コホラ竜とは、丈夫なヒレと長く伸びた尻尾が特徴な竜であり、水上や煮えたぎるマグマのように液体燃素の中を悠遊快適に泳ぎまわることの出来る種族を指す。
今は何代も代替わりを重ね、古代の竜の頃にあった何者をも逸脱する環境適応能力はなく、当時の海で最も巨大な竜が水面に浮かんでいるとその光景が島に見えるほどであったのだと
現在のコホラ竜はその巨大な海竜の子孫であり、その広い背中を見ると古代の海獣の面影を垣間見ることができる―――はずだ。背中に乗り込んでみても、島のようだとは感じなかった。
そんな伝説を持つ一匹のコホラ竜の名は、<イシス>である。
彼は。彼女は。ウウン、確認したら彼だった。人間のような仕草で、人間のような表情を浮かべもするけれど、彼は生粋のコホラ竜である。密売者の手に渡ってしまったタマゴを救出したのち、死にかけの殻の内側を突き破るようにして誕生したのがイシスと名付けられた彼だった。
現代の炎神による命名は、流泉の衆で日常会話の如くあっさりとしたもので。炎神様から名前を頂くことになった
通常の燃素の中に水を溶け合わさせたかのような淡やかな瞳ではなく、柘榴のような燃素に蒼穹をポツンと浮かばせる稀有な瞳を持った特殊個体であったことである。今の炎神様を見て、まるで昔から見知った幼年の少女を相手するかのようにかがんで背中に乗せようとする姿勢を見せたことも関係があるのだろうと踏んだが、それ以上のことを知ろうとするには炎神様は近くて遠いお方であったのでムアラニにはサッパリであった。
炎神様と会話しようと思えば出来るのだろうけれど、まだ齢を数えると片手でおさまる程度の少女は気恥ずかしさが勝ってしまったので一旦は記憶の彼方へ押しやられ。
ふとした日、ひょんなことから知人のおばちゃんを通じて挨拶を交わす仲になった頃、ムアラニは帰火聖夜の巡礼に参加できるような立派な戦士になればいいと結論に至った。
内気、と言うほどではないのかもしれないが、普段は天真爛漫な少女の顔が色濃く浮かぶ彼女は実は占いの結果を純真に信じる
練習中はずっとイシスが側についていてくれるので、ポッチャポッチャ、さぶざぶと水の中に落ちまくっても彼が器用に尻尾でムアラニの身体を掬っては背に放りを繰り返してくれて溺れたことはない。
懐かしさと既視感を訴える柘榴の中に蒼穹を落とした瞳を見つめた炎神様とも、勇猛果敢に聖火競技場へと挑み続ける少女の姿を前にして目が合えば微笑みかけてくれる関係にまで登り詰めた。少女のたゆまぬ努力は、どうやら二人の
微笑ましさ全開の眼差しが気になるあまりチラチラするムアラニを見かねたのかして、謎煙の主で司祭を務める黒曜石の老婆が酒を煽りながら尋ねてくれる。
「そんなことをしたら失礼に当たるだろう、彼女にも、彼にも。」
それが、あんまりにも柔らかな眦で。家族のことを語って聞かせてくれる表情のようで、仕方なさそうなものを見つめる眼であったから。面影を探すだけならば許してくれるだろうが、と炎神様は微笑んで多くは語らなかったが、かれ、と異性を感じさせる単語の吐露にシトラリはジョッキを落とした。動揺のあまりムアラニも指先を絡めて緊張を和らげようとする。
ふふ。と追撃するかのように思い出した笑み一つ。まるで、夜の中に咲く太陽。一帯を照らし尽くさんとする慈愛の眦に被弾し、ひゃー、と呻く。ダメだった、余計に絡まっちゃった。
「イシスはな、私のほかに唯一彼のことを知る存在だ。ウォーベンにも語り継がれぬ彼を、流れゆく
だから名付けたのだと言った。
彼の対となる名を。昔のイシスが授かった、祝福を。
成体まで育てた人の子がそう名付けた。今代の炎神を務める最強の戦士が、ただの人間の顔をのぞかせて少女時代を思い起こさせる眦を綻ばせて言うのだ。彼の両親であった夫妻が名付けたのものであると。彼を知る者として呼び合ったのだろう。今まさしく失礼に当たると申した面影を探して重ね合わせる真似をしたと言うよりも、そう呼べと言われたから呼んだ。
だから躊躇せずに覚えのある名を呼んだら、実は生まれたばかりであった仔竜の名前になった。イシス命名の一件は、彼女にとっても話題の竜にとっても、たったのそれだけのことである。
「じゃあ、どうしてイシスって名前なワケ? 理由があるんでしょ、トクベツな理由が。」
「ああ、それは夫妻曰く、」
炎神は酒を煽りながらにやりと笑って言った。子守りにあっちこっち駆けずり回る、かつてのイシスとキャッキャッと喜び勇んではしゃぎまわした風の如き子どもの姿が頭に浮かんだ。
将来的に生まれてくる夫妻の子どもの、対になることを願ってのことだと言う。願掛けだった。イシスを救助した夫妻は、身重のオナゴであった。戦士として最後に竜のために戦えてよかった、と微笑みながら語った彼女の瞳は今でもよく思い出せる。
