とある飛行少女が、楽しく鼻歌やら口笛を吹き散らかしている頃、奇しくもここ――執務室に、同じく演奏に興じる者がいた。
かち、かち、かち。
彼女が指に挟むは年季の入った万年筆。何を書くでもなく、キャップを填めたままのそれの先端を、一定のリズムで机に打ち付ける。
等間隔に響く音それ自体は、ひたすらに無機質で、無感情なものだった。しかし、それはあくまで音声情報を表面的に読み解けば、の話である。
見る人が見たなら、彼女――リ・ラ・テルミヌス大尉が怒り心頭のご様子であることは、一目瞭然だった。
広々とした執務室にてただ一人、机を黙々と打ち続ける。
大尉が今、そうも苛立ちながら何を待っているかというと、報告である。
実に簡単な話だ。早朝、近隣の見回りに行かせたはずの部下が、はや二時間は経つというのに、何の連絡も寄越さない。
では消息不明の一大事かというと、そうでないことは既に知り及んでいる。入口の門番からの一報により、その部下の少女が、既に訓練所へ帰投していることは確認済みだ。
そも、訓練所の周辺一帯は、郊外といえども東部国境線にほど近い立地のため、軍の警戒度合はしぜんと厳しい。
反政府勢力の動きはいまだに鎮静化の兆しを見せないものの、この地であえて行動を起こす愚は冒すまい。
そういった文脈では、部下にやらせた見回りは、それこそ訓練の一種に過ぎなかった。
周囲の警戒が主目的なら、大尉自らやった方がよほど早いし確実である。
むしろ、楽天的で常にやる事が大雑把なあのフライアが、兵の動乱にでも出くわそうものなら、事態は確実に最悪の結末を迎える。火を見るよりも明らかだ。
それゆえ――満を持して、森と川と畑しかないこの地域で、彼女を空に解き放ったというのに。
待てども暮らせども、肝心の報告連絡相談も何一つ、誰一人として、帰って来やしない。不慮の事故による負傷のため中断した――といった事情があったなら、いっそう一刻も早く上官に伝えるべきだろう。いったいこれはどうしたことか。
訓練所に隣接する寮には、用向きは別件であるが、もう一人の部下――アクセルを配置している。
特務部隊隊長の自分の目からして、二人の仲は決して良好とまでは言えないが、少なくとも互いに無関心、不干渉ではなかった。
時には協力して、任務に当たらせたこともあったというのに……。雁首揃えて、何のつもりだ?
万年筆と、机との間で鳴る音は次第にテンポを速めていく。それに伴い、インパクトの大きさも増した。
さして高級品でもない、しがない備品の机の脚は、大尉の手が叩きつけられるたびに、か細い悲鳴で抗議する。しかし、彼女は全く耳を貸そうとしない。
万年筆がキャップごと弾け飛ぶか、それとも机に大穴が穿たれるのが先か。
この場にもし第三者がいたなら、ある種の緊張感に、きっと襲われたに違いない。
しかし残念なことに、その誰かしらが、二択の答えを知る事は叶わなかった。
突如として、大尉の眼前に鎮座していた黒電話が鳴ったからである。
大尉の腕が
代わりに、からんと乾いた音が後を引き継ぐ。支えを失った万年筆が、力なく机上に転がった。
「はいもしもし。わたくし、リ・ラ・テルミヌスですわ」
オペラでも歌うかのように、一言一句はっきりした発音。上流階級を思わせる、いやに丁寧な言葉遣い。
初対面は言わずもがな、顔見知りでさえも時にたじろぐ。独特の喋り方は、電話越しの相手にも十全に威力を発揮した。
「相変わらずだね、君は」
ため息交じりの声は、男性のものだった。まだ年若く、張りのあるもの。
軍属、知り合い、男、そしてタメ口――つまり自分より階級が上。この条件に全て当てはまる人物を、大尉は一人しか知らない。
「ご機嫌麗しゅう、ジェパード閣下。今日はたいへんお日柄も素晴らしく、良いピクニック日和でございますわね。左様ならば――」
「開幕早々、別れの挨拶を切り出すのは止めてくれまえ。確かに天気は良いが、そんなことを聞くために電話したんじゃないのは、お互い分かっているだろう?」
いえ全く――と、うっかり返しそうになったのを寸前で自制した。
彼を閣下と呼んだのは、決して煽り文句ではない。
ジェパード・ブライト准将。
年齢こそ、自分とそう大差無いが、軍というピラミッド構造において、彼はまさしく雲の上の存在だ。
