トレーニング中に怪我をしてしまったアルダンは、もう二度と走れなくなってしまった。
それはトレーナーとの契約が終了することを意味していて、ガラスの脚の魔法が解けてしまった彼女のこれまでの想いと、トレーナーとの想いが交錯する。

※ピクシブでも掲載しております。

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第1話

 病院のベッドに、メジロアルダンはいた。

 トレーニングで着ているジャージ服のまま、掛け布団の上で手を上品に重ねて、窓の外を見ている。

 病室の窓から見える景色は、日が落ちる少し前で。

 山の稜線はオレンジ色に染まり、光のさざめきが連なっているのが見えた。

 

「アルダン……」

「そんな悲しい顔をなさらないでください。私はもう、満足しているのです」

 

 オレに振り返りながら、メジロアルダンは静かに笑った。

 本日の午前。

 彼女に下った診断の結果は、非常にシンプルなものだった。

 

 もう、走ることはできない。

 

 主治医からの宣告が降り、どれだけの時間、呆然としていただろうか。

 気づけば夕方を過ぎ、見舞いの最終時刻が迫ってきている。

 ずっと声をかけられず、アルダンが外をじっと眺めている横で、オレは椅子に座ったまま膝上で拳を作っていた。

 呆けた顔で、ただ俯いて、目が虚ろになって。

 これが、彼女の運命だったのだろうか、と。

 

 それは、レース中の事故だった。

 オレには今年、新しく担当するウマ娘がいた。

 その彼女とアルダンが併走をする形でトレーニングを行っていたところ、第3コーナーの中間地点でお互いの脚がもつれてしまい、二人とも転倒してしまったのだ。

 幸い、新人の子は怪我をしなかったが、アルダンはというと――

 

「無理な力が入ってしまったのですね……仕方がありません」

 

 ガラスの脚への影響は、決して小さいものではなかったらしい。

 

「すまない。オレの責任だ」

「謝らないでください。あなたは、たくさんのものを私にくださいました。もうずっと以前から、いつ走れなくなっても悔いはなかったのです。

 

 彼女を走らせた理由は、新人の子も慣れてきて、そろそろ併走のトレーニングをつけたいと思っていたからだ。

 アルダンも全盛期を過ぎ、体が下り坂に突入していたため、その勾配を少しでも緩やかにしてやろうとした。

 

 ピークアウト。

 

 サクラチヨノオーも、トゥインクルシリーズ中に発現したアスリートの宿命だ。

 誰にでも必ず起きる自然の摂理とはいえ、ウマ娘にとって、ショックなことであるのは間違いない。

 ガラスの脚も相まって、だんだん衰えていく体に、彼女が時折、目線を落としていたのを見た。

 だから――

 

「ところで、あの子のご様子はいかがでしょうか」

「ああ、さっき連絡があったよ。念のため精密検査をして、安静にするよう伝えている。後日、見舞いに来てくれるそうだ……電話越しで泣いていたけどね……」

「そうですか……では早急に、心のケアをしてあげなければいけませんね」

 

 彼女は一緒に転んだ子を慮る。

 自分が二度と走れない体になっても、なおオレに怒りなど微塵も見せず、一心に相手のことを考えている。

 

「きっとあの子も、トレーナーさんと同じように責任を感じてしまっていると思います。でも、それは違います」

 

 視線を自らの脚に向けると、布団の上から、ガラスのそれをそっと撫でた。

 

「この脚は、これまでよく頑張ってくれました。決して強いわけではなく、それこそガラスの上を歩くように力の入れ方さえ気を遣わねばなりませんでした。でもあなたと出会ってから、全てが変わりました」

「オレは、君の脚を壊させないと誓ったのに……」

「いいえ、この脚がここまで走れたのは、あなたがいたからです」

 

