リ・ラ・テルミヌス公爵令嬢
白い部屋が少女の原風景だった。
四方を囲う、白い壁、白い天井。窓には格子、覗いた空にはいつも雲。どこもかしも真っ白。
床は灰色、打ちっぱなしのコンクリート。冷たくて、冬は氷のよう。寝そべると皮膚が張り付きそうになるから、数少ない衣服や毛布を必死に広げたものだった。
食事は日に二回、朝と夕。パン一斤とスープが出た。汁の具はおおむね根菜のみで、ごくごく稀に何らかの肉が入っていた。後から振り返ってみても、これが何の動物だったか判然としない。少なくとも、豚でも鳥でも牛でもなかった。
まぁたぶん、ありふれた素材だろう。調達先には困らなかっただろうから。
白い部屋はたくさん連なっていた。どれほどの全容だったか定かでない。右も左も、前も当然、金属格子の独房だった。
そこには少女と全く同じように、薄汚い身なりの少年少女がそれぞれ一人ずつ閉じ込められていた。
独房の狭間を通る、回廊を巡る者は二種類いた。
一つは看守、食事を満載した台車を引いて、朝夕に現れる。
他にも、牢内の人間が暴れたり、病気になったり、『その時』を迎えたりしたときも、速やかに訪れ、必要な処置を施した。
もう一つが父さま。といっても、これは特定の個人を指す表現ではない。
おおむね三十代から五十代ほどの、豪著な服装をした男性を指す表現である。独房で暮らす少年少女たちは、皆一様にそれら男性を父さまと呼ぶよう申し付かっていた。
他の呼び方をすると鞭が飛んでくるので、あえてそうしない者はいなかった。少女も当然、それに倣った。
それ以外の種別の人間は、まず回廊を歩かない。
つまり、少年少女たちが牢から出る機会はほぼ無かった。食事も入浴も着替えも排泄も、全て牢内で完結する。
それが行える程度の機能は独房に備わっていたし、そうするように教育されていたからだ。これに歯向かう、あるいは抗議をすれば、やはり鞭が与えられるので、あえて従わない者はいなかった。少女も無論これに倣い、幾人もの人間の視線にさらされる中で、日常生活を行った。
羞恥心はさして無かった。そも、恥ずかしいだとか嫌とか、辛いといった感情が湧く原因が無かった。皆、分け隔てなくそうしていたし、そうするのが当たり前だと教え込まれた。この状況下で、いずこから嫌悪が生まれよう。
起きて、食べて、身体を拭いて、ぼんやりと壁を見つめて、日が暮れたら寝る。
白の空間に住まう彼ら彼女らは、このサイクルを旨としていた。ここから外れる者はまずいない、そもそも外れる余地が無いので、他にしようがない。
独房と回廊を仕切るものは格子だけだったので、内の人間同士で会話を試みること自体は可能だった。
しかし、そういった試みはあまり一般的でなかった。全員共に、起きては壁を見つめて寝るだけの毎日を送っている者たちだ。建設的なコミュニケーションを取り合うことは非常に難しい。
多くの場合、互いの悲嘆を慰め合うか、口汚く罵り合うかの二択に終始する。また、そういった行為によって、いたずらに体力を消耗したものから順に、病に罹って処置されることを、彼らは十分に学習していた。
逆に言えば、長く生き残っている者は皆、その選択をしてきた者だった。
したがって、白の世界は静寂に包まれているのが常だった。
「リ号、起きろ」
四隅にうずくまり、冬の寒さに耐えていた少女は、看守の呼びかけに顔を上げる。反応が遅れれば、やはり鞭が飛んでくる。
