石化王に帰る国はない 〜 目覚めた王は、盟友と新世界を駆け抜ける   作:裃 左右

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第一章 東方聖杯編
プロローグ ~ 黒龍との激闘 王の死


 リューファス王は死を覚悟した。

 

 伝令の通りだった。砦の上から見渡した時、それは確かに目に入った。

 

 はるか空の彼方から、押し寄せる黒い影は、もはや逃げ場がないほどにまで迫ってきていた。

 

「陛下……」

 

 そばにいた近衛騎士のひとりが、悲痛な表情を浮かべた。彼はもう気づいていた。

 リューファス王が、この砦に残されたわずかな時間の中で、己の役目を果たしきろうとしていることに。

 

 もはや、リューファス王の瞳には、ただ一点だけしか見えていなかった。

 

 それこそが黒龍フェアヘングニス。

 

 古代神話に登場する邪竜。

 かつて世界を一夜で焼き尽くした災厄の獣。

 

 今もなお、その名は人々の畏怖を掻き立てる。

 

 バンスラディア王国は、長きにわたり蛮族や怪物の侵略に苦しめられてきた。

 リューファス王は伝説の聖剣を手に、幾度となく戦い抜いてきたが、国土は荒廃し、民は疲弊していた。

 

 流された血、怨念、苦しみの魂を貪欲に啜り、邪龍であるフェアヘングニスは力を増したのだろう。

 リューファス王は決死の覚悟で、その邪龍と対峙することを決めた。

 

「黒龍よ、すでに気づいているであろう」

 

 リューファスが静かなる声で呼びかけると、暗雲の切れ間から、巨大な翼と長い首が現れた。

 

「そなたが最も憎むのは、余であろう」

 

 リューファス王は一歩前に進み出た。

 全身からは、不思議な力が漂っていた。

 それは王の威光であり、覚悟であった。

 

「そうであろうな。この地における流血の責任は、全て王である余にある。あらゆる死者の魂も、余を憎んでいるだろう。そなたの恨みは、余が背負うべき業なのだ」

 

 伝説の怪物を前にして、リューファス王は恐怖を感じなかった。

 

 それどころか、凪いだ海のように穏やかであった。

 

 フェアヘングニスは、もはや目の前まで迫っていた。

 

 漆黒の鱗に覆われた巨躯から放たれる威圧感は凄まじく、翼が羽ばたけば大地が激しく揺れ動く。

 

 鋭い牙が並ぶ顎からは炎が漏れ出し、赤い双眼が不気味に輝く。その姿は、見る者を戦意喪失させるに十分だった。

 

 しかし、黒龍はただ人間の命を奪うために姿を現したわけではない。

 黒龍の目的は、おそらくあらゆる魂を喰らい尽くし、世界を破滅させることだろう。

 

 リューファス王は剣を抜き放ち、一歩前に進み出た。

 しかし、その姿勢は先ほどとは明らかに異なっていた。

 

 全身から発する強大な闘気が、徐々に王の身体を覆い尽くしていく。

 

 このままでは、我が王国どころか、ビスクラキア半島全土が焦土と化すだろう。

 

「余の生涯が無駄になるのは構わん。この地の怨念を背負うのも、王の務め。だが、民と騎士の命を賭けた先に、世界の滅びなど、断じて認めん!」

 

 リューファス王の声は、激しい怒りと悲しみに満ちていた。

 そして、王は剣を掲げると、大声で叫んだ。

 

「許せるものか! そんな結末、余は認めぬ! この命、ここで燃え尽きようとも、我らの未来を守らねばならんのだ!」

 

 ―――王として許せぬと断じたならば、今こそ我が命を燃やしてでも、奴を滅ぼす時だ!

 

「皆のものよ……!」

 

 リューファス王は声を振り絞った。

 そして臣下たちに向かって、力強く叫んだのだ。

 

「これより余は最後の戦いに赴く! もはや我らに逃げ場はない」

 

 王は、剣を天に掲げた。

 それこそが、聖剣セレスティン。

 

 王の、全身を聖なる輝きが包み込んだ。

 青白い光が剣身全体を包み込むと、刃は星の瞬きのような煌めきを放った。

 

「余の命を糧として、聖剣の力を解放せよ!」

 

 激しい光は瞬く間に広がり、王国の上空を覆った。

 

 それは太陽の光のようでもあり、あるいは王自身の魂が放つ輝きのようでもあった。

 

