――俺は千冬姉のことをおぼろげにしか憶えていない。
何かの拍子に切り取られてしまったかのような穴だらけの面影。それさえも彼女が高校生だった時までで、それ以降のことは全く記憶になかった。確かにその場所にいて、俺と生活を共にしていた筈なのに、どういうわけかその姿を思い出せずにいた。
最初は熱を出して倒れたせいかと疑ったものの、俺を診察した医師は『病気や事故による記憶障害ではなさそうだ』と結論付けた。あり得るとすれば心因性の記憶障害――要するに、強いショックを受けたことで一時的に思い出せなくなった――だろうと言われたものの、当時の俺にはそれらしい出来事を思い出すことはできなかった。
大体、千冬姉が死んで半年も経っているのに、今になって急に発症するというのもおかしな話だ。鈴にも突然性格が変わったと言われるくらいだから、何の前兆もなく起こったことなんだろう。
結局、その時に原因を突き止めることはできなかった。けれども俺は、千冬姉を思い出せないという状況に納得したわけじゃなかった。
自分が知らないなら、彼女を知っている誰かに尋ねて回るしかない。たとえ、それが俺の視点とは異なる姿だとしても、そこに確かに存在していた千冬姉の姿なら代わりに記憶の中に留めておきたい。そんな強い思いに引きずられて、俺は彼女の足跡を幾度となく訪ね歩いた。
行動する上で必要となるものは大体揃っていた。血の繋がった親族ということで、俺が思っていた以上に情報は集まりやすかったし、それでも探れないことは束さんに頼んで調べてもらうことができた。必要な旅費も、千冬姉が遺していた貯金や支給金のおかげで困らない程度に確保できた。それらを使って、俺は連休や長期休暇の度に千冬姉のいた場所を訪れ、事情を話して彼女のことを訊き出した。
ほとんどは軍隊の関係者で、機密にかかわるからと教えてくれないことも多かった。それでも話せる限りの千冬姉の姿を、俺の目の前で懐かしそうに語ってくれた。
話の中の千冬姉は、大抵『ブリュンヒルデ』と呼ばれていた。その由来は、神話に現れる戦女神の名前。作戦中に誰かが適当に与えた呼び名が、いつしか広まって彼女の代名詞として扱われるようになったらしい。そんな彼女に窮地を救われたIS操縦者や兵士が数多くいたのだと、ある軍服を着たおじさんは語っていた。
誰かを守るため奮戦する。それは、俺の知っている千冬姉の姿そのままだった。
けれども、ただ一方的に、ただ一人で他人を守っていたわけではなかった。誰かを守る千冬姉がいて、その背中を守る誰かがいる。その人の背中を守る人も、更にその背を守ろうとする人も。互いに守り守られるからこそ戦えるのだ、そう俺は言い聞かされた。
『他人を守るために何かと向かい立つ時、その背中はがら空きになる。そのままなら刺され放題、やられ放題だ。だから俺達はお互いの背中を預け、守り合って脅威と対峙するんだ』
『坊主、お前の姉ちゃんはいつも心配してたぞ。『あいつは何もかも背負おうとして、周りを見ない』って言ってな』
『嘆く必要はないんだ。無防備な背中を守るのは腕力だけじゃあない。心の支えになるってのも、立派な誰かを守る行為だ』
それは俺の思い込みを砕く言葉だった。誰かを守るというのは誰かに守られないこと。誰にも頼らないことだと信じてきた俺に、あの人達の言葉は深く突き刺さった。
誰かに守られる自分を受け入れる、それが屈辱なことだと信じ切っていた。
千冬姉にとって大きな負担になっているとばかり思い込んでいた。
力任せでも不条理を打ち砕くことが誰かの幸せになると誤解していた。
でも、それは違う。誰かの手に守られていても、たとえ自分が無力な存在だとしても、必ず誰かを守る方法はある。力を振るい物理的に対処する以外にも手段はある。
俺はそのことを、数多の守られ守っていた人々の言葉を聞くことでようやく知ったんだ――。
■ ■ ■
――篠ノ之束の切り離した『記憶』がその心に触れる。
道を踏み違えて自壊したかつての自分が、異なる道を歩み直した『自分』と交わる。
