「あら、スギナちゃん、久しぶり! 今日は一人なの? 台風前だというのに大変ねえ」
捕まってしまった。
「毎日歩くのも訓練の一環なんでしょ? 見回りとかそんな感じの練習、いつも偉いわね」
話し好きのおばさんに、捕まってしまった。
「本当にいつも大変だなって思うの。雨の日とかも傘をささないで歩いているの見かけたし」
午前の巡回コースを歩いている途中、話し好きのおばさんに捕まってしまった。
「明日も歩くの? けど明日は止めた方がいいわよ。この周辺って、台風の時は海からの風が強いのよ」
「はあ」
「この周辺の人たちもね、そういう日は無理をせずに、家の中で大人しくしているの。だからスギナちゃんも、明日は訓練休みますって、警察の学校に電話したほうがいいわよ」
「はあ」
「下の娘も、明日休校になるかもって言っていたわ。私の勤め先もね、明日は二階の鮮魚部のお休みが決定したってさっき連絡が入ったの。けど私の今週のシフトは一階のお土産販売部でしょ。だから今日も明日も頑張って出勤しなければならなくなったのよ。こんな天気の日に、お客さんなんて来ないのにね」
「はあ」
よくぞこの速度で、よくぞこれだけの言葉が生まれるものだと感心してしまうほどの、圧倒的な早口。話し好きな女性特有の、のべつ幕無しに語り続ける言葉の嵐。台風が上陸するのは、明日ではなく今日だったのかと勘違いしそうなほどの、言語の暴風。
話の流れが速すぎて、まくし立てる話題の合間に相槌を打つことしかできない私。しかし、おばさんはそれで満足しているようだ。私がたまに発する相槌の声を手拍子の代わりにして、おばさんは一人歌うかのように話を続けている。
会話とは言えない、一方的なおしゃべり。会話下手と駄弁り好きの人同士のテーブルトークによくある、一方的な独演会。傍目には防戦一方の私だが、思うがままに口を動かしているおばさんに、ただうなずいていればいいだけなので、実のところ気は楽だ。相手の話を聞くことなく、自分から話題を振ることなく、ただ合いの手を入れるだけなので、うるさいおばさん相手とは言えまったく気疲れすることがないのだ。
一般人とは異なる剣呑な気配を放ちながら、冷たい目で各地を巡回しているリコリス。殺伐とした空気を纏う彼女たちに、一般市民は近寄ることはない。
とはいえ、一般市民にもいろいろいる。日頃目につく彼女たちが気に食わない、その程度の理由で私たちに絡んでくる愚かな市民も、ごく少数存在する。
そのような人間に対して、私たちリコリスは最低限の反撃で対処している。悪意の籠った罵声には殺意を込めた目線で、胸倉を掴まれるなどの行為には一発の殴打で対処している。たいていの場合は、これで相手は引き下がる。私たちを睨みつけていた猛犬めいた目の色を、負け犬のような目の色に変え、尻尾を巻いて逃げていくのだ。
それでもなお敵意を向けて迫る人間に対しては、ナイフなどで顔面に欠損を与えて追い払うのだが、そこまですることはほとんどない。理解力の高いこの国の人間は、最初の殺意を込めた目線だけで気がつくのだ。目の前の少女たちに、これ以上敵意を向け続けると取り返しのつかないことになる。彼女たちは、何らためらうことなく敵の耳や鼻を削ぐことができる人間なのだと気がつくのだ。
私も候補生時代、都内での路上訓練中に何回か変な連中に絡まれたことがあるが、そのほとんどは殺意の目だけで追い払うことができた。サッシェルバッグ内に装備してあるバタフライナイフで、相手の鼻を削ぎ落して退散させた事例は、三回程度しかない。
まあどのような方法を取るにせよ、悪意を持って現れる相手を追い払うのは至極簡単だ。問題は、悪意がない場合だ。
リコリス同士の雑談で、必ず盛り上がる話題の一つに、巡回時の対人トラブルがある。
巡回中、話し好きのご近所のおばあさんに、いつも長話の相手をさせられるの。最近は縁側でお茶まで出されるようになってしまったよ。
巡回中、通園中の園児たちに、毎朝遊んでとせがまれるんだ。なぜか園側も了承しているし、ご父兄も温かい目で見てくれているのが怖い。
巡回中、男子高校生にラブレターを渡されてしまった。お返事書いた方がいいのかなあ。ねえ、どう思う?