「お前達よ、我らが祖国。 我らが民を頼んだぞ」

 

 リューファス王は言い残すと、大地を蹴って走り出した。瞬く間に、漆黒の巨竜へと肉薄する。近づくほどに増す、フェアヘングニスからの重圧。

 

 リューファス王の目に、怪物の姿はあまりにも巨大に映った。

 

 次の瞬間、邪竜の口から漆黒の炎が奔り出た。灼熱の嵐。リューファス王は寸前で地面を抉り、辛うじて直撃を免れるも、王を襲った灼熱は凄まじいものだった。

 

「うぐ……っ!」

 

 全身を焼かれるような痛みと衝撃に、リューファス王は苦悶の声を漏らす。

 

 身体から煙が上がり、皮膚には火膨れが出来ようとも王はすぐに立ち上がった。

 

 顔は苦痛に歪み、瞳はなおも輝きを失っていない。再び突進の構え。

 

「王よ!」

 

 兵士たちの叫びの中、巨大な尾が王を薙ぎ払った。大地が轟然と揺れる。吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。

 

 だが、リューファス王はとっさに魔力を噴射し、辛うじて勢いを殺していた。

 噴射によって、岩に亀裂が走ったほどだった。それでも、リューファス王は歯を食いしばり、立ち上がることをやめない。

 

 全身の骨が砕けるような激痛に襲われ、口から鮮血が溢れ出す。

 

(攻撃は確かに見えた。……直撃は避けている)

 

 その時、初めて、黒龍は王を見た。

 

 いや、リューファス王は己がその目に映った気がした。

 黒龍は怒りの咆哮を上げ、再び睨みつける。戯れとはいえ、己の攻撃を凌いだ虫けらを、ついに認識したのだ。

 

 リューファス王は目を細めた。

 

(ーーわかる。こやつには戦闘と呼べる経験が無いのだ。目の前に羽虫が現れたが、初めて潰せないことを奇妙に思っている)

 

 確かに、目の前の怪物は強大だが、己の力を完全には使いこなせていないように見えた。

 好敵手が存在していなかった黒龍にとって、このあまりに矮小すぎる相手は初めての「敵」と呼べる存在だった。

 

 自分の力を疑ったこともなく、不足を感じたこともない。

 己が破壊と殺戮の化身であるという自覚のみが、この怪物に力を与えている。

 

 で、あるならば。

 

「少し、痛い目を見ていけ。世界を焼き尽くす破壊の王よ」

 

 リューファスが選んだのは、巨龍に対して、蜂や虻を習い、ひたすら嫌がらせを続けることだった。

 

 リューファスは聖剣セレスティンに魔力を回すと、それを噴射装置として、黒龍の周囲を飛び回り始めた。

 翼の付け根、眼球、爪と肉の間、鱗の隙間、逆鱗、関節。わずかな隙を縫って、針をねじ込むように聖剣を繰り出す。

 

 それが、リューファスの選んだ戦法だった。

 

 黒龍は怒り狂い、反撃を試みるが、リューファスはセレスティンの噴射で回避し、再び飛び回る。

 翼が風を巻き起こせば、その勢いを利して鱗を剥ぎ取り、尻尾や爪を振り回せば、その動きの裏をかいて衝撃波を叩き込み、均衡を失わせる。

 

 巨体の力を利用して、逆に黒龍を翻弄する。まさに綱渡りのような戦いだった。一歩でも間違えれば、命はない。それでもリューファスは挫けることなく戦い続けたのだ。

 

 そして、ついにその時が来た。

 

 翼の付け根に聖剣を深く突き立てた瞬間、黒龍の巨体がぐらりと揺らいだのだ。

 

「堕ちろ! この馬鹿デカい蜥蜴めがっ!」

 

 リューファスは叫びながら、さらに聖剣をねじ込んだ。

 

 ようやく、黒龍は絶叫を上げた。

 

 その巨大な口から血反吐を吐きながら、バランスを失って落ちていく。翼は羽ばたきを止め、巨体は重力に引かれる。

 

 リューファス王は巨竜と共に落下しながら、ねじ込んだ聖剣をさらに抉った。

 だが、黒龍からの反応がない。違和感。それを察知したのは、一瞬。

 フェアヘングニスは、落下するエネルギーを利用し、リューファス王を殺そうとしていた。空中で体勢を立て直すと、回転を加えて小賢しい羽虫を払い、鋭い爪を振り下ろす。

 