色々と由縁あって、こうして気安く語り掛けられる仲になってこそいるが、本来は最敬礼の態度で出迎えねばならない人物である。
それを下らない冗談のために機嫌を損ねでもしたら、ここまで積み上げてきた努力が一瞬で水の泡だ。全くもって愚かしい。
それが分かっているなら、最初に軽口など叩かねばいいものを、と自分でも思うが、口をついて出たものはしょうがない。
「ええ、もちろんでございますわ、閣下。わざわざ直通で、このような僻地にまでご連絡くださるなど、いったいどういったご用件ですの?」
「お世辞もそこまでいくと皮肉に聞こえるね。分かっちゃいると思うが、私以外には言うなよ」
「前置きとお小言はもう結構ですのことよ」
身体狙いのクソ助平爺共なら、何時間でも相手してやれるが、この青年将校だけは、昔からとにかく苦手だった。
その上、美術館の彫刻のような面と体格をしておきながら、いまだ妻子持ちでないというのだから、呆れる他ない。
もしやアチラの気に目覚めたのかと、一時探りを入れたこともあったが、何の確証も得られないばかりか、痛くもない腹を探られそうになってすぐ止めた。実に苦々しい記憶である。
「分かった分かった。……さっそくで悪いが、君が今、預かっている任務のことで一つ確認したいことがあってね。確か、新型射撃武装の性能試験……だったか?」
「はい。そのために、ここ、陸兵装試験基地に参上している次第でございますわ」
准将としての面子もあるだろうと、つい最近改まったばかりの正式名称をあえて唱える。しかし、この配慮は苦笑で返された。
「ははっ、そんな呼び方を真面目にしているのは、君と君の部下くらいだろう。廃棄寸前の訓練施設に、それらしい名前を付けて体裁を整えただけだ」
「ですが、何事も決定には結果がつきもの。いかに無駄な会議のお好きなご老体どもといえども、廃墟の通称を変えるために、いくつも稟議を経たりしませんわ。……違っていて?」
「ああ違わないさ。なにせ、そうさせたのは君だろう? テルミヌス特務大尉」
ちっ。
今度の舌打ちを内心で抑え込むには、相当な精神力が必要だった。
気取られぬ程度に、深く息を吸い込み、心持ちを落ち着ける。
――大丈夫、見抜かれるのは前提の策だった。それがよりにもよって准将だったのは若干の誤算だが、まだ計画の範囲内ではある。
「はい、わたくしですが、それが何か?
知っての通り、わたくしの配属部署――新兵装開発企画部は、いや増しつつある内外の憂慮に対応可能な、新たな兵装の開発、既存兵器の改良を推し進めておりますの。
その過程で、一定の敷地面積をもった軍事施設が必要になりました。ですから、直近の使用履歴の無かった施設の転用許可を求め、結果、それが上層部の判断で許諾されました。
この一連の流れに、不備不審の生じる余地がどれほどございますの? 仮に御有りだとおっしゃいますなら、至らぬこの身にご教示くださいますか?」
「相変わらずだ」 本日、二度目となる形容表現のあとに、准将は続けた。
「君は都合が悪い質問を受けると、途端に早口になるね」
「ちっ」 あ、やば。
「今のは……ええ、ちょっとばかり、舌を噛みまして。そのせいですわ」
「分かっているとも。まさか、栄えある特務大尉どのが、准将閣下との電話口で舌打ちなんてするはずがない」
「閣下、ご無礼を承知で申し上げますが、わたくしたいへん多忙な身でして。それは閣下も同じでございましょう? 用向きが火急のものでないなら、この辺りで通常業務に戻る許可をいただきたく」
「そりゃあ無いだろう。不審な点はどこだ、と質問をぶつけてきたのは、君の方じゃないか。時間には十分余裕があるし、せっかくだから教えてあげよう」
軍御用達の、頑丈なはずの受話器が軋んだ音を放った。大尉があまりに強く握りしめたからである。
だが、通信をこちらから切断するわけにもいかない。こう見えても、ジェパード准将は上席の中では、最も味方側に近しい存在である。完全にそのもの、とまではさすがに言えないが、特務隊の今後を考えるなら、決してその庇護下より離れてはならない。
極めて重要な支援者――いわば、命綱の一本だった。
「もちろん、謹んで拝聴させていただきますわ」
「君の作成した、施設転用の許可を求める稟議書を読んで、まず思ったのは――」
