ゆえに。
生まれつき翼を、鰭を、牙持つ者は、鳥であり魚であり獅子であらねばならない。
――エルヴァンディアに古くから伝わることわざ
プロローグ……天使さま、もとい飛行少女
近頃、街に流れる噂の一つに、こんなものがある。
「街はずれの修道院には、ときおり天使さまが降りてくる」
というものだ。
これには更に、いくつかの尾ひれがついていて、
「天気の良い日の、黄昏時にだけ現れる」といった、具体的な情報から、
「それはそれは美しいお姿で、金色の髪が夕日に燃えるようだった」という、やけに情緒的な感想もあった。
中には更に踏み込んで、「こっちを向いて、笑顔で手を振ってくだすった」なんて、吹聴して回る者もいた。
通りすがりの修道士は彼を「主に愛されたもう良き人」と手放しに褒め、修道士以外の全員は「酒の飲み過ぎで、ぶっ飛んじまった哀れな奴」と口さがなく評した。
宗教文化の根強いエルヴァンディア国内では「天使さま」という存在は広く認識されていた。
あまねく人々をお救いになる主、その御使いとして、天より現れ来る者たちをもっぱら指す。
かの存在の役割は複数にわたり、寿命の近いものにそれを教えたり、もしくは受胎を告知したり、はたまた戦死した兵士を黄泉の世界に連れていったり……と実に多忙だ。
しかし、どれほど職務に熱心だとしても、ひなが赤ら顔でジョッキを呷っている中年オヤジをあえて、よみする謂れはあるまい。
というのがつまり、その他大勢による賢明な判断であり、この与太話を聞かされたバーの店主の反応でもあった。
「じゃあおめぇよう」と、諦めきれないオヤジがまだ続ける。
「ありゃあ、天使さまじゃあなくって、もっと別の何かじゃあねぇか? そんなら俺に微笑んでくだすった理由もつくってもんよ」
「ドアホ。答えからあべこべに理屈を作るんじゃねぇや」
カウンター向こうの店主が一蹴する。磨いているグラスから、ちょっとも目を離そうとしない。
「だいたいお前さん、別の何かっちゃ言うが、それが何かいって話よな。自由自在に空を飛ぶなんてケッタイな奴、天使さまでなけりゃあ、なんなのさ」
厳しい追及を受けたオヤジは案の定、押し黙ってしまう。目下、温いビールをぐびぐびと飲み下すことにご執心だ。
気持ちの良い呑みっぷりは、反論の糸口を探すための時間稼ぎ、とはもちろん違う。
店主の余計なツッコミのせいで、降って湧いた不吉な想像を押し流すためだ。
街外れにある、寂れた修道院にて、黄昏時の空をふよふよ浮遊する、決して天使さまではない何か。
これら条件に合致する存在として、真っ先に思い浮かぶべきは……。
中年オヤジは飲み終えたジョッキを、豪快にカウンターへ叩きつけた。店主が眉をひそめるが、構うものか。
がたがたがたと、少しも寒くないのに震えっぱなしの膝の方が、よほど喫緊の問題と言えた。
さて。
その天使さまだか、幽霊だかのいるらしい修道院。その敷地内でも一番高い、とんがり帽子の塔に、一人の少女が今、座っている。
てっぺん近くにある見晴らし穴から、さらに外縁部へと出たところ。外回廊……と言うには狭すぎるその足場に、しかし少女は悠々と腰掛けていた。
時刻はまさに夕暮れ、彼方の地平へ、赤い日が落ち行くのが見えた。
「んーん、んっんー」
奇特なフレーズは大好きな鼻歌。修道院のシスターに毎日、耳が腐るほど聞かされるゴスペルを、自分流にアレンジした傑作品である。
「んむむっ、んっんふー」
などと思っているのは少女本人だけだ。塔の小さな見晴らし穴から、追って現れたもう一人、黒髪の少年は「うっせぇ!」と開口一番に怒鳴った。