「なるほど、駆け引きを覚え始めたか」

 

 いち早く察知したリューファス王が返す一手。

 

 黒龍の視界がぐるりと回転した。

 

 それはリューファスが、魔力を使った大技でフェアヘングニスを投げた結果だった。

 さながら、格闘家の達人が素人の勢い余った攻撃を、妙技に活かすか如く。

 巨龍の身体の動きを、魔力による推力によって利用し、投げ技を再現してみせた。

 

 黒龍の巨体が凄まじい勢いで地面に叩きつけられ、大気を震撼させる衝撃と共に、巨大なクレーターが大地に穿たれた。

 フェアヘングニスは痛みに咆哮し、身体を激しく揺らしながら体勢を立て直す。

 牙から血が滴る。黒龍は確かに手傷を負っていた。

 

 しかし、それはリューファスも同じだった。

 

 黒龍との攻防で、肋骨が数本折れ、内臓にも深刻なダメージを受けていた。吐血しながらも、聖剣を握りしめている。

 

「ふん……こんな程度では済まさんぞ。 生ける災厄め」

 

 リューファスはそう言い放ち、再び魔力を漲らせた。

 聖剣セレスティンは、その刀身に星々を閉じ込めたかのような煌めきを放ち始めた。眩い光の刃が黒龍の鱗と肉を捉えたが、深手には至らない。

 

 黒龍は怒り狂うが、リューファスは優位に立ち続ける。

 語り掛けてくるセレスティンの導きが、黒龍の動きを知らせ、リューファスに正しい道を指し示す。

 

 さらに言えば、リューファス王は巨龍と言うありえない規模の敵に対して、その肉体骨格構造と可能な動作を見切り始めていた。

 

 生物である以上、関節の駆動域や、動の流れは定まる。それが尋常ではない神速であろうとも、軌道が決まっている以上、避けられぬ道理はない

 

 徐々にリューファスは勝利への道筋を見出してきた。地上での戦いは、リューファスに分があった。

 

(勝負をかけるのは今だ)

 

 リューファスはセレスティンを高く掲げると、大きく息を吐き出した。

 

 聖剣から放たれる光が一層強くなった。その輝きがフェアヘングニスの巨体を包み込む。

 それは黒龍にとって、太陽を直視するかの如き閃光だった。あまりの眩しさに一瞬、目眩を覚えたようにも見えた。

 

 リューファスはその隙を見逃さなかった。蒼天を仰ぎ、大きく息を吸い込んだ。

 

「この輝きは我が生命、巨悪を討つは王たる使命。この命に代えてもっ!」

 

 眩んでいたフェアヘングニスは聖なる気配へ、咄嗟に鋭い爪を振り下ろす。

 

 剣と爪が激突した。炸裂する火花、耳をつんざく金属音。

 

「解き放てっ、『蒼穹を穿つ我が天剣(セレスティン・カレドヴルフ)』っ!」

 

 呼応した聖剣セレスティンの剣閃が、黒龍の爪を射抜いたかと思うと、リューファスは剣を振り抜き終える。

 

 凄まじい威力を持つ光の斬撃は、容赦なく硬い鱗と甲殻を易々と斬り裂いていった。フェアヘングニスは苦悶の咆哮を上げ、巨体をよじった。

 

 聖剣セレスティンの光刃が次々と黒龍の鱗を斬り裂いていく。

 

 対する黒龍フェアヘングニスは怒り狂い、力任せに爪を振り下ろす。

 一撃は大地を砕くが、そこにリューファスの姿はない。

 

 戦いを見守る兵士たちは、己の王の勝利を確信していた。

 信じられぬことに、我らが王はあの災厄にすら打ち勝てる、と。

 

 もはや、王の勝利を疑うものは誰もいなかったのだ。

 彼らは王の勝利を祝い、雄叫びを上げていた。それはまさに、気の早い勝利への凱歌であった。

 

 最初に、戦いの流れが変わったことに気付いたのは、誰であったか。

 少なくとも、剣を振るっていたリューファス王本人は予想していた。

 

 兵士たちの歓声が最高潮に達したその時、黒龍の眼に、静かな、しかし確かな冷静さが宿った。

 

 尻尾を地面に叩きつけて、身体を捻った。

 巨大な尻尾が鞭のようにしなり、リューファス王を襲った。

 

 咄嗟に聖剣を使い、いなすように受け流そうとする。剣身とフェアヘングニスの鱗が擦れ合い、激しい火花を飛び散らせた。

 