こんこん。
滑り出しも鮮やかな准将の説明の最中、反対側の耳が控え目なノックの音を拾った。
――よりにもよって、こんな時にいったい誰だ? 不意に棘に刺されたような苛立ちが湧く。
受話器からいったん口を外し、
「お退きなさい、電話中です」と、扉の向こうに呼びかけた。
「はーい!」
とっても元気で明るい声が即応した。それとほぼ同時に、執務室の扉が吹っ飛んだ。
合金のひしゃげる、耳障りな異音。かつて扉だった金属塊が、床へと激しく叩きつけられる。
部屋にぽっかりと空いた大穴から、廊下の様子が覗いた。そこに立っているのは二人の少女。
右腕を前に構えている背の高い一人と、満点の笑顔でふんぞり返っている背の低い一人。出し抜けに、その背の低い方がまるでバンザイでもするように両手を上げた。
瞬間、リ・ラ・テルミヌス大尉は直感した。どうしてこうなったか、これからどうすべきか――判断にはほんの少しも要さなかった。
「失礼、閣下」 あらかじめ、伝えておく。「少々、回線が乱れるやもしれません」
まだ言い終えないうちに、大尉の座っている椅子が――浮いた。同時に、机も、その上にあったペン立ても、纏めてあった文書類も。脇に置いてあった蛍光灯も………全てが全て。
執務室内に置かれている、ありとあらゆる物体が、ふわりと音も無く浮き上がる。無論、大尉その人も例外ではない。
黒電話とその受話器をしっかりと抱きかかえ、彼女は力場の流れにあえて逆らうことはせず、むしろ身を委ねた。
宙でくるりと一回転、脚先を天井側に返す。
執務室を襲った現象が、浮遊程度で収まっていたのは、ごく短い間だった。例えるならドミノの一つ目に、そっと触れただけの段階。
二つ目に到達してしまったのなら、後はもう爆発的な連鎖が待っている。
最も背の高い物体だった本棚が、真っ先に天井に衝突した。飛び出した本も、当然すぐさま落下する――同じく天井に。
生来、この星が持つ地球重力との拮抗状態は終わった。次はフライアの放つ変動重力がこの場を支配する。
重粒子収束。
おそらく遥か上空に設置された、不可視の高密度天体に向かって、何もかもが落下――上昇していく。
「やった! 初めて決まったよアクセル! いっつもぎりぎりで躱されるのに」
「でしょ? あれで負けず嫌いな性格だから、絶対に電話は切らないって」
二人がぴーちく楽しそうに話し合う声が聞こえる。それら両脚はちゃんと通路の床についたままだ。範囲を絞る技術はまだ養えていないはずだから、その部分にだけ更に下向きの重力を発生させているのだろう。
「愚かな」
自身の身体も本棚と同じく、新たな重力加速度に従って天へと落ちる。その途上、大尉は少女の浅慮を嘲った。
急場を襲撃する、という考え方は悪くないが、いかんせん場所が悪い。
ここは屋内。底無しの空が待つ屋外とは違って、頭上にはしっかり身体を受け止めてくれる天井がある。
それを足場代わりに、宙で逆立ちした体勢から着地を綺麗に決めた。
通路に立つフライアが、目を丸くしているのが見える。おおかた、自分の作成する重力場に捕らえさえするれば、後はどうとでもなると浅はかにも考えていたのだろう。
事実、普通の人間相手ならその戦術は全く正しい。いきなり天地が逆さまの世界に放りこまれれば、文字通り前後不覚のまま床となった天井に叩きつけられてお終いだろう。
しかし――。「わたくしは違いますわよ、フライア」
両脚を屈め、バネを溜め込み、下に向かって跳ぶ。狙うは一点、この重力変動の原因であるフライア。
隣のアクセルも――たぶん扉をぶち破ったのは彼女の加速砲だ――脅威には違いないが、今この場では無視しても良い。
殺し合いになったら手出しは無用。やること為すこと無茶苦茶な部下たちだが、その取り決めだけは律儀に守ってくれている。
「それならっ」 フライアの表情に珍しくも険しさが宿る。いまだ上げたままの両手の指を固く引き絞った。あたかも、何かを力強く掴むように。
ぐん、と身体が空に引き寄せられる感覚。
全力で跳躍したにも関わらず、上昇/下降の勢いはあっさり相殺され、ベクトルはむしろ反対側に傾いた。
「どう!? 三倍だよ!」