巡回中、毎回野良猫たちに囲まれ、猫の集会に強制参加させられる。おかげで最近は、猫の言葉がわかるようになった……
猫は対人トラブルには当たらないと思うが、このような他愛もなく悪意もないほのぼのとした事例が、巡回中はよく発生する。悪気がない故に対処し辛いこのようなトラブルは、巡回時間が厳しく決められている都市部のリコリスにとっては、長時間の足止めを強いられる行為として、隠れた問題となっているらしい。
都会ではない諸咲は、巡回にかける時間はそれほど厳密ではない。地元の方の長い無駄話に付き合う程度の余裕はある。楽しそうに話すおばさんとの会話から、一般人から見た今の諸咲の状況や問題点を読み解く程度の余裕はある。一般市民とは隔離されている世界で生きる私たちにとって、住民目線から見た自支部内の話題は、とても貴重な情報でもあるのだ。ゆえにこの無駄話、実はそれほど無駄というわけでもない。
おばさんが語る話題の大半は、自分の日常生活についてだ。おかげで私は、この人の生活範囲のほとんどを知っている。記憶力の良いリコリスは、自分たちが守る支部内の情報であれば、それがたとえ些細な内容であろうと、決して忘れることはない。
今、私の目の前に立つおばさんは、自分のパートについての愚痴を言っている。急なシフト変更が頻繁に発生すること。一階のお土産コーナーに、悪質なクレーマーが最近毎日来ることを愚痴っている。
おばさんがパートタイマーとして務めているのは、今年7月に諸咲港フェリー乗り場の横に建てられたばかりの、総合観光施設。5階建ての高いビルの各階に、お土産屋や鮮魚売り場、郷土資料館に休憩所などが設置された、諸咲の一大観光拠点だ。
世界で唯一、完全な平和を保っているこの国は、現在好景気の真っただ中だ。凶悪犯罪が全く無い安全な国として、世界の信頼を得ている日本国。国内が平和である限り、この繁栄はこれからも続いていくだろう。紛争や内乱、大規模犯罪などで世界中の国々が衰退の道をたどっている中、平和な我が国だけは永遠に発展し続けるだろう。この国の人々は皆そのように信じているし、私もそう信じている。
神武景気をもしのぐ今の好景気。その余波は、都会から遠く離れた諸咲の地にも訪れている。諸咲観光ビルの新築は、その代表的な例だ。
祇能島や遑迦島へ向かう旅行客、あるいは南智多観光に訪れる観光客など、ここ近年、諸咲には名古屋や中部圏から来る旅行者が増えている。これらの観光客が集まるフェリー乗り場の隣に建てられたこの観光ビル、好景気ゆえに客入りも上々だという。
とはいえ、人が増えた場所には、トラブルも発生する。長々と続くおばさんの無駄話によると、最近ヤクザまがいの男が、クレーマーとしてよくこの観光ビルに来ているらしい。
おばさんや他の地元従業員の方々も知らない顔らしいので、おそらく名古屋か伴田あたりのチンピラかヤクザなのだろう。チンピラならただの小銭稼ぎ、ヤクザなら新しい商業拠点のショバ代狙い、そんなところだろう。
諸咲観光ビルは、最近できた建物のため、DAが指定する巡回経路にはまだ入っていない。しかし今後のためにも、一度先輩と話し合って巡回してみるか。私はおばさんの話に耳を傾けながら、そんなことを考えていた。
「ところでウメちゃんはどうしたの? 体調悪いの?」
「あ、いえ。今日は本部に行っていて……」
まずい! 考え事をしていた最中に、いきなり話を振られたため、つい本当のことを言ってしまった。
「あら、ウメちゃん今日は警察本部なの? すごいわねえ。本部ってことは、来年にはもう刑事さんかしら? ウメちゃんは凛々しい姿だし真面目そうだし、きっといい女性刑事さんになれるわよ」
