バスの外には夏雲が漂っていた。
バスの中の乗客は2人だけ。カシャリ、とスマホのシャッターが切られる音がした。
「凛世?――バスの中を撮ったのか」
「はい……」
杜野凛世はプロデューサーと結婚した。告白は彼女から、それから数年たってプロポーズは彼のほうから。アイドルも辞めて親戚関係の挨拶も終わらせて彼女たちは新婚旅行に向かうところだ。
目的地は海岸沿いの旅館。かつてアイドル時代に水着の撮影をした場所。
「貴方さまとの……思い出を、残したくて……」
「あぁ」
もう、あの夏のように己の感情を隠す必要はない。
夏だというのに凛世はまるで猫のように彼の肩に頭をすり寄せる。アイドル電撃引退の時に週刊誌の突撃をノロケで撃退した話は芸能界では有名である。
「夏、だな。……ごめん、プロデューサー業にかかりっきりで」
「いいえ、凛世も……ドラマの仕事が……」
プロデューサーは今でもアイドルプロデューサーだ。しかし凛世は女優として転身し、別のマネージャーの世話になっている。だから2人はそれぞれの仕事で忙しく、新婚旅行が少し遅れてしまっていた。予定も変わって、1泊2日。
「だから今日は、いや今日も忘れない日にしよう!」
「……!――はい……」
今日は優秀なカメラマンはいないし、段取りを決める企画者もいない。
すべては2人が作る。
たった2日の2人だけの日々が始まるのだ。
*
――紅い。
唇よりも紅い。
「――紅いです」
「確かに。鮮やかな、紅だな」
海で一通り遊んだ後、2人は海の家でかき氷を食べていた。凛世はイチゴのシロップ、彼はブルーハワイ。
潮風が風鈴を鳴らす。少しシーズンから遅れたのもあって人は少なく、2人を好奇の視線で見る者はいない。
「両方食べると……舌が紫になるのでしょうか……?」
「紫の舌は……考えられないな」
「そうですね……恐ろしい舌に……なりましょう……」
言葉とは裏腹に凛世は彼のかき氷に匙を伸ばした。
「一口もらっても……よろしいでしょうか……?」
「あぁ、構わないよ」
彼女は一匙すくうと、口の中に含んだ。そして――
「べー」
少しおどけたように彼に向けて舌を出す。
「あー……思ったよりも紫にならないな」
「それは……残念です……」
「――と言っている割には全く残念そうに見えないけど?」
彼の指摘に凛世は微笑んだ。
「だって……もう、貴方さまの存在を……隠す必要は……ありませんので……」
それに、と彼女は自身の手をさすりながら続ける。
「――凛世は……すでに……貴方さまに、染められています故……」
「――っ……!」
その言葉に彼はひどく赤面した。
恋仲になってから彼女は時折自身の感情を大げさに表現することがある。少女漫画の影響かと考えたが、よくよく考えてみるとアイドル時代から凛世はそのような表現を使っていた。プロデューサーとアイドルの関係だと自身がスルーしていただけだと彼はひどく後悔したものだ。
「凛世――!こういうのは、こう……いきなり言うような物じゃない」
「ふふっ――。申し訳ありません……照れている貴方さまを……何度も……見たくなってしまって……」
凛世は彼をからかっているのだろうか。それとも恋情に中々気づかなかった仕返しのつもりか。
まるで追い打ちをかけるかのように彼女は自身のかき氷を一匙掬ってこちらに差出した。
「ほら……あーん……」
「……!――あーん」
彼女の望みどおりに口を開けて、口に含む。
凛世は満足げに目を細めてほほ笑んだ。
*
「お饅頭に、お煎餅……キーホルダー……地酒……」
「地酒は無しだ」
宿のお土産コーナーで事務所のみんな用のお土産を吟味しているときに彼が言った。
「最近ネット番組で飲酒の機会が増えているからな。仕事とプライベートは別とはいえ」
「でも……番組で、使うことも……可能では?」
その言葉に彼は再び唸った。
「……千雪さんや夏葉さんは……きっと……お喜びになるでしょう……。それに……社長さまも……」
「うーん……確かに。なら、買ってしまおうか!」
そう言ってプロデューサーは籠の中に日本酒のミニボトルをいくつか入れた。
「それで……今夜の晩酌は……いかがなさいますか……?」
「今夜?」
「はい……あなたさまと一緒に……お酒を……」
「うーん、宿のサービスにあるんじゃないかな」
なるほど……と、凛世はつぶやいた。
手をつないでレジで精算をする。泊まっている部屋までは腕を組んで歩く。
「あなたさま……」
「何だ凛世?……少し歩きにくいんだが」
「……ふふっ」
彼の抗議に耳を貸さずに凛世は更に彼の指に自分の指を絡めるようにつないだ。自分でもはしたないと思っているが、二人っきりの旅行で愛情を隠せるほど冷静ではなかった。
*
「……うー……」
ルームサービスで注文した地元で有名な地酒を楽しんだ2人だったが、凛世は酔ってしまった。彼女は酒に弱くなく、むしろ強いほうだがどうやらペース配分を間違えたようだ。