「ぐっ……ううっ……」

 

 思わずうめき声を漏らしながらも、王はなんとか体勢を立て直した。

 

 それからが、早かった。

 

 黒龍は間合いを取り、大技の合間に、隙を突くような小技を繰り出し始めた。

 

 細く長い火炎の息吹、フェイントを挟んだ尻尾の攻撃、砂粒や岩のつぶてを使った人間を容易く肉片に変えるほどの散弾、刃を弾く際の巧みな鱗の使い方。

 

 どれもが、リューファス王にとって油断ならぬものだった。

 

 一瞬でも気を抜けば、たちまち餌食となってしまうだろう。聖剣セレスティンを握る手が汗で滲むのが分かった。

 

(気付いた、か。とうとう黒龍に気付かれてしまったか)

 

 いくら、矮小な人間が強力な攻撃を繰り出したところで、痛みを与えることは出来ても、よほどのことが無い限り致命傷には至らない。

 

「この目の前の人間は、我にとって初めての敵と言えよう。 そう理解した。 理解したが……こ奴は、我を殺すまではどう足掻いても至らない」

 

 黒龍はそう告げるように唸ると、再び戦闘態勢に入った。絶妙な手加減だった。

 

 リューファス王に致命傷を与えることは出来ないが、己は隙を晒さずに、確実に疲労とダメージを蓄積させる。そんな動きだった。

 

 どんどん形勢が逆転していくのが分かった。振るった剣は、もはや鱗を剥がすことが出来ない。

 

 剣が当たる瞬間、どのように鱗で弾けばよいのかを完全に見切られたからだ。

 

「黒龍め。 思った以上に、賢い。賢く、感情に呑まれる様子がない」

 

 リューファス王は歯噛みし、思わずそう漏らした。

 全身からは汗が流れ落ち、疲労の色が濃くなっていく。

 

 息も荒くなり、剣を振る際の姿勢や体の動きが乱れるようになってきた。聖剣セレスティンに宿った聖なる力も弱まってきている証拠だ。

 

 戦いを諦める気はなかった。

 

 例え魔力が枯渇しかけていようとも、血が枯れ果てようとしていても、気力に満ち溢れているからだ。

 

 しかし、だがそれだけだった。

 

 そんな時だ──。

 一閃、眩いばかりの光が戦場を駆け抜けたかと思うと、黒龍の鱗を斬り裂いたのだ。

 

 フェアヘングニスは苦痛の叫びを上げて、大きくのけぞった。

 

 傷は決して深くはなかったが、予想外の一撃に取り乱したようだ。

 そこには、王国の誇る『雷鳴の騎士団』がいた。

 

「我が王よ、待たせましたかな。 蛮族共の鎮圧に時間がかかりまして」

 

 雷鳴の騎士団は、完全武装で戦場に駆けつけた。全員ではなかったが。

 

 先頭に立つ、最も勇敢なる騎士。

 『雷鳴の騎士団』の団長であり、王家の剣として名高い戦士──ゼノスヴァイン卿だった。

 

 王は精悍な笑みを浮かべて言った。

 

「いいや、丁度よい頃合いであった。 褒めて遣わす」

 

 既にリューファス王が負った怪我は、致命傷と言えた。

 

 すべての傷口が呪いによって汚染されていた。

 

 もう、長くはないことは誰の目にも明らかであった。だが、リューファス王はそのことをおくびにも出さなかった。

 

 眼光には未だ強い意志を宿しており、その心魂はまさに王者の風格を湛えていた。

 

「余を援護せよ。 余の最後の戦いだ、せいぜい派手に見送れ!」

 

 雷鳴の騎士団長ゼノスヴァイン卿は、短く返答する。

 

「承知しました」

 

 黒龍もついに、リューファス王の覚悟と意志を理解したようだった。

 

 そして、ゆっくりと距離を取り始める。

 

 リューファス王も同じくして後ずさる。それは、恐れでも逃げではなかった。

 

 最後の突撃を走り抜くための、助走の準備だった。

 ──やがて、一人と一匹は同時に走り出し、最後の激突を繰り広げた。

 

「ああ、我が生涯に悔いはなしっ! 余と最後まで共にあれ!」

 

 交錯する刹那に、両手に握りしめた聖剣セレスティンに感謝の念を込めて、リューファス王はそう叫んだ。

 