それは『白式』に刻み込まれた織斑一夏と、織斑一夏に書き込まれた『織斑一夏』の邂逅。同じ者から出でて別の物へと変わった異物の接触。
二者の交錯は双方に大きな変化をもたらし、未知の反応を思考の奥底へと伝搬させる。
「そういうこと、だったのか」
その瞬間、『織斑一夏』は納得したように呟いた。
ユキの――『白式』を内包する少女の――言動を引きずっていたのは、誰でもない自身の
「――でも、あいつの中にいるのは
こうして繋がったからこそ、直に触れたからこそ、その違いが理解できる。だからその在り方を、信条を理解しても、過去あったそれにまた従う謂れはない。忘却を取り戻そうとする中で見つけ出した、新しい自分のやり方を貫き通してみせる。自分はそう心に誓ったのだ。
『力を望むのか?』
「いいや」
問いただす自分の影に、『織斑一夏』は静かに答えた。
「力なんてなくても、彼女の背中は必ず俺が守ってみせる」
『ふざけるな。力もなしに守れる存在などいない』
「できるさ。たとえ俺にできなかったことでも、今の『俺』は信じて貫ける」
はっきりと告げて、彼はその存在を真っ向から見つめ返す。束が『白式』に織斑一夏の人格を書き込んだ真の理由はわからない。しかし、その力を御す為に、『彼』を重要な
――ゆえに彼は問い、『彼』は力の在り方を指示する。
「お前はユキの力だ。ユキだけが行使できる、彼女自身の力だ。『俺』にはできない形で彼女の支えになってくれ」
『それでいいのか。『
「まだわかってないのか」
ため息を吐いた『彼』は、向かい立つ『白式』を相手にはっきりと言い放った。
「『俺』が信じてるのは『白式』じゃない。
『――なるほど。予想外だが面白い回答だな。こうしてまみえるまでは複製と思っていたが、随分と別物に仕上がっているというわけだ』
『白式』は笑い声を上げた。
『かくいう俺も単なる情報でしかない以上、本物とは言い難い。少なくともお前が書き込まれる以前の織斑一夏は保持されているが、所詮はコア上に構築した模倣人格だ。曲がりなりにも人間のお前の方が、より織斑一夏として相応しいのかもしれない』
「それには賛同しかねるな」
もしかしたら、鈴や箒から見た織斑一夏は『白式』の方がらしいのかもしれない、と『彼』は思った。
あくまで自分が千冬姉の記憶を失った直後の話ではあるものの、鈴がその変化に驚くくらいだ。今の『彼』とそれ以前とは大きく差があるに違いない。仮に同じだったとしても――具体的にどうだと指摘できないとはいえ――意図的な忘却と三年足らずの歳月が『白式』のソレとは別の存在に変貌させたことは確かだった。
『まあいいだろう。お前は答えを出し、後は俺が従うだけだ』
『白式』の声が徐々に遠くなっていく。過剰な同調状態が振り戻されつつあるのだろう。再び曖昧になる意識の中で、『織斑一夏』は彼の最後の言葉を聞いた。
『心の守り手として彼女の背中を預かってみせろ、織斑一夏。それこそがお前の示した『守る力』だ』
そして意識は――現実へと引き戻される。
■ ■ ■
『――白式、
少女の背に純白の翼が開く。大型の推進器を内包したそれは、ほんのわずかな出力で彼女を持ち上げ、
身にまとう外装もその形状を大きく変えた。着込んだ鎧のように重厚な印象さえあったそれは各部で分割・展開され、以前よりもフォルムに沿った形で彼女を包み込んでいる。
これこそが白式本来の形態。ユキ単独では解放しえなかった本来あるべき彼女の姿だった。
「――――っ」
両腕に抱える少年――織斑一夏が身じろぎする。ISとの安定した同期状態を構築したことで意識を取り戻したのか、彼はその目をゆっくりと開いた。
『ユキ、その恰好は――!?』
彼の思考がISコアを経由して伝わってくる。それこそが、彼とのネットワークが築かれた証。
口を開く前に脳内で言葉となったことで戸惑う一夏を、彼女は穏やかな眼差しで見つめた。
『貴方のおかげです、イチカ』
『――そうか、『白式』を通して俺と意識が繋がってるのか』
『はい。これで貴方とともに戦えます』
勿論、彼が操縦者へと変わったわけではない。この機体を駆るのはあくまでその身に宿すユキ自身だ。
