かねてよりお付き合いをしていた方と、結婚することになった。
お湯を沸かす電気ケトルの音だけが、昼休みのトレーナー室に木霊していた。
軽くすすいだお弁当箱を片付けた私は、ケトルの仕事が終わるタイミングを耳のみで窺いつつ、手元に置いたものをぼんやりと眺めていた。薔薇柄の封蝋で閉じた、純白の質感の良い封筒が一通、私のデスクに置かれている。ここ数日、ずっとバッグの中へ忍ばせている物だ。
恐る恐る手に取った封筒は、確かな重さを持っている。指先にその存在を感じつつ、透かし見るようにトレーナー室の風景へ封筒を重ねた。カーテン越しに柔らかな陽射しが差し込んでいるとはいえ、当然透けて見えるはずもない。ただ……室内の一部を覆い隠した真っ白な封筒を、まるで映画のスクリーンのようにして、そこへ懐かしい光景を思い描くことはできた。
まだ真新しかったソファへ腰掛け、艶やかな黒鹿毛と気品高い深紅のリボンを揺らす少女の姿を、思い出していた。
その時、お湯が沸いたことを電気ケトルが報せた。少し遠くへ足を伸ばしていた意識を目の前に引き戻し、思い出を映した封筒のスクリーンをデスクに置いて、ゆっくりと席を立つ。すでに準備をしていたティーポットへ、適温に調整したお湯を注ぎ入れ、茶葉を躍らせた。おいしいお茶の淹れ方も、気づけば身に染みついたものになっている。ある程度無意識でも体が動いてくれるのは、新人だった頃に必死で叩き込んだからだろうか。
一輪の薔薇が咲くカップへ紅茶を注ぎ入れる。あたりをゆるるかに満たす芳醇な香りへ、思わずほうっと息を吐いた。
カップを携えてデスクへ戻り、昼食後のティータイムに頬を緩める。淹れた紅茶は、このところ気に入っているカフェのオリジナルブレンドだ。ほのかに甘やかな香りが感じられる……ような気がする。温かな湯気に包まれつつ喉を潤した私は、改めて先程の封筒に触れた。指の腹にざらざらとした感触が伝わる。
と、部屋の入口から軽やかなノックが聞こえてきた。どうぞ、と答えると、すぐに引き戸が開かれる。律儀に頭を下げてトレーナー室に入って来たのは、栗毛に眼鏡のウマ娘。チームリーダーも務めてくれている、私の担当ウマ娘だ。
「こんにちは。――まだ、昼食中でしたか?」
「こんにちは。――いいえ、もう食べ終えたから、気にしないで」
彼女の質問に首を振りつつ、もう一人分紅茶を淹れるべく腰を浮かしかける。けれどいつも通りに、彼女は「自分でやりますから」と遠慮した。妹さんによく淹れているという彼女は、慣れた手つきで紅茶の準備を進めていく。今一度自席に落ち着いた私は、揺れる制服のリボンを見つめながら、再度自分のカップに口づけた。
ポットへ静かにお湯を注ぐ背中が、私へ話しかける。
「招待状、まだ出してなかったんですね」
何気ない風に投げかけられた言葉が、私の息を詰まらせた。喉の奥から声にならない呻きが漏れて、私は何とも形容しがたい心持ちのままそれを肯定する。それを知ってか知らずか、彼女はチラリとだけこちらに目線を寄越した後は、紅茶を淹れることに集中していた。
担当ウマ娘の背中から、自身のデスクへ目線を落とす。変わらずそこへ鎮座する白い封筒の、その中身は結婚式の招待状だった。表の宛名に記入したのは「ダイイチルビー」というウマ娘の名前。私が初めて担当したウマ娘だ。
「華麗なる一族」のご令嬢――正真正銘の深窓の令嬢である彼女は、もう数年前にはレースを引退して、学園を卒業している。今はご実家の家業を手伝って、忙しい日々を過ごしているそうだ。
初めての担当ウマ娘というのは、どんなトレーナーにとっても特別な存在で、引退・卒業後も大なり小なり交流を続けていることが多い。それこそ、結婚式へ招待した、という話も珍しくはなかった。昨年結婚した先輩なんて、スピーチまで任せていた。