 剣身は白く輝き、青白い火花が飛び散る。

 天を割る雷光の如く、戦場に瞬いた。

 

「この命の一欠けらまで、持っていけっ!『蒼穹を穿つ我が天剣(セレスティン・カレドヴルフ)』っ!」

 

 黒龍の爪がリューファス王を捉え、血飛沫が舞う。だが、その勢いをものともせず、光り輝く聖剣が黒龍を貫いた。

 

「オオオオオオオオッ!!」

 

 苦鳴の咆哮を上げ、黒龍フェアヘングニスは仰け反った。

 巨体から膨大な魔力が放出される。それは邪悪な力の奔流だった。

 

 瞬きする間もなく、リューファス王の足元から巨大な漆黒の荊が飛び出した。

 

 荊は瞬く間に成長していくと、リューファス王の体を搦め捕り、手足に無数の棘が突き刺さり、傷口を抉った。

 

 目に見える呪いの具現だった。

 自分に苦痛を与えたものに、絶対の死を齎す呪詛。

 

「ぐっ……ぐぅぅうう……! 我が天剣っ!その荊を退けよっ!」

 

 青白い閃光が迸り、リューファス王を呪う磔が、聖なる光が断ち斬る。

 

 そして、セレスティンは巨大な刃と化して、黒龍フェアヘングニスを斬り裂いた。

 

 ──それがリューファス王が放った最期の一撃となった。

 

 聖剣セレスティンが黒龍の硬い鱗を食い破り、そのまま肉を斬り裂いていく。最後までひるまずに、王はやり遂げた。

 

 黒龍の血が飛び散り、地面に毒黒い赤い染みがどんどん広がっていった。滝のように流れ出た血は、毒々しい沼を形作り、腐臭を放った。

 

「グオオオォォォオオォッ!!」

 

 黒龍フェアヘングニスは苦悶の咆哮を上げた。

 リューファス王の放った最後の一撃は、確かに伝説を穿つことに成功していた。

 

 セレスティンを杖代わりにして、王は膝をついた。

 

 黒龍フェアヘングニスは絶叫し、その巨体がぐらりと揺らぐ。

 

 だが、リューファス王も力尽きて、その場に膝を折った。

 そして、聖剣セレスティンもまた輝きを失い、普通の剣と変わらぬ姿に戻った。

 

「はは、我が愛しき天剣も、ここまでか……。我が人生に悔いなし……」

 

 リューファス王は満足そうに笑い、そのまま地面へと倒れ込んだ。

 漆黒の沼に身体が沈んでいく。

 

 黒龍フェアヘングニスは踏みとどまり、力を振り絞って持ち直す。

 

 未だに破壊の化身は健在。

 巨大な翼を羽ばたかせ、リューファス王にとどめを刺すべく飛びかかった。

 

 漆黒の竜は口を開き、巨大な牙を見せた。

 

 牙には死者の魂がこびりついていた。死してなお、黒龍フェアヘングニスに囚われた魂たちは、逃れられぬ地獄の苦しみの中で悶え苦しんでいた。

 

 死者の断末魔の叫びが、リューファス王の耳を劈いた。

 

 ──突如、稲妻が空を切り裂き、黒龍フェアヘングニスの胴体に突き刺さった。

 

 それはゼノスヴァイン卿が放った闘気を伴う竜狩りの大槍だった。

 その膂力で全力の一撃を投げ放ったのだった。

 

「我が王の最期を汚すなよ、邪龍。 王に、民を託されているからこそ、我らはこれ以上の危険を冒さぬのだ。 せめて、その亡骸は我らに渡すのが、誉れではないかッ?」

 

 ゼノスヴァイン卿が声を張り上げると、他の騎士団員たちも一斉に武器を構え、戦闘態勢を取った。

 

 しかし──次の瞬間には、黒龍フェアヘングニスの巨体は宙に舞い上がる。

 

 邪龍はその強靭な翼を羽ばたかせ、瞬く間に天空へ飛翔。雄叫びを上げると、そのまま彼方へと飛び去っていった。

 

 ──まさしく神話の光景そのものだった。

 巨大な邪竜が天空を舞い上がる様は荘厳で、同時に禍々しくもあった。

 

 騎士団員たちは言葉を失った。

 だが、しばらくして我に返った一人の騎士が呟いた。

 

「もう大丈夫だ……きっとバンスラディア王国は、王によって護られたのだ……」

 

 声をきっかけに、雷鳴の騎士団はどす黒い沼に倒れ伏したリューファス王に駆け寄った。

 

