「……行ってきます」
午前十時すぎ、私はいつも通り誰もいない家を出る。今日もお天道様がぎらぎらと照り付けていた。サイズの少し大きいサンダルをパタパタと言わせながら少し歩くと、玉のような汗が次々と首筋を伝っていく。行く先の道路には陽炎が立ち昇り、近くの公園の街路樹からはジーッジーッとセミの声が絶え間なく聞こえる。容赦のない盛夏の暑さは、たとえ毎日のように浴びていても慣れない。大通りに差し掛かって、長めの信号待ち。その間に、たまらず手提げから水筒を取り出す。家を出たときには満タンだったのに、あっという間に三分の一ほどが無くなっていた。茹だるような暑さにうんざりしながら、ようやく図書館に辿り着く。閲覧席の一つを確保すると、手提げからタオルを出して汗を拭いた。クーラーの効いている館内はまさにオアシス。外にいたときはとめどなく滲みだしていた汗も、スーッと引いていく。
夏休みが始まって二週間ほど。この図書館が開いている日はほとんどここにいる。友達と一緒に遊びに行くこともないから、私の夏休みの予定は空白ばかり。かと言って家の中でゴロゴロしているのは暇だし、何より電気代が馬鹿にならない。図書館なら常にクーラーが効いているし、結構本を読むのは好きだし、ついでに夏休みの課題もできるし。そういうわけで、私は見事に図書館の主となっていた。
今日は何を読もうかな。夏休みの課題は最初の一週間ほどで終わってしまった。だから最近は、夕方四時頃に帰るまで本をひたすら読んでいる。文学や宗教、歴史にスポーツ……。本棚を行ったり来たりして、色んなジャンルの本を読んできた。昨日からは、ジャンルを生物に乗り換えている。特に、図鑑を端から端まで読むのにハマっていた。図鑑は、隅っこの注釈や補足までみっちり読めば時間がどんどん過ぎていくし、何より知らなかったことがどんどん入って来るから楽しい。時間を忘れてページを捲っていたら帰る時間になっていて、持ってきていたお弁当を食べ忘れたということもしばしばある。……そういえば、昨日読んでいた植物図鑑の最後のページの注釈をまだ読んでいなかったかも。私は軽い足取りで生物系の本が並んでいる本棚の列へ移動する。目当ての列の前に来ると、誰か立っていた。白の半袖シャツに、明るいベージュのハーフパンツを身に纏った銀鼠色の髪の女の子。彼女は、困り顔で本棚の前を行ったり来たりしている。何だか見覚えがあるような……。彼女がこちらに気づいて目が合う。そうだ、確かこの子は。
「高松さん。何か探してるの?」
「えっと、植物の図鑑を探してて……」
「んーとね、高松さんが今いる一個横の棚に並んでるよ」
「あ、ありがとう。
名前、覚えててくれたんだ。私はポツリと呟く。今まで話したことなんて片手で数えられるほどしかなかったから、覚えられているのが少し意外だった。高松さんは横の棚を上の方から見ていく。目当ての本は見つかったようで、嬉しそうに微笑んだ。……あ、私が今日読もうと思っていた図鑑だ。まぁいいか。私はどうせまた明日も明後日もここに来るし。
「教えてくれて、ありがとう」
高松さんはそう言って閲覧席の方に去っていく。その背中を見送りながら、今日は何を読もうかと考える。今日は、植物じゃなくて別の図鑑でも読もう。私はまた本棚をじっくり物色する。
私の取っていた席に戻ると、斜め前の席に高松さんがいた。高松さんは真剣な表情で図鑑のページを繰っている。私も席に着いて持ってきた本を広げる。今日は、植物から打って変わって岩石の種類についての本にした。理科の授業で習ってから興味が湧いていたのと、何よりも載っていた石の写真が綺麗だったから選んだ。
