ヒソカは過去を語らない   作:マネ

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リーノ vs アシュラ⑤決着

 避難は進んでいるけれど、まだ観客が残っていた。

 

 崩れた床材の破片がリングのあちこちに散り、ひび割れた会場の奥で、スピーカーのノイズだけが細く鳴っている。

 

 残っているのは、リーノとアシュラ、そして審判だけだった。

 

 審判がダウンをカウントしている。

 

「ワン……ツー……スリー……」

 

 アシュラは、まだ倒れていた。

 

 目は見えない。音も聞こえない。感覚強化の代償で五感を焼かれ、肋骨は砕け、喉の奥から血がせり上がるような状態。それでもアシュラは本能だけで『円』を張り、そこに触れた存在を探るように、死人めいた足取りでなおも起き上がろうとしていた。

 

「……リーノ」

 

 低い声だった。

 

「……リーノ」

 

 もう一度。

 

 呼んでいるのか、確かめているのか、わからない。

 

 膝が、わずかに揺れる。

 

「……リーノ、リーノ……」

 

 アシュラの呼吸が、少しずつ整っていく。

 

「……リーノ」

 

 声が、ほんの少しだけ強くなる。

 

 歯を食いしばる音が、息の隙間から漏れた。

 

 肩が上がる。

 

 肋骨の奥で、ひび割れたものを無理やり押し起こすみたいに、アシュラの身体がゆっくりと持ち上がっていく。

 

「……リーノ」

 

 呼びかけは、まだ叫びじゃない。

 

 それでも、アシュラは膝を伸ばす。

 

 ふらついている。

 だが、倒れない。

 

 アシュラの顔は、まっすぐリーノのいるほうを向いた。

 

「ファイト!」

 

 審判の声が落ちる。

 

 その一言で、張りつめていた空気が、ほんのわずかに静まった。

 

 アシュラは、すぐには動かなかった。

 ただ呼吸だけを整える。

 

 何かを言いたげな、そんな間だった。

 

「今のキサマのオーラ量では、オレの『堅』は貫けない」

 

 静かな声だった。

 低いのに、妙に張っている。

 

 アシュラの左拳に、残ったオーラが集まっていく。

 

 黒い炎が、ゆっくりと揺らめきはじめた。

 

 天照の炎すら焼き尽くす形態変化――『炎遁加具土命』。

 

「キサマの負けだ、リーノ」

 

 事実、その通りだった。

 

 戦術でどれだけハメようと、リーノの肉体にはもう、あの黒炎を突破するだけの絶対的な「出力(パワー)」は残されていない。アシュラはただ安全圏に引きこもり、強固な防壁の裏からカウンターを合わせるだけで勝てる。

 

 そう言い切ったアシュラの言葉を、リーノは黙って受け止めた。受け止めて、不敵な笑みを浮かべる。

 

「試合中だぞ? ずいぶんとおしゃべりだな、アシュラ」

 

 アシュラの頬が、わずかに強張る。

 

「そんなに俺が怖いか?」

 

 言ってから、リーノはアシュラの表情の変化を冷徹に注視する。

 

 安全な場所からただカウンターを狙うだけのそんなアシュラの戦い方に、本当に『強者』としての価値はあるのか。アシュラの表情が、わずかに歪んだ。

 

「……オレは事実を言ったまでだ」

 

 アシュラの語気は強い。

 

 リーノは、それを見逃さなかった。

 

「キサマの、水龍『リヴァイアサン』だったか?」

 

 アシュラが、口元だけ、冷たく笑う。

 

「その『発』は致命的な欠陥能力だろ?」

 

「どういう意味?」

 

 リーノは表情を崩さず、真っ正面から受けて立つ。

 

「こんなシチュエーションじゃなきゃ使えない。周囲に大量の水源が存在しなければ成立すらしない。周囲どころか、頭上にないと使えない。敵が動けない状況じゃないと使えない。使いどころが限られすぎている不完全な能力だ」

 

 アシュラの辛辣な指摘に、リーノはあえて下を向いて不敵な笑みを浮かべてみせた。

 

「物理の原理では不可能なことができる。それが念能力の醍醐味だろ? いくらでも応用はできる」

 

 応用なんて、これっぽっちも思いついてないけどな。

 

 てか、思いつきの能力だし。

 

 手で掴めないものを掴む能力。

 

 ただ、それだけの能力。

 

 言葉にすると、本当にくだらない雑魚能力だな。

 

 ギフテッドの伊右衛門とはえらい違いだ。

 

 心の中で冷汗を流しながらも、リーノはハッタリの笑みを崩さない。リーノのハッタリに、アシュラは沈黙する。

 

「……」

 

「お前の炎こそ、随分とコストパフォーマンスが悪いだろ? 変化系でわざわざ莫大なオーラを消費して火を生み出すくらいなら、本物の炎を操作系で操ったほうがよっぽどコスパがいい」

 

 アシュラは返さない。一拍、リーノの言葉の合理性を頭の中で飲み込んでいるのだろうか?