「陛下、どうか死なないでくださいっ!」

 

 騎士団員の一人がそう叫ぶと、他の者達も一斉に声を上げた。

 

「そうだ!こんなところで死んでもらっては困るぞ!我らの王よ!」

「あなたは王国を、そして私たちを救った英雄だ……!」

 

 しかし、リューファス王はわずかに目を開け、彼らの方に目を向けると、僅かに首を横に振った。

 

 ゼノスヴァイン卿が唇を嚙みしめながら言葉を絞り出した。

 

「……陛下……申し訳ありませんっ……! 私は貴方の御心の内を理解せずに……」

 

 ゼノスヴァイン卿は涙ぐんだ。他の騎士団員たちも涙を流し、嗚咽していた。

 

 だが、リューファス王は穏やかに微笑み、静かに首を横に振った。

 そして、最後の力を振り絞るように言葉を続けた。

 

「──我が民たちよ。 騎士団よ……そなたらは余の誇りだ……よくぞここまで王国を導いてくれた……」

 

 リューファス王は大きく深呼吸すると、空を見上げた。彼の瞳に映る空はどこまでも青かった。

 

「そなたらがいるからこそ、余は安心して死ねる。 死ねた。 死力を尽くし、奴と戦えた」

 

 王からの遺言は、国と民を任せる。

 

 お前たちがいるからこそ、不安すらない。

 後悔の一つも微塵もない。

 

 ただ、少しだけ──ほんの少しだけ、この剣と共に果てることができたのならと、そんなことを思った。

 

 リューファス王は瞳を閉じ、自らの使命を果たしたことを実感した。

 そして、再びその瞼が開くことはなかった。

 

 雷鳴の騎士団は王の亡骸の前で跪き、涙ながらに祈りを捧げた。

 

 だが、それでも彼らは立ち上がらねばならなかった。

 

 王が託した想いに応えるために、これからも王の意思を継ぎ、王国の未来を守らなければならないのだ。

 

 雷鳴の騎士団長ゼノスヴァイン卿は顔を上げた。

 彼は瞳に強い決意を宿していた。

 

 そして、騎士団員たちに呼びかけると、彼らは一斉に立ち上がり、決意に満ちた眼差しで頷き返した。

 

 ゼノスヴァイン卿は高らかに宣言した。

 

「我らの王は死んだ! だが、それがどうしたというのだ! 我らは王から受けた使命を果たさねばならぬ!」

 

 雷鳴の騎士団員たちは、再び力強く頷いた。

 

 彼らは涙を流しながらも、しっかりと前を向いていた。瞳には、強い意志の光が宿っていた。

 

 それは王の威光がいまだに残る証であり、その名に恥じぬ誇り高き騎士たちの姿だった。

 

 ゼノスヴァイン卿は号令を発した。

 

「戦え!」

 

 雷鳴の騎士団員たちは一斉に立ち上がった。

 

 彼らの手には、それぞれの武器があった。

 

 ある者は大盾を手にし、ある者は剣を携え、またある者は長槍を構えた。

 

 王の望んだ世のために、命を使い果たすと改めて誓ったのだ。

 ──たとえ、この先にどのような苦難が待ち受けていようとも。

 

 そこに一人の白き衣を纏った女性が、歩み寄った。

 

 その女は、王の専属術士アルテナ。

 体調管理から、政治(まつりごと)の相談まで一挙に担う、当時の宮廷魔術師のようなものだった。

 

 雷鳴の騎士団に遅れて、ようやく到着した。

 

「ああ、リューファス。私の愛しき王。貴方と共にあれて、私は幸せでした」

 

 アルテナはそう言うと、そっとリューファス王の亡骸に触れた。彼女の目には涙が溢れていた。

 しかし、それでもアルテナは気丈に振る舞おうとしていた。

 

「雷鳴の騎士団達よ、王は……完全に命を落としたわけではありません。聖剣セレスティンが、ほんの微かに魂を繋いでいます」

 

 アルテナはそう言って、地面に突き立てられた剣を指さした。

 そして、言葉を続けた。

 

「長年、王と共にした聖剣は、もはや体の一部と呼んで過言ではない。それゆえ、この剣が王の魂を護っているのだと、考えます」

 

 それを聞いた騎士たちは、一斉に声を上げた。

 

 実際のところ、リューファス王は死を受け入れていた。

 死ぬ寸前で、かすかに剣と共に在りたいと、脳裏をかすめただけだった。

 

