナちゃん、まだ走る?」とブーケ。

「もうちょっと行けそう」

 カナは少しだけ息を弾ませて答えた。

「すごいね。私、そろそろ一杯かも」

「水を飲んだら、元気が出るよ」

 

 カナに励まされながらも、ブーケは明らかに体力を消耗していた。肩の上下が大きくなり、歩様もやや乱れている。速度も、走ると歩くの間くらいまで落ちていた。

 

「給水所って、休めるんだっけ」

「長い距離を走る時は、止まっちゃいけないって、お姉様が言ってた」

 

 教えられたとおりのことを答えながら、カナはシプロスの顔を思い浮かべた。厳しいけれど、いつも的確な指示。カナには、その言いつけを守らない理由がなかった。

 

「じゃあ、後ろを走ってもいい? 先輩がそうすると楽だって」

「いいよ。ゆっくり走る?」

「大丈夫。頑張って、ついていくから」

 

 そのうちに、二人は給水所を通過した。

 軽く身体を傾けて、差し出された紙コップを一つずつ掴む。手の中でかすかに揺れる水の重みに、生きている実感が宿る。紙コップを唇にあて、一気に流し込むと、冷たさが喉を通って胃のあたりに届いた。たった一杯でも、胸の内側に風が吹いたような心地がする。

 

 通り抜けざま、差し出されたカゴに手を突っ込んで、塩飴を引っ掴んだ。指先が濡れていたので、飴が少しぬめっている。構わず口に放り込むと、甘しょっぱい味が舌の上に広がった。

 

 たくさんの生徒が通り過ぎていく自分たちを見送っている。中には、初年生とわかると手を振ってくれる先輩もいた。振り返すと、その誰もが応えてくれる。たとえ一瞬でも、そうして視線が交わると、自分もこの学園の一員なのだという実感が湧いてくる。

 

 忙しなく働く生徒たちを見て、カナはふとあることに気づいた。皆、一様にメガネをかけている。小さな気づきだったが、どこか不思議で、少し面白かった。生徒会は書類仕事が多いのだろうか──そんな思いつきが、胸の中に淡く浮かんでは消えた。

 

 そのとき、後方からトコトコという小さなエンジン音が近づいてきた。

 

 耳を巡らせると誰かが近づいてくる気配があった。

 二輪車に乗った運動服の男が追いついてきた。学園の腕章をしているから、監督の師範だろう。

 

「瀬田大尉」

 ブーケが顔を上げる。

 

「ミュルテブーケ練習生、頑張っているな」

 瀬田は、カナの着ている橙色の体操服に目をとめた。

 

「そっちは、特命か」

「はい」

 

 答えながら、カナはほんの少し、うまく言葉にできない違和感を覚えた。

 シプロスが事実上の師範である自分にとって、正規の師範という存在は、正直あまり身近なものではない。何か難しそうなことを話している、という印象しかなかった。

 けれども、瀬田の目に浮かんだ柔らかな色を見たとき、自分には向けられたことのないまなざしに、ほんの少しだけ心が揺れた。

 

 羨ましくなんてない。そう言い聞かせながらも、否定の言葉のほうが胸に残る。

 

 瀬田は道の先を指差した。

 

「ブーケ。この先で道が左右に分かれる。左に折れて、棄権しなさい」

「まだ、いけま……うっ」

 

 答えざま、ブーケがつまづいた。足が縺れかけ、咄嗟にバランスを取り戻す。

 

「ほら。無理をすると、怪我をするぞ。わかったな」

「……はい」

 

 ブーケが答えると、瀬田はカナの方を向いた。

「それと、特命練習生」

「はい」

「後ろから、スマラグディ練習生の一団が来ている。君はペースを落として、その集団に加わりなさい」

 原則、生徒は師範の指示に従わなければならない。カナは頷いて「わかりました」とだけ答えた。

 

「では、私は先の生徒を見てくる。言った通りにするんだぞ」

 

 そう言って、瀬田はエンジンを吹かして二人を追い抜いていった。

 