 

 自分の「安全な鎧(炎)」の根底にある歪みを突かれ、アシュラのオーラの揺らぎが僅かに乱れる。

 

 リーノは、その一瞬の沈黙を冷徹に見つめながら、アシュラの精神を決定的に崩すための、次なる言葉を探した。

 

「アシュラ、お前の言葉の裏側にあるのは、俺への『恐怖』だ」

 

 言葉は静かだった。静かなまま、確実にアシュラの誇りの急所へと刺さる言葉を、リーノは冷徹に選別して放つ。

 

 ――俺の勝ち筋は、もうこの心理戦(ハメ)の領域にしかない。

 

 アシュラの口元が、微かに歪むように動いた。

 

「……黙れ!」

 

 短い否定だった。だが、短い分だけ、アシュラの防壁に明確な『遅れ』が生じた。

 

 リーノは、そのアシュラの否定の遅れに、心の中で小さく息をつく。

 

 行ける。まだ、崩せる――!

 

 決めるなら、今しかない。

 

 リーノは真正面から突っ込んだ。一切、速度を緩めない。止まれば終わる。迷っても終わる。

 

 アシュラの左手の黒炎が、死神の鎌のように唸りを上げた。

 

 リーノは果敢に『感謝の正拳突き』の型を撃ち込む。

 

 リーノの右腕と、アシュラの左腕が――。

 

 ――激突。

 

 次の瞬間、鼓膜を震わせる轟音とともに、リーノの右腕が根元から吹き飛んだ。

 

 焼き千切られたのだ。

 

 当然だった。衝突のその瞬間、リーノの拳には、アシュラの黒炎を受け止めるだけのオーラが一欠片も残されていなかった。

 

 完全なる『絶(ぜつ)』――。

 

 アシュラの気配が、完全な勝ちを確信したように、ほんのわずかに揺らぐ。

 

 その一瞬こそが、リーノの狙いだった。

 

 リーノは、自らの右腕そのものを「最大の囮」にしたのだ。

 

 肉体に残されていた、ほんのわずかなオーラ。そのすべてを、衝突のコンマ数秒前、右腕から右足へと一気に集約させた。

 

 それは通常のオーラ攻防力移動(流)ではない。放出系を絡めた、オーラ攻防力の極みをも超越する「オーラの瞬間移動(転送)」。

 

 積み重ねた念の奥義の、さらにその先にある未知の領域。

 

 黒炎の死角から、リーノの最後の一撃が爆ぜた。

 

「――感謝の一蹴(アースウイングキック)!!!」

 

 凄まじい質量を伴った衝撃が、無防備なアシュラの胴を完全に打ち抜く。

 

 骨が破滅的な音を立てて軋み、肉がひしゃげた。アシュラの身体は弾丸のような速度でリングへと叩きつけられ、激しくバウンドする。

 

 ――今度こそ、沈め……!

 

 避難していた観客たちの足が止まる。

 

 会場に、深い静寂が落ちた。

 

 ひび割れ、崩壊した会場に響くのは、スピーカーから漏れる審判の無機質な声だけだった。

 

「ダウン! カウント! ワン……ツー……」

 

 リーノの右肩の断面から、血はほとんど流れていない。

 

 枯渇寸前のオーラの、そのすべてを、傷口の止血と凝固だけに回しているからだ。

 

 もう、指一本動かせない。

 

 ただ二本足で立っているだけで、すでに限界をとうに超えていた。

 

「……スリー……フォー……」

 

 立つな。

 

 立つな。

 

 立つな。

 

 そのまま、永遠に沈んでいろ……!

 

 心の中で、呪詛のようにそう繰り返す。もはや祈ることしか、リーノには残されていなかった。

 

 右腕は失われ、全身は焼けただれ、骨は砕け、感覚すらも曖昧になっていく。オーラも体力も、とっくに底を突いていた。この場に直立していること自体が、奇跡以外の何物でもない。

 

 それでも、勝利は、すぐ目の前にある。

 

 審判が刻むカウントが、鼓膜の奥でやけに遠く響く。

 

「――シックス」

 

 遅せェ。……遅せェんだよ……!