石英、綺麗だなぁ……。フルカラープリントされた数々の写真。それに私は心奪われていた。身近なところにもこういう美しいものが存在していて、探してみると面白いかも。そんな説明書きがなされていて、ちょっと探しに行きたくなる。実物はもっと綺麗なのかな、そう思いながら一旦本から頭を上げると、高松さんがこちらを見ていた。私と目が合うと、ササッと首を縮めて手元で立てていた植物図鑑に隠れる。なんだか亀みたいでかわいい。目線を読んでいたところに戻すふりをして、高松さんの方を横目で見ていると、手にしている植物図鑑の上からヒョコヒョコとこちらを伺っているのが見えた。まるで、警戒しながら巣穴から顔を出すプレーリードッグのよう。かわいい。そう思いながら、私は本と荷物をまとめて目の前の席に移る。高松さんがビクリとこちらに顔を向けた。隣に座った私は、小さな声で話しかける。
「高松さん。この本、気になるの?」
「あ……えっと、石に興味あるのかなって……」
「今ちょうど興味が湧いたところかな。高松さんは石が好きなの?」
「うん……! 色々、集めてて……」
最初は恐る恐るといった風に話しかけてきていた彼女。目が輝き、段々話に熱がこもって来る。石のことが本当に好きなようだ。学校では静かな子だし、何を考えているのか掴みどころが無い雰囲気があったから意外だった。彼女は私の持っていた石についての本を一緒に見ながら、これは河原で見つけたことがある。とか、これは家族で旅行に行ったときに、お土産屋さんでお父さんに買ってもらった。とか。私が生きてきた中で見逃していたものを、彼女はたくさん知っていて。生き生きと話す彼女はとても素敵で、こちらも楽しくなってくる。思えば、夏休みに入ってからあまりおしゃべりをしていない。お父さんや、たまにスーパーのおばさんと話すくらいで、学校の人と会うこともないし。こんな言葉が出たのは、久しぶりのおしゃべりでテンションが上がってしまった弾みだったのかもしれない。
「高松さんの持っている石、見てみたいな」
えっ。と驚いて黙り込む彼女。まさかこんなことを言われるとは思ってもいなかったようだった。少しの間俯いて動きを止めていた彼女は、顔を上げると私の目を真っ直ぐ見て言った。
「千川さん、えっと……石、見に来ない?」
「お邪魔します」
図書館から私の家の方角とは反対に十五分ほど歩いたところに、彼女の住んでいるマンションはあった。もうお昼が近いのもあって、お天道様は真上から容赦なく身を焦がしてくる。たった十五分であったけれど、彼女も私も着くころには汗だくになっていたし、彼女に至っては息を切らしていてちょっと辛そうだった。家に着いてすぐに彼女は、自室へと通してくれる。部屋に入ると、空色のチェストや、図鑑が入っている大きめの本棚、そして勉強机が下に入ったロフトベッドが目に入る。部屋をぐるっと見回すと壁にはポスターや、缶バッジやピンバッジが綺麗に並べられたコルクボードが貼られている。彼女は部屋の冷房を点けると、飲み物とタオルを取って来ると一旦部屋から出て行く。学習机のそばに寄ってみると、机の右端にはチューリップの写真が表紙に印刷されているノートが一冊。左横を見てみると、ここにも本棚があって、そこには学校の教科書やノートが入っていた。学習机の向かいの壁にもコルクボードがかかっていて、そこにはたくさんの写真やポストカード、記念メダルが綺麗に並べられている。どうやら石以外にもいろんなものを集めているようだった。
机の上に置いてあったノートに目を向ける。このシリーズのノート、小学校の時に使っていたな。そんなことを思いながら何気なくノートを開いてしまった私は、息を吞んだ。草花やダンゴムシの絵、幾何学模様や迷路。それだけであれば、ただの落書き帳だと思う。でも、このノートはきっとそうじゃない。
「世界からズレないように」
「みんなといるのに、独りみたいな」