私とルビーも、辛うじてお互いの連絡先は知っている。けれど、頻繁にやり取りがある訳ではない。せいぜいが年に数回というところだ。引退してから顔を合わせたのも二回だけ。親交がある、と言えるほどではないように思えた。縁の糸は繋がっているけれど、それは他のトレーナーほど確かなものではなく、手繰って引き寄せるには心許ない。
だからという訳ではないけれど。私はルビーへ招待状を出すことに、躊躇いを感じている。
淹れた紅茶と共にソファへ腰掛けた彼女が、一度唇を湿らしてから口を開いた。
「期日も、それほど遠くありませんよね。ルビー先輩もお忙しいでしょうし、早く出した方がいいんじゃないですか?」
「……ええ。そう、なのだけれど」
彼女の言葉に目を伏して、また曖昧な返答をする。しばらく言葉を探していた。けれど適切な言葉が見つからず、私は結局口を紡ぐ。曖昧な感情を上手に吐き出せるほど、私の唇は器用ではない。
躊躇ってしまう理由は色々ある。忙しいルビーの迷惑になるのでは、というのが一番大きいように思えた。けれどそれだけが理由でないことも自覚がある。
目の前の招待状を、今一度指先で撫ぜる。そんな私を、眼鏡の奥の瞳が不思議そうに見つめていた。
「……いつも意外で堪らないのですが」
紅茶を置いた彼女に耳を傾ける。ぴょこりと跳ねたウマ耳に合わせて、右耳の髪飾りが揺れていた。
「ルビー先輩のことになると、トレーナーは随分弱気ですよね」
率直な感想が胸に突き刺さる。返す言葉はない。ただ、そんな私を「意外」と評した彼女の意見が、私にとっては余程意外だった。
「……意外、かな」
「はい」
私の問いかけに対する返事は早い。はっきりと頷いた彼女は、手の内のカップを一口すすって、さらに言葉を続けた。
「私の知っているトレーナーは、いつも背筋が伸びて堂々としていて。指示も助言も明確で的確で。慎重かつ時に大胆で。――しっかり者で頼りがいのある、年上のお姉さんという印象です」
淡々と、まるで事実のみを羅列するように述べ、彼女は私を見つめる。空色の瞳は淀みなく、ただ真っ直ぐに私を射抜いていた。彼女の心からの言葉なのだと、そう納得するのに十分な視線だった。
軽い息が漏れる。やはり、その率直な言葉を否定する理由はなかった。
「あなたがそう思ってくれるのだとしたら。それはきっと、ルビーのおかげね」
今となっては懐かしいことを――実際にはほんの数年前のことを思い出す。
何か特別な人間だったかと問われれば、決してそんなことはなかった。一部の華々しいトレーナーたち――それこそ、あのメジロラモーヌを担当した先輩のような人たちとは違って、その他大勢の中に埋もれてしまうような人間。特別な才もなく、人前に出るのが苦手で、引っ込み思案で、勉強ばかりしていた、どこにでもいるごく普通の人間。それが私だった。
今思えば、そんな私がルビーのトレーナー選考試験に手を上げるなど、随分身の丈に合わないことをしたものだ。もちろん、参加を表明した時点で、自分が選ばれるなんて自信はあまりなかった。そして試験が進むほどに、己の未熟さを思い知らされた。最後の方など、もう合格する自信は一切消え去り、ただ必死に食らいついて何かしら自分の糧にすることのみを考えていた。
だから……私宛に「合格」の通知を受け取った時、本当に驚いた。喜びも安堵も、そんなことを感じる余裕はどこにもなかった。どう考えても私では力不足だと、それだけはよくわかっていた。ダイイチルビーという輝かしいウマ娘に――その才能に、その精神に、その振る舞いに、私は全く相応しくなかった。
けれど、そんな私を教え導いてくれたのもまた、他ならぬルビーだった。
華麗であれ。至上であれ。常に最たる輝きを。目指すべき理想があるのならば、それに足る自分であらんとせよ。研鑽と精進を重ね、心のありようを正し、背筋を伸ばして堂々と。それがいずれ、自らを望む姿へと導くのだから。そう語ったルビー本人が、誰よりも
望む姿を想像するのは、とても簡単だった。「なりたい自分」を思い描くのは、どんなことより容易かった。何故ならそれはずっとずっと、選考試験を受けていた時から思っていたことだったからだ。