 

 時間の感覚が狂っている。こんなに長いはずがない。

 

「――セブン」

 

 早く終われって、頼むから……!!

 

「――エイト」

 

 ――そのとき、アシュラの指先が、ぴくりと不気味に動いた。

 

 脳髄に、ぞっとするような悪寒が走る。

 

 立つな。

 

 そのまま、沈んでろ――。

 

 次の瞬間には、もうわかっていた。アシュラはただ、肉体の本能だけで起き上がろうとしているのではない。まだこの戦いは終わっていないと、魂の底から確信している者の気配だった。

 

 折れていない。潰れていない。ここで終わるつもりなど、アシュラにはさらさらないのだ。

 

「――ナイン」

 

 アシュラが、ゆっくりと顔を上げる。

 

 血に濡れた凄惨な貌(かお)の奥で、その目だけが――いや、目ではない。五感のほとんどを焼かれてなお、一欠片も失われていない強靭な闘志だけが、まっすぐにリーノの存在を捉えていた。

 

 リーノもまた、そのアシュラの円の視線を真っ正面からにらみ返した。

 

 来るな。

 

 立つな。

 

 ――ここで、終われって……ッ!

 

 もう一歩も動かせない肉体のかわりに、魂に残ったすべてをその視線に叩き込む。気迫の質量だけで相手を押し返そうとする。立ち上がらせまいと抗う。

 

 だが、アシュラはそのすべてを真っ向から受け止めた。

 

 受け止めて、なおも平然と、自身の膝を伸ばした。

 

 ぐらりと大きく揺れながら。それでも、怪物は倒れない。

 

 リーノを見つめるその顔は、もう、さっきまでとは決定的に違っていた。

 

 小賢しい前座をねじ伏せるための顔ではなかった。

 

 器の小さな格下を蔑んで見下ろす顔でもなかった。

 

 ――真正面から、自分と同じ地平(土俵)に立つ、対等の好敵手(ライバル)を見る顔だった。

 

 その厳然たる事実が、何よりも先に、リーノの胸を深く抉った。

 

 ――負けた。

 

 本能の領域で、そう悟った。

 

 アシュラは立ったのだ。

 

 俺は、この怪物を倒しきれなかった。

 

 右腕という最大の代償を支払い、奥義の先へと踏み込んでも、まだ届かなかった。どんな工夫も、どんな不意打ちも、持てるカードのすべてを注ぎ込んだ。それでも、この世界の、本物の天才の壁を越えられなかった。

 

 悔しい、な……。

 

 胸の奥から湧き上がったその痛切な想いが、リーノにとっての最後の思考だった。

 

「――ファイト!」

 

 審判の鋭い声が、ひび割れた会場に冷酷に響き渡る。

 

 リーノの身体がふらついた。

 

 意思とは無関係に、足が勝手に前へと出る。いや、前に出ることしか、もはやできなかった。ここで足を止めてしまえば、本当に自分のすべてが終わってしまう気がしたからだ。

 

 アシュラへ向かって、歩を進める。

 

 一歩。

 

 また、一歩。

 

 床がひどく遠い。身体が鉛のように重い。視界が激しく明滅し、揺れる。

 

 それでも、残された左腕を最後の力を振り絞って持ち上げた。

 

 渾身の、左ストレート。

 

 そのはずだった。

 

 けれど、放たれた拳は、アシュラの頑強な胸へと、こつんと力なく触れただけだった。

 

 何の手応えも、衝撃もない。

 

 その接触を境界にして、リーノの肉体から完全に、全ての力が切れた。

 

 リーノの身体が、前へと倒れ込む。

 

 アシュラの胸へと、吸い込まれるように沈んでいく。

 

 だが――アシュラは、その身体を避けなかった。

 

 拒絶することなく、そのまま、無言で受け止めた。

 

 崩れ落ちていくリーノの重みを、盲目の怪物は、黙ってその胸で支え続ける。

 

 その、ひどく温かい生身の感触を最後に、リーノの意識は深い暗闇の底へと沈んでいった。

 

「――ストップ! そこまで! 試合終了ォッ!!」

 

 死闘の終了を告げる審判の宣告だけが、静まりかえった会場に、虚しく、しかし確かに響き渡っていた。

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