きっと、このノートは彼女の心で、彼女の苦悩を受け止めてくれる拠り所なんだ。私は静かにノートを閉じる。勝手に見てしまったことを後悔した。同時に、彼女ともっと仲良くなってあげたいと思った。
あの日以来、私と燈ちゃんは何度も会うようになった。大体は燈ちゃんの家に行って、集めた石を見せてもらったり、図鑑を一緒に読んだり、おしゃべりしたり。他にも、公園に行って一緒に石を探してみたり、水族館やプラネタリウムに行ったり。私の家に呼んだこともある。夏休み明けすぐの席替えで、燈ちゃんの隣の席になってからは学校の中でもよく話すようになった。
石の裏にいるダンゴムシを嬉しそうに見ていたと思ったら、急に神妙な面持ちになる燈ちゃん。木を這っているナメクジを不思議そうに眺める燈ちゃん。水族館のペンギンを見ながら首を傾げる燈ちゃん。私が私のお父さんが作った昆虫標本を見せたとき、それを悲し気な顔で見ていた燈ちゃん。国語の授業中、納得していなさそうな顔で先生の説明を聞く燈ちゃん。燈ちゃんはどこに行っても、どんな時でもマイペースで。話してみれば、こちらが思いもしなかったことをしばしば言う。同い年なのに感性も、物事の見方も違う。私なんかの頭じゃ、燈ちゃんの考えていることの半分も分からない。でも、それでよかった。燈ちゃんの行動が、言葉が、私にとっては全て新しい発見で。毎日の楽しみだったから。
……でも。
燈ちゃんは、自分が世間とズレていることにずっと苦しんでいて。私は、ただ燈ちゃんの感性を肯定することしかできない。
無力だった。私じゃ、石の下に隠れて怯えている燈ちゃんに日を当てることはできなかった。
だから、私は。唯一私に残されたこの力を使うことにした。
「誰かが、燈ちゃんを見つけてくれますように……」
私は、お母さんが大好きだ。
とっても優しくて、料理が上手くて、とても綺麗な女性だった。それに、聞けば何でも答えてくれる。勉強のことでも、自然現象のことでも、動物のことでも。小さい頃の私は、本当にありとあらゆることを聞いた。けれど、回答をあいまいにされたことは一度もないし、わからなくても一緒に図書館に行って調べてくれた。私は身体が弱くて家にいることも多かったから、お母さんとおしゃべりする時間は何よりも楽しかった。
そんな博識なお母さんがする話は、何でも面白かったし、何でも信じていた。けれど、たった一つだけ、信じられない話があった。
入院しているお母さんの所に、私が一人でお見舞いに行った時のことだった。私とあなただけの秘密にしてほしい話があるの。お母さんはそう前置いて話し始めた。
「お母さんにはね、『願ったことが本当になる力』があるの」
いつも理論的に物事を教えてくれるお母さんの言葉にしては、随分嘘くさくて、スピリチュアルな話だった。ちょうどその頃は、お母さんの持病が悪化して容態が不安定だった時期だから、私はその影響で精神的に不安定なのかなと思っていた。でも、私の目を真っ直ぐ見て話すお母さんのその言葉は、ただの妄言だとは思えなかった。
「誰かのために……誰かが幸せになってくれるように願うの」
「お母さんは、自分のためにその力を使わないの?」
私はそんな力があるなら一刻も早く、病気を治してお母さんに元気になってもらいたかった。けれど、お母さんは首を横に振る。
「この力は、誰かの幸せを願うために使うの。自分のために使ってはいけないの」
自縄自縛だ。他人の幸せのために自分が幸せになるのを拒んでいるようにしか思えなかった。
「他の人が幸せになるみたいに、お母さんも幸せになるべきじゃない!」
気がつくと私はそう吠えていた。お母さんに向かって怒ったのは、このときが初めてだった。お母さんは一瞬、目を丸くしたけれど、すぐやんわりと笑って諭すように言った。
「他の人の幸せが、私にとっての幸せなの。お父さんがいて、あなたがいて。家族の日常があって……。私はとっても幸せよ。これ以上望んだら、罰が当たっちゃうわ」
