【完結】迷子の友人は羨望する 作:シキヨ
明確に自分のことを臆病だとか弱いだとか思うようになったのはいつからなのかははっきりと覚えていない。気づいたときにはもう既に俺は臆病な人間になっていた。ただ俺が臆病となったのにはいくつか理由があった。
それは最初はきっと小さなことだったはずなんだ。
例えるなら、電車に乗っていてお年寄りや妊婦の人に席を譲るのは簡単なこと。立ってそのまま「どうぞ」と言えばいいだけの話だけど俺の場合はかなり変わって来る。行動に移そうとしても取ろうとした行動が相手を不快にさせないかどうか不安になってしまう。その間に他の誰かが席を譲っていて俺はいつも後悔ばかりにしていることが多かった。そういう小さな積み重ねがきっと俺を弱くし続けていたんだろう。自分の意志の弱さから俺は行動することが出来なかった。買い物をするとき、人に割り込まれても揉め事を起こしたくないと理由で何も言わないでそのままにしたり、自分の意見が他人とズレていたりしたらどうすればいいのか分からなくなってしまうことが多かった。そして、その歪に気づかされたのは……恐らくあのときからだろう。
「結人君、先に部屋で待ってて」
「ん?ああ、構わないぞ」
中学生になり、燈がバンドを始めた頃……。
俺はこの日、燈の家に呼ばれて燈の部屋にやって来ていた。燈の部屋を少し見ると、前よりもガラスの瓶が増えていた。子供の頃から収取癖が付いていた燈。俺が出会った頃にはその収集癖をあまり他人に見せないようにしていたけど、燈は俺が自分と同じような趣味、天体観測が好きだということを知っていたから燈は俺に対してはかなり遠慮なく自分が知っている知識を聞かされてくれていた。俺も燈の知識を聞くのを悪い気はしていなかったから燈の話に頷いたり、俺が知っている知識を教えてあげたりすると燈は目を輝かせながらも俺の話を聞いてくれていたから楽しくてしょうがなかった。
それに俺が燈の家に来て部屋を初めて入ったとき、本当に驚かされた。
『……』
燈は俺が部屋の周りをジロジロと見ていることに気づいていて「変な奴」だと思われているように見えているようだった。俺が家に来ることは燈の両親はかなり心配されたらしい。
そもそも燈は友人と呼べる友人はいたようだけど、人を自分の家に招き入れるまでの関係にはなかったことがなく、男を入れたこともなかったらしい。その上でこの部屋のこともあったから、尚更燈の両親は不安になっていんただろうが、俺はそんな燈の部屋を見て否定の言葉を並べることはなかった。
『純粋に凄いと思う。此処までちゃんと集められているんなんて……。手入れとかもしてるのか?』
燈の許可を得てから俺はガラスの瓶に入っているコレクションを眺めていた。
『う、うん……。磨いたりとか拭いたりとかしてる……』
『俺も昔は松ぼっくりとか拾って集めたりして父さんに虫が付着してるかもしれないからちゃんと処理しないと駄目だって言われたっけなぁ……』
俺が松ぼっくりの話をすると、燈が表情を緩めている。自分の話題に対して興味を持ってくれた凄く嬉しかった燈は俺に自分が持っているコレクションを教えてくれた。絆創膏や石、ノートを見せてくれたりしていた。後は俺も星が好きだということで星座の話を一緒にしたりしていた。そんなことを思い出しながらも燈のことを待っていると、机の上に置かれていたノートのことを俺は気になっていた。
「燈に悪いか……」
少し気になってはいたものの燈の知らないところで勝手に覗くのはダメだろうと俺は手に取るのを止めようとしたときだった。俺は机の角に手を滑らせてしまい、色々とものを落としてしまったのだ。その際にノートも落としてしまい、偶々開かれたページにはこう書かれていた。
『人間になりたい』
と……。
人間になりたいと言うフレーズを読んだとき、俺の中で何かが変わったような気がしていたし、響いていたのは間違いなかった。燈に悪いと思いつつも俺はそのノートを読むのをやめられなかった。
「燈のやつ、こんなこと考えてたのか……」
意外と言うわけでもなかった。燈は必死に周りに合わせるタイプだからこんなふうなことを思っていてもおかしくはないと……。ただ、読んでいるうちに彼女は彼女の中で世界を持っていると言うことを知って俺は少し感動していた。こんなにも詩的で素晴らしいものを表現できるのかと唸らされていた。
「ごめん、遅くなって牛乳持ってき……」
燈がお盆に置いてあるグラスに入った牛乳を持ちながらも立ち止まる。燈の顔が一気に赤くなっていた。
