おじいちゃんが言うには、そこには狐の神様がいるらしい。
片田舎にぽつねんと建てられた一つの小さな、もう色さえも剝げ落ちた鳥居さえなければ祀るものがあるなどわからないような平屋の中。
かつて妖狐と呼ばれた儂は今日も変わらずその縁側でただ何を見るというわけでもなく、時が流れるのを待っていた。
ざわざわと騒ぐ緑に囲まれた鳥居を潜り、手を清め、賽銭を投げ入れて拝む。
神として仕立て上げられただけの儂にはなんのご利益もないとも知らず、村に住んでいる老人たちは有難がって時折この場に足を運ぶ。
儂には何も伝わらず、儂には何もできないと知るものは誰も居ない。
「はて……あやつ、何代目だったかの…」
この神社には基本的に人は寄り付かない。それこそあの鳥居がまだ赤かった頃は儂を奉った彼奴等や、儂の妖狐としての伝承が途絶えたのかわからんが、勝手に有難がった村人やらが来ていた。
だが時が経てば信仰心は人から離れ、そうなった人は村からも去っていく。
たしか、最初のころは鳥居の上から人の居たはずの屋根がなくなっていくのを眺めていた。
けれど儂は神ではない。人を救う者でない以上、できることは何もなかった。
凶作になろうと、天災があろうと変わらず儂はここにいるだけ。どれほど真摯に祈られようとも、何かができるようにもならぬまま。
ただぼうっと眺めていれば人は幾つか季節が回るごとに消えていき、そして今やここも老人とその孫やらひ孫やらが時折尋ねるだけになった。
「……あと何人じゃろうな…」
信仰心を失った神がどうなるのか。神ではない儂は知らない。
漠然と迫って来るそれをただただ眺めて過ごすのみ。暇を暇とも思わなくなっていたがために、建てられたお社の中で何もせずに過ごしているだけだった。
きっと、最後の最後までそうしているつもりだった。
「…お姉さん、誰?」
リン、と耳に付けられていた鈴が鳴った。
子供らしい高く幼い声が、確かに儂へと掛けられていた。
リン、と鈴が鳴く。顔を向ければ確かに儂をハッキリと捉えた二つの目が、そこにあった。まだ十にも満たないような小僧だった。
「ああ。これは、驚いたの」
前に声を掛けられたのは果たしていつだったか……。もうどれほど何もない場所を眺めていたのかもわからない以上、意味のない疑問が頭をよぎった。
この場所に子供が来ることはそれなりにある。大抵ただ連れられた、というだけだが……しかし儂を見ることができる子供は居なかったように思う。
「お姉さん……?」
「ん、ああ。すまんの。儂の名じゃったか。儂の名は……」
名、は……。なんだ?
確かに名前はあった。妖狐であった頃ならばいざ知らず、神に仕立て上げるために名を押し付けられていたはずだ。
大切に守るようなつもりはなかったが、問われて返すものがないとあればちと困る。……いや、こうも真剣に悩む必要なぞないか。
「儂は名乗るような者でもない故な。好きなように呼ぶと良い」
ハハ、と笑って小僧にそう告げる。どうせこちらに来ることなぞそう多くもないのだから、何も覚えられる必要なんてない。
小僧が口を開き、リンと一つ鈴が鳴く。
それから少しの間、普段ならば音もないような境内では鈴が時折鳴いていた。
しかしあやつめ、なんじゃ「狐のお姉さん」とは。あまりにも直球じゃし、お姉さんというほど若くもなし。その手の才覚には恵まれておらんのかもしれんの……。
じゃが……「またね」か。人の子とは…そういうものだったのかもしれんの。
普段よりも少しだけ遠くまで見える鳥居の上で、遠くを走る小さな影を見る。
リン、と控えめに鈴が鳴いていた。
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片田舎の神社とも言えないような平屋の中。今日とて儂は縁側でただぼうっと鳥居の向こうを眺めていた。
その鳥居を潜ってくるのはあれから変わらず何代目かもわからないような老人ばかり。枯れ木のような四肢で鳥居を潜り、いつものように無駄な祈りを捧げて去っていく。
ただ儂の特徴のみを残して祈りを捧げていたがためなのか、儂はもはや名も失っていた。それに気づけたのが村に住む老人ではなく、ふと現れた小僧が原因だというのだから笑える話よな。
それでも狐が神へと転じた、という要素だけは残っているのか……はたまた儂がもとより妖狐だったからなのか。頭の上でピンと立つ耳と自慢の尻尾だけは残されていた。
耳に付けられた鈴は鳴らない。あの生い茂っていた緑が姿を消し、遠くに見える山が紅と黄色に染まったというのに。
くあ、と一つあくびが漏れ出る。冬眠とは縁遠いはずの儂ではあるが、こうも退屈だとどうにも眠たくなってかなわん。
「……ああ、思い出した」
そうだった。前にも同じことがあったのだ。
まだ何も知らないような童が儂に声を掛けたことが。その童は何度か儂の元へと訪れて…そして、気が付けば儂に声を掛けることもせずに帰るようになった。
そうなってから、今度はここへ全く訪れなくなるまでそう長くはなかった。
あの時もまた、最初に声を掛けられてからはこうして鳥居の外を眺めるようにしていたのだったか…。
まさか、またこうして同じ轍を踏むとは。……ああ、つまり今回もそうなのだろう。前のあやつと違ってこちらに来なくなるまでが速かっただけ。
であるのならば……こうして退屈に門を眺める必要もない。それならばいっそ、もう眠ってしまおう。
そう思って瞳を閉じ、丸くなって寝ようとして。
リン、と鈴が鳴った。聞きなれない音に顔を上げる。鳥居の外から……内と外とを隔てる門の先から、声が聞こえた。
「狐のお姉さん、来たよ~!」
元気に手を振って、小僧が境内へと足を踏み入れる。リン、と改めて鈴が鳴く。
丸くなっていた体を起こして、改めて縁側に座る。妖狐の頃であれば人に化ける必要もあったが……今であれば必要もない。
「ああ…久しいの、小僧」
リン、リンと境内で鈴が鳴る。
どうやら小僧が次に来られるのは冬休みとやららしい。雪の降る頃に、と約束を交わして小僧が鳥居から去っていく。
儂のことを見ることのできる珍しい人間だ。儂との交流ができる珍しい存在だ。そうは思うが、しかし我は救いを与える神でも、試練を与える神でもない。
ただ人を化かすだけの妖狐であった儂に、人の子をこの場に留める術なぞ思いつく訳もない。
「次は冬か……」
この神社を囲う木の葉はすでに落ちている。じゃが鳥居の向こうに見える山は未だに鮮やかなまま。あの葉が落ち、曇天が多くなるのはいつになるだろうか。
「……次、か」
人の子の成長は早い。次、その次…と繰り返すことができるのはあと何度だろうか。
前の童は繰り返すうちに来なくなった。そうなるまでの間に、あとどれだけ言葉を交わすことができるだろうか。
次と呼ばれるそれは、一体どこまで続くのか。神ではないのだから、儂には未来を見通せない。
儂は己のたどり着く先も何もわからないままに、漠然とした最後を感じながらもただ日々を過ごすのだろう。
「どうなるかの……」
鳥居の上で、人と神の領域を分ける門に座って緩やかに滅びへと向かっている街を眺める。
果たして、あの村から人が居なくなるまで儂はここで眺めて居られるのだろうか。
あと何代続くかもわからないあの村の最後を見届けられるのだろうか。
この社に住むだけの妖狐でしかない儂には……何もわからない。