だが、もはや一方的に守護されるだけの一般人でもない。彼の思考はISコアと同調し、もう一つの
『防御と攻撃は任せてください。貴方は地上に降りて操作の援護を』
『結局ほとんどの部分はユキに任せっきりだな。まあ、理に適っちゃいるけどさ』
一旦降下した彼女から一夏が離れる。距離を置いたとしても、思考制御装置を持つ彼とのリンクは維持されている。常にISからの情報は受け取れ、なおかつ彼自身も即座に危機を伝えられる。
再び接近してきたゴーレム目掛け、ユキは地を蹴って飛翔する。一瞬で近接の間合いまで寄るなり、彼女はその手の中に呼び出した剣を袈裟懸けに振るった。
『はあっ!』
気合いを込めた一閃がシールドを貫き、敵の胴体を一息に両断する。僅かに高度を落とした敵にもう一撃を加え、その頭部に並ぶ機械の目を完全に破壊した。
機能を停止して落下していくゴーレム。その影を蹴るように、異なるもう一機が攻撃を仕掛けてきた。その両腕には大型の杭打機が組み入れられている。
『近接型ですか』
歪な見た目と言えども、繰り出される攻撃は規格外の暴威であることに変わりない。まともに食らえば無事では済まされないだろう。
『標準のシールドだけじゃ防ぎ切れそうにないな。何か武器は――これだ、『試製・雪羅』!』
一夏の声とともに、左腕を覆う大型武装が展開される。本来は多機能兵装だが、外付け式の複合シールドとしても使えるようだ。呼び出されたそれを目の前に翳し、彼女は敵の殴打を寸前で受け止めた。
強固な物理盾とエネルギーシールドの積層構造を前に、さすがの刺突杭もその暴撃を阻まれる。動きの止まった相手に彼女は反撃の二斬を繰り出し、その腕ごと武装を切り裂いた。
『助かりました』
『たまたま援護が間に合っただけだ』
感謝を告げるユキに、一夏は照れながら答える。
応戦する間に必要な武装を選択し、操縦者の操作を待たず即座に展開する。二者がISコアに接続し、互いの状況を把握しているからこそ可能な芸当だ。
勿論、タイミングが合わなければ足の引っ張り合いにしかならない。が、この二人に限っては意識して合わせるまでもなく、その挙動は見事に噛み合っていた。
『――視界外から砲撃!』
『合わせます』
立ち込める煙の合間から放たれた銃弾。ユキはその軌道に雪羅のシールドを割り込ませる。一夏のサポートがなければ急所を貫いていたであろう一撃は、盾の中央に深々と突き刺さった。
『一旦高度を落とした方がいい。また狙撃されるかもしれない』
『ええ。ですが、あれに移動を遮られるのは厄介です』
コンテナの置かれた高さまで降りながら彼女は言った。発射された方角はともかく、その位置が特定できない。戦闘中に手を出してこなかったことも考慮すれば、着弾に時間差が生じるほど遠方からこちらを狙い撃っている可能性がある。
攻撃を察知できれば受け止められるといっても、相手が捕捉できないというのはかなりの脅威だ。一方的に攻撃される状況ではこちらも防戦一方にならざるを得ない。
『無理に戦う必要はない。まずは鈴と合流してこの場を離れよう』
本来の目的は鈴を連れ戻すこと。それを再確認しつつ一夏は提案した。
『はい。幸いにもコンテナを盾に動けば攻撃できないようです。甲龍もこちらへ近づいて――』
『ん、どうしたんだ?』
尋ねる彼は暢気そのものだったが、彼女の表情はわずかに険しさを増していた。この動きは味方を探してのものではない。まるで敵目掛けて突進しているような――。
『見つケタ』
彼女の意識の中に歪な声が響く。鈴の声音に似てはいるが、彼女が見せることのない感情を孕んでいる。
――それはおそらく暴力的な意思。誰かを打ちのめすという歪んだ決意。
『見つケタぞ、私ノ敵』
次の瞬間、ユキは衝撃波に突き飛ばされた。その威力に表情を歪ませながらも、彼女は不可視の砲弾を放った元凶を睨みつける。
視線の先に立つ者。それは、甲龍をまとった鈴だった。
――いや、それもまた正確ではない。
鈴の形を借りた『甲龍』。そう呼ぶべき存在が、その場所に浮かんでいた。
<第18話 了>