スギナちゃんも最近はかっこよくなってきたし、いつかはウメちゃんのような立派な刑事さんになれるから頑張ってね、と応援してくれるおばさん。その言葉に、私は内心胸をなでおろす。
このおばさんは、私たちのことを、警察学校の学生だと信じているのだ。学生服のような制服を着たリコリスを、刑事見習いの学生だと勘違いしているのだ。
警察が秘密裏に創設した女性警察官専門の学校生。これは私たちに対する一般市民のよくある勘違いのひとつだから、訂正なくていいわよ、と風待先輩は言っていた。リコリスという存在を知っていても、DAという組織にまで発想が及ばない普通の市民は、私たちのことを警察の下部組織の訓練生のようなものだと思い込むことがままあるらしい。
風待先輩も数年前からこのおばさんに何度か捕まり、数年間にわたり何度も話し相手になっているそうだが、自分の所属についは何度尋ねられても質問をはぐらかし、非公式に設立した警察学校の生徒じゃないかというおばさんの想像に任せているらしい。
まああのおばさんには、適当に話を合わせていればいいのよ。空気読めないけど悪い人じゃないし、世間話っていう名の重要な情報を与えてくれる存在なのだから、こちらの情報は与えず、適当にあしらっておきなさい、と助言をくれた風待先輩。しかし、今目の前で話しているおばさんは、普通の人相手には絶対に話さない先輩の下の名前を、先輩自身の口からすでに聞き出しているのだ。長く生きている分、話題の誘導はかなり上手なのだろう。話下手な私は、いつかDAのことを喋ってしまいそうで、少し不安だ。
「私を昔助けてくれたあなた達の先輩も、ウメちゃんのように凛として颯爽としたお姉さんだったわ。もう何十年前になるのかしらね。本当にカッコいい学生さんだったのよ」
おばさんの無駄話は、終わりごろになると、いつも自分の幼少期の話になる。
このおばさんは、小学校低学年のころ、東京に住んでいたという。幼かった彼女は、ある日、路上で一人遊んでいるところを、複数の男たちに誘拐されかけたという。
幼女誘拐。その凶悪犯罪から彼女を救ったのが、その場に偶然居合わせた当時のリコリスだったらしい。美しくも凛々しい顔立ちをしたそのリコリスは、手にした武器で複数の悪漢どもを華麗に制圧。彼女を外道の魔手から救ったという。
大きな背丈の悪党どもを苦もなく倒したその強さ、怯える彼女に差し伸べた綺麗な手、優しい笑顔。あれから数十年、いまだその時の光景が忘れられないおばさんは、嫁ぎ先の諸咲の地でも同じような少女を見かける嬉しさに、つい話しかけてしまうそうだ。私たちの姿にその女性の面影を見て、つい語りかけてしまうそうだ。
そう聞けば、ただの良い話なのだが、おばさんの昔語りを詳しく聞いていると、どこか違う。
助けてくれた少女が着ていた服は、DAの制服ではなくただのセーラー服だし、使っていた武器はヨーヨーなのだ。
おそらく当時幼かったおばさんを助けたのは、リコリスではなくて、警察が臨時に雇った不良学生とか、そのあたりだろう。何十年も前に、警視庁にそういう嘱託制度があったことを、以前ウワサに聞いたことがあるので、おそらくそれだろう。
年月を経たが故の記憶の誤りか、それとも単なる勘違いかはわからない。しかしまあ美しい記憶はそのままに、そして誤解もそのままに、私たちリコリスは今日もまた、おばさんの無駄話を聞き続ける。別組織のお姉さんの話題を聞き続ける。
「あ、そろそろバス乗らなくちゃ。それじゃあスギナちゃん、今日はアメ玉ないからこれあげるわね。見回りの練習が終わったら自販機でジュースでも買いなさい。それじゃあね」