 彼女は最初、体が弱いせいで、本格化したあとも入退院を繰り返し選抜レースを逃してきた。

 オレがスカウトの声をかけても、彼女は崇高な覚悟と信念を以て、己の筋を通すために適性外のレースを走ってみせた。

 オレはその熱意――いや、魂の真髄に触れ、アルダンとともにトゥインクルシリーズを駆け抜けた。

 絶対にガラスの脚を壊さないと誓って、戦い抜いた。

 それなのに……。

 

「あなたと出会えた。それだけでもう充分、私は幸せな毎日を過ごせたのです。だからきっと、これは運命なのです」

「運、命……」

「ええ、あの時終わりかけていた私の運命が、劇的に変わりました。他の娘と同じように、トゥインクルシリーズを満足いくまで走り抜けた。これは紛れもない事実です」

「……」

「トレーナーさん、今日まで本当にありがとうございました」

 

 アルダンが改まって言う。

 

「本日をもって、あなたとの契約は終わりになるかと思います。経緯はどうあれ、もうトレセン学園にいる理由はなくなってしまいましたから……」

 

 しかしその表情は寂しそうで、とある境地を悟っているようでもあった。

 どこか遠いところを見つめて、心がそちらへ離れていく――無のような。

 

「ふふ、なんだか魔法が解けてしまったような感覚です。本日0時を回ったら明日になってしまいますから、その瞬間……ガラスの脚の役目は消えて……」

「童話のシンデレラ、みたいに……?」

「ええ、本当に。ずっと夢のような時間でした♪」

 

 彼女はいつものように、口元に手を当ててクスクスと笑い――

 

「でも、そんな夢の時間は、永遠に続かないものですね……」

 

 病院の壁、いやそれよりも虚空の――さらに遠い場所に視線を移した。

 

「私はこれまで、多くのライバルたちと戦ってくることができました。ひとえにそれは、あなたが私のトレーナーになってくださったからです」

 

 紫色の水晶の瞳に、小さな炎がともる。

 レースに出場するウマ娘としての本能。

 思い出すだけでも蘇るのだろう。

 その時の高揚感と、溢れる情熱が。

 あの時の燃え滾る覚悟と、漲る闘志が。

 1着を取る、そんなシンプルなルールであるがゆえに、ひたむきに走ったあの日々を。

 魂を震わせる、激闘の数々を。

 

「君が、頑張ってきたからだよ」

「いいえ、あなたがいなければ決して叶いませんでした。私と出会ってくださり、私をスカウトしてくださり、これまで導いてくださり、本当にありがとうございました……」

 

 深々と頭を下げたアルダンの、美しい水色の髪がふわりと落ちる。

 夕焼けの色にさえ煌めくその輝きは、今までの彼女を象徴してきたものに近しい。

 どんな相手でも食らいついてきたガラスの脚。

 その踏み込みは間違いなく強敵たちの脚に届き、走り抜けた姿は見た者の目を奪う美しさを放った。

 

「トレーナーさんから見て、私が走ってきた蹄跡は、きっと輝いたものになっていますでしょうか」

「ああ、もちろんだ。最も苦しく険しい道を歩んできた君は――」

 

 朧気で儚い輝きでしかなかった彼女は、チヨノオーやヤエノたちと戦い、多くの人々の心を焼き尽くした。

 オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンといった永世三強に並び、たくさんのレースを勝利した。

 

「今まで出会ったウマ娘の中で、一番強く輝いているよ」

「まぁ……ふふ♪」

 

 満足そうににっこり微笑んだ彼女は、視線を落として。

 しかしやはり――小さな炎はすっかり消えた。

 

「トレセン学園を出たら、しばらくはメジロの療養所にて養生することといたします。アルバムの整理や学園生活の思い出などを振り返ろうと思いまして♪」

「かけがえのない大切なものだもんな。みんなとの思い出は……」

「ええ、とても大切で、心の中に深く刻み込まれて……素敵な毎日でした」

 