「――ダイイチルビーというウマ娘の、その隣へ立つのに相応しい私でありたい。そう思ってやって来たから、今の私がここにいる」
デスクに飾った薔薇柄の写真立て、そこへ収めた一枚の写真を見遣る。いつでも目に入るところに置いたそれは、ルビーのメイクデビュー時に撮ったものだ。数年前から変わらずそこにあって、私を見つめている。普段と変わらず凛とした佇まいのルビーと、写真でもわかるほどに緊張して立っている私。対照的な二人の姿の、そのどちらもが、今ここにいる私を映し見つめ直す鏡になっていた。
――「ダイイチルビーさん」
出会ったばかりの頃。名前を呼ぶたびに、ルビーがとても遠く、触れ難い存在に思えた。私なんかじゃ到底釣り合わない、月とすっぽんよりも隔てられた間柄に思えた。
でも、それではダメだとわかっていた。釣り合っていないなんて、そんなのルビーには何の責任も関わりもないことだ。
私がルビーに相応しくなるしかない、そう決意して、彼女と同じリボンで髪を結った。
――「ルビーさん」
まず身だしなみから、立ち居振る舞い、そして言葉遣い。レースの展開予想や駆け引き、トレーニング理論、スポーツ心理学。必死に学んで、懸命に実践して、失敗するたび申し訳なくて、また学んで。トレーナーとしても、一人の人間としても、ルビーの隣へ立つのに相応しくあろうとした。
その結果としての延長線上に、私が今ここにいる。
――「ルビー」
いつからか彼女をそう呼ぶようになった。いつだったのかはよく憶えていない。ただ、ルビーは特に指摘することもなく、ごく自然に受け入れてくれた。
思えば、あの時初めて、ルビーの隣に立てたような気がする。少なくともルビーは、それを許してくれていたと思う。そして結局、最後まで、その位置に私が収まることを良しとしてくれた。
――「貴女へ感謝と称賛を。――どうかこれからも、変わらず、研鑽なさいますよう」
引退と卒業の花束を携え、ルビーはそう言って私に頭を下げた。情けないことに、涙を堪えるのに必死で口のきけなかった私は、何度も力強く頷くことで誓いとした。
あの日の誓いを今でも胸に刻んでいる。……いいえ、あの日だけではない。ルビーと結んだ誓いは全部、今も私の胸に刻まれている。
だから私は今も自分に問いかける。デスクに置かれた写真を見つめる度、今の私がルビーに相応しいだろうか、と。
懐かしい写真をしばらく眺め、私はまた今の担当ウマ娘へ向き直る。あまり表情を変えない彼女は、珍しく微かに両目を細めた。
「トレーナーにとって、ルビー先輩は憧れなのですね」
「……憧れ、か」
「目標、と言い換えた方がしっくりくるでしょうか」
わざわざ言い直して、彼女は一人納得するように頷き、再び紅茶に口づける。
彼女の口にした「憧れ」という言葉を、私はゆっくりと咀嚼した。
「そう……かもしれないね」
小柄な背丈と、華奢な体つき、年相応の未熟さ。けれどそれらすべてを忘れさせるほどに、凛々しく、気高く、堂々として。そんなルビーを素敵だと思ったのは事実だ。ルビーのようになりたい、と思ったことも。
あの日々の憧れは今もまだ私の胸にあり、私の歩む道の標になっている。
飲み干した紅茶のカップをデスクの脇に避けて、置いたままの招待状を再び手に取った。光に透かして矯めつ眇めつしたそれを、丁寧に自分のバッグへ仕舞う。顔を上げると、眼鏡の奥の双眸と目が合った。
「今日、出してくるよ、招待状」
迷いはあるけれど、私を今の私になるまで導いてくれたルビーを、招かない訳にはいかない。出席の可否はどうであれ、言い尽くせないほどの恩義のある方へ、人生の区切りに招待を出さないというのは不義理だ。少なくとも、私の想い描くルビーに相応しい人は、そんなことはしない。
そうですか、と目の前の彼女は短く言って、またカップを傾ける。漂う香りと湯気をかき混ぜるように、耳の先がぴょこりとその場に円を描いた。
◇