話すだけ話してすっきりした顔のおばさんは、私の手に100円玉を握らせると、慌ただしく走り去る。面倒な人だけど、年に似合わずお元気に走る後ろ姿を見ると、少しだけ嬉しくなる。
手のひらに佇む1枚の硬貨。今は100円じゃジュース買えないよとつぶやきながら、私はいただいたお金をそっとポケットにしまい、走り去るおばさんの背中に一礼した。
風が走る。雲が走る。
風が強くなっていく。雲が濃くなっている。
夕方まで雨が降らなければいいなと思いながら、午前の巡回を終える。
アパートの自室に入る前に、私は建物の横の空き地に向かう。
大家さんの菜園のスコップを借りて、アパートの壁際にあるLPガスボンベ設置台の横にしゃがみ込む。
設置台の横には、アパート前の空き地と道路を仕切るために使われた、コンクリートブロックの余りが数枚積まれている。ブロックが破損した時の予備なのだろう。
私はそのブロックを一枚ずつ横に除けると、スコップで下の地面を掘る。
手が隠れるほどの深さまで掘ると、厚いビニールで包まれた缶箱が出てくる。土で汚れたビニールの口を解くと、中の缶箱を取り出し、ふたを開ける。
缶箱の中には、小さなビニール袋が二つ。袋の一つには、数十枚の硬貨、もう一つには、数枚の硬貨が入っている。
私は枚数が少ない方の袋の口を開けると、巡回中におばさんから貰った100円玉を入れる。
これで4枚目、合計400円。
数えるまでもないのだが、私は袋の中の硬貨枚数を何回か確かめると、開けたビニールの口をそっと縛り、缶箱にしまう。風待先輩の袋、一体いくらあるのかなと考えながら、防水のための厚手のビニールの中に缶箱を入れ、土中に戻す。
リコリスの生活費は、DAによって完全に管理されている。食料品などの購入は本部管理下の電子マネーを使用、やむを得ず現金を使用する場合は必ず領収書かレシートを画像添付して報告しなければならない。
生活費の完全管理は、表向きの理由は生活規律の維持と健康保持のためだとしているが、その言葉を信じているリコリスはいない。DAが内心何を考えているのか、気がついていないリコリスはいない。
DAは恐れているのだ。ある程度の現金を手にしたリコリスが、その金を使って逃亡するのを恐れているのだ。
小銭を溜めこんだリコリスが、切符を買って支部外に逃亡するのはまだかわいい方だ。国内ならば、ありとあらゆる場所に設置された監視カメラの目をすり抜けて潜伏することは不可能だからだ。一部のファーストリコリスは、国内すべての監視カメラを無効化する手段があるというウワサだが、たいていの脱走リコリスは、お金の続く限り国内を彷徨った挙句、DAが差し伸べた追手のリコリスによって打ち取られる運命なのだ。
問題は、海外に逃亡するケースだ。
単なるウワサだが、多額の現金と必死の懇願によって、漁船や貨物船に潜り込み、DAの手が届かない海外に脱出しようとするリコリスは、年に何人かいるらしい。どのような手段でどの船に乗り、どこの国に向かったのか、そして誰が成功したのか、全く不明のただのウワサだ。だが、ウワサとして広まっている以上、何らかの事例はあったのかもしれない、何回かの成功例はあったのかもしれない。
DAは基本的に、リコリスを信用していないと、風待先輩も臥観手ルミナ先輩も言っていた。信用していないがゆえに、リコリスには必要以上の金を持たせたくないのだ。隠れてお金を貯めることを、決して許さないのだ。
しかし、そういわれてもお金は溜めておきたい。逃亡資金などと大それたことには使わないが、隠れて好きなものを買う程度の貯金はしたい。
