よろしくね。
どうしても、感傷的になってしまう。
コンクリートに打ち付ける波の音や、紺の混じった黒髪を揺らすそよ風の通り過ぎる音、五時を知らせる遠いチャイム、それら全てが夕陽の沈むのを飾るバックグラウンドミュージックのようで、少し空しかった。
現実とは、どうも人間の理想から遠ざかりたいものらしい。思った通りに事が進んだ経験は、片手で数えても伸びたままの指が余っているくらい。複雑そうにできた頭の中の映像を現実に重ね合わせても、鮮明に映ることなんて無くって、いつもぼやけている。どうにかそれをはっきりとした作品にしようとしても、現実に嫌われてしまったままで、その努力も泡になって消えていく。甲斐性が無いなと鼻で笑って、不貞腐れた右手でスクールバッグの小さなストラップを放り投げようとした。けれど、憔悴しきった腕が鉛直方向に向いたところで力は抜け、ストラップは足元に転がった。
……もう、どれだけここにいるのだろう。赤の波を揺らしていた水平線はもう青黒くなっていた。腕につけた時計も確認しないで、ただ、静かに、頬に涙を滴らせた。
半年間交際していた彼氏にフラれた。「奏が大人すぎてついていけない」と。
昨年、高校に入学したばかりの五月に出会った子だった。一七五センチメートルの、爽やかな男の子。同じクラスで、同じ学級委員としての彼を認識したのは同月、担任の先生から雑用を任されたとき。柄じゃない仕事のはずなのにその時の記憶が鮮明なのは、きっと彼がいたからだろう。
初めてのデートは同年の七月のことだった。その時はまだ交際などしていなかったが。他数人のクラスメイトと共に隣町へ遊びに行く予定だったのが、クラスメイトは全員、偶然にも別の用事が入りドタキャン、待ち合わせ場所には彼と奏の二人だけが集まった。デートみたいねと笑ったら彼の顔がわずかに赤くなったのも覚えている。
それから五か月、冬休みも正月も過ぎて冬本番となった中、午後六時の、二人きりの教室で、思い切って告白した。快活に彼はいいよと笑って、奏を抱きしめた。
もしかしたら、奏のファーストキスはその時だったかもしれない。子供だましの、さらりと唇を触れ合わせるだけの、優しくもどかしいキス。顔に熱を感じて、彼の赤いほほを見た。それは夕日に照らされただけじゃないと強く思えた。
彼は奥手な人だった。デートに誘うのはいつも奏だった。どこに行きたいと問えば奏さんの行きたいところに行こう、あなたの家に行きたいと言えばうちは汚いから。彼は恋愛に関しては消極的にも見えた。キスだってもちろん奏から。
そんな彼の反対を押し切って家を訪ねたのは、二年生になった四月。彼はごく普通のアパート暮らしで、共働きの両親に生まれた一人っ子、土曜の陽が差す家には誰もいなかった。生活感の無いほどきれいに片付いたリビングで「汚いけどゆっくりしていって」と笑った彼は何だか可笑しかった。
それから一か月経った五月の半ば、二人は初めて体を重ねた。人気者だった彼の誕生日だった。クラスメイト全員が彼の誕生日を祝いたいと言い、学校近くの喫茶店一軒を貸し切ってパーティーを開いた。二人の関係を聞かずとも察していた同級生は早々と帰ってしまい、二人もその後に店での食事を切り上げた。
彼の住処に行くのはこれが二回目だった。彼の香りに満たされた二人きりの部屋で、「もう1つ、私からプレゼント」だなんて、それっぽく彼を誘ってみせた。初めてだった二人はぎこちなかったのに、何故だか幸福感に満たされて、平静を装っているつもりのような彼の顔が愛らしかった。その時のキスは深かった。
このまま、いつまでもこの関係が続くと思っていた。二人でそれぞれの弁当を食べて、二人で同じ勉強をして、二人でキスをして。二人で同じ大学に行って、また同じ勉強をして、ときどき愛し合うセックスをして、二人で同じご飯を食べて。いつか二人は別々の会社に勤務して、収入が安定したら結婚して、同じ食卓で同じ食事をして。そのうち子供ができて、二人で仲良く子育てをして、育児と仕事の両立に二人で頭を悩ませて。人並みに将来の妄想をする奏は、そんな関係を築いていくのだと信じて疑わなかった。