「よ、読んだの?」
「ごめん!燈!!どうしても気になって……!!」
ノートを閉じてから潔く燈に頭を下げた後に燈の方を見ると、燈はモジモジとしながらもこう聞いていた。
「どう……だった?」
ノートを読んでの感想が聞きたいのか、燈は俺に感想を求めてきていた。
「や、やっぱり変「いや俺は凄く共感できたよ」」
「共感した?」
まさかの答えが返ってきて戸惑っているようだった。
「ああ、さっきノート読んだときに凄く共感できた。早く人間になりたいって言葉俺には凄く響いた。こんな簡単な言葉で言っていいのかは分からないけどさ、分かるような気がしたんだ」
燈は一旦自分を落ち着かせるためか、お盆を床に置いてグラスに入っている牛乳を一気に飲んでから俺の前を通っていき、机の上に置かれているノートを手に取って燈は少し考えてから……。
「読んで……いいよ」
「いいのか?」
「結人君は……笑ったりするような人じゃないって分かってるから……」
信頼してくれているのが伝わってきていた。
俺は燈から渡されたノートを開いて読み始める。中は消しゴムで消されていたり、線で消しているところもあったが燈が書く内容はどれも素晴らしかった。「みんなに合わせるのにはどうしたらいいのだろうか?」と書かれている内容には突き動かされていた。
「本当に凄いな、こんなふうに、ちゃんと自分の気持ちを書いて、向き合おうとしてるのは……すごいよ。俺にはできないことだ」
「そ、そんなことない……よ。書くのが好きなだけ……だから。それに書けたとしてもそれを行動に移せてないから……」
「それでも俺は凄いと思う。ちゃんと自分の意見をこのノートにまとめているんだから」
「……ありがとう」
俺はこれ以上燈のノートの話をしなかった。
ただただ燈のことを凄いと思っていた反面、俺の中で黒い影が落とした音が聞こえ始めていたのもこのときだった。それはきっと俺の中で燈に対して劣等感というものを感じ始める音だったんだろう。このノートを読んで燈が自分という人間をちゃんと確立できていると分かって、俺はかなり羨ましくなっていた。
自分が言おうとしていた。
「燈はもう十分人間だと思うよ」
という言葉も出ることはなかった。
妬みというものは恐ろしいものでしかなかった。俺に大きな違和感を残してしまうことになってしまうのだから。いや、この違和感自体はきっと俺の中ではあったはずのものだったんだ。それに俺が今まで気づかなかっただけだったんだろう。
それからというもの俺にとって燈と過ごす時間は少し苦痛に感じるようになってしまっていた。友人である燈との会話をそんなふうに感じるのはよくないことだと分かっていても前に進もうとしている燈を見て羨ましいという負の感情しか湧かなくなってしまっていた。なによりも自分が前に進むことが出来ないでいるのが自分の弱さを突き付けられているみたいで嫌になってしまっていたんだ。
俺は燈と一緒に喫茶店に来ていた。
「結人君、昨日ね……。またCRYCHICの皆でカラオケに行って来たんだ。立希ちゃんはヒトカラ派だったから歌わなかったけど、そよちゃんや睦ちゃん達は楽しく歌っていたんだ」
一度前に燈からCRYCHICの皆でカラオケに行ったという話を聞いたとき、そこまで仲が良いのかと俺は少し驚いていた。それとそのときはまだ立希が燈に対して威圧的な態度を取っていたのも知っていた。なによりも祥子という奴が燈を光に導いたというのも知っていたが、今の俺にとっては自分に対して恐怖心を感じるほどまでに燈の話がどうでも良くなっていた。
胸の奥を重く沈むのを感じながらも自分を落ち着かせようとしていた。
燈のことを傷つけたくないその一心で俺はただ話を聞いている振りをしていた。
「俺は何をしてるんだろう……」
楽しそうに喋っている燈の横顔を見つめながらも、心の中でそう呟いた。
彼女が見えている未来の景色が、俺には鮮やかなものだということが分かるが俺の未来の色は全く見えてこなかった。見えているのは灰で包まれたような世界ばかりだったんだ。自分という人間の存在証明を確かめることすら怖くなってしまい、不安になってしまい俺は燈の声が遠くに聞こえていた。こんな状態で俺は「燈の傍にいていいのか」という問いが、頭の中でぐるぐると回っていた。それでも帰るという選択肢を選ぶのだけはマズいと分かっていた俺はその選択だけは絶対に選ばなかったが燈といればいるほど、自分の中にある「ズレ」と「無力さ」を嘆くことになる現実は変わることはなかった。