他の隊員と同じく、フライアの重粒子収束にも限度は無い。地球重力を超す出力など出せて当然だ。当人は今のところ三倍で満足のようだが、本来なら十倍、百倍すらも可能だろう。
だから、そうなる前に片をつける。中途半端な攻撃は、相手をエスカレートさせるだけだ。
この一撃で終わらせる。
途端、大尉の右腕に紫電が散った。激発した荷電粒子の灯す燐光が、室内をまばゆく染め上げる。
「喰らいませ!」
まだ握り締めていた受話器を、電磁砲の要領で高速射出する。
身体こそ網に囚われたものの、物理運動全てが無効化されたわけではない。
三倍の重力とやらを上回る出力さえ出せれば、フライアにも攻撃は届く。
「にゃっ!?」 これも予想外の動きだったらしく、フライアは素っ頓狂な悲鳴を発した。とっさに彼女が取った行動は――まぶたで両目をつむること。
ごくごく自然な、生得的な反射だけだった。回避や防御については、頭が追いつかなかったらしい。
凄まじい速度で飛来した黒電話の受話器は、フライアのおでこを強かに打った。それはもう見事なまでのストライク。浴場でタライが出すような、かぽんという間抜けな音が合わせて鳴った。
「み……」
極限まで圧縮された断末魔を残し、フライアは背中から倒れた。今度は床に後頭部を打ち付ける――あわやのところで、隣のアクセルが抱き留めた。
「アクセル頼みますわ!」
ついで、もう一仕事。
変動重力場が消えたことにより、自然界の法則に乗っ取って、床へと落ちてくる大尉。彼女の落下速度を、粒子加減速を用いて緩和する。
さしもの大尉も、全力投擲の状態からでは、受け身が間に合わなかったらしい。羽毛の落ちるような速度で、不格好な腹ばいの姿勢ながらも、彼女は無事、正常な床に降り立った。
「ふっ……はあ。やれやれ」
軍服にたっぷりついた埃を払い、立ち上がる。いつの間に零れ落ちた軍帽もかぶり直し、ようやく人心地ついた大尉は、隣の少女を見やって言った。
「感謝いたしますわ。さすが、歴の長いあなたは違いますわね」
「そりゃどーも。ま、乗り掛かった舟ってやつ?」
敬語で話しかける上官に、タメ口で応答する部下。互いの立場とは全くあべこべのやり取りだったが、これが特務隊の日常だった。
「ですが、なにも扉を壊す必要はございませんでしたわよね? れっきとした軍の備品ですわよ、こちら」
「だって、律儀にゆっくり開いてたりなんてしたら、奇襲になんないじゃん」
「それはまぁそうですけども」
べこべこに歪み、誰が目にしても絶対に「これは扉です」とは言わないだろうなれ果てに、目をやる。どう頑張っても、修理など不可能なことは明らかだった。
「もうちょっと何とかならなかったんですの? わたくし、まだ三日はこの部屋で執務に当たらねばならないのですよ?」
「それはごめん」
素直に謝ってきた。「フライアがどうしてもって言うからさ」と、見せかけてさりげなく責任転嫁。
「はあ……。ま、過ぎたことはもうよろしいですわ。
わたくしは部屋の片づけをせねばなりませんから、あなたはそこでノびているおバカさんを医務室に連れて行ってくださいまし」
深い諦観を感じさせるため息と共に、大尉はアクセルに指示を飛ばした。
「うぃっす」 ものすごく意欲の感じられない返事が、それに応える。今に始まったことではないが、その階級意識の低さはいっそ賞賛に値する。
「――あ、でもさ」
気絶したままのフライアを抱え、通路を行こうとした辺りで、アクセルは振り返って言った。
「大尉。電話はもう良かったの? まだ切ってなかったよね?」
「……あ」
暗殺者フライアの額を打ち抜く、という偉業を達成した後、完全に忘れ去られていた黒電話。限界いっぱいまで引き伸ばされたコードの先では、ぼそぼそと小さな音で、しかし確かに男性の声がいまだ流れ続けている
その瞬間、大尉が背筋に覚えた寒気は、空へ落ちかけた時よりも、ずっと甚大で、より具体的なものだった。
隊員No.2
コードネーム『フライア』
年齢:十二歳くらいの背格好
体格:まだまだ幼い。でも発育はいい方
髪色:明るい金色
性格:天真爛漫
能力:重粒子収束
『重粒子収束』
質量の極めて大きな粒子を生成、収束し、不可視の疑似天体を構築する。これによって生じる変動重力場を利用し、浮いたり飛んだり落ちたりする能力。
生成、収束できる粒子の量に、特に上限は無い。