実は凛世は今回の旅行において積極的に彼にアプローチをかけているがそれを内心恥ずかしがっている。それをごまかすために大量に飲酒をしてしまったのだ。
凛世はすりすりと頬を彼の腕に甘えるようにこすりつける。石鹸と彼のにおい。浴衣の冷たさが少しだけ心地よい。
「ぷろりゅ……さ~……」
「凛世、今日は仕事じゃないんだ。プロデューサーはやめないか?」
「じゃあ……『あなたさま』……それとも、『だんなさま』……?」
「いつもは『あなたさま』だよな。別に俺は――」
どちらでも、と言いかけてやめた。
時々凛世は三人称が「あなたさま」になることがあるのだ。夫である自分と他人が同じ呼称なのは少し癪だ。ようやく自覚した己の独占欲に少し笑って凛世の頭を少しなでる。
「――『旦那さま』が良いな」
「はい……だんなさま……」
甘えるように自身の額をこすりつける凛世を強引に抱きかかえ、布団に寝かせる。不思議そうにこちらを見る凛世の頭をなでながら晩酌で散らかった机を片付けるために戻ろうとする。
しかし凛世の手が彼の襟元をつかんだ。
「だんなさま……?」
「凛世、ちょっと机を片付けに――」
「行かないで……」
思った以上の強い力に引かれて、彼は思わず倒れこんだ。手をついて、体が凛世の体に直撃する事態は避けたが、かなり危険である。
「凛世……!危ないからいきなり引っ張らないでくれ!」
「……!もうしわけありません……凛世は……ただ、だんなさまといっしょに……ずっと、いっしょに……」
「……凛世」
結婚しても彼女とプライベートで一緒にいられる時間がほとんどなかった。
寂しかったのだろうか
凛世は上体を起こし彼と接吻を交わす。最初は触れるだけだったが、それが却って彼の劣情と庇護欲を掻き立てられすぐに貪るようなはしたない物となった。
「今夜は……凛世を……愛して……くださいませ……」
「違うよ」
彼は丁寧に凛世の浴衣を剝がしながら間違えを否定する。
「今夜も、だ。ずっとずっと、俺は凛世を愛するよ」
*
翌朝。
ゆっくりと目を覚ました彼は甘えるように腕にしがみつく凛世を微笑みながら撫でる。撫でられたためか少し唸って身じろぎをし、凛世はゆっくりと目を開けた。
「ん……?」
「おはよう、凛世」
「…………………っ!」
昨夜と今の己の状況を察知したのだろう。凛世は顔を真っ赤にして掛布団を被って彼から隠れてしまった。
「凛世……?」
「すっ――すみません!」
布団の中から上擦った声がした。いつもの、凛世が恥ずかしがるときの声だ。
「あの夜……ではなく、このような――はしたない姿を……恥ずかしい姿を見せてしまい……申し訳ありません……!」
「恥ずかしくない」
頭から布団を被った凛世を背中から抱きしめる。細く、薄い体がびくりと反応した。
「素敵だよ」
「~~~~っ!」
布団をかぶっていて凛世の顔は見えないが羞恥心で潰れた声が微笑ましい。
「だんな様……!あまり凛世をからかうのは……やめて……下さいませ……」
「事実を言っているつもりなんだけどなぁ」
「だから……!もう……やめて……」
そろそろ止めないと拗ねかねない。そう判断した彼は「ごめんごめん」と子供をあやすように頭を撫でた。抗議をするように凛世は頬を膨らませて布団から顔を出す。布団をかぶっていたからか恥ずかしさからか、彼女の顔は上気している。
「おはよう、凛世」
「……おはようございます、だんなさま」
昨晩のやりとりを覚えていたのか「だんなさま」と彼を呼ぶ凛世はとてもいじらしい。
彼は凛世の唇に触れるようなキスをした。
*
「忘れ物はないかな?」
「はい……出るときに……確認しましたから……」
お土産をすでに送ったことを確認すると、二人はふと目が合って笑った。
バスが到着するまで残り10分。10分間直射日光に炙られてしまえば、この楽しかった新婚旅行も終わりである。
名残惜しい。欲を言えばあと数日長く滞在したかったが、明日は二人とも仕事がある。
「……写真、見るか?」
「……!はい……!」
炎天下にもかかわらず二人は肩を寄せ合って同じスマートホンを見つめる。しかし直射日光に照らされた液晶はとても見にくかった。
「これでは……うまく見れないな」
「ふふっ……ならば……」
凛世は周囲の景色を指した。
宿の屋根。
絵葉書のような港。
川のせせらぎが聞こえる山。
夏雲が映える空――。
――数年前、ともに来た時と同じ景色。
「――ならば……景色を……楽しみましょう……」
「あぁ……」
景色の青さを身をもって感じていると2人の耳にバスの音が入った。
「あ……バス……」
「――凛世、ここまでのようだ」
「はい……」
彼から差し出された手を凛世は掴んで、繋いだ。
あの日も今日も、きっと忘れないだろう。
自分の恋愛感情をうまく表現できず拗ねてしまったことも新婚で愛を育んだことも忘れないだろう。
真っ当な恋愛ものです。