「音痴って鼻歌でも音程外すのな。お前、讃美歌のメロディーくらい、そろそろ憶えろよ」
「違うもん」
少女はわざとらしく頬を膨らませて、見解の相違を示した。
「私のオリジナルだもん」
後世で、著作権と呼ばれるべきものの主張だった。ちなみに今のエルヴァンディアには、そういった概念はまだ欠片も無い。
「いや、どこが……?」
しかもどちらかというと、侵害した側だった。
「もういいよ分からないなら。それより、やるならとっとと始めよ?」
どっこいせっ、と勢いをつけて少女はその場で立ち上がった。その拍子に、長い金髪が風に流れて翻る。
オレンジの夕日を真っすぐに受け止めて、灼熱した輝きを放った。
「おっ……おお! やってやろうじゃねぇか!」
少年も威勢よく返しはしたが、隠しきれない怯えが滲んだ。
当然だ。少女が立っているのは、ほんの僅か一歩分も歩けないような足場である。
そもそも塔の外縁部はあくまで装飾として備わっているのであって、人が踏んで立つことなど想定されていない。
要するに、足場にはされているが足場ではないのだ。
あろうことかそんな場所で、少女は何の支えも無しに、塔の外壁にすがろうともせず、ニマニマしている。
――こいつ正気か? 少年はごくりと唾を呑み込んだ。でなきゃ単なるバカか。前々から予想はしていたが、おっかさんの腹にネジを数百本忘れてきたらしい。
「どーしたの? 来られないの? じゃ、私の勝ち確定だね。んふ」
勝ち誇った顔で、えっへんと無い胸を張る。少年の闘志に、それでやっと火が点いた。
背丈で劣り、学力で負け、最近ではついに得意の駆けっこでも後塵を拝したが、こればっかりは譲れない。
彼にも男として、なにより年長者としてのプライドがあるのだ。
このクソムカつく金髪頭が修道院へやって来たのは、少年の記憶が正しければ、五年ほど前のことだ。
当時、少年は既に簡単な読み書きのできる年齢だったが、この少女ときたら洟垂れどころか、言葉もろくに喋れない有様だった。
口を開けば「まんま」か「まま」の二つだけ。他に知っている――というか発音できる単語が無いらしく、イエスノーでさえも、このやりくりで表現していたほどだ。(それはそれで逆にすごいが。)
もちろん身体能力も、修道院に預けられた孤児たちの中では、最低も最下位のド底辺。腕力こそがパワーの荒くれたちの中にあっては、食事時のスープやパンさえ、意地悪いのに掻っ攫われる始末だった。
何度、少年が後からこっそり分けてやったか知れない。
そんなクソ雑魚かったジャリガキが――。
「やーい弱虫、こっちまで来てみなよ負け犬」
今ではこのザマである。だいぶ言うようになった。
「てめぇマジで覚悟しろよ。後から半べそかいても知らねーからな」
と、少年が脅すのにも素知らぬ顔。すたすたと軽い足取りで、あっさり外縁部を一周する。
街は海に面しているので、夕暮れの時間帯には凪になる。よって、幸いなことに風こそ吹いていなかったが、それでも足場が極めて頼りないのは変わらない。
なにせ、ここには手すりどころか、柵も無い。ちょっと足を滑らせれば、遥か下の地上へと真っ逆さまだ。
孤児たちやシスターのみんなで育てている菜園が、ひどく小ぢんまりと見えた。あれだけウザったらしい雑草も、ここから見ると、ごく稀にスープに出没するベーコン並みに小さい。
この極限空間を、きっちり三周してみせる……というのが、少年少女の執り行う度胸試しの全容だった。
言うまでも無く、足場は一人分さえもやっとという狭さなので、一人ずつ順にである。少女の挑発に乗って、二人同時に飛び出そうものなら、くんずほぐれつ仲良く落っこちる羽目になる。