 だがその思い出は、これ以上の蹄跡を描くことはない。

 

「今後は大学へ行こうと思っています。私と同じように脚に不安を抱えているウマ娘へ、何らかの希望を見出せる一助になるやもしれませんから」

「アルダンならきっとたくさんの人の役に立てるよ。……あと海外へ行ったりしてみたいって、前に言ってたよな?」

 

 トゥインクルシリーズにある程度区切りのようなものを感じた後、一緒に温泉に行った時の話だ。

 

「覚えていてくださったのですね♪ そうですね、そちらに先に行ってもいいかもしれません。ふふ、どうしましょう、やりたいことが山ほどあります♪」

 

 アルダンは胸に手を当て、目を瞑る。

 それから一息つき――、言葉を紡ぐ。

 

「トレーナーさんは、きっと……あの子も含めて、これから多くのウマ娘を導いていくことでしょう。そのお姿を見られないのは少し残念ですが、旅行に行くときは一緒に行きましょうね。お時間さえあれば……ですが」

「そうだな……行こう」

 

 アルダンと見つめ合う。

 彼女の長いまつげが、まばたきとともに上下に動き、その瞳がオレを射抜いた。

 

「あなたとの、思い出も……もう、今日で」

「ああ。そう、だな……」

 

 終わり……。

 もう二度と一緒には、いられない。

 彼女もそれを、分かっている。

 非常に心苦しく、離れたくない。でもオレは、そんな気持ちを押し殺す……。

 

『当館の面会終了時刻が近づいて参りました。ご面会の方々は――』

 

 館内放送で面会の終了時刻を告げるアナウンスが流れてくる。

 隣の病室から見舞いの人が出ていく声が聞こえたかと思えば、廊下に同様の声が他にも聞こえてきた。

 時刻はすでに、19時に差し掛かっている。

 これ以上、長居はできない。

 

「……もうこんな時間か。すまないが今日は――」

「ええ……残念です」

「また今度来るよ、あの子も連れて」

 

 黒い手提げかばんを持ち、ベッドの横にあるアレンジフラワーの花びらを人差し指で触る。

 訳もなく病室をうろうろして時間を取って、忘れ物がないか探している風を装いつつ、その間に何か話題を見つけようと思ったが……残念ながら何も出てこなかった。

 そんな自分が情けなく思えてくる。

 

「……」

「そ、それじゃ」

 

 沈黙の空気に耐えかね、彼女の顔を見ることもなく、その場を立ち去ろうとしてしまう。

 こんなことが許されていいわけがないはずなのに。

 終わっていいはずがないのに。

 逃げるように。

 オレの足の歩みは、止ま――

 

「あ……」

 

 ――った。

 引っ張られる感覚に振り返れば、アルダンが……シャツの袖を掴んでいた。

 

「わ、私ったら何を……申し訳ありません――」

「構わないよ。……病院は心細いもんな」

 

 オレは、何をしている。

 

「いいえ……、病院での生活は慣れっこ、ですから……」

 

 だがここでお別れをしなければならない。

 今生の別れというわけではないのだ。

 また明日にでも会える。

 

 だから……。

 

「……さようなら、トレーナーさん」

「ああ、それじゃあ……」

 

 後ろ髪を引かれる感覚を強引に伸ばして、病室のドアに手をかける。

 

「また、いつか……」

 

 そうだ。これからトレセン学園に、アルダンがいなくても……。

 いつもお淑やかに微笑みかけてくれていた彼女は、あの学園に二度と戻ってこなくても……。

 このまま帰っても――

 

 いいはずがない。

 

「アルダン……!!」

「は、はいっ!?」

 

 オレが踵を返しアルダンに向き直ると、驚いた彼女の長いまつげが、瞳と一緒にパチパチと瞬く。

 そんな彼女を見つめながら、オレは胸の苦しみを濁流のように。

 ――吐き出した。

 

