ウェシルが男の霊を引き連れて、あえて風を発生させるように駆け抜けたのだから、今日ウェシルがナタのそこかしこを奔りまわったことは誰もが理解できることだろう。
その理由は
湯を沸かせたヤカンのようにカンカンになった師匠の顔を思い出した。おそらくは伝えてくれるはずである。肩を怒らせたままギイギイ言うのだ。ウウン……。顔をしかめる。確率は下がるが、きっと。弟子には甘めではあるけれど面倒くさがりな性質も持ち合わせるから余計なものをぶん投けおってからに、と放ったらかしにされる可能性も否定しきれないが。
「……時間って概念がねェみてぇな感覚だ。」
アビスとの戦争で多くの同胞たちが彷徨う中、ウェシルは自分の魂の輝きをもってして傷を負った人々の魂を安息だけを約束する静謐に導き歩き続ける。時が過ぎ、師シュバランケも斃れ、妹弟子殿は再生を誓って頽れて。
一人ずつ、正しきウィスクマタリシの使命を知る者は夜神の国までやって来てしまった。こうしてウェシルは忘れられて行くのだな、と忘却される気持ちを実感する。
摩耗の感覚は分からなかったが、古名を授かった日以降より老いぬ身には思うところがあった。夜神の国でしか相まみえることが出来ぬウェシルの存在は、過去最古に、未来永劫に、続く。時空の狭間のような場所。冥界とは、そこに在るものだった。
夜の調停者として授かったウィスクマタリシの古名を
夜神の国でしか相まみえることが出来ぬウェシルの存在は、夜の調停者として授かったウィスクマタリシの古名を歴史に伝えることも出来ぬまま、夜神として存在が定義づけられてゆくこととなる。一応はちゃんと人の身から神に召し上げられたと認識で佳いらしい。
ウェシルのあっけらかんとした態度と報告には、夜神の国でのんびりと過ごすシュバランケも驚き、朧気だった肉体でひっくり返ったほど。それでも、夜神の国の主はウェシルではなかった。彼はあくまでも後継者の候補なのだ。
陽光照り尽くす刻、地上の万物万象を見守ることこそ
月光にて微睡む刻、地下の冥界へ眼を降ろして魂魄のざわめきを鎮め、彼らの魂が廻焔に燃えるまでを見届けること含め、死者たちの内で広がる
あらゆる命が生を謳歌した旅路の最期にたどり着く
「アンタが本当の夜神サマなのにな?」
ウェシルは、あくまでも夜神の国で燃える
地下遺跡に突き刺さった巨石を見上げながらウェシルはそんなことを言って、幾百年もの間を死者の世界で抗争の焔を燃やした。歴史に名を残すアビスとの大戦の最中にも、ウェシルはウィスクマタリシにしか出来ぬことだけに専念したのだ。
その反対に、夜神の国を維持することに
表立って人々に姿を見せるウェシルは、夜神の国でただの生者のように見えてよく目立つ。実際のところ重傷を負っても終わりを迎えたことは一度たりともなかったので生者に違いないのだが、しかして、得た魔神の性質によって死の気配が濃厚だ。
故に、夜神の国で彼の姿を見たものは口を揃えて言う。反魂の詩で復活を遂げるまでの間、彼の庇護下にあった魂たちはウェシルこそが夜神だと言う。
夜神から機能の一つを預かったことで。魔神として覚醒したことで。神性を帯びた彼は、夜神の国では常に夜魂の光を纏う。灯台の如き存在を以てして、動くたびに響き鳴る鈴の音を以てして、彼は魂の安寧を正しく導く死と再生を司る魔神・ウィスクマタリシとして自己を確立した。
―――「” わたくし、アナタはもう少し欲を出すべきだと思うわ。 ”」
遠くの未来、近くの過去。
何時、何処で、誰に。時間軸がアベコベな狭間で、慰めとも励ましとも。ウウン、あれは呆れだったとも言えるような声色で、ウェシルより魔神歴の永き乙女がそんなことを言った。
大樹のような貴婦人だった。焚き火を囲んで外の世界に憧れて頬を赤らめながら
他にも仙人だとか、精霊だとかなんだとか。ときおり、時空に呑まれて奇妙な経験を重ねはしたけれども―――魔神戦争中に顔をひょっこり出したりだとか。……マァそれでも、ウェシルが心より愛する
誰もがウェシルを忘れても、何もがウィスクマタリシを忘却しても、死後の世界がある限り、彼の存在は続く。そう言った―――所謂、
「だが、終わりは訪れる。それまでアビスでも狩るかね。」
結局。
そう、結局は。
為すべきことも、やるべきことも、暇つぶしも、どれもこれも変わることなく続く。夜神の国の安寧を護ることもまた、ウィスクマタリシの使命なのだから当然の帰路だった。