今日、その期待は壊された。
「俺たち、別れよう」「奏が大人すぎてついていけない」。
彼らしいとげの無い口調で、丁寧に、ゆっくりと語られた言葉だ。彼が笑わないときというのは真剣になっているときだと奏は分かっていた。それが現実の確かさを証明してしまって、衝撃に涙すら流れなかった。気取った面持ちで、ただ、凛々しい彼の顔を見つめていた。
分かった、別れましょう。一生懸命の笑顔を作って、そう言った。
本当は悲しかった。もっと話したかった。けれど、彼はそうでもなかったのかな。
彼なりのバースデープレゼントだったのかな。1滴の涙が流れる顔で、とっくに陽の沈んだ水平線を見つめていた。
「……ねえ、あなたは私のこと、すき?」
彼に向かって、海に向かって、あるいは空虚に向かって。答えは返ってこないとわかっているのに、赤い唇を動かして問うた。既読の文字を横に添えた「冗談じゃないんだよね」のメッセージだってそう。答えなんていらない。そこに必要なのは、奏の〝心のすきま〟を埋めてくれる何かだった。
少ししょっぱい浜風が、真ん中で分けた前髪を揺すった。顎から落ちた涙はコンクリートに丸を作っていたが、それはもうとっくに消えていた。
「どうしたのですか。こんなところに居ては、風邪をひきますよ」
老いたような男性の声がした。思えば奏は、夏服の制服のままだった。
奏はやっと、自分のいる場所、時間を確認した。小さな腕時計の長針は一二を、短針は七をさしていた。
「ええ……、そうね。そろそろ帰ろうかしら」
奏は踵を返した。今はなんとなく、これ以上、他の何かに〝自分〟を曝したくなかった。
間隔をあけた街灯に当たらない闇を歩いて行った。
「お待ち下さい」
さっきと同じ人の声だ。
「これ、貴女のものじゃありませんか」
振り返った後ろにいたその人が持っていたのは、デフォルメされたサメのキーホルダー。彼と水族館に行ったときに二人で買ったものだ。お揃いだと柄にもなくはしゃいだ記憶がまたよみがえる。
「持っていて。貴方とはまた会う気がするの、その時に返してもらえないかしら」
嘘だ。奏には、もう、巨躯のこの男性とは会わない気がしていた。奏にはもういらないものを、見知らぬ誰かに預ける。いつか誰もそれの記憶、その記憶を失くして、知らぬうちにどこかへ消えていく。コンクリートに打ち付ける波と同じように。それくらいの感覚で男性を捉えていた。
「そうですか。では、また」
男性はそう微笑んで、キーホルダーをスーツの腰ポケットにしまった。
「ええ、またね」
いたずらに微笑んでみせた。ここにいる全てをだますように。
奏は映画鑑賞を趣味としていた。誰もが面白いと謳う名作や、売れ行きの伸びないようであるが実は深いメッセージ性を持つ掘り出し物、クソ映画と揶揄されるもの。観る作品やそれらを見つけ鑑賞する場所には際限が無くて、脳の三割は映画でできていると言える妙な自信があった。そんな奏が再びあの男性と出会うのに、大して長い時間を必要としなかった。
二週間たった七月一五日、男性の隣でスクリーンと対峙していた。
この人は映画を率直に楽しみたい人らしい。席のひじ掛けには何も置かず、伸びたままの背筋に乗せた頭をスクリーンに向けている。
映画は初見よりも二度目に見るほうが面白いというのに、奏はいまいちそれに集中できなかった。
奏が男性と再会したのは、今から一週間前。同じ映画館の入り口でのことだった。男性も映画を観るのが好きらしく、そのときは流れで一緒に同じ映画を観ることになった。見終わった後に渡されたサメのキーホルダーはきれいになっていた。