「でも、でも……」
何とかして言い返そうとした。でも、言葉が見つからなくて。
「人は欲深いから、一度自分のためにこの力を使ってしまえば、また使いたくなってしまうわ。もしかしたら、次に使うときはそれを悪いことに使ってしまうかもしれない。この力を使うということには、大きな責任があるの。……それにね、遅かれ早かれ人は必ず死んでしまうの。この力であっても、どうしようもないことなの」
目の前がぼやけてくる。私は目を袖で拭ってお母さんの顔を見た。一気に白髪が増え、頬がこけたお母さん。ベッドの上で背筋を伸ばし微笑む様子は、凛として美しい。お母さんは、手を伸ばした。少しひんやりとした細い指が私の頬を優しく撫でる。
「
それから一週間後、お母さんは容体が急変して亡くなった。私が、小学六年生の時だった。
私はしばらく、ショックで何もできなかった。学校も休んで、部屋でずっと寝込んだ。お父さんはもっと大変だったと思う。大きなプロジェクトの真っ最中だったらしく、やつれた顔をしながら毎日走り回っていた。このままだと、お父さんまで倒れてしまいそうだった。私は、「プロジェクトが早く終わって、お父さんが休めますように」、そう願った。
次の日、お父さんがいつもより早く帰って来た。昨日までしんどそうに曇っていた顔が少し晴れている。聞くと、プロジェクトが上手くいってしばらく休みがもらえたという。
……きっと、お母さんの持っていた力が私に移ったんだ。最期、言葉すら交わせなかったお母さんの遺した唯一の形見だった。私はぐちゃぐちゃに泣いた。
私は、生前お母さんが言っていたことを反芻して心に誓った。この力は絶対に、誰かの幸せを願うためだけに使うんだと。
私たちは、中学三年生になった。燈ちゃんとクラスが離れてしまうんじゃないかと心配したけれど、無事同じクラスで新年度を迎えた。相変わらず、私と燈ちゃんの関係は続いていた。学校で一緒にお昼を食べたり、放課後にお互いの家に行ったり。けれど、ゴールデンウィーク頃からそれに変化が起きた。燈ちゃんが放課後に用事があるということが増えたので聞いてみたら、バンドを組んだという。燈ちゃんが作詞とボーカルをしているらしい。とても意外だった。キーボード担当の
バンドを始めてからの燈ちゃんは、前より表情が明るくなった気がする。学校で話す内容も、バンド内のメンバーのこととか、ボーカルで声が出ないとか、そういうことに変わっていった。私といたときよりも、ずっと楽しそうで生き生きしている。……嬉しいことなのに、なぜか私の心の隅には澱が溜まっていった。
数か月後、燈ちゃんたちのバンド、CRYCHICの初ライブが決まった。私も、燈ちゃん経由でチケットを買って見に行った。
……すごかった。あの燈ちゃんが、ステージの上で声を目いっぱい張り上げて歌う姿に心を揺さぶられた。とても、眩しかった。ようやく燈ちゃんは、石の下から春の柔らかい日差しの下に出てこられたんだ。
……なのに、どうしてだろう。胸の奥の
「……あんなバンド、解散してしまえばいいのに」
ライブからの帰り、そんな空虚な呟きはただ闇に溶けるだけと思っていた。
CRYCHICの初ライブからまた数か月ほどが経った。中学三年生の年も秋に差し掛かってきて、文化祭準備だとか、進路にそわそわしてくる時期。私も例に漏れずそれらにバタバタしていた上、夏休み明けの席替えで燈ちゃんと席が離れてしまったこともあって、あまり話せていなかった。そんなとき、クラスの他の友達曰く「燈ちゃんが今までにない位上の空になっている」らしい。燈ちゃんが上の空であることはしばしばあるけれど、「今までにない位」と言われて気になったので、放課後に燈ちゃんと帰りながら聞いてみた。すると、燈ちゃんは目の端にうっすらと涙を浮かべながら言った。