 ペースを落とすと、ブーケの歩様が少しだけ落ち着く気配がした。

 脚はまだ動く。でも、次の判断に備えておかなくては。

 シプロスの顔が脳裏に浮かぶ。きちんとこなして、立派にやり遂げたと言えるように、頑張ろう。

 

 少しずつ疲労で重くなる足を懸命に動かしながら、カナは前だけを見て走り続けた。

 

 *

 

 同じ頃。

 中央棟四階、貴賓室。

 

 窓の外には澄んだ空が広がり、朝の光が重厚なカーテン越しにわずかに差し込んでいた。

 

 室内は、深紅のベルベットと濃いマホガニーの木壁に包まれ、まるで昼夜の区別を拒むような静謐さを保っている。

 その空気はひんやりと澄んでいるのに、どこか息苦しく──まるで、言葉一つで揺れる硝子の器のようだった。

 

 アザーレアは、応接用のソファに姿勢よく座していた。背筋を正しすぎるほどに正し、膝上に両手を揃えて置く。緊張が指先に現れており、わずかに爪先が内向きに揃っていた。

 

 一方のユラナスは、部屋の中央に据えられた主椅子に、まるでこの部屋そのものが彼女のために誂えられたかのような風格で座っていた。着物の裾が肘掛けに静かに広がり、姿勢にはまるで隙がない。まなざしは穏やかでありながら、どこか遠くを見据えている。

 

 そのとき、ノックとともに扉が音もなく開き、一人の生徒会生が現れた。銀盆の上には、湯気を立てる湯呑と、繊細な意匠の茶器が並んでいる。

 

 彼女は一言も発することなく、緩やかな所作でユラナスの前に茶を置いた。湯呑が漆塗りの小卓に触れる、かすかな音が空間に沁みる。

 

 アザーレアは、その様子を視界の端で追っていた。まるで舞台の一場面のように、全てが整然としていた。ただの給仕なのに、儀式に見えた。

 

「今年も、無事に始まったわね」

 

 ユラナスの声は、カーテン越しの光と同じく、柔らかく、しかし抗えぬ圧を伴っていた。

 

「議員のご尽力の賜物です」

 

 アザーレアは僅かに頷き、口調を崩さぬよう気をつけて応じた。声がかすかに掠れるのを、慌てて喉で押しとどめる。

 

「あなたの努力も相当なものよ。三年間、よく頑張りました」

 

「……恐れ入ります」

 

 その言葉に礼を述べつつも、アザーレアの瞳は、ユラナスの顔を真正面から捉えることができない。

 その視線はいつしか、テーブルの木目を追っていた。

 その一本一本まで、今にも口を利きそうに思えた。

 

「さて。大きな催しも終わったことだし、話題は来年のことかしら?」

 

「はい」アザーレアははっとして顔を上げ、ユラナスへと向いた。

 

「今後に向けて、議員のご意見を賜りたく存じます」

 

 アザーレアは、準備してきた四冊の資料綴りを両手で恭しく差し出した。差し出す手が微かに震えていたが、ユラナスは何も言わず、それを受け取る。

 

 ユラナスは一冊を手に取り、ぱらりと音を立てて頁を繰る。紙がめくられるたびに、室内の空気がほんのわずかに揺れるようだった。

 

「皆、良い成績ね。それで、一番御し易いのはどなたかしら?」

 

「私としましては、カズラキ候補生を推したいところであります」

 

 即答に近い言葉を選んだのは、用意してきた答えだったからだ。けれど、ユラナスのまなざしが資料から自分に移るだけで、背筋に汗が滲む。

 

「その理由は?」

 

「現在、カズラキには会計室を任せています。議員の方針もよく理解しておりますので、よき片腕となれるか、と」

 

「ふむ。あなたも会計室だったものね。その理念を残したいお気持ち、良くわかるわ」

 

「ありがとう存じます」

 

 やわらかく返された同意に、アザーレアは胸をなで下ろした──のも束の間。

 

「それで、副会長を推されないのは何故か。教えていただけるかしら?」

 

「それは……」

 

 言葉が続かなかった。準備してきたはずの答えが、喉の奥で固まる。咄嗟に選んだ曖昧な間投詞に、自分の未熟が滲んでいた。

 