生の鼓動を燃やせるだけ燃やした末に訪れるのが死後の喧騒だと言うのは、ウェシルが守護する夜神の国ではあってはならぬことだ。同胞たちが燃やした生の鼓動の分だけ当たり前のように安らぎの眠りが、清浄なる静謐が、旅の終わりが与えられて然るべきなのだ。
器用に槍を振り回したウェシルは、爪先で槍を弾きながら陽光差し込まぬ夜神の国の空を青く彩る。一房だけ伸びたままなのは、妹弟子が熱く拒んだからだった。
もともと長髪だったから、ひらひらと頭部から伸びる髪は気にはならない。一本結びにしていたそれは、戦争の最中にバッサリと両サイドを切り落とされてた日に、いっそのこと全部切っちまうかと唯一残った首筋から伸びるそれを持ち上げた兄弟子の無頓着なさまに妹弟子が激怒したことで定着した髪形なのである。
前髪の左一部を編み込んで耳の後ろで留めて、後ろの生え際からゆるりと二、三ほど編み込まれたそれを結んだうえで「頭の怪我には気を付けるんだ。」と彼女は言って銀製の筒で固めた。
特に何も考えず、ウェシルは身だしなみを整える際には妹弟子がよく好んだ格好で、ウェシル自身が動きやすくて高評した恰好まで整える。それがまるで、竜の尻尾のように。一面の夜空に快晴を呼び込んだかのような竜の
ナタ最速の戦士<ウェシル>の名でなく、夜の調停者<ウィスクマタリシ>の名でもなく、夜神の国に居わす神様<夜神>として彼の存在は刻み込まれて伝わったのである。
『……マァそうなるな、ウェシル。』
「えェ、
そう、人を惹きつけて止まぬ最高峰の象徴たる
夜神の国では、夜巡者の戦争があってもなくても夜神様がアビスを抑制するために戦っておられるなどと伝承が刻まれることとなったのは、明らかにウェシルの行動に原因があったのだ。
けれど彼のスタンスは変わらぬままであった。自分は
ひとたび見たらうっかりなんでも赦せてしまうこの
『マーヴィカには自分で言うんだぞ。』
「
『ウグゥ……ッ』
当たり前のように寄せられる信頼にシュバランケは呻く。
炎神として忙しく過ごすシュバランケのもとに、気づけば小間使いのような形で側に居たこの小僧っ子はこうして弟子になったのである。仕事を寄越してくれるオッサンの日常にひょっこり顔を出して、当たり前のように存在を植え付けて、居座って。どれ褒美をやらねばな、とカラカラ笑って言った酒の席でのことだった。
シュバランケが託した最後の最後のデッカイ仕事をやり遂げてみせた小さな子どもは、さも当然のように「そろそろ弟子にしてくンねェの?」と悪戯っ子の顔を全面に笑って言ったのだ。
哀れみちょっと。感心ちょっと。興味もほどほどに。年齢を理由に長引かせ続けたそれをあっさり取り払って弟子の名を冠した少年の、立派に成長して魔神の席に坐した青年の、信用も信頼も満点に押し出した満面の笑みを前にして否と言える人間は居まい。
『―――……謎煙の主の友人に頼んでおく。』
ニッカーッ、と辺り一帯を焔で焼きながらウェシルは笑った。シュバランケが負け続けたあの笑顔で、嬉しそうに師匠が送った最初で最期の武器を振るう。
これだから、と思うのだ。耳元で揺れるのも彼が手にして振るうのも、シュバランケからの贈り物で。彼の髪の編み込みや後ろ髪を結わえる銀製の筒は妹弟子からの贈り物で。地上に居た頃からのことだけれども、これだから否やを唱えることが出来ずにいる。
魔神の身になったのだから、もっと傍若無人の暴君に覚醒したって可笑しくはないのに。幾度となく旅を積み重ねたことで、もうとっくにシュバランケよりも歳の瀬は上だろうに。
それでも。―――時空の狭間で歳を重ね続けようとも、彼は彼らしさを損なわせることはなかった。師匠と呼び慕ってくれるウェシルは昔から変わらぬ健気で一時な性根のままであったことが、師匠としてはなんとも言えぬ。人間性の幾つかに欠如は見られたが、危機管理能力の低下は戦士の怠慢に繋がるからとかろうじて生き永らえている。
戦士として慢心するだなんてことがあれば、それはウェシルからウェシルらしさを取り上げるも同義である。心配はするけども少なく、シュバランケは冥界で意識を揺蕩わせることにした。
「燃ゆるナタの尊き
ナタ最強を誇った戦士としての旅路も、炎神としての足跡も、どちらも濃ゆすぎるから、瞬きの間に魂の清浄を終えることは難しそうだ。また目ェ覚めるかもな。
「後は任せな。」
聞きたかった言葉がするりと魂に染み込んだ。シュバランケの意識が薄らぐ中、柘榴の眦がゆっくりと持ち上がって笑う姿を焼きつける。
地下に太陽はなく、冥界に光は差し込まぬ。誰もがそう言うけれど、此処に立派なヒカリがあるじゃあないか。魂魄が惹かれて止まぬ夜神の