この時ばかりは俊敏に動き、少女は格子に取り付いた。
看守の後方には、父さまがいた。とりわけ少女の独房の前で、良く立ち止まる人物だった。
「外見年齢は?」
しわがれた、低い声の父さまが看守に訊いた。
まだ年若い、青年とも言える容姿の看守は「はっ」と威勢よくそれに応える。
「十二歳頃かと。……覚醒期には入っています」
「血統はどうなっている」
「母方にジョージア公、祖父筋にリヒテンシュタイン辺境伯。父方にはご存じの通り、テルミヌス公でございます。因子濃度は79、発現する確率は非常に高いかと」
「もう試したか?」
「いえ、試験はまだです。来月には行う予定でしたが、早めますか?」
「そうしよう。時間が無い。こいつでダメなら、次はバイエルン公の血筋を試す。まだあと65通りもの組み合わせが残っているんだ。早く回すに越したことはない」
「承知いたしました」
次の日、少女は回廊を歩く数少ない例外となった。
両手を厳重に縛られたまま、長い回廊を看守に引かれて歩かされる。
着いた先は、鉄壁に囲われた部屋だった。
真っ黒だな――と、少し可笑しくなった。白い部屋から、今度は黒い部屋に来た。
「入れ」
背中を突き飛ばされて、中へと押し込まれる。回廊側から見た通り、やはり中も黒一色だった。壁も床も天井も、いずれも金属板で覆ってあるらしい。
冷たさのあまり、床を踏む裸足はもう痛いくらいだった。
「安心しろ、すぐに熱くなる」
看守はそれだけ言い残し、少女を置いて出て行った。ばたん、と乱暴に扉が閉められる。すぐ後に、施錠の音が響き渡った。
少女は初め、自分から動こうとはしなかった。看守が出て行った扉に縋り付こうともしなかったし、部屋の内情を確かめようともしなかった。
どうせ何をやっても無駄という、世界のルールを既に知っていたからだ。
しかし、足裏が妙に暖かいと感じた頃には、そうもお高く留まっていられなくなった。
試しに手のひらを床につけてみれば、やはり暖かい――というか、熱い。
しばらくすると、それはもう触れていられないほどの熱量になった。
少女はつんざくような悲鳴を上げて、部屋を駆け回った。とにかく出口を探さねばならない。こんなところにはいられない。しかし、どこにも抜け穴は見つからない。
やがて床は、さながら焼けた鉄板のようになった。断定を避けたのは、あくまで少女の視点からは事の真偽が不明だったからであり、例えとしてこれはあまり適切でない。
実際、床は肉を焦がすに足る熱を持っていたので、少女はもう半分以上、正気を失いつつあった。
狭い部屋中をしらみつぶしに練り歩いた成果として、ガラス製の小窓が一部分、壁に備わっていることを発見した。
少女の細腕がやっと通るか、といった面積の窓だ。しかも材質が悪いのか曇り切っていて、向こうの様子は全く見えない。
少女はそこへ取り付き、必死に拳を叩きつけた。それでいったいどうするか、よしんばガラスが割れたところで、脱出など到底不可能であることは分かっていた。
それでも他にやることが無い。全身に過ぎる死の予感から逃れるべく、全力で拳を叩きつける。
床から壁に熱が伝わる。空気を吸い込むだけで、喉がひりひりと痛んだ。どこもかしこも灼熱の地獄で、もう前だってろくに見えない。
極限の最中で、不意に指先で光が弾けた。とにかく何とかして生き延びたい――その一心で広げた五指の先に、不可思議な輝きが灯っていた。