「オレは、君のことが好きだ」

「――っ!?」

「だから君と、これからも一緒にいたい」

 

 アルダンは目を見開いた。

 口元を抑え、時間が止まったように固まってしまう。

 それは、ほんの数秒が数時間にも感じられた瞬間。

 

 アルダンの瞳から、涙がこぼれ落ちてきた。

 

「わ、私も……私も――トレーナーさんのことを、お慕いして、おります……っ」

「っ!」

 

 アルダンの言葉を聞いて、濁った底に滞留していた感情が清流のように澄み切ったものとなって全身に流れていく。

 無意識に歩を進め、彼女の眼前に立つと。

 その目の奥は輝きに包まれ、微かな光さえも反射した紫色の瞳が、柔らかい眼差しをこちらに放っていた。

 

「私も……トレーナーさんとずっと、一緒にいたいと……思っておりました……っ」

 

 溢れだす涙を手で拭い、拭いきれなかった雫が布団に落ちる。

 

「アルダン、……」

「……で、でも、よろしいのですか……? 私はもう走れないウマ娘です。私の走りに見出してくださったときとは違って、今の私には……」

「そんなの関係ない。契約したあの日はトレーナーとしてだったけど、今は、そんな肩書はなしで、君の隣に立つと誓いたい」

 

 そう告げると、アルダンは心臓の位置に手を当て、ゆっくりと瞳を閉じる。

 

「いつか、あなたとお別れをしないといけない日が来るのではと思っておりました……。そして今日、この日がやってきました……」

 

 泣き腫らし、くぐもっていた声には、さきほどまで無を秘めていた言葉のそれぞれに、弾みが戻っていた。

 

「トレーニングの時も、ピークを過ぎた体が日に日に衰えていくのを感じて、私はずっと抗っていました。あなたともう、会えなくなるのは嫌だと……」

 

 彼女が時折見せていた憂いた表情は、走れなくなることへの恐れではなく。

 オレとの契約が切れることを恐れていたらしい。

 

「でも……こんな、夢のようなことがあって良いのでしょうか」

 

 おぼつかない足取りでふらふらと立ち上がろうとしたため、オレはすぐさま彼女を抱きかかえ支える"止まり木"となる。

 

「シンデレラのような魔法が解けても、トレーナーさんは新たな夢を見させてくれるのですね……」

 

 吐息が感じられるほどの近さで、お互いの視線が交わった。

 先ほどまで遠いところを見ていた瞳の中には――"今"は、しかと自分が写っているのが見えて、心臓が音を立てて跳ねる。

 

「私が歩んできた道のその隣には、いつもあなたがいたのに……走れなくなった後は一人で歩かねばと想像すれば、それは自由なはずなのに自由ではない感覚で……軽い足取りのはずなのに脚は重たくて……」

 

 彼女が抱えていた気持ちは想像に難くない。

 それは自分も感じていたことだったから。

 

 アルダンがいない、隣にいない、傍にいない。

 そう思っただけで、張り裂けそうな胸の苦しみが襲ってきた。

 

「でも、これからまた私は……あなたと共に歩いても、良いのですね……?」

 

 その問いに、力強く頷く。

 

「ああ、もちろんだ。俺もそうしたい。だからこちらからも、お願いするよ」

「……はいっ、トレーナーさん――!」

 

 胸に顔をうずめてくる彼女を、こちらも強く抱きしめた。

 彼女の鼓動が、体温が、息遣いが、間近で感じられ――その細い体と柔らかな肌の感触が密着する。

 

「きっとこれが、私の運命だったのです……。とても、幸せな……運命」

 

 彼女を胸に収めながら、数十分の時を消費していたが。

 自然と互いが離れるまで、不思議と誰からも声をかけられなくて。

 窓から見える銀色の月が、完全に顔を覗かせているのを眺めながら。

 

 悠久の時とも思える時間を、アルダンと共に感じていたのだった――。


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