DAの目の届きにくい田舎リコリスは、たいていはある程度の現金を隠し持っている。仲のいい地元住民からお駄賃としてもらったり、巡回中の道端で拾ったりと様々だが、たいていの地方リコリスは小遣い程度の現金を溜めている。
溜めたお金の保管先は、自分の住居の外が多い。住み家の中に隠しておくと、DAが臨時に行っている抜き打ちの室内点検時に見つかってしまうからだ。私たちも面倒ではあるが、DAに見つかることの無いよう、臨時収入がある度に土を掘り起こし、このように保管している。
何を買おうか、何に使おうか。考えるだけでも楽しい隠し貯金。しかしほとんどのリコリスは、このお金を使わないという。自分たちが望む金額まで小銭が溜まる前に、任期が終わるか死んでしまうからだ。
残されたお金は、バディの手に移る。消えた相棒が残した隠し金を受け取った片割れたちのほとんどは、そのお金でお花を買う。弔花を買って、支部の片隅、二人だけの思い出の地に手向ける。
かつてここにいたセノカさんも、数百円ほど現金を溜めていたらしい。もしかしたら、今日の私のように、あのおばさんから貰ったお金だったのかもしれない。
セノカさんが亡くなった後、先輩はセノカさんの残したお金でお花を買った。買ったお花を、十与浜の海に流したという。
DAは、死んだリコリスを弔わない。死んだリコリスに花を捧げない。
花を捧げるのは、私たち。捧げるために使うお金は、私たち個人のお金。DAの手垢が一切ついていない、清らかなお金。
今日溜めた私のお金も、いつかは弔花に使われるのだろうか。そのときは、誰が私を弔ってくれるのだろうか。灰色の空の真下で、ふと私はそのようなことを考えていた。いつか来るかもしれない未来、来てほしくない未来。私はその後ろ向きの思考を頭から追い払いたかったが、それも叶わぬまま、空き地の片隅にただ立ち尽くしていた。
お昼ごはんは、おそうめん。
一束50グラムの素麺を、二束茹でる。
薬味に錦糸卵でも作ろうかなと思ったけど、面倒だからそのままめんつゆだけでいただく。
朝は、ご飯にシラスと梅干を乗せただけ。
昼は、素麺を茹でただけ。
先輩がいない日のお料理は、いつもシンプルだ。手抜きともいう。
最近気がついたのだが、どうも私は、自分が食べる食事に関しては、かなり無頓着らしい。
お料理は、大好きだ。毎日のお料理、モブリコ寿司でのお料理、どちらも大好きだ。
しかし、どうやら私は、ただ単純にお料理が好きなのではなくて、人にお料理を作ってあげるのが好きだったようだ。
私の作ったお料理を、いつも美味しそうに食べてくれる風待先輩、楽しそうに食べてくれるメカブ子さんやモズク子さん、喜んで食べてくれるモブリコ寿司のお客さん。
自分が美味しく食べるためではなく、誰かに美味しく食べてもらうため、私は日々台所に立ち、料理の腕を磨いていたのだ。
だから、一人で食べるためのお料理は、やる気が出ない。一人で食べるお料理は、味気ない。
誰でもいいから、お料理作ってあげたいなとぼんやり考えながら、私はそうめんを啜る。ネギくらい切ればよかったかなと思いながら、そうめんを啜る。
先輩の帰宅は、早くても明日だ。だから今夜の晩御飯も、一人だ。
どうせ作るなら、誰かに作りたい。せっかくの夕食だ、誰かに振る舞いたい。
同じ階の角部屋に住む男ども、あいつらにでも作ってやるか。おにぎりに焼き玉子とソーセージ、お夕飯としてはシンプルだけど、男の子ならこういうメニューが好きだろう。玉子の味付けはどうしようか。いや、よく考えてみれば、あいつらも今日は留守っぽいんだよな、残念。それなら誰に……
ちょっとまて! 私はぼんやりと湧き出ていた自分の思考に慌てふためく。