青にも紫にも見える発色をした荷電粒子の奔流は、明確な指向性をもって窓ガラスに激突した。
しかし物理的な衝撃としては、それはごく軽微なものだった。ガラスに微細なヒビが走るに留まる。
直後、少女の背後で扉の開く音だった。耐熱服を纏った看守が勢い込んで、駆け寄ってくる。
それは試験終了を知らせる合図であり、少女にとっての福音だった。
―――――――
十三歳のジェパード・ブライト少年はその夜、両親に連れられ、ある舞踏会に参加した。
会場となったのは、歴史ある古城の大ホール。
見上げるほど高い天井からはシャンデリラがぶら下がり、壁は瀟洒な垂れ幕が飾る。
敷かれた真っ赤な絨毯に並ぶは、円形のテーブル。純白のクロスの上には、見るも絢爛豪華な料理の数々が、これでもかと取り揃えてある。
さぞや美味だろうそれらは、しかしあくまで場を盛り立てるためだけの装飾品に過ぎない。
城に集った貴族と、その夫人たちは、コックらが腕によりをかけて作った結晶にほとんど見向きもせず、めいめいお喋りに夢中になっている。
もっぱら口に含まれるのは、乾いた喉を潤すためのワインだけだった。
「もったいないよ」
ジェパード少年は、熱々のパスタが一口もすすられないまま、無残に冷めていく様を見ていられず、小皿に取り寄せようとした。
父であるブライト子爵が、その手をぴしりと軽く叩く。
「浅ましい真似をするな。この程度の料理など、いつでも口にできる。今、お前にはそれよりもっと重要なことがいくらでもあるはずだ。せっかくの機会をふいにするな」
言いながら、ブライト子爵はとあるテーブルの方を見やった。つられて、ジェパード少年もそちらへ視線を向けると、そこには青色のドレスを着た少女が目元を伏せた、楚々とした様子で立っていた。麗しい金糸の髪はくるくると螺旋を巻くように、結わえてある。
「あの子は……」
「テルミヌス公のご令嬢だ。……あちらにおわす方の」
少し目線を横へずらせば、少女の父親らしき豪勢な服装の男性が、ワイン片手に他の貴族と談笑していた。
青いドレスの少女は、まるで影のように、その父親の後ろをどこまでも控え目についていっている。
「何を呆けている。話しかけてくるんだ。顔だけでも覚えてもらえ」
「え、僕が? 今から?」
「他に誰がいる。そのための立食会だろう。だが、決して失礼の無いようにな。家庭教師に教えてもらった通りに挨拶するんだぞ。
分かったらほら、早く行きなさい」
背中を強く押される。嫌とは言えない状況だ。ジェパード少年はごくんと唾を呑み込むと、青いドレスの少女へと、せかせか小走りに近寄った。
この時点で、もう貴族の礼儀の範疇からは若干外れている。少年の後ろで、ブライト子爵は額に手を当てため息を吐いた。
「あ、あの」
心臓が口から飛び出そうなくらいに緊張しながらも、必死にジェパード少年は話しかけた。
「こんばんは。今宵の舞踏会は……お楽しみですか? 可愛いお嬢さん」
どこから間違いを指摘すればいいか判断がつかないほど、誤りの多い挨拶に、果たして少女は華麗なカーテシーで応えた。
「ええ、もちろんですわ。ブライト卿。わたくしはガルシア・ラ・テルミヌス公爵の娘である、リ・ラ・テルミヌスと申します。卿におかれましては、今宵もご機嫌麗しいようで、何よりですこと」
「はい……」
とりあえず返事をした後に、疑問が過ぎった。少女はなぜ、ブライトという家名を知っているのだろう?