「みんな、バラバラになっちゃった……」
「え……?」
事情を聞くと、CRYCHICが半ば解散状態になっているという。心臓の音が、遠くなった気がした。……CRYCHICの初ライブの日の帰り、あの自分の呟きを思い出して。
「あ、あああ……」
口からくぐもった声が漏れだした。……あれも、願いだったんだ。他人を不幸にするための、独善的で破壊的な願い。
「……私の、私のせいだ」
「え……?」
「ごめんなさい……。ごめんなさい……」
私は走り出した。一番悲しいのは、燈ちゃんのはずなのに。私は逃げた。お母さんの最後の願いを破った上に、自分の責任から。
その日以降、私が燈ちゃんと言葉を交わすことは無かった。志望校も燈ちゃんと同じ羽丘から、自宅から二時間かかる遠いところに変えた。卒業式も式典が終わってすぐ、逃げるように帰った。私は燈ちゃんにどう顔向けしていいか、わからなかった。
……二年前、燈ちゃんと初めて会った日だ。図書館に着いて、持ってきた手提げから出したタオルで首筋を拭きながらぼんやりとそう思った。結局高校も部活に入らなかったし、相変わらず私の夏休みの予定は空白ばかり。かと言って家の中でゴロゴロしていると冷房を使わないといけないから、電気代が馬鹿にならない。そんなわけで二年経っても夏休み期間中は、図書館に通っていた。家を出る前に家事を済ませることも、夕方四時ごろにスーパーに寄ってから帰って夕飯を作り始めることも、あの中学二年生の夏休みから変わっていない。変わったのは、二年前は大きかったお母さんのサンダルが、ぴったりになったことくらい。
いつものように、カウンター前を通り過ぎて閲覧席を取りに行こうと思った瞬間、目の前に誰かが立ちふさがる。
「とも、り……ちゃん……」
呼吸が、苦しくなる。燈ちゃんが、真っ直ぐ私を見ていた。
「希ちゃん!」
思わず逃げようとしたけれど、手を掴まれる。……逃げられない。私は恐る恐る燈ちゃんと目線を合わせる。
「久しぶり」
私に会えたことを安堵するように、燈ちゃんは柔らかい笑みを見せる。とても、痛い。私はそんな表情を向けられていい人間じゃない。燈ちゃんを直視できなくて、私の目線は図書館の木目調の床に落ちる。
「……どうしたの」
震えた声で絞り出した五音。目線は地面に落ちたまま。
「ここなら、希ちゃんに会えるかなって……」
そう言った燈ちゃんの声は何だか弾んでいる感じがする。そう思ったのも束の間、一枚のチケットが目の前に差し出される。
「これを渡しに来たんだ」
私はチケットを受け取ると、思わず燈ちゃんの顔を見た。それはライブのチケットだったから。CRYCHICが復活した? そんな淡い期待を抱いて再び渡されたチケットに目を落とすと、CRYCHICの文字は無かった。私は再び絶望に落ちる。赦された……。そう一瞬でも考えてしまった自分が、あまりにも憎い。
「私たちの……MyGO!!!!!のライブに、来て欲しい」
今年の夏休み最終日は、日曜日だった。明日から学校だなとか、そういえば日直の順番私からだったかもとか、今日の夕飯は冷やし中華でいいかなとか。そんなことを考えながらいつも通り家事をこなしているつもりだったのに、玉子焼きは黒焦げにしちゃうし、皿は落として割っちゃうし、平日に買い忘れたものを買いに行ったらそもそも財布を忘れたし。自分でも驚くほど、全てのことに身が入らない。ふわふわした夢の中で生きている感じ。結局、お父さんが見かねて、私の代わりに残っていた家事を全部片づけてしまった。夜勤明けで疲れているはずなのに、「明日は休みだから、今日のところは任せて気分転換しておいで」と送り出してくれてありがたかった。