「……ですが、あまりに呪いが深く、傷は癒すことは不可能。死は時間の問題であり、残された時は僅かです」

 

 騎士たちはどよめく。

 

「なんと。……術士殿は、王の死は避けられないと仰るか」

 

 ゼノスヴァイン卿は、拳を固く握りしめた。

 表情には深い苦悩が刻まれていた。

 

「やはり、運命は変えられなかったのか」

 

 しかし、ゼノスヴァイン卿は感情を露わに問いかけた。

 

「いや、駄目だ。何か手立てはないのか、術士殿!」

 

 ゼノスヴァイン卿は一縷の望みをかけ、アルテナに尋ねた。

 するとアルテナは、首を横に振りながら答えた。

 

「残念ですが、王の肉体はあまりにも、その損傷が深く。刻まれた呪いによって、治癒の術は通用しません。 仮に、魂を他の物や他の肉体に移す手段を取れば、よほど適合する肉体でない限り劣化は避けられないでしょう」

 

 だが、ゼノズヴァイン卿は、なおも諦めようとはしない。

 

「ならば、この肉体を保存しよう。術士殿、お主は妖魔を封じる際に、封印術と言うものを使っていたな?」

「ええ、確かに私の術で保存することはできます」

 

 ゼノスヴァイン卿は安堵の表情を浮かべ、アルテナの肩をポンと叩いた。

 

「よし!ではすぐに頼むぞ!」

 

 雷鳴の騎士団員たちは戸惑いながらも、団長の命令に従い動き出した。

 

 アルテナはため息をついた。

 

 果たして、これは敬愛する王が望む方法なのだろうか。許されざることを、自分はしているのではないか。

 

(ですが、私の誓いはリューファスが王がある限り、それを助力すること。王亡き今、最も、王に近いのは『ゼノスヴァイン卿』とも言えるか。ならば――)

 

 幾人かの長命種が、リューファス王に目を掛けていたが、あまりにもこの王は偉大過ぎた。

 同じ力量を求められて、応じられる者がそう簡単にいるはずもない。

 

「これが最後の奉公になるでしょうね。 リューファス王よ、その肉体を石と化し、来るべきその日まで悠久なる眠りにつきたまえ」

 

 白き衣を纏ったアルテナは、静かに祈るような仕草と共に、ゆっくりと呪文を唱え始めた。

 

(肉体を石化すれば、精神が死ぬことはありません。王の魂は死してなお、その存在は王国の守護となりましょう。国の礎となることを、あなたは望むでしょう?)

 

 それは祈りの歌だった。

 そっと手のひらを王の亡骸へと向けると、淡い輝きが放たれ始め。王の亡骸を包み込むと、みるみるうちに肉体を石へと変えていく。

 やがて、生前の姿そのままに時を止めてしまったのだった。

 

「おお、なんという奇跡だ」

「王よ、王よ……」

 

 騎士団の目には再び涙が浮かんでいた。しかし、それは喜びと悲しみが混ざり合った涙であった。

 

 やがて、騎士団長ゼノスヴァイン卿が口を開いた。

 アルテナへと、感謝の言葉を述べた。

 

「我が王国、最高の術者アルテナよ、感謝するぞ。王のお身体を護ってくれたこと、この恩は決して忘れぬ」

「いいえ、良いのです。 石化した王は、あなた方に託します。 ……私の役目はこれで最後になりましょう。 あくまで、私の王はリューファス王、ただ一人ですから」

 

 アルテナはゆっくりと踵を返した。

 

 そしてその場を後にしようとする彼女を引き留めたのはゼノスヴァイン卿だった。

 

「待ってくれ! ……我々はあなたと共に過ごした日々を忘れはしないぞ。あなたは誰よりも王に尽くし、忠誠を捧げていたのを知っている。私たちも皆、同じ気持ちだ」

 

 ゼノスヴァイン卿の言葉に、他の騎士団員たちも同意を示すように頷いた。

 

 アルテナは立ち止まり、彼らの方へ向き直ると優しく微笑んだ。

 

「ありがとう……皆さん」

 

 アルテナは一瞬、その瞳を潤ませたが、すぐにそれを拭い去った。

 

 誰もがうすうすはわかっているのだ。次の王が決まるまで、王国が荒れるであろうことを。

 しかし、誰もそのことについては触れない。アルテナもこの先に触れることはなかった。

 