「よく師匠にも叱られるようなやんちゃ坊主でな。だが、最終的には師匠も私も、こちらの心配など気にせず風のようにナタを駆け回って戦士として猛威を揮う彼の無茶を、仕方なしに許してしまうような愛嬌のある子だった。」
無茶したことを叱るために呼びつけたはずなのに、気づけば振り回されて笑って吹き飛ばすような豪快な子でもあった。幼馴染と一緒にあの子に構うのが楽しくて、妹にも嫉妬されたか。
だけども、数秒ほど目を離したすきに妹とも仲良くなって意気投合するほどのコミュニケーション能力を持った子でもあった。気まぐれ風のような足取りで、彼方此方にふらふらと顔を出しては引っ掻き回して土台を作り、誰もが敗北に頽れそうになった時に一番槍として追風を起こし、今ではすっかり伝説も薄れてしまったが奇跡の生還を果たした男でもある。
時にはヒヤリとさせられることもあった。例えば、後にも先にも唯一師匠も妹弟子も引かなかったのは、兄弟子がアビスとの戦争中に仲間を庇って頭部を怪我した時だ。
以前にも髪をスパッと切られるほどに首を怪我したことがある為に。スコンと意識を失った彼は数秒で意識を取り戻して場を立て直したようだったが、決して死を恐れぬ彼はまた同じような目に遭っても気にも留めぬのだろう。と思ったら、夜巡者の戦争の外から彼らの生還を待ちわびる側としては気が気ではなくて、気が高ぶってしまったとは言えども結構無理な約束を結び、その証として装飾品を贈った。
「今はイシスのことだったな。」
気になるところまでを話されてシトラリは明らかにそわりとした様子を見せたが、今もなお健在のようだと強引に締めくくり炎神はあっさりと方向転換をした。
竜と対話する道を選んだ幼馴染曰く。
つまり、イシス曰く。
吾の対となる存在は、数ヶ月ほど先に誕生を控える人の子の雛の名前は<ウェシル>と言うそうな。実際に吾を救出してくれた汝らのことならばともかく、ひ弱な存在の面倒を見よとはなめられたものである。と、最初の頃は反骨精神が盛んであったようだ。
人と共生する吾たちコホラ竜であるが、唐突の決定に動揺したあまり竜としての誇りを捨てた覚えはとんとなく不満げにガアガア鳴いていたことだけは記憶している。しかし、ウェシルとやらが誕生し、竜のタマゴを模したカゴの中央で揺られる小さな生き物を見た時、その存在に意識が奪われてしまったのだ。
「この子がウェシル、わたしたちの子よ。あなたもお兄ちゃんとしてどうか守ってあげてちょうだいね。」
あまりに脆弱な存在であったからだろうか。それとも、あまりにもまぶしき存在であったからだろうか。対となる名を持つ者だからか、どうしてだか生まれたばかりの人間の赤ん坊からイシスは目を逸らせなかった。
目の前の存在にくぎったけであった。ふわふわと燃素ウェーブに乗りかかったかのような心地でイシスは揺り籠の中で揺られる小さき命を見下ろすことしか出来なんだ。
此処ではじめてイシスは、人の子の雛と言うものを見た。
しかもあとで聞くとそれは、人の子や動物たちの間では、赤ん坊と言う己を守る術を何一つとして持たぬなんともふにゃふにゃとした存在であり、雛は雛らしく外側からの助けなくしては自分で行動できぬ脆弱な生き物であったそうだ。この赤ん坊と言うのは見たものなんでも口に含むという話である。
実際、吾の尻尾にも興味を示すようだから、ほんのちょっとした出来心でユリカゴに尻尾を差し込んでみたところ、牙の一本すら生えておらぬふわふわとした口をぱっくり大きくあけて、竜の鱗に覆われた吾の尾をはみはみと食んできおったのでビックリした。尻尾を引っ込めようとしたが、仔竜よりやわっこくてふにゃんふにゃんとした存在相手に乱暴できるはずもなく、ただ石像のように固まることしか出来なかった。
「あら、もう立派なお兄ちゃんね。」
褒めたたえることを許そう。だが、吾の肉体は人間よりもかなり丈夫な物なのでさっさと(吾の強靭な尻尾からやわっこくてふにゃんふにゃんのふわっふわとした生き物を)たすけんか。
此処でブルキナは笑った。マーヴィカも笑った。何なら現在進行形でシトラリが微笑まし気な眼差しをイシスに向け、語られる内容の理解のあるイシスは抗議の声をあげた。事実としてあれはなんでもかんでも口にしたのだとフォローのような、フォローじゃないような抗議である。
イシス曰く、鱗のおかげで痛みやこそばゆさなどの感触は何一つとして伝わらなかったが、赤ん坊の方はと言うと唇のあたりを切ってしまったようで血の香りがして吾としては母なる人の子が問題なしと笑みを浮かべるまでは一切生きた心地がしなかったと言う。
