避難は進んでいるけれど、まだ観客が残っていた。
崩れた床材の破片がリングのあちこちに散り、ひび割れた会場の奥で、スピーカーのノイズだけが細く鳴っている。
残っているのは、リーノとアシュラ、そして審判だけだった。
審判がダウンをカウントしている。
「ワン……ツー……スリー……」
アシュラは、まだ倒れていた。
目は見えない。音も聞こえない。感覚強化の代償で五感を焼かれ、肋骨は砕け、喉の奥から血がせり上がるような状態。それでもアシュラは本能だけで『円』を張り、そこに触れた存在を探るように、死人めいた足取りでなおも起き上がろうとしていた。
「……リーノ」
低い声だった。
「……リーノ」
もう一度。
呼んでいるのか、確かめているのか、わからない。
膝が、わずかに揺れる。
「……リーノ、リーノ……」
アシュラの呼吸が、少しずつ整っていく。
「……リーノ」
声が、ほんの少しだけ強くなる。
歯を食いしばる音が、息の隙間から漏れた。
肩が上がる。
肋骨の奥で、ひび割れたものを無理やり押し起こすみたいに、アシュラの身体がゆっくりと持ち上がっていく。
「……リーノ」
呼びかけは、まだ叫びじゃない。
それでも、アシュラは膝を伸ばす。
ふらついている。
だが、倒れない。
アシュラの顔は、まっすぐリーノのいるほうを向いた。
「ファイト!」
審判の声が落ちる。
その一言で、張りつめていた空気が、ほんのわずかに静まった。
アシュラは、すぐには動かなかった。
ただ呼吸だけを整える。
何かを言いたげな、そんな間だった。
「今のキサマのオーラ量では、オレの『堅』は貫けない」
静かな声だった。
低いのに、妙に張っている。
アシュラの左拳に、残ったオーラが集まっていく。
黒い炎が、ゆっくりと揺らめきはじめた。
天照の炎すら焼き尽くす形態変化――『炎遁加具土命』。
「キサマの負けだ、リーノ」
事実、その通りだった。
戦術でどれだけハメようと、リーノの肉体にはもう、あの黒炎を突破するだけの絶対的な「出力(パワー)」は残されていない。アシュラはただ安全圏に引きこもり、強固な防壁の裏からカウンターを合わせるだけで勝てる。
そう言い切ったアシュラの言葉を、リーノは黙って受け止めた。受け止めて、不敵な笑みを浮かべる。
「試合中だぞ? ずいぶんとおしゃべりだな、アシュラ」
アシュラの頬が、わずかに強張る。
「そんなに俺が怖いか?」
言ってから、リーノはアシュラの表情の変化を冷徹に注視する。
安全な場所からただカウンターを狙うだけのそんなアシュラの戦い方に、本当に『強者』としての価値はあるのか。アシュラの表情が、わずかに歪んだ。
「……オレは事実を言ったまでだ」
アシュラの語気は強い。
リーノは、それを見逃さなかった。
「キサマの、水龍『リヴァイアサン』だったか?」
アシュラが、口元だけ、冷たく笑う。
「その『発』は致命的な欠陥能力だろ?」
「どういう意味?」
リーノは表情を崩さず、真っ正面から受けて立つ。
「こんなシチュエーションじゃなきゃ使えない。周囲に大量の水源が存在しなければ成立すらしない。周囲どころか、頭上にないと使えない。敵が動けない状況じゃないと使えない。使いどころが限られすぎている不完全な能力だ」
アシュラの辛辣な指摘に、リーノはあえて下を向いて不敵な笑みを浮かべてみせた。
「物理の原理では不可能なことができる。それが念能力の醍醐味だろ? いくらでも応用はできる」
応用なんて、これっぽっちも思いついてないけどな。
てか、思いつきの能力だし。
手で掴めないものを掴む能力。
ただ、それだけの能力。
言葉にすると、本当にくだらない雑魚能力だな。
ギフテッドの伊右衛門とはえらい違いだ。
心の中で冷汗を流しながらも、リーノはハッタリの笑みを崩さない。リーノのハッタリに、アシュラは沈黙する。
「……」
「お前の炎こそ、随分とコストパフォーマンスが悪いだろ? 変化系でわざわざ莫大なオーラを消費して火を生み出すくらいなら、本物の炎を操作系で操ったほうがよっぽどコスパがいい」
アシュラは返さない。一拍、リーノの言葉の合理性を頭の中で飲み込んでいるのだろうか?