 彼らは無言のまま立ち尽くしていた。静寂がその場を支配し、誰もが口を閉ざしていた。

 だが、沈黙を破り、叫んだ者がいた。

 

「我が王に栄光あれ!雷鳴の騎士団に栄光あれ!」

 

 自然と、また一人強調し、最後には雷鳴の騎士団が一斉に唱和した

 声は高らかに響き渡り、雷鳴のように轟いた。

 

 その声を聞きながら、アルテナはそっとその場を離れた。

 

 それからしばらくして、リューファス王の国葬が行われた。

 王国の家臣は悲しみに暮れながらも、その偉大な功績を讃えるために教会へと集まった。

 

 リューファス王に失策があったとすれば、次代の王を指名しきれなかったことだった。

 国民の多くは、彼の後継者を切望した。

 

「王よ……なぜ逝かれてしまったのですか? あなたの後継者がいなければ、この国はどうなるのです?」

 

 彼らは口々にそう言った。

 

 だが、その時である。教会の扉がゆっくりと開いた。

 

 そこに現れたのは、一人の女性だった。

 その姿を見た人々は驚愕して息をのんだ。

 

 黄金の鎧に身を包んだ女は、女神のように美しかった。

 

 しかし、それ以上に驚いたのは彼女の容姿である。それはまさにリューファス王に生き写しだったのだ。

 

 彼女はゆっくりと教会の中へと入り、祭壇の前に跪いた。そして、祈りを捧げた後、再び立ち上がる。

 濡れた瞳で、女は静かに、しかし力強く言った。

 

「皆の者よ……」

 

 その唇から発せられた声は、まさにリューファス王のものと同じ響きを備えていたのであった。

 

 

***

 

 アルテナは石と化したリューファス王の前で、膝を折った。

 

「私は……貴方が失策をしたとは思わないわ」

 

 静かな声が、石像に吸い込まれるように消えた。

 

「誰を指名しても、あの状況では、誰も貴方の後を継げなかった。きっと、諸侯たちは納得しなかったでしょうね」

 

 微笑んだアルテナの声は穏やかだが、どこか悲しげでもあった。

 

「だからこそ、貴方は完璧だったの。貴方の死は、あの時点では、王国の崩壊を防ぐための最良の方法だったのよ」

 

 それはアルテナの本心から出た言葉であった。

 

 アルテナは心からリューファス王の死を讃えていた。

 だが、同時に、置いて行かれたと言う寂しさも伴っていた。

 

「私が黒龍を倒せる力を持っていたのなら……あなたを死なせなかったのに……」

 

 悔恨の念が、胸を締め付ける。だが、それは叶わぬ願いだと、アルテナは知っていた。

 あの黒龍に、自分の術は通用しない。あの場に駆けつけることすら、できなかった。

 

 蛮族や怪物たちの同時多発的な侵攻。

 王の力には従いながらも、虎視眈々と次代を狙う諸侯たちからの協力を得るのは、不可能だった。

 

 では、リューファス王の身内はどうか。

 妻達や子も、いずれかの諸侯の血縁者だし、兄弟姉妹も関係が良好とはいいがたい。

 

 王国全体が蛮族と怪物たちの侵攻で混乱しており、まともな対策も取れなかった。

 そんな状況で、リューファス王は決断を迫られたのだ。

 

 アルテナは、石と化した王の手にそっと触れた。冷たい石の感触が、リューファス王の魂の不在を告げているようだった。

 

「私はずっと貴方に仕えてきたわ。貴方が望むなら、私は全てを捧げましょう。……そう、望んで欲しかったわ、貴方に」

 

 アルテナは微笑んだ。その瞳には、深い悲しみと、それでも消えることのない、リューファス王への愛慕の情が宿っていた。

 

 そして、静かに立ち去った。

 

 ――こうして、物語が始まったのだ。




◎黒龍フェアヘングニス
 漆黒の空を裂き、燃え盛る大地を覆い尽くす死の翼。
 底なき暗渠より這い上がる太古の災厄。
 その巨躯は夜をまとい、刃の如き鱗が月光を拒む。目覚めの刻、地平はその息吹に崩れ去り、ただ廃墟と灰が残るのみ。
 死者の魂を喰らい、怨念を啜り糧とする。
 人間よ、汝が築き上げた世界の脆さを思い知れ。そして語り継げ。
死は救済ではない。希望すら、奴の牙の研ぎ石にすぎないことを。
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