トレーニング後のミーティングを終えたトレーナー室は、先程までの騒々しさが嘘のように静まり返っていた。担当ウマ娘たちはすでに部屋を辞し、各々の寮へと帰路についている。育ち盛りの少女たちは、空ききったお腹を満たすことにしか関心が向いていない様子だった。
一つ伸びをした私は、残った業務の前に一息入れようと、電気ケトルのスイッチを入れた。ポットとカップ、茶葉を取り出し並べて一つ息を吐く。すると、それまで考えないようにしていたことが、瞬時に頭の中を駆け巡った。当然それは、一昨日の晩に投函した、ルビー宛の招待状のことだ。
途中何も問題が起こらなければ、招待状は今日の朝にもルビーのもとへ届いただろう。忙しいルビーがいつ私の招待状を見てくれるかはわからないけれど、近日中――遅くとも一週間以内には返事があるはずだ。
……今更ここで気を揉んでも仕方がない。それをわかっているから、トレーニングや日常業務の間は、意図的に考えないようにしていた。幸い、仕事の忙しなさは、余計な思考を挟まないようにするのには好都合だった。けれど一度こうして息を吐いてしまうと、途端に押し込めていたものが表へと出てきてしまう。
招待状は無事届いただろうか。もうルビーは手に取ってくれただろうか。出席はしてくれるだろうか。予定の確認や調整が大変ではないだろうか。……迷惑にはなっていないだろうか。
詮無いこと、と頭を振って軽く頬を張る。ジンとした痛みに顔をしかめた私は、気を紛らわせようとスマホを取り出した。タップした画面にLANEのアイコンが映る。新着メッセージがあったことを報せる通知だった。
そのままLANEを開いた私は、ぼんやり眺めたホーム画面の一番上、最新のトークを確認して目を見開いた。あまり見慣れない、薔薇一輪のアイコンが咲いている。けれど、それが一体誰なのか、私にはすぐにわかった。
慌ててアイコンをタップし、トーク画面を開く。新着のメッセージは全部で三件。
『ご結婚おめでとうございます』
『また、式へお招きいただきありがとうございます。慶んで出席いたします』
『いただいたお葉書は返送いたしましたが、取り急ぎご連絡のみ』
まるで、仕事のメールでも送るみたいに、簡素で淡白で絵文字の一つもないメッセージ。あまりにも
次の瞬間には、私は通話のアイコンをタップしていた。コール音が鳴り始めてから、せめて確認のメッセージを送ればよかったと後悔する。けれど掛けてしまったものを今更取り下げるわけにもいかず、私は固唾を飲んでコール音を聞いていた。初恋の返事を待っている間のような、妙な高揚と緊張が体の中を渦巻いている。
四コール目の途中でコール音が途切れた。何も用意していなかった私は、唇を開いたもののすぐには言葉が出てこない。その間に、電話口の向こうで相手が口を開いた。
『はい、ダイイチルビーでございます』
涼やかな、まるで鈴でも鳴らすような音色の声が私の耳を打つ。ほとんど一年ぶりに耳にする、懐かしい声。たったそれだけでシャンと背筋が伸びるのを感じた。同時に妙な強張りが解けていく。ルビーから少し遅れて、私はようやく言葉を発した。
「こんばんは、ルビー。――急に電話をかけて、ごめんなさい」
『構いません。今は予定が入っておりませんから』
ルビーはいつも通りに抑揚のない声で答える。電話口の向こうからは微かに車のエンジン音が聞こえていた。多分、どこかへ移動する最中なのだろう。
あまり時間を取らせても申し訳ない。私はなんとか話題を見つけて、切り出した。
「LANE、読んだよ。わざわざ連絡してくれて、ありがとう。ルビーが式に来てくれて、嬉しい」
『こちらこそ、ご招待をいただき、ありがとう存じます。――ご結婚、おめでとうございます』
穏やかな声が私へ告げる。ルビーの言葉に、「ああ、私は結婚するんだ」という実感が改めて湧いた。いつも隣にある大切な人の笑顔が脳裏に浮かぶ。どうしようもなく温かい心地がして、折角引き締めていた表情がだらしなく緩んだ。