だが、それを考察する余裕などジェパード少年にあるはずもなく、彼は逸る鼓動を抑えて話題を切り出した。
「テルミヌス公爵令嬢、差し支えなければ、僕と――じゃなかった私と、少々ご歓談の席を設けていただけませんか。美しいあなたと、ぜひグラスを片手に語り合いたいのです」
「くふっ」
ここでついに堪えきれなくなったらしく、リ・ラ・テルミヌス公爵令嬢は、口元に手を当てて、僅かに笑った。
それも致し方ない。がちがちに固まったジェパード少年の下手な敬語は、どんな舞台芸人のそれより滑稽だったからだ。
ジェパード少年はいよいよ羞恥にかられて、顔を真っ赤にして俯いた。こんなことなら、もっと真面目に家庭教師のお説教を聞いていれば良かった――と激しく悔やんだ。
だがその一方で、どこかしら安堵を覚える自分がいたのもまた、事実だった。というのも、父親の影として付き従う、まるで人形のような姿よりも、今こうして自分の無様を笑う少女の方が、よほど可愛らしく見えたからだった。
「ごめんよ、あんまりこういう場に慣れていなくって」
そう考えると、変に畏まるのがバカらしくなって、ジェパード少年は思い切って言葉遣いを崩した。
「あらためて、君を誘ってもいいかい。ワインなんてまだ飲めやしないから、オレンジジュースで乾杯しよう」
その誘いに、少女は目を真ん丸にして、驚いた顔をした。ややあって、はにかんだように微笑んだ。
「ええ、ぜひご一緒させていただきますわ」
さっそく二人で連れ立って、様々な飲み物が用意されているバーへと行こうとしたその時、す……とジェパード少年の前に立ち塞がる者があった。
金銀細工のベルトに指輪、目も眩むほどの黄金に身を包んだ男は、少女の父親であるところの、テルミヌス公爵だった。
しかしその煌びやかな装いに反し、男の双眸はひたすら黒い、暗澹としたものに満ちている。
「あ……っと」 まずい、自分は何か大変な失敗をしでかしたのかと、ジェパード少年の脚は止まった。
硬直した彼に、公爵はつかつかと歩み寄り――その横を呆気なく通り過ぎた。少年ではなくて、そのやや後方にいた公爵令嬢、つまり自分の娘が目当てだった。
「今、笑ったか?」
娘の前に立った男は、短く問うた。
「何のことでしょう、お父さま」
「たった今、お前はブライト卿の挨拶を笑っただろう。嘘を吐くな、私は確かに聞いたぞ」
「いえ、決してそのようなことは」 ――これは、ジェパード少年の台詞だった。公爵は勘違いをされている。あれは自分の失敗だったのだ。彼女は何も、悪い事なんてしていない。
だが、それが届くより先に、乾いた音がホールに響き渡った。
それに続いて、湿った重い音。少女の身体が絨毯の上に投げ出されたことによるもの。
テルミヌス公爵は、娘の頬を殴りつけた右拳をさすりながら、這いつくばる彼女を叱咤した。
「恥を知れ! 人の過ちを嘲笑うような、愚かな娘に育てた覚えは無い。さぁ早く立て、ブライト卿に謝罪するのだ」
近くのテーブルにいた誰しもが、思わず振り返るほどの大声だった。しん、と水を打ったように周囲が静まり返る。
少女は顔色一つ変えず、ドレスの両端を摘み上げ、華麗に立ち上がった。呆然としているジェパ―ド少年の前に立つと、こうべを垂れた。
「たいへん失礼いたしました、ブライト卿。いたらぬわたくしのご無礼を、どうか、どうかお許しくださいまし」
どこを切り取っても完璧で、粛々とした美しい所作だった。
唯一、意地悪に欠点をあげつらうとすれば……その鼻腔から滴り落ちた血が、ドレスの胸元を汚していたくらいだった。
絨毯が元から赤くて良かったな、と実に全くどうでもいいことをジェパード少年は思った。
引っ切り無しに流れる少女の鼻血は、足元に水溜まりを作る勢いだったから。
被検体No.143
通番『リ号』
年齢:外見年齢12歳程度。実年齢8歳。
体型:長身痩躯。
髪色:明るい金色。
性格:貴族として、貴族らしく振舞う
能力:『荷電粒子』
『荷電粒子』
全身から、電荷を帯びた粒子を放出できる。その際の電圧、電流は自在に調整できる。
一度に放出できる粒子の量に、理論上では、特に上限は無い。
……が、しかし極端に出力の高い電撃を放射した場合、自身の肉体が被雷するため、実質的には出せる限界が定められている。