「結構。自治が機能している限り、倶楽部が表立って介入することはないから安心しなさい」

 

「これは私見ですが、生徒会に対して、議員より具体的なご助言を賜る時期かと存じます」

 

「ずいぶんと持って回るのね、アザーレア生徒会長。何にお困りなの?」

 

「いや、その……」

 

 肩が動いた。言い澱みが、かえって訴える。

 

「そう。つまり副会長が、自ら立候補を狙っている可能性があるのね」

 

「ええ……まぁ」

 

 返答が口先だけのもののように聞こえたのは、自身でも分かっていた。

 

「副会長の資料を」

 

「……こちらです」

 

 指が書類に触れた瞬間、ひどく冷たく感じた。それを渡す手元は極力穏やかに見せたが、受け取るユラナスの仕草は、余裕に満ちていた。

 

「ロートアスター、七〇期三種候補生。高等科一年次は主席……。見る限り、欠点はなさそうだけれど?」

 

「問題なのはアスターの、その思考の道筋です」

 

「説明して」

 

 たった一語で促され、アザーレアは背筋を再び正した。もはや、ソファの柔らかさなど感じられない。

 

「学園を率いようというのに、アスターは生徒一人一人と、真っ向から向き合おうとします。あれでは、きっとすぐに行き詰まるでしょう」

 

「なるほど」ユラナスはただ頷いた。

 

「生徒会を制度として消費しないやり方それ自体は、私は嫌いではないわ」

 

「好き嫌いの問題ではございません。一人ずつ相手をしていれば時間を奪われ、運営全体に支障をきたします」

 

「あなたのような効率主義もまた、一つのノブリス・オブリージュなのでしょう。……けれど、それが万能であった試しはない」

 

 アザーレアは、すぐに返すべき言葉を見つけられなかった。その歯痒さに揺れる視線の先で、ユラナスは、どこか遠くを見ていた。

 

「ですが、足跡を残してゆく身として、学園をよりよく出来る者に任せたいと考えます」

 

「私も卒業生よ。学園を思う気持ちは変わらないはずだけれど、どうかしら」

 

「それは、よく存じておりますが……」

 

 また、語尾が小さくなった。

 

「私の役目は、より広い視野で学園を発展させること。そのためならば、多少無理な舵切りも辞さないつもり。私がよしと言えば、それは理事会の総意として、学園を動かすことになるでしょう」

 

「つまり、私の意見は聞き入れてくださらない、と仰るのですか」

 

「残すべきところは当然、残すでしょうね。でも、それを選ぶのはあなたじゃないし、私には決めることしかできないの」

 

 ユラナスは、静かに言い放った。部屋の空気がさらに冷えたように感じられたのは、アザーレアだけだったかもしれない。

 

「私は、この三年間を無為に過ごしたとは思っておりません。その積み重ねこそが、今の生徒会を形作っていると自負しております」

 

 アザーレアの必至の抵抗も、ユラナスの前では無意味だった。表情ひとつ変えないどころか、こちらを見向きもしない。

 

「なら、なおさら任せておけないわね。候補者はこちらで決めましょう」

 

「議員、それではあまりにも──」

 

「おや? 今、全てに自信があると口にしたばかりではないかしら。私は、それを正当に評価したつもりよ」

 

「……いえ、その……」

 

 返す言葉を探す間にも、時計の秒針が規則正しく響いていた。

 不意に、ユラナスの頬が緩む。

 

「若いわね。それはそれで美徳だわ。ところで、卒業後の進路はお決めになったのかしら」

 

「はい。故郷の企業様より、内々定をいただいております」

 

「結構。ならば、候補者については、夏季休暇明けまで時間をあげましょう。よく自省して、あなたの思う、次を任せるに相応しい方をお探しなさい」

 

「かしこまりました」

 

「そうしたら、このロートアスター候補生を呼んでもらえるかしら。少し、興味が湧いたわ」

 

 ユラナスの声には、何も問わず、何も許さない種類の「余裕」があった。

 アザーレアが小さなベルを鳴らす。すると、外に控えていた生徒会生が扉を開いた。

 

「アスターを呼んで」

 