俺は燈に見えないように拳を握り締めた。自分勝手に燈のことを妬んで劣等感を抱えているんだということを頭で呑み込もうとしていた。それと同時に彼女のことを嫌いになったわけではない。それどころか、小学生の頃の自分の意志が全くなかった彼女が此処まで成長出来たのは本当に嬉しかったし、俺は燈を尊敬しているはずなのに劣等感と嫉妬心に変わり始めている自分がいることを、どうしても否定できなくなってしまっていた。俺には自分の意志というものがなかったから、ただ燈には俺みたいになって欲しくなかったから俺は燈の前では強い自分を何度も偽り続けていた。あいつを初めて見たとき、自分の意思が明らかに弱いと言うことはなんとなく気づいていたんだ。だからこそ「こうすればいいんだ」と言うところを何度も見せていたけど、俺は自己崩壊しそうになっていた。
だから、俺はあの日あんなふうな態度を取ってしまったんだ。
「結人君、私ね……。明日ライブがあるんだ。CRYCHICの……その……だから、結人君にも……来て欲しいの……。絶対にいい……ライブにするから……」
「そうか……」
冬じゃないのに白い息が俺の口から吐かれていたように見えていた。
その白い息はきっと俺が今までずっと溜め込んでいたものを吐き出したものだっただろう。斜めに首を構えながらも俺は……自分でも分かってしまうぐらい何とも言えない表情になってしまっていた。それを燈が見たときにどう捉えるなんてこの数十秒に近い時間のなかにそれを考えるほど脳が足りていなかったのだ。
あるとすれば、きっと燈に対する劣等感だけだったんだろう。
こんなくだらないものに囚われて俺はあろうこと燈に対してこう言ってしまったんだ。
「頑張れよ」
自分が抱えていたものを処理することが出来なくなっていた俺は……燈に対して冷気を感じるほどの冷たい笑みを浮かべてしまっていた。
「う、うん……」
燈の目が一瞬だけ揺れているのが見えていた。
それは俺は直視できなかった。何かが壊れる音が心の中で響いた。
「ありがとう……」
微かに震えた声で全く捻れない蛇口を力いっぱい入れてひねり出すことができたように燈は声を出しているのを聞いて俺はようやく自分がやってしまったことと言ってしまったことに対する罪悪感という闇そのものに包まれ始めていた。
なによりも俺は……。
このとき初めて燈のことを傷つけてしまったんだ。
──ごめん。
その言葉が出ればどれだけ良かったことか……。あのときあの場で燈にちゃんと謝罪をしてライブに来ていれば俺はあんなものを一生背負うこともなかったはずなのに俺は意地を張って燈に謝ることが出来なかった。なによりも俺は燈の顔を直視出来ていたのが数秒程度だった。
「……俺はなんてことを言ってしまったんだ」
俺はその日、燈にあれ以上は何も言うことはなく、ある場所で項垂れていた。
燈に対して「じゃあ、俺帰るわ。明日のライブ楽しみにしてるよ」と言うことすらも出来ずに俺は今駆け込んでいた個室トイレの鍵を閉めて、震える手で鍵を閉める。
「……ッ!!」
鏡もない狭い空間の中、俺は膝を抱えるように蹲っていた。心臓の音が耳を打つ。蛇のようにまとわりつく罪悪感で吐き気が込み上げてくる。喉の奥が熱くなり、胃が締め付けられるような感覚に襲われる。頭を壁に押し付けながら、息が浅くなる。
個室トイレから出ると、俺は足を引きずるようにして歩いていた。
トイレという場所にいたこともあってか、周囲の音が遠く感じる。駅の中ではきっと人々が歩いている音や楽しそうに笑いながらも話しているだろうに……。この場所では無音が広がっていた。
手を洗っていると、ふと俺は鏡が気になる。
そこには俺の顔が映し出されていた。後悔と罪悪感。その両方が俺の中で降り注いでいたが、一つだけ降り注いでいないものがあった。それは瞼から流れて来て頬を伝っていてもおかしくないはずのもの……涙だった。燈を傷つけて後悔しているはずなのに俺は涙が全く出ていなかった。頬に触れても瞼を見ても涙というものはなかった。
そのとき、俺は自分という人間を理解したような気がした。
大切だった友人を傷つけて起きながら後悔や罪悪感を涙というもので表せない俺は……きっと……。
「俺は……」
「怪物だったんだ……」
このとき初めて俺は心から理解した。
これから先俺は色んな人をまた傷つけて行くことになるかもしれないなら……。誰かに害を為すと言うのなら……。
俺はこれから先ずっと笑顔を偽り続ける……。
偽物の笑顔で……一生笑い続けてやる……。