ではなぜ、このような命知らずのチキンレースを、二人が行う羽目になったかというと、これには非常に長い由縁があるので、ここは割愛しよう。
三周目にもなると、余裕を越えて飽きすら覚えたのか、少女はまた鼻歌交じりになっていた。
主を仰ぐべきコーラスでもって、高らかに自分の凱旋を讃える。「んふー」
「お前さぁ……。もしかして」
塔の見晴らし穴、出発地点へ堂々戻ってきた少女に対し、どうしても少年は言わずにはいられなかった。
「自分に一番有利な条件で挑んできてる?」
「そうだけど? だって絶対勝ちたいし。ぜーったい、次の優良子女枠は私のものだから」
「ふざけんな、年齢順的に絶対俺だ!」
「いーや私! だいいち、枠に年齢とか関係無いってシスター言ってたし! 私が次に街に行くのー!」
「いやあるね! 年功序列ってお前にゃちょっと難しい言葉だったか!?」
「可愛い妹には道を譲るもんでしょ、お兄ちゃん」
「ぐっ……! その手にはもう二度と引っ掛からねぇ!」
この笑顔に騙された結果、この蛮行に付き合わされている。
言うに事欠いて何が妹だ。鼻水ヨダレその他もろもろ垂れ流しだったガキが、いっちょ前に口を利くものじゃない。
「なら早くしたら? このままだと日が暮れちゃうよ」
まことに悔しいが、その指摘は正しかった。季節は晩秋、うかうかしていると、すぐに暗くなってしまう。
視界の利かない状態で、この挑戦は無謀を越えて、ただの自殺だ。
「やったらぁ!」
少女が脇へと足場を空けるなり、少年は潔く飛び出した。
使い古してぺらぺらの靴が、外縁部のつるりとした石板を踏む。勢いそのまま滑りそうになるのを、出入口の穴を掴んでぎりぎりで堪えた。
「うおっ危ね」
「ちょっとうるさいよ。シスターに気づかれたらどうするの」
「じゃあまずてめぇの下手くそな鼻歌をだな――」
売り言葉に買い言葉しようとしたその瞬間だった。
「こら!」 下の方から、怒声が轟いた。
「何やっているんだい! お前たち!」
野太い女の声は、二人の懸念したシスターのそれだった。
菜園の手入れをしていた彼女は、折り悪くも上を見てしまい、塔で遊ぶ不届き者どもを発見してしまったらしい。
「ひっ!」
とても間が悪かった。
シスターが怒るのも、少年少女たちのイタズラも今に始まった事では無かった。しかし今回ばかりは、その二つが文字通り致命的なタイミングで重なった。
驚いた少年は手の力を緩めた。彼はまだ、体勢を立て直す最中だったのに。そして極めつけは、古い靴は滑った拍子で、半分脱げてしまっていた。
必然的に足をもつれさせた彼は、手で踏ん張ることもできないまま、空中へと己の重心をそっくり移した。
背中側から、棒の倒れるようにゆっくりと傾く。落ちていく。
いいや、現実にはゆっくりではない。少年の意識には、そう感じられただけ。重力加速度は容赦なく、ほんの一瞬にして、彼を墜落死の未来へと連れ去った。
――はずだった。
「ほら言った通り」
少女の声は、どこまで聞き取れたか。
逆立つ金髪、赤日に煌めく。飛び出して、抱きしめる。宙空、浮かんで止まった。
世界から音が消える。少年も少女も、菜園のシスターも誰も何も言わない。静寂の夕凪を、二人分の長い影が、今度こそ本当の意味でゆっくり、たっぷり時間をかけて、降りていく。
やがて四つの足が揃って一緒に、雑草の生い茂った菜園に降り立った。
「えへ」
抱きしめていた少年から、そっと腕を離すと、少女はあまり品の良いとは言えない笑みを浮かべた。生え替わったばかりの前歯がにぃっと覗く。
「私の勝ちだね」