 すぐに踵を返して去っていくその背中を見つめるアザーレアの胸の奥に、じわりと鈍い痛みが広がっていった。

 

 *

 

 沈黙の中に、節度ある三度のノックが響いた。

 

「失礼いたします」

 

 制服姿の生徒会役員が入室し、新しい茶をそっと卓上に置く。音ひとつ立てず、所作に乱れはない。銀盆を回収すると、頭を下げたまま静かに退室した。

 

 再び、控えめに三度のノック。

 

「ロートアスター、参りました」

 

「それへ」

 

 ユラナスは、手元の茶器に視線を落としたまま、軽く顎を動かして示す。

 

 アスターに示されたのは、ドア脇に据えられた一人掛けの椅子だった。主座の椅子とは、ほんの数歩の距離。それでも、言葉が自然に届くには遠すぎる位置だった。

 

「失礼いたします」

 

 アスターは一礼し、静かにその椅子へ腰を下ろす。制服の襟元は完璧に整えられ、副会長の腕章がその左腕で微かに揺れていた。視線を落としながらも、目元には引き締まった光がある。

 

「アザーレア」

 

 ユラナスの視線が、ソファに腰掛けたまま俯いているアザーレアへ向かう。

 

「あなたはもう下がっていいわ。指揮にお戻りなさい」

 

「はい」

 

 アザーレアがさっと立ち上がる。ソファの背を回り、アスターのすぐそばを通り過ぎようとしたとき、その足を一瞬だけ止めた。

 

 アザーレアは何かを言おうとして、結びかけた言葉を口の端に留めたまま呑み込んだ。そのままドアを開け、静かに頭を下げた。

 

「失礼いたします」

 

 残響とともにドアが閉じて、静寂が部屋を満たす。

 

「議員、私をお呼びとのことでしたが、どういったご用件でしょうか」

 

「少し、お話をしてみたかったの」

 

「お話、ですか」

 

「昨年度は主席と伺ったわ。まずは、お見事」

 

「恐縮です」

 

「生徒会のお仕事をつつがなくこなしながら、勉学にもお励みになる。まさに我が学園のお手本ね」

 

 アスターの胸に、わずかな引っ掛かりが生まれた。たかが学年主席を褒めてやるためだけに、議員がわざわざ生徒を呼び出すはずがない。

 

 これは、名指しでなくとも、誰かを潰す準備だ。アスターはそっと口を開いた。

 

「私を呼ばれたのは、学業に関するお話をされるため、でしょうか」

 

「よかったわ。お察しの悪い方でなくて」

 

 ユラナスは茶器に手をかけ、一口すする。艶やかな黒髪が、窓から差し込む陽に光る。

 

「アザーレアとは、来年の生徒会長にどなたがふさわしいか、というお話をしていたの。その学年筆頭として、あなたのご意見も伺いたいと思って、こうして来てもらったというわけ」

 

 アスターの背筋がわずかに緊張で揺れる。ユラナスの言う意見とは、すなわち生徒会長選挙における前生徒会長の推薦を誰にやるか、ということだろう。そこに議員という公的な立場の者が、密やかに影響力を行使している。選挙の公示よりもはるか前、このような密室で事はすでに「始まっている」というのか。

 

「誰が適任か、不適任かというものは、投票者である生徒たちが決めることです。私個人の意見を申し上げることは、できません」

 

「もう少し肩の力を抜いていいのよ。あなたの主観で、今選ぶならば誰かを聞かせてちょうだい」

 

「民主政治の結実たる議員にこそ、それを申し上げることはできません。口にすれば、私はこの手で、私の信じる民主主義を否定してしまいます」

 

 ユラナスの目に興味の色がたゆたう。その溶かした黄金を流したような瞳が、アスターを捉えた。

 

「あなたのお信じになる民主主義とは、どんなものかしら」

 

「議員は、そのお力で多くの支持を得てこられた。議員ほどのお方ならば、理想という言葉のもろさも、また、それを信じることの困難も、誰より深くご存じかと愚考いたします」

 

「ふむ。もう少し頭の柔らかい方かと思っていたけれど、なかなかに因業ね、あなた」

 