ただウェシルと名付けられた赤ん坊の傷を増やさぬよう、あの子が満足するまで、あるいは痛みに気づき泣き出すまで、ざわつく胸中を無心にして、今にも引っ込めたくてうずく尻尾の動きを極限まで停止させることに集中せざるを得なかったばかりである。
ご婦人の申し上げた通り立派なお兄ちゃんだろう、と自慢げな声にウェシルの兄であることにはなんでも誇りがあるらしく、一旦は留飲を下げたようだった。
ユムカ竜のようにふわふわとした毛髪の生えた頭が尻尾にぐりぐりと押し当てられ、目が合うとナタの陽だまりのような温かさを宿した瞳でにっぱぁーと無邪気に笑む顔を見て。
「マケたのね。」
「負けたのか。」
「グォォウ!」
優しめの抗議だったが、肯定でもあった。何なら炎神は理解があるとばかりにウンウン深々とうなづき、あのような顔を向けられたら一つ返事しか出来なくなるとフォローした。
「グオン。」
所謂、吾が人の子の赤ん坊とやらの顔をまじまじと見たのはウェシルが初めてであった。あの子どもは生まれた頃から警戒心を放り出した無邪気な顔には思うところがあり、どれ試しに揉んでやろうと幼き同胞を巣に招き、一緒に遊ばせてみると、吾の幼き同胞の方がしっかりしていることが発覚してしまうほど脆弱でか弱き存在であったのだ。
思考の海から帰り、ふと気づいて見てみるとあの人の子はいなくなっていた。なんてことはザラにある。幼き同胞は群れに戻ってしまったからウェシルの面倒を見てやれるのは、当時はイシスだけ。その上、今は幼き同胞が群れに帰るほどの時間であり、ナタの天井を照らし尽くす太陽はゆっくりと山々の波間に眠りつく頃である。非常に腹のすく時間でもあるし、遊び疲れてクテンと身体を脱力させるウェシルの姿は何度も見てきた。
声につられてひょっこり顔を出すかと思い、ガウガウ鳴いてみせてもウェシルは一向に顔を出すことがなく、ただでさえ青い鱗で覆われた顔をイシスは更に青ざめさせた記憶は深々と残った。もはやトラウマの領域である。
つまり、何かを食べさせてやらねばならぬ時間だったのだ。腹を空かせてみーみー泣いておればよいのだが、あれはあれで意地っ張りの強がりなので。
無理矢理きゅうっとマユゲとやらを吊り上げて目尻にウンと涙を蓄えておろうとあたふたした。泣かぬ代わりにアレは力強くイシスの尻尾を握り込み、食むのだ。しかもそのイシスの尻尾は、イシスの尻尾として取り外しが不可能なのでイシスと行動を共にしている。
ゾッとした。安心するための何かはイシスがずっと持っているのだ。どうしようもない。どうしようもないが、いっそのこと鱗の一枚でもくれてやるかと本気で思案した。
不安やら焦燥やらに駆られてビターンと木製の床を打ち付ける尾を視線で追った小さな命が背後から忍び寄ることにも気づかず、再び持ち上げられた尾にのそりと飛びつく存在にも気づかず、イシスはあわてんぼうのコホラ竜さんを披露して。
やれやれだと呆れた様子で再び振り下ろそうとした尾に伸し掛かる小さき生命の感覚にイシスはゾッとした。何なら咆哮をあげて叱りつけたほどである。当の本人であるウェシルは、一ミリたりとも堪えた様子はなかったが。イシスはかっくりと脱力した。そして仕方なしに家路につき、母御と食事の面倒を見てやったのである。
つまるところ、無意識な信頼を真正面から清々しいほどにブッ込んでは周囲を振り回しながらも当人はニコニコと愛嬌のある笑顔を振りまく厄介な存在。挑戦に失敗したって「一緒にやってみようぜ!」と前向きだし、成功したら「さっすが姐さん!」と真っ向から絶対的な信頼を掲げてペッカーッと照り輝く満面の笑顔で褒めてくるので、彼から寄せられるアレコレで振り回されるのぜんぜん嫌じゃなかったのだ。おそらく一番の面倒くさがりかつ狡猾な策士として有名であるサンハジもウェシルのアレにやられたクチだろう。
何なら彼がニッカーと笑顔を見せた瞬間に「しょうがないなあ」とモラを取り出して謎の活動資金を渡してくるような奇妙なヤツも居た。シュバランケはその最たる例だったが。本人はお断りしていたが。マーヴィカもその最たる有力候補者だったが。差し出された側のウェシルはなんで?って顔をしていたが。マーヴィカの言うウェシルとは、そんな男で。
イシスとは、そんな男の成長を促した偉大なる竜なのである。特に、奇跡の生還は、まるまると盗賊ぶっ倒して命辛々に生還したイシスとそっくりだったので思うところしかなかったが。
シトラリは酒を浴びるように飲みながら、ワカルわ、と同意した。カワイイ頃よね。ウチにもマゴが一人居るんだけどね、と続けるように孫自慢、謎自慢が始まるものだから、思わぬところで思わぬことに聞き耳を立ててしまったムアラニはそっと席を外すのであった。