ライブのある夕方まで時間を潰そうと、町中をフラフラと彷徨った。何を見ていたのか、何をしようと思ったのか、全然覚えていない。いざ、夕方になってRiNGというライブハウスに着いても、何だか実感が湧かなかった。
ライブハウスに来るのは、これが二回目。正面玄関を通って受付をしてもらって、案内通りに会場に入る。席は無くて、立ち見だけのスタイル。もうすでに会場には人がたくさん集まっていた。たぶん、私と同年代くらいがほとんど。……前の方は結構混んでいそう。かき分けていく元気のない私は、後ろの方で聴くことに決めた。
正直、ここに来るかかなり悩んだ。燈ちゃんの
歓声が起こった。ステージ上に、バンドメンバーが出てきたようだ。燈ちゃんの他に、見たことのある子が二人。たしか、ドラムの立希さんと、ベースのそよさん。CRYCHICのメンバーだった二人だ。ピンク髪の子と銀髪の子の二人は初めて見る。祥子さんと睦さんがいなくて、やはりCRYCHICは無くなってしまったんだと、再び心が暗くなる。燈ちゃんはステージの真ん中、マイクの前に立つ。ガタンと音がした。ステージ上をライトが眩く照らす。燈ちゃんは少し目を瞑って、開いて。後ろをチラリと見て、メンバーとアイコンタクトを交わして。観客の方に向き直ると、真っ先に私と視線を交えた。ドキリとする。カッカッカッ。ドラムカウントに続いて、勢いよく曲が始まった。疾走感のあるギターを、力強いドラムと安定感のあるベースが下支えする。そしてステージの上には、CRYCHICの時のように必死に歌う燈ちゃん。私は、嬉しかった。再び燈ちゃんの叫びを聴くことができて。同時に、燈ちゃんを支える皆がCRYCHICで無いという事実が、私の心を深く抉っていた。
曲が終わると、拍手とメンバーを呼ぶ声が聞こえた。しかし、燈ちゃんがマイクを取ると打って変わってピタリと静寂が降りる。
「……来てくれてありがとう。すごく、嬉しい」
燈ちゃんが語り始める。目線は、私と合わせたまま。これはきっと、会場全体ではなくて私に対しての言葉だ。直感でそう思った。
「あの日、どうして謝ってくれたのか、今も分からなくて。そばにいたはずなのに、何も気づけなかった……」
『願ったことが本当になる力』の存在は、お母さんと私しか知らない。燈ちゃんにすら秘密にしたままだ。燈ちゃんからすれば、私が謝ったことも逃げ出したことも唐突で意味が分からなかったことは想像に難くない。私が罪を
「ずっと、寂しかった……」
私は首を上げた。燈ちゃんが今にも泣きそうな表情で、私を見ている。
「一緒にいた時間は、バンドのみんなとの時間と同じくらい大切で!」
私と一緒にいた時間が、大切……? 燈ちゃんの言葉が何度も脳内でリフレインする。
「出会った時から、私のことを気にかけてくれて。私と友達になってくれて……。離れてから、支えてくれていたんだって気付いたんだ」
私は祥子さんのように、燈ちゃんの心を救い上げることはできなかったし、CRYCHICのように居場所にはなれなかったけれど。ほんの少し身を隠せるくらいの石の陰には、なれていたのかな。
「今も先は見えなくて、迷ってばかりだけれど。私は今、皆とここにいる」
ここで銀髪のギターの子が、ギターを奏で始める。優しい、包み込むような音色。
「私は、もう、大丈夫だから。あなたももう一度、前を向いて」
燈ちゃんが言葉を言い切ったのを合図に、楽器隊全員が動く。二曲目が始まった。燈ちゃんの歌声が、再び私を撃ち抜く。気がつけば、他のお客さんをかき分け、通り抜けて、私はステージ前へと出てきてしまっていた。前を向いて。燈ちゃんの叫びが私を突き動かす。こんな罪を抱えたままの私が、前に進むにはどうすればいいのか。滲む視界を必死に拭い、燈ちゃんの姿を目に焼き付けている私は、今度こそ幸せを願うんだ。
燈ちゃんと、MyGO!!!!!の皆が、一生バンドを続けられますように……。