まだ話したことも近づいたこともない男どもに、なんで私がお料理を作らなければならないんだ、おにぎりセットを持ってあいつらの部屋の扉を叩くなんて、絶対できっこないのに、なに玉子焼きの味付けまで考えているんだ、そんなことしたらあいつら私のことを誤解するに決まっている、翌日から互いに無視できない関係になるに決まっている、だいたいあいつらは男同士清らかな愛情で繋がっているのだ、その間に私が入り込んでどうする、二人の関係に亀裂をいれてどうする、だいいち私には風待先輩という大事な人がいるのだ、そんな浮気めいたことをしたら先輩も悲しむし……うわあああ。
エアコンで冷えた室内で、冷たい素麺を食べ冷たい麦茶を飲んでいるのに、なぜか熱で沸騰する私の頭。自分がふと考えてしまった妄想に、顔が赤くなっていくのがわかる。
ついに箸を放り投げ、顔を押さえて畳の上を転がる私。行きつ戻りつ三回転、それでも消えない羞恥心。最後には畳の上に身を横たえたまま、エビのようにぴょんぴょん跳ねる。
近頃カニ系のモノマネを極めた私が、次のステージに立つべく選んだ大技、クルマエビのモノマネ。エビのモノマネなんか極めても、何の役にも立たないだろうなと内心思いつつも、湧き上がるインスピレーションと尽きることない甲殻類への愛によっていつの間にか完成していた、9月のニューモード。一人だれもいないこの部屋でこのモノマネを御披露するのは、本日二回目だ。
しばらくの間、私は延々と込み上げる羞恥心に翻弄されながら、静かな部屋の真ん中で、ただひとりエビのように跳ねながら、ただひとり騒いでいた。
晩夏の空き地に鳴り響く、ツクツクボウシの声。その歌声よりもやかましい昼食を終えた私は、午後の惰眠を貪る。
半分寝ているのか、半分起きているのか、自分でもわからない、軽いうたた寝。二つ折りにした座布団を枕に横になる、堕落の極み。
掃き出し窓から見える流れる雲を見ながら、いつのまにか寝てしまったのだろう。収納ラックの上に置かれた、オルゴール付き目覚まし時計の文字盤を見ると、私が予想していた時間よりもかなり進んでいた。
しかし、まだ午後の巡回時間には程遠い。私は寝返りをうつと、部屋の片隅に置かれた図鑑を手にして、寝そべったままパラパラと頁をめくる。
先週図書館で借りた植物図鑑。巡回の最中に見かける草花の種類と名前が気になって借りた本だ。
緑多い夏の田舎支部。諸咲もその例にもれず、支部内では様々な植物が夏の日差しを目いっぱいに浴びながら、生を唄い勢を誇っていた。
本部で見たこともある植物もあれば、初めて見た植物も多かったこの夏。自分が雑草の名前を付けられたからであろうか、候補生時代は全く興味のなかった路傍の花影青草に、今の私は興味を持って接している。
諸咲支部に来てから、心にゆとりが出てきたのだろう。監視と警戒以外の、純粋な目で周囲を見ることができるようになったのだろう。私はこれまでの巡回で見た花や緑を思い出しながら、ゆっくりと図鑑を眺める。
一頁一頁、楽しみながら静かに目を通す。見たことのある植物、見たことの無い植物、共に楽しみながら、写真を眺め、添付された文章を読み進める。
返却期限は来週末、それまでゆっくり読もう、大事に読もう。
そっと頁をめくり続ける私、その指が、止まる。
意識より前に、体が反応した。
寝そべっていた体が、水揚げされたばかりのエビのように大きく跳ね上がる。空中に浮いた状態で、壁にかけたサッシェルバッグからグロック36を抜くと、初弾を装填しながら一回転、居間の隅に着地する。
伏せた体勢から戦闘態勢へ即座に移行。サードリコリスとは思えないほど素早い動きに、自分自身が驚いた。クルマエビのモノマネ、役に立った!