それをきっかけに、奏と男性は仲良くなった。話すことは映画のことくらいだけれど、なぜか二人はとても気が合って、今まで観た中で一番の作品、見つけて興奮した作品、つまらないと自信をもって言える作品、それらが同じもので、作品の好みや映画を観る頻度だって同じだった。
男性と映画を観た三度目の次の日、昨日のことだ。
「奏さん、援交やってるっぽいよ」
校舎の三階、女子トイレで聞いたことだった。あらぬ誤解をされていた。
「え? 援交って、援助交際?」
「そう、援助交際。昨日の夜、おじさんと一緒に歩いてた」
「嘘だ、それ速水さんじゃないでしょ」
「本当だよ。上着は着てたけど、スカートは制服のだったし」
奏は、自らの回転の速い頭でいろいろなことを考えた。もし誤解されたままこの話が広まったら、もしそれが先生にも届いてしまったら。
怖かった。自分が今まで積み上げてきたブランドが、「速水奏」という優等生のブランドが崩れ去ることが。
お利口にしてきた。顔立ちが大人びているなんてことを言われ始めた時から、それが奏のアイデンティティみたいになって、どこかの大人から勝手に借りてきたような言葉を使うようになって。それだけじゃ格好がつかないからと学校でのことは何においても人並み以上にできるよう努力してきた。宿題を出さなかったことも学校に遅刻したこともない。学級委員とかの仕事は率先して引き受けて、学校にいる誰もに媚びるように優等生を演じてきた。それが奏のアイデンティティで、唯一の立ち位置。
それが、崩れ去ろうとしているのが、怖かった。
なのに、奏は、そのとき個室のドアを開ける勇気が持てなかった。ドアのすぐ近くで話す二人がいなくなっても、しばらく個室の中で動けずにいた。
そして、今日。奏に直接、事の真偽を確かめる人が現れた。
「奏さん、援助交際してるってほんと?」
「何よ、それ。そんなわけないじゃない」
いつも通りの平静を意識して、微笑んで答えた。
「奏さん、夜におじさんと一緒に歩いてたって聞いたけど」
「人違いじゃないの?」
鼻でわらってみせた。
「それじゃあ私、帰るから。またね」
「……うん、またね」
その後、奏は一度家に帰り、服装や髪型をいつもとは違うものにしてから映画館に向かった。まさか芸能人でもないのに変装をするとは思っていなかった。
ふと考え事をやめてスクリーンに目を移してみると、もうエンドロールが流れていた。キャストの名前は流れてこなくて、スタッフや制作会社の名前しか見ることができなかった。
「どうしたのですか、集中できていなかったようですが」
「……ううん、何でもないわ。ちょっと考えこんでしまっただけよ」
「そうですか。ではまた今度、同じものを観に来ましょうか」
「そうね」
二人はここでしか関係を持っていなかった。連絡先どころか相手の名前も知らない。ただ、次はいつ、ここで会いましょうと口約束をして、同じ映画を連番の席で観るだけだった。映画を一緒に観るだけの、映画友達、といったところだ。
「では次は、いつ来ましょうか」
「土日は少し忙しいの、来週の夕方かしら」
「分かりました、では月曜日に」
「ええ、また同じ映画ね」
「さようなら」
「さようなら」
映画館を出てからそれぞれ、反対の方向へ歩き出した。
思えば、奏はまた嘘をついた。
土日は忙しいなんてことはない。むしろ暇なくらいだ。それなのに嘘をついて男性と会おうとしなかったのは、また同級生に見られてよりいっそうの誤解を与えてしまうのを恐れたからだ。
ベッドで、悶々としていた。
「……一人で行こうかしらね」
クローゼットの扉を開けて、見慣れない服に手をつける。これはまだ一度しか着たことのないとっておきだ。〝お忍び〟のために着るには少し抵抗感があったが。
前髪の分け目も変えて、気取った帽子を被った。我ながら変装は完璧だ。
「やはり貴女でしたか」