自分の「安全な鎧(炎)」の根底にある歪みを突かれ、アシュラのオーラの揺らぎが僅かに乱れる。
リーノは、その一瞬の沈黙を冷徹に見つめながら、アシュラの精神を決定的に崩すための、次なる言葉を探した。
「アシュラ、お前の言葉の裏側にあるのは、俺への『恐怖』だ」
言葉は静かだった。静かなまま、確実にアシュラの誇りの急所へと刺さる言葉を、リーノは冷徹に選別して放つ。
――俺の勝ち筋は、もうこの心理戦(ハメ)の領域にしかない。
アシュラの口元が、微かに歪むように動いた。
「……黙れ!」
短い否定だった。だが、短い分だけ、アシュラの防壁に明確な『遅れ』が生じた。
リーノは、そのアシュラの否定の遅れに、心の中で小さく息をつく。
行ける。まだ、崩せる――!
決めるなら、今しかない。
リーノは真正面から突っ込んだ。一切、速度を緩めない。止まれば終わる。迷っても終わる。
アシュラの左手の黒炎が、死神の鎌のように唸りを上げた。
リーノは果敢に『感謝の正拳突き』の型を撃ち込む。
リーノの右腕と、アシュラの左腕が――。
――激突。
次の瞬間、鼓膜を震わせる轟音とともに、リーノの右腕が根元から吹き飛んだ。
焼き千切られたのだ。
当然だった。衝突のその瞬間、リーノの拳には、アシュラの黒炎を受け止めるだけのオーラが一欠片も残されていなかった。
完全なる『絶(ぜつ)』――。
アシュラの気配が、完全な勝ちを確信したように、ほんのわずかに揺らぐ。
その一瞬こそが、リーノの狙いだった。
リーノは、自らの右腕そのものを「最大の囮」にしたのだ。
肉体に残されていた、ほんのわずかなオーラ。そのすべてを、衝突のコンマ数秒前、右腕から右足へと一気に集約させた。
それは通常のオーラ攻防力移動(流)ではない。放出系を絡めた、オーラ攻防力の極みをも超越する「オーラの瞬間移動(転送)」。
積み重ねた念の奥義の、さらにその先にある未知の領域。
黒炎の死角から、リーノの最後の一撃が爆ぜた。
「――感謝の一蹴(アースウイングキック)!!!」
凄まじい質量を伴った衝撃が、無防備なアシュラの胴を完全に打ち抜く。
骨が破滅的な音を立てて軋み、肉がひしゃげた。アシュラの身体は弾丸のような速度でリングへと叩きつけられ、激しくバウンドする。
――今度こそ、沈め……!
避難していた観客たちの足が止まる。
会場に、深い静寂が落ちた。
ひび割れ、崩壊した会場に響くのは、スピーカーから漏れる審判の無機質な声だけだった。
「ダウン! カウント! ワン……ツー……」
リーノの右肩の断面から、血はほとんど流れていない。
枯渇寸前のオーラの、そのすべてを、傷口の止血と凝固だけに回しているからだ。
もう、指一本動かせない。
ただ二本足で立っているだけで、すでに限界をとうに超えていた。
「……スリー……フォー……」
立つな。
立つな。
立つな。
そのまま、永遠に沈んでいろ……!
心の中で、呪詛のようにそう繰り返す。もはや祈ることしか、リーノには残されていなかった。
右腕は失われ、全身は焼けただれ、骨は砕け、感覚すらも曖昧になっていく。オーラも体力も、とっくに底を突いていた。この場に直立していること自体が、奇跡以外の何物でもない。
それでも、勝利は、すぐ目の前にある。
審判が刻むカウントが、鼓膜の奥でやけに遠く響く。
「――シックス」
遅せェ。……遅せェんだよ……!