「ありがとう。――でも、無理させてないかな。ルビーは忙しいから、予定の調整も大変でしょう」
『お気遣い、痛み入ります。けれど、ご心配には及びません。
「……大事?」
『トレーナーさん……洋子さんのご結婚に勝る大事など、私にはございません』
聞こえた言葉に思わず目を見開く。言葉と息が詰まって、一瞬呼吸を忘れてしまった。
そんな私の様子を知ってか知らずか、ルビーはなおも静かに言葉を募らせる。
『私にとって特別な方の、晴れの日なのですから。寿ぐのは当然のことです』
ルビーはそこで言葉を切った。私はしばらく何も言えないまま、その意味を反芻する。
……トレーナーにとって、初めての担当ウマ娘というのは、特別な存在だ。私にとってのルビーがそうだった。決して比べることのできない、掛け替えのないウマ娘。私の心にずっと残り続ける、華麗なる黒鹿毛の美少女。
けれど、その反対は成り立たないと思っていた。ルビーの周りは、私とは比べるべくもない素晴らしい人たちで溢れている。ルビーと真正面から対等に話すことのできる、何かしらを極めた一流の人たち。そうした方々の中で、私がルビーの特別な存在になれるとは思えなかった。
けれどルビーは、私を特別だと、そう言ってくれた。
定型的な社交辞令かとも思った。けれど私の知るルビーは、そうしたものとは最も縁遠い存在だ。薄桃の唇は端的に事実と本心のみを述べ、それ以外については賢者の沈黙を選ぶ。嘘もお世辞も彼女は口にしなかった。
最も信じがたい事実を、けれど最も信じるに足る人が告げている。私としては、その言葉を信じない理由がなかった。
ルビーと共に過ごした時間は短かった。けれど決して薄くはなかったと、少なくとも私は思っている。その時間の間に、多くのものをルビーから受け取った。その内の少しでも彼女に返せたらと、そう思ってやって来た。
私は気づいていなかったけれど、私がそうであったように、私もルビーの中に何かを残せたのだと思う。ルビーが私を特別だと思ってくれる何か。それが一体どんなものだったのか、それは私にはわからない。ただ、とても光栄なことだと、そう思う。
「ありがとう、ルビー」
色々なものを噛み締めながら告げた言葉に、ルビーは短く「はい」と返事を寄越す。スマホの向こう側で、彼女が微かに笑う気配がした。
話はそれで終わりだった。そもそも、その場の勢いで電話を掛けてしまったから、特別な用件があったわけではない。元々ルビーとの電話は短く、必要最低限だ。多忙な彼女に時間を浪費する暇はない。私は電話を切り上げようと、名残惜しく口を開いた。
『――して、洋子さんのお相手は、どのような方なのでしょう』
「……え?」
今しも発しようとした私の言葉をルビーが遮る。予想もしなかった質問に目を瞬いた。声のトーンこそ変わらないが、明らかに気楽な雑談の内容に聞こえる。ティーブレイクの時間ならまだしも、電話口でルビーと雑談を交わした記憶は、私にはなかった。
私の反応をどう受け取ったのか、ルビーはまた微かに笑ってさらに言葉を続けた。
『私が結婚のご報告をした折、洋子さんも同じことをお尋ねになったではありませんか』
「そ、それは……興味があったから」
『では私も、興味があります』
ルビーに引き下がる様子はない。私は若干困りながら、途中からは恥じらいも覚えながら、ルビーの質問へ答えた。ルビーも同じようなことを感じていたのだろうかと、今更ながらに少し申し訳なく思う。そのルビーはというと、相槌を打ち、時折別の質問を挟みながら、どこか楽しそうに私の話を聞いていた。
――結局十分ほど、他愛もない雑談を続けていた。ルビーとの電話がここまで長くなったのは、初めてのことだった。
通話を終えたスマホの電源を落とした時、暗くなった画面へ映り込んだ私が、幸せを隠しきれずに笑っていた。
結婚式当日。ウェディングドレスでめかした私へ、ルビーは薔薇一輪の笑顔を見せてくれた。
ルビーにとって十分間の電話はデレ。