「……どうして分かったの」
男性はいつもと同じスーツ姿だった。違うところと言えば上着を着ていないくらいだろう。きれいなワイシャツは屈強な体に見合わないサイズだった。
「分かりますよ。もう何度も共に映画を観た仲なのですから」
「そういうものかしら」
「そういうものですよ」
男性は優しく微笑んで答えた。
「それに、貴女、昨日と同じ顔をしていましたから」
「整形でもしない限り同じ顔でしょう」
「表情が同じだったということですよ。なんだか物憂げだ」
どうやら奏の心中を察していたらしい。しわのある顔で豊かな表情を演じていた。今は悲しそう。
「相談にでも乗ってくれるのかしら」
「聞くだけなら保証します。私は口下手なもので」
「それで充分よ」
「では、喫茶店にでも」
そう言って、男性はよく行くのだと語るカフェへ奏を連れて行った。背中を向けて言った「味も保証します」はすこしおかしかった。
思えば、奏は誰かに愚痴をこぼしたことがなかった。奏はいつだって優等生だ。そのペルソナを被った姿で弱みを見せるのは、周りも、自分も許す気がしなかった。〝速水奏〟のイメージ像を崩してしまえば、たちまち周りからの評価によって落ちぶれてしまう。完璧な人間が見せる弱点は〝ギャップ〟と言ってごく普通の日本人には人気らしいが、奏は生憎それが苦手だ。そんな奏には、この男性になら話せるかも、と根拠もない確信と信頼が持てた。
「それは、申し訳ありませんでした」
「いいのよ。こうやって、誰かに自分の身の回りの話をすることなんて今まで無かったから。それに、ここのコーヒーは美味しかったし」
「それは良かった」
「さて、話も終わったことだし、帰りましょうか」
「はい」
そう言って席を立った、そのときだった。
「あれ、速水さんじゃない?」
鳥肌が立った。振り返ってみると確かに、トイレの個室で聞いた声の持ち主だった。
「……どうしたの」
これは、またとない、誤解を解くチャンスだ。そこそこに出来の良い頭がそうしっかりと判断したのに、何と返せば良いのか、さっぱり分からなかった。
「隣の男の人、誰? それに、そんな変装みたいにしちゃって」
同級生が指を指したのに合わせて、冷や汗をかく奏の視線もそちらに向いた。
「ええと、この人は……」
「奏の父です。いつも奏がお世話になっています」
男性が、嘘をついた。あまりにも意外な、それでいて自然で、どの選択肢よりも確実かつ効率的な男性の解法に、思わず目を大きく見開いた。
「……ついこの間まで単身赴任に行ってたんだけど、ようやくこっちに戻ってきたから。色々付き合ってもらってたの」
「ああ、そうなんだ。てっきり、アヤシイことでもしてるのかと思った」
「言ったでしょう、そんなわけないって」
「そうだね、ごめん」
じゃあねと言うと、同級生の彼女はそそくさと走り去ってしまった。
「貴方も、面白い嘘をつくのね」
「こうするのが一番手っ取り早いでしょう。親子の円満な関係に割って入ろうとする人間なんてそうそういませんから」
「それもそうね」
帽子を一度被りなおして、また男性の顔を見た。
「奏さん、と言いましたか。仮の父から貴女に、話したいことがあります」
「奇遇ね、仮の娘も、お父さんと話したいことがあったの」
「では、場所を変えましょう」
紺のネクタイを引き締めて、男性は歩き出した。奏も、ヒールを鳴らしてそれに倣った。
午後五時の鐘が鳴った。空は徐々に赤みを帯びていた。
コンクリートを叩く波の音や、木々を揺する浜風の音をバックグラウンドミュージックに、夕陽が水平線に沈んで行く。オレンジの照明に当てられながら、二人は歩を進める。
「私のしたい話を先にしても良いかしら」
「どうぞ」
眩い夕陽を背景にする大きな背中に問いかけると、そう簡単に返ってきた。
「貴方との関係を終わりにしたいの」
「そうですか」