居間とキッチンの間仕切りのために備え付けられた、障子風の引き戸は今は開けっぱなしだ。私は拳銃を構えると、居間の隅から台所の先に続く玄関を覗きながら、壁に側頭部を付ける。
かつて芳野大岑山の修行僧が生み出した聴音術、観捫泰。頭部に伝わる振動で音を探るこの秘術に、特殊な聴音訓練を受けた本部卒リコリスの聴覚を加えれば、このアパート近辺で起きた事柄程度ならば、音によって、目で見るのと同じくらい精密に把握できる。
音で、周囲を探る。周囲を、音で確認する。
私が跳ね起きた理由、それはアパートの目の前に停まった、一台の自動車の音だった。
リコリスが暮らす住み家に、外部の人間が訪れることはない。飛び込みのセールス、チラシ投函のアルバイトすら、私たちが住む部屋の玄関の前に立つことはないのだ。どのような伝手で私たちのことを知ったのか、どの程度まで私たちのことを知っているのか、それはわからない。しかし、すべての訪問業者たちは、リコリスの棲み処には近寄らない、恐れているかのように近づかない。
大家さんの関係者でもない。大家さんへの来客は、たいていは近くに住む息子夫婦の家に訪れる。アパートに直接来るお客さんもいるにはいるが、自動車で乗り付けてくる人はいない。
車から降りてくる足音を、壁から伝わる振動で聞く。階段を上る足音を、床から響く振動で聞く。
これまでの記憶にない足音。検針員や大家さんの知り合いではない。もちろんDAの関係者でもない。
足音は二人。どちらも20代の男性。中肉中背の健康体、靴は既製品のビジネスシューズ。
軍隊経験、武術経験のない、一般人の歩行。周囲を警戒している気配のない、緩い歩き方。敵意は無いようだ。
しかし、一般人とはいえ、油断はできない。悪党どもに騙され、何も知らされないまま贈り物に偽装した爆発物を運んできた一般市民というケースもありえるのだ。敵意の有る無しだけでは、危険人物かの判断はできない。
2階通路に上がり、私の部屋の前に立つ二人の男。扉越しの銃撃や爆発に備え、私は居間の隅に身を隠す。
下宿のドアには、拳銃弾程度なら防げる特殊なフィルムが内側から貼られているが、扉の前に立つ男二人がどのような攻撃手段を有しているかわからない以上、細心の注意を払わなければならない。
部屋の空気が、私の緊張を感じ取ったのか固く引き締まる。部屋の外にいる二人の男も、緊張しているのかしばらく動かない。扉を挟み、中と外。どちらの空気も冷たく強張っていくのがわかる。
やがて、玄関扉の裏側に設置された新聞受けの函が、小さく鳴る。軽く乾いた、小さな音。男の一人が、何か小さな紙片のようなものを投函したようだ。
緊張が抜け落ちたのだろう、外の二人が、大きく息を吐く音が聞こえる。扉を離れ、階段を下りていく音が後に続く。
二人が階段を下りたのを確認すると、私は音を立てずに玄関に移動し、扉の新聞受けの前で片膝を付く。
男二人がドアポストに投函したもの。新聞受けを開ける前から、私はそれが何なのかはわかっていた。
同じものがこれまで何度か投函されていたから、音でわかっていた。新聞受けの底に落ちる、軽く小さな音。軽くて小さな厚紙が、落ちる音。
これまで様々な人たちが投函していた音、すっかり覚えてしまったその音。何が投げ入れられたのかは、確認するまでもなく、音だけでわかった。
確認したいのは、色だ。
赤か青か、それを確認するため、私は新聞受けの取っ手に指をかける。
ドアポストに入れられたのは、諸咲紅座の千社札。
諸咲に暮らす人々と私たちが、お互いに協力を要請する時に使用する、小さな千社札。
この千社札には、赤札と青札がある。
赤札は重大な事件への対処要請。青札は地域の治安関係のお願い。
今回投函された千社札。色は、何色だろうか。赤だろうか、青だろうか。
しばしの躊躇ののち、私は意を決し、新聞受けの蓋を開ける。
私の目に映ったのは、赤い色だった。