「お耳汚し、失礼いたしました」

 

「良いのよ。信念のあり方は人それぞれ。それが学園という物に向くか、生徒という人に向くかの違いがあるだけ」

 

 鮮やかな色味の茶器が、ほのかに朝の光を返す。ユラナスは、それを見つめながら、静かに一口ふくんだ。

 

「それで、あなた自身は立候補されるのかしら?」

 

 その一言が、音もなく部屋の空気を変えた。

 

 アスターは瞬時に思考を巡らせた。肯定すれば、まだ見ぬ敵を呼び寄せる。否定すれば、自身の覚悟に傷がつく。沈黙の間に、喉奥で小さな鼓動が鳴るのがわかる。

 

「今、この場でお答えする必要があるのでしょうか」

 

「質問に答えなさい。立候補をなさるの?」

 

 静かな声だが、有無を言わせぬ切っ先があった。アスターは、椅子のひじ掛けを握る指に力が入っているのを自覚した。視線はユラナスに向けられない。だが逃げてもいけない。

 

「ご質問の意図が理解できません」

 

「よからぬ誤解を産まないように聞いてあげているの。それともあなた、私の耳に入ると困るようなことでもなさっているのかしら?」

 

 この空間には、視線も、言葉も、呼吸すらも自由ではない。何を口にしても、それは切り取られ、意味を与えられ、政治的な意図として塗り替えられる。

 

「よからぬ誤解とは、いかなるものでしょうか」

 

「そんなこともわからないのなら、アザーレアを呼び戻して、今すぐあなたを生徒会から除名するところよ。ロートアスター候補生」

 

 一瞬、呼吸が止まった。背筋を貫く冷気。鼓膜の奥で、血の音が波のようにざわめく。

 

「失礼いたしました。私は、生徒たちの幸せを支える立場として、この生徒会に籍を置いております。このロートアスター、尻尾に誓って、学園の名に泥を塗るような真似はいたしません」

 

 言い終えた瞬間、視界の端でユラナスの肩がふっと緩むのが見えた。耳もわずかに倒れ、その張り詰めた存在感が、まるで絹をほどいたかのように揺らぐ。

 

「結構よ、ロートアスター候補生」

 

「ご無礼をいたしました」

 

 この言葉に、ようやくアスターの背筋から力が抜けた。張り詰めていた筋肉がほんの少し緩み、胸に残っていた息が静かに吐き出された。目を伏せ、握りしめていた手を解く。緊張が去ったわけではない。ただ、まだ対話を続けていいと許された──それだけだった。

 

「まあ、良いでしょう」

 

 ユラナスはわずかに口調を崩した。その背中も、ほんの少し丸みを帯びたような気がする。

 

「少なくとも、副会長としての職務に耐える程度の資質はお持ちのようね。重宝されていたかどうかはともかく、アザーレアが認めていたなら、それは間接的に私が許していたことにもなるのだから」

 

 アスターは察した。今のやり取りのすべてが、試金石だったということか。

 

 先ほどまでの鋭い問いの数々も、あの無慈悲なまでの詰問も、すべては見極めだったのだ。自分が、理事会の意に従うだけの器か、それとも己の志を通すために冷たい刃を向ける胆力を備えているのかを。

 

 安堵というにはあまりに慎ましい感情が、胸の奥でぽつりと湧いた。膝の上に置かれた手から力が抜ける。

 

 だが、それは気を抜くという意味ではなかった。

 

 ユラナスはまだ、自分を「語るに値する存在」として認めたにすぎない。

 しかし、対話を続けることだけは許された。

 

 ならばこちらも、ただ守勢に回るだけでは済まされない。アザーレアが黙して語らなかった相手。学園の背後に控える理事会という巨影の、最も深い中枢に立つこのウマ娘を、理解しなければならない。

 

 アスターは顔を上げた。瞳には、先ほどまでの畏れではなく、静かな探求の熱が灯っていた。

 

「議員、ひとつだけ質問をさせていただけませんか」

 

「どうぞ」

 