「今日、喫茶店で話したけれど、他の人から疑われるかもしれない、『何か怪しいことをしているんじゃないか』って」
「そうですね」
「だから、貴方との関係を終わらせたい」
これは、奏が何度も悩んだ末の結論だった。このまま同じように共に映画を観て、知り合いに勘違いをされれば、今回は男性の咄嗟の嘘が利いたが、そう行かないこともあるかもしれない。そうすれば、お互いに、どこかしらで悪い影響を受けるかもしれない。互いのためを思っての決断だった。
「そちらの話は以上ですか」
「ええ、これで終わり。後は、貴方の返答を待つだけ」
帽子を一度取って、簡単に前髪を真ん中で分けた。
「……なら、次は私のしたい話をします」
「待ってよ、まだ貴方の答えを聞いてない」
「これが答えです」
そう言うと男性は、胸ポケットから手帳を取り出して開いた。それには小さな紙が一枚、挟まっているようだった。
「アイドルになりませんか」
真っ直ぐと腕を伸ばしてそう言った彼の大きな右手には、それに見合わない小さな長方形の紙があった。有名な芸能事務所の名前とロゴ、それに隣り合う男の名前。明朝体で書かれたようであった。
名刺を受け取った奏は目を見開いた。
「貴女には、アイドルになって頂きたい。私が貴女の背中を押します」
「……今の関係、映画好きの仲間をやめて、アイドルと裏方、仕事仲間になろうってこと?」
「はい」
彼の顔には、何も描かれていなかった。荘厳なその顔で笑うことをしなかったし、嘘冗談を言っている目もしていない。
「……貴方、ずいぶんと面白いことを言うのね」
「私はいたって本気です」
「なら……」
そう言って、風に揺らされた前髪を直した。
「なら、私にキスしてよ」
彼は、少し困ったように、若干目を泳がせて、「キス、ですか」と頬をかいて答えた。
「ここなら誰もいない、疑われることもないわ」
「でも……」
「『貴女はアイドルだから』、そう言いたいの? 残念、私はまだ貴方の頼みを受けてないから、まだアイドルじゃないわよ」
いたずらに笑ってみせた。
「……では」
男が膝を曲げる。こういう時に、映画のヒロインがすることと言ったら、目を閉じて彼の迫るのを迎えるのみ。
優しい感触が額に伝う。
……額?
「……ちょっと、そこは唇じゃないの?」
「わざわざ女子高校生の唇にキスをするアラフィフが良かったですか」
「そういうことじゃなくて、もっとこう、ムードとか……」
「キスはしましたよ」
コンプライアンスを気にする彼の何食わぬ顔が気に入らなくて、奏は少し、ムキになった。
「じゃあ、私からもさせて。あなたの額に、キス」
「……それで満足するなら」
本当は満足なんかしていない。だけど、やられっぱなしというのも癪であるから。再び膝を曲げた彼の額を狙って、唇をそっと、優しく押し当てる。
怖くて、目を瞑っていたけれど。してみれば存外、簡単なものだった。
子供だましの、さらりと唇を額に重ねるだけの、優しくもどかしいキス。たった数秒のことなのに、奏は妙に満足して、ゆっくりと目を開いた。
「契約は、どこでするの?」
「今から、事務所に向かいましょう。そちらで手続きをします」
「そう。もちろん、そこまで案内してくれるのよね?」
「ここからそう遠くありません、歩いて行きましょうか」
二人は歩き出した。夕陽の沈んだ暗闇の夜の中で、波と浜風の音を聞きながら、ふと星を見上げた。
「ところで、ご両親にはお話をしなくても良かったのですか」
「別に、大丈夫よ。私はいつだって自分のことは自分で決めてきたし、私の判断に親は反対しないから」
「そうですか」
「歩くの、遅いんじゃない?」
「早足のほうがお好みですか」
「女は早く通りすぎていくものよ」
「なら、私も早く歩かなければいけませんね」
彼はそう笑って、歩調を早めた。
「もう、置いて行かないでね」
涼やかな潮風が、二人を夏夜へ連れ出した。