時間の感覚が狂っている。こんなに長いはずがない。
「――セブン」
早く終われって、頼むから……!!
「――エイト」
――そのとき、アシュラの指先が、ぴくりと不気味に動いた。
脳髄に、ぞっとするような悪寒が走る。
立つな。
そのまま、沈んでろ――。
次の瞬間には、もうわかっていた。アシュラはただ、肉体の本能だけで起き上がろうとしているのではない。まだこの戦いは終わっていないと、魂の底から確信している者の気配だった。
折れていない。潰れていない。ここで終わるつもりなど、アシュラにはさらさらないのだ。
「――ナイン」
アシュラが、ゆっくりと顔を上げる。
血に濡れた凄惨な貌(かお)の奥で、その目だけが――いや、目ではない。五感のほとんどを焼かれてなお、一欠片も失われていない強靭な闘志だけが、まっすぐにリーノの存在を捉えていた。
リーノもまた、そのアシュラの円の視線を真っ正面からにらみ返した。
来るな。
立つな。
――ここで、終われって……ッ!
もう一歩も動かせない肉体のかわりに、魂に残ったすべてをその視線に叩き込む。気迫の質量だけで相手を押し返そうとする。立ち上がらせまいと抗う。
だが、アシュラはそのすべてを真っ向から受け止めた。
受け止めて、なおも平然と、自身の膝を伸ばした。
ぐらりと大きく揺れながら。それでも、怪物は倒れない。
リーノを見つめるその顔は、もう、さっきまでとは決定的に違っていた。
小賢しい前座をねじ伏せるための顔ではなかった。
器の小さな格下を蔑んで見下ろす顔でもなかった。
――真正面から、自分と同じ地平(土俵)に立つ、対等の好敵手(ライバル)を見る顔だった。
その厳然たる事実が、何よりも先に、リーノの胸を深く抉った。
――負けた。
本能の領域で、そう悟った。
アシュラは立ったのだ。
俺は、この怪物を倒しきれなかった。
右腕という最大の代償を支払い、奥義の先へと踏み込んでも、まだ届かなかった。どんな工夫も、どんな不意打ちも、持てるカードのすべてを注ぎ込んだ。それでも、この世界の、本物の天才の壁を越えられなかった。
悔しい、な……。
胸の奥から湧き上がったその痛切な想いが、リーノにとっての最後の思考だった。
「――ファイト!」
審判の鋭い声が、ひび割れた会場に冷酷に響き渡る。
リーノの身体がふらついた。
意思とは無関係に、足が勝手に前へと出る。いや、前に出ることしか、もはやできなかった。ここで足を止めてしまえば、本当に自分のすべてが終わってしまう気がしたからだ。
アシュラへ向かって、歩を進める。
一歩。
また、一歩。
床がひどく遠い。身体が鉛のように重い。視界が激しく明滅し、揺れる。
それでも、残された左腕を最後の力を振り絞って持ち上げた。
渾身の、左ストレート。
そのはずだった。
けれど、放たれた拳は、アシュラの頑強な胸へと、こつんと力なく触れただけだった。
何の手応えも、衝撃もない。
その接触を境界にして、リーノの肉体から完全に、全ての力が切れた。
リーノの身体が、前へと倒れ込む。
アシュラの胸へと、吸い込まれるように沈んでいく。
だが――アシュラは、その身体を避けなかった。
拒絶することなく、そのまま、無言で受け止めた。
崩れ落ちていくリーノの重みを、盲目の怪物は、黙ってその胸で支え続ける。
その、ひどく温かい生身の感触を最後に、リーノの意識は深い暗闇の底へと沈んでいった。
「――ストップ! そこまで! 試合終了ォッ!!」
死闘の終了を告げる審判の宣告だけが、静まりかえった会場に、虚しく、しかし確かに響き渡っていた。