「もし、生徒たちが己を律し、互いに手を取り合って、自らの理想を自らの手で築く力を得たとき──その時理事会は、なお私たちを御そうとなされるのでしょうか」

 

「愚問ね」ユラナスは即答した。

 

「学園にいるのは、大半が未成年のウマ娘。社会の輪郭すら見えぬ子どもたちの寄り合いよ。だからこそ、彼女たちを統制し、制御し、正しい方向に導くのが理事会──ひいては、私の務め」

 

「その楔が生徒会長であり、見せかけの民主主義の正体、ということですか」

 

「民主主義が誠実に民主的であったなら、国なんて成り立ちようがないの。妥協と諦めが消極的な支持を生み、迎合と無関心が強固な地盤を作る。理想だけを掲げて走るには、この国は大きすぎるのよ」

 

「妥協と、諦め……」

 

 生徒会長が統べるウマ娘は二千人を超え、それはそのあたりの小村よりも多い。かつて生徒会副会長を務め、今や国政に蹄跡を残さんとするウマ娘の口から出た言葉とは思えず、アスターは失望を覚えた。

 

「あなたは随分と明るい目をお持ちのようだから、この機会に教えて差し上げるわ」

 

 ユラナスは、言葉の余韻を残すように、ふと脇の卓に手を伸ばした。金の縁取りが施された小さな煙草箱。そこから一本を抜き取り、火を点ける。

 その仕草には、政治家としての隙のなさとは別の、私的で無防備な静けさがあった。

 

「導いてやる者が多ければ多いほど、こぼれ落ちる者を減らそうとすればするほど、取り残される者の姿は目立つものなの」

 

 紫煙がゆるやかに揺れ、空気がわずかに緩む。

 

「見えぬよう努め、あるいは見ぬふりをすることも、指導者としての資質のひとつ。覚えておきなさい」

 

 アスターは言葉に詰まりそうになった。だが、それでも一歩、踏み込んだ。

 

「それは……血の通った人間がしても良いことなのでしょうか」

 

「法を決めるのは人間、従うのもまた人間よ。疎まれようとも、貶されようとも、それでも堂々と立っていられる者だけに、新しい道を拓く権利がある。おわかり?」

 

 しんとした静けさが降りる。アスターは、その問いを咀嚼するように一度うつむき、そしてまっすぐに前を向いた。

 

「それでも」

 

 アスターはゆっくりと息を吸った。その覚悟を示すように、耳がぴんと天をつく。

 

「それでも私は、一人一人と向き合いたい。血の通った政治の、あるべき姿を求めたい。そう、思います」

 

 言い終えた瞬間、張り詰めた空気が解けるように流れた。

 

「素敵ね」

 

 ユラナスは、微かに目を細めた。茶器を持ち上げ、最後の一口をすすると、冷めた茶が器の底でさざ波を立てた。

 

「まるで、昔の私を見ているようだわ。あなたのような後輩がいることは、私の誇りよ」

 

 その言葉に、アスターは静かに頭を下げた。心のどこかで、冷たい光が灯るのを感じていた──それは憧れとも、恐れともつかぬ、確かな何かだった。

 

 *

 

 貴賓室を後にしたアスターは、部屋の豪華さとは程遠い、だがよく磨かれた階段を降りていた。

 

 踊り場の大きな窓から外を見ると、欅の向こうに教室棟が見えた。

 

 昔の自分を見ているよう、か。

 

 ユラナスは理想を掲げ、進み、高みへたどり着いた。だが、その場所で生きていくためには、若き日の理想など、ただの理想に過ぎなかったのかもしれない。

 

 若人が、言葉にできない何かを感じ、それを信じてひたすらに走る。

 

 背中を見つめる側にとって、それはとても美しく見える。もちろん、私にもそう映った。

 

 しかし、駆ける者の苦しみは、その本人にしかわからない。

 

 ならば私は、言葉を尽くし、対話を重ね、わかり合おうとし続けよう。

 

 それで苦しむのなら結構。分かり合える者が一人でも増えるなら、なお結構。

 

 そうして、誰一人、置き去りにせずに済むような──

 

 そんな人間を、学園を、私自身の手で、目指